唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル大論理学概念論 解題(第一編 第三章 B 反省の推論)

2022-04-03 18:52:04 | ヘーゲル大論理学概念論

 限定存在の推論における第一格から第三格への推移は、反省の推論において再び繰り返される。ただしその対象は、反省された限定存在の表象である。したがってその具体は、個別でありながら既に普遍である。それゆえに反省の判断が直接的具体から始まったのと違い、反省の推論は具体の全称から始まる。したがってその推移も、具体的な単称から特称を媒介にして抽象的な全称に推移した反省の判断と異なる。反省の推論は、具体的な総体から帰納を媒介にして抽象的な類比に進む。ただし反省の判断の全称が恣意的だったように、反省の推論の類比も恣意的である。それゆえにその推論の表象の上に擁立されたそれらの結論は、蓋然のままに留まる。しかし恣意の反省は、判断の場合でも推論の場合でも、自らの対極に定言を擁立する。それは恣意の偶然に対自することで、自らを必然とする。

[第三巻概念論第一編「主観性」第三章「推論」B「反省の推論」の概要]

 限定存在の推論から推移した反省の量的推論の論述部位
 -反省の全体把握 …ein Befassen。抽象的特殊として始まり諸限定の全体に転じた中間辞の特殊
 -総体の推論   …結論の全称を前提に含む具体-特殊-普遍の推論。
           “全ての具体Aは特殊Bであり、全ての特殊Bは普遍Cである。ゆえに全ての具体Aは普遍Cである。”
 -帰納の推論   …結論の完全を前提に含む普遍-具体-特殊の推論。
           “普遍Aは具体Bの全体であり、具体Bの全体は特殊Cである。ゆえに普遍Aの全体は特殊Cである。”
 -類比の推論   …結論の普遍を前提に含む具体-普遍-特殊の推論。
           “具体Aは普遍Bの個別であり、普遍Bの個別は特殊Cである。ゆえに具体Aは特殊Cの個別である。”
・推論における主語と中間辞の否定は、最終的に中間辞の具体的普遍を廃棄し、それを類に純化する。


1)反省における中間辞(媒辞Mitte)

 質的推論は名前だけの諸限定に必然的関係を擁立した。これにより諸限定は、抽象から具体に転じた。この具体化は諸限定の間に現れる中間辞にも及ぶ。質的推論の始まりにおいて中間辞は、推論が判断と自らを区別する上で擁立した抽象的特殊であった。しかし質的推論はその抽象を廃棄し、諸限定の全体として擁立する。それは反省された二項の統一であり、その全体把握ein Befassenである。それゆえに特殊としての中間辞は、一方で具体であり、他方で全体としての類である。したがって反省は、具体の直接的独立を維持したままにそれらを総体として全体把握する。このような総体は概念の普遍ではなく、反省における外的な普遍に留まる。しかしその普遍を中間辞に擁立することにより、反省は中間辞の偶然に従う推論の偶然を廃棄する。


2)総体の推論

 総体の推論として始まる反省の推論は、限定存在の推論と同じく推論の第一格として始まる。限定存在の推論において偶然に決められた中間辞と違い、反省の推論の中間辞は総体として具体的である。それは推論の形式を外れるなら、単なる全称判断である。全称判断の例をここで再び言うなら、それは“全てのソクラテスは人間である”である。ここでの“全てのソクラテス”は、名前だけの抽象的ソクラテスではなく、様々の特性を持つ具体的ソクラテスの総体である。しかし全称判断を推論形式に直し、“全てのソクラテスは人間から生まれる。人間から生まれるのは人間である。ゆえに全てのソクラテスは人間である。”としたとき、主語にあった「全て」の総体限定は中間辞に付与される。すなわちその大前提は“人間から生まれた全ての者は人間である。”である。そしての大前提は、そのまま“人間から生まれた全てのソクラテスは人間である。”に転じる。したがってこの大前提は、既に結論を包括している。これは結論を大前提に含ませる手品である。その前提の正しさは、結論の正しさに従う。しかし人間以外から生まれた人間がいれば、大前提の全体把握とその全称も否定される。


