きらめき歌謡ライブ http://www.nhk.or.jp/r1-night/kirameki/
【放送予定】3月12日(水) 午後8時05分~9時30分
城之内早苗、大泉逸郎、大石まどか
川崎修二、渕上雅代、まつざき幸介
今夜も聴いています。
☆ お早うございます、今日もお立ち寄りありがとうございます。☆
3月12日 松下幸之助一日一話 (松下幸之助.COM)
得心がいく仕事を
私たちが仕事なり商売を進めていく上で、いいかげんな妥協をしない、言いかえれば自分に得心がいくまでは仕事を進めない、ということが非常に大事ではないかと思います。たとえば、かりにある品物に大量の注文があったとします。そういう場合に、ともすれば、あとで注文が取れなくては困るからというので、つい安易に妥協しがちになります。けれども、そのようなときに往々にして失敗があるわけです。
ですから、いかなる人の注文であっても自分が得心しない仕事は進めないという基本の考えをしっかり持たないと、仕事が大きくなり扱う品物が多くなるにつれて収拾がつかなくなってしまいかねないと思うのです。
【コラム】筆洗
2014年3月11日 東京新聞TOKYOWeb
▼ぎしぎし。どんどん。ガタガタ。バラバラ。バリバリバリ。どーん。どかん。ゴゴッ、ゴゴッ。バキバキ。どーん。ひたひた。どどっ。くにゃ。ぐちゃぐちゃ。ずたずた。がっくり。ぽつん。しーん。ぽろぽろ
▼三年たった。あの日の新聞、被災者の文章を読み返してみる。気がついた。どの文章にもたくさんのオノマトペがあふれている。擬声語、擬態語の総称。音、形態、感情を音声のように表した言葉である
▼あの日にオノマトペがひんぱんに出てくるのは当然である。地震。大津波。倒壊。大災害の音が耳を襲った。痛みとともに残る。それを言葉でちゃんと写しておきたかった。伝えたかった
▼残酷な音、無残な音。不思議な力も持っている。普通の言葉を重ねようとも伝え切れない空気を表現する。痛みや悲しみを読む者に想像させる。共有させる
▼「こんこん」。こんな「音」もあった。震災後、体育館に避難した老人の咳(せき)の音。当時の新聞にみつけた。寒かったか。寂しくないか。三年前の音を今、心配させる言葉の力
▼一年、二年、三年。時間という怪物は傷をいやしてくれる。いやすが、忘れてはならないことも連れていく。ぎしぎし。どんどん。ガタガタ。バラバラ。ほっ、という温かいオノマトペもある。音の記憶は目の記憶に勝るという。口に出せ。刻まれた音の言葉はあの日へ運ぶ簡単な呪文である。
【社説】東京新聞TOKYOWeb
3・11から3年 死者の声に耳傾けよ
2014年3月11日
津波の国に住みながら、われわれは、先人の経験を風化させてはいなかったか。大震災の悲しみを忘れず、未来に向けて死者の声に耳を傾けたい。
故・吉村昭さんの著書「三陸海岸大津波」(文春文庫)に、印象に残る一節がある。
三陸海岸の羅賀(らが)(岩手県田野畑村)での出来事である。
はるか眼下に海を望む丘の中腹に立つ民家。一八九六年の明治三陸大津波を知る当時八十五歳の