3)帰納の推論

 限定存在の推論において、二つの直接的前提と結論は相互に前提し合う。しかし反省の推論における中間辞は、それらの全体である。そして総体の推論ではこのことが、結論を包む中間辞として現れる。すなわち総体の推論は、限定存在の推論における相互前提を前提する。そのことが示すのは、反省の推論が結論を前提することである。しかしこの結論を前提に含む推論の変様は、反省の推論を空虚な推論の仮象にする。総体の推論においてその中間辞は、具体と普遍を統一した特殊であった。しかしこの推論において結論を含む中間辞は、その無根拠のゆえに具体である。そしてその無根拠の完全性においてのみ、その中間辞の具体は普遍である。ただしその具体は、その直接性に関わらず主観にすぎない。したがってやはりその中間辞は、普遍ではなく具体である。一方で総体の推論の主語も、具体として述語に関わる。しかし主語の具体は、この中間辞の主観的具体と区別される。そしてその具体は主観的具体ではなく、より普遍的である。他方で総体の推論の述語は、普遍として中間辞の主観的具体と関わる。この点で述語の普遍は普遍のまま変わらない。したがって中間辞の具体に対し、総体の推論の主語と述語はともに普遍として現れる。さしあたり中間辞の総体の完全性に従えば、普遍は主語であり、述語は特殊となる。この一連の都合が総体の推論を、第一格の具体-特殊-普遍から第二格の普遍―具体―特殊に転じる。これが帰納の推論である。


 3a)帰納における特殊と普遍

 ヘーゲルは限定存在の推論において、第二格を特殊―具体―普遍にしている。ところが上記における反省の推論の第二格は普遍―具体―特殊であり、限定存在の推論における第二格と異なる。ただし中間辞に具体を擁立する場合、主語が特殊でも普遍でも、推論の小前提で“特殊は具体”または“普遍は具体”の包摂関係の逆転が起きる。この点で言えば主語における普遍と特殊の位置逆転に大差は無い。一方で主語に特殊を擁立するのであれば、その結論は“特殊は普遍”であり、順当な包摂関係になる。これに対して帰納の結論は“普遍は特殊”になる。この場合に包摂関係の逆転は、小前提だけでなく結論にまで波及する。結局このことが表現するのは、帰納の結論の蓋然である。このことはヘーゲルによる意図的な第二格の改変なので、改変の背景に何らかの意図を予想される。とは言え中間辞の総体が完全であるなら、主語は特殊ではなく普遍の方が坐りが良い。またこの改変は反省の推論と必然の推論を、ヘーゲルが蓋然と必然の対比で強調したものと捉えられる。あるいはさらに帰納の推論を、唯物論の蓋然として、ヘーゲルがその否定性を強調したかったのかもしれない。ちなみに反省の推論の末尾でヘーゲルは、帰納の推論を特殊―具体―普遍の推論形式に戻している。


 3b)帰納の蓋然

 第二格の大前提“具体は特殊”は、総体の推論の結論である。これに対して小前提“普遍は具体”は、類の充実を体現する。それは例えば“Aはa”、“Aはb”、“Aはc”を無限に羅列することで概念Aの類的充実を果たす。この無限の羅列は、第二格の小前提“普遍は具体”がもともと持っていた形式的欠陥を補填する。その欠陥とは、第二格の小前提における普遍と具体の包摂関係の逆転、すなわち類と個別の包摂関係の逆転を言う。個別な具体の無限な羅列は、個別な具体を全称化する。それにより個別な具体は普遍化する。そしてこの個別な具体の普遍化が、普遍と具体の逆転した包摂関係、および類と個別の逆転した包摂関係を可能にする。この点で帰納の推論は、第二格の限定存在に従う偶然な推論を正した経験の推論である。とは言えその具体の普遍性は、単なる外面的な完全性である。それは無限累進において普遍となるべく期待されるが、やはり個別な具体である。それゆえにその推論の結論は、蓋然に留まる。その推論が前提するのは、普遍と具体、および類と個別の即自対自的結合である。この点で帰納の推論は、結論を前提にした総体の推論と変わらない。したがってそれが前提にするのは、直接的具体ではなく直接的普遍であり、個別ではなく類である。またそうでなければ帰納の推論は仮説に該当せず、当然ながら推論にもならない。


4)類比の推論

 具体の外面的完全性は、普遍の内面的本質に従う。それゆえにその完全な外面は、そのまま内面の普遍である。そこで帰納の推論における中間辞の具体を普遍に転じた推論も可能となる。すなわちそれは、類比の推論である。第二格の中間辞が普遍に転ずるなら、主語は具体に復帰し、述語も特殊に転じる。もちろんこの述語の特殊は、中間辞の普遍の類比である。これらの一連の転化は、帰納の推論における第二格を第三格に転じる。すなわち普遍-具体-特殊の形式は、類比の推論において具体-普遍-特殊の形式に転じる。しかしその中間辞の普遍は、第二格の中間辞の具体が転じた普遍の具体である。したがってその小前提の主語と述語は、具体同士の皮相な質的関係に留まる。さらにその大前提“普遍は特殊”は、帰納の推論での“特殊は個別”と同じように、類と特殊の包摂関係が逆転している。すなわち類比の推論を構成するのは、限定された皮相な小前提と蓋然な大前提である。このような推論が至るのは、当然ながら皮相かつ蓋然の結論である。


 4a)類比における具体と特殊

 第三格の具体―普遍―特殊では中間辞に普遍を擁立するので、主語と述語が具体でも特殊でも、推論の大前提で“普遍は具体”または“普遍は特殊”の包摂関係の逆転が起きる。この点で言えば主語と述語における具体と特殊の位置逆転に大差は無い。ただし主語に具体を擁立するのであれば、その結論は“具体は特殊”であり、順当な包摂関係になる。これに対して主語に特殊を擁立すると、その結論は“特殊は具体”になる。この場合に包摂関係の逆転は、大前提だけでなく結論にまで波及する。もちろんそれが表現するのは、結論の蓋然である。類比の推論に対して蓋然の否定性を強調したいのであれば、ヘーゲルは帰納の推論に続き、ここでも第三格を具体―普遍―特殊ではなく、特殊―普遍―具体として記述すべきだったように見える。しかしヘーゲルはそのようにしていない。ヘーゲルは類比に対してその蓋然を否定的に扱う一方で、その特異な推論形式を肯定的に扱っている。ただしこの扱いは、なぜ類比と同様に帰納も肯定的に扱わないのかとの疑念を持たせる。


 4b)類比の推論形式の特異性

 類比の妥当性は、類比対象の内容に従う。すなわち内容上位による内容下位の包括が、類比を妥当にする。しかしそうであるなら、類比対象の内容に推論形式が含まれても良い。すなわち推論の妥当性が包括上位による包括下位の包括にあるなら、それは類比の妥当性と同じである。しかしこのことは、推論形式の全てを経験的形式に転じる事態である。そこでさらに類比の妥当性を確認すると、内容上位には帰納の場合と同様に、複数の内容が現れる。そしてその多数が単数の内容下位を包括する。この限りで類比と帰納は、同じ推論形式にある。そしてヘーゲルも記述中で、中間辞を普遍である具体として扱う。言い換えればヘーゲルは、類比を第三格である第二格として捉えている。しかしその一方でヘーゲルは、中間辞における普遍の擁立において、類比の推論に対する総体の推論、および帰納の推論との違いを際立たせる。そして際立たせることにおいて単なる多数による下位包括とは違う、普遍による下位包括を見出す。すなわちこの二つの下位包括の違いが、類比包括と形式包括を区別する。ただしこの二つの下位包括の区別は不定である。その不定は、類比における中間辞の普遍が持つ直接性に従う。すなわち普遍の具体性が、類比における普遍の下位包括を、単なる多数による下位包括にしている。それゆえにヘーゲルは、この不定を外面的反省の限界とする。したがって類比はその特異性に関わらず、やはり蓋然なのである。


 4c)普遍の具体性の廃棄と類の擁立

 類比の結論“具体は特殊”は、小前提“具体は普遍”の類比である。その結論は小前提との同格を要求し、特殊と普遍の同格を要求する。すなわちそれは、小前提における普遍の類に、自らの特殊を加える要求である。ただしその特殊が普遍に新たに加えられるのであれば、その加えられる特殊はもともと普遍ではない。推論されているのは、そのような特殊の追加可能性ではなく、その特殊の普遍における最初からの包括である。すなわち類比は、普遍がその特殊を既に包括しているのを前提する。したがって大前提“普遍は特殊”は、その表現のままに小前提に現れた普遍に対し、それは特殊にすぎない普遍だと否定する。もともと推論の形式において結論は、中間辞の媒介を必要とする。そうでなければそれは推論ではない。そしてその同じ結論において、中間辞の媒介は廃棄される。そうでなければそれは結論ではない。しかも類比において中間辞に現れるのは普遍である。すなわち類比は推論において普遍を廃棄する。この点をさらに確認すると類比は、まず小前提“具体は普遍”で具体を廃棄して普遍を擁立し、次にその擁立した普遍を大前提“普遍は特殊”で廃棄して特殊を擁立する。したがってその結論“具体は特殊”は、この具体と普遍の両方の廃棄と特殊の擁立の統一である。その判断は、具体的普遍をその具体性のゆえに特殊と扱う。つまり大前提は、小前提が擁立した普遍自体ではなく、その具体性を廃棄する。逆に言えば特殊と区別される普遍は、そのような具体性を廃棄した普遍である。それは直接性から純化した類である。


 4d)必然の露呈

 反省の推論において最初の総体の推論は、特殊な総体を大前提にして結論を擁立した。しかしその特殊の不完全は、そのまま結論の蓋然である。それに対して帰納の推論は、具体の羅列を大前提にして結論を擁立する。しかしその羅列の不完全も、結論を蓋然にする。そこで類比の推論は、具体的普遍性を大前提にして結論を擁立した。しかしその普遍の具体性が、やはり結論を蓋然にする。このように反省の推論が露呈させる蓋然は、蓋然の延長上に自らと異なる必然を露呈させる。そもそも蓋然が前提するのは、到達不能なカント式結論である。逆に言えば蓋然は、到達可能な結論を前提しない。このために反省の推論は悪無限な結論の反復に嵌り、蓋然を超えられない。一方で反省の推論は、結論を前提する。言い直せば反省の推論は、仮説を立ててそれを検証する。またそのように結論を前提しなければ、それは推論とならない。その結論は別に“答えが無い”と言う結論でも良い。そして反省の推論が到達すべきなのは、前提した結論の検証である。それは前提した結論の否定でも良い。したがってここに蓋然の悪無限は存在しない。それゆえに反省の推論は自らを廃棄し、次に必然の推論へと進む。ここでの推論の全体を見直すと、推論はまず自己自身の直接的全体を媒介にして、抽象的自己の直接性を否定した。しかし超出する自己にとってその直接的全体は、いつでも自己の全体ではなく部分である。それゆえに推論は、今度は抽象的自己を否定した自己自身を否定する。一方でもともと自己自身の前提は自己である。それゆえに自己は自己の二重否定を通じて自己を回復する。このときの自己は、直接的全体に留まる自己自身の彼岸に前提として現れた無限者である。

(2021/11/25) 続く⇒(ヘーゲル大論理学 第三巻概念論 第一篇 第三章 C) 前の記事⇒(ヘーゲル大論理学 第三巻概念論 第一篇 第三章 A)

ヘーゲル大論理学 概念論 解題
  1.存在論・本質論・概念論の各章の対応
    (1)第一章 即自的質
    (2)第二章 対自的量
    (3)第三章 復帰した質
  2.民主主義の哲学的規定
    (1)独断と対話
    (2)カント不可知論と弁証法

  3.独断と媒介
    (1)媒介的真の弁証法
    (2)目的論的価値
    (3)ヘーゲル的真の瓦解
    (4)唯物論の反撃
    (5)自由の生成

ヘーゲル大論理学 概念論 要約  ・・・ 概念論の論理展開全体 第一篇 主観性 第二篇 客観性 第三篇 理念
  冒頭部位   前半    ・・・ 本質論第三篇の概括

         後半    ・・・ 概念論の必然性
  1編 主観性 1章A・B ・・・ 普遍概念・特殊概念
           B注・C・・・ 特殊概念注釈・具体
         2章A   ・・・ 限定存在の判断
           B   ・・・ 反省の判断
           C   ・・・ 無条件判断
           D   ・・・ 概念の判断
         3章A   ・・・ 限定存在の推論
           B   ・・・ 反省の推論
           C   ・・・ 必然の推論
  2編 客観性 1章    ・・・ 機械観
         2章    ・・・ 化合観
         3章    ・・・ 目的観
  3編 理念  1章    ・・・ 生命
         2章Aa  ・・・ 分析
         2章Ab  ・・・ 綜合
         2章B   ・・・ 
         3章    ・・・ 絶対理念


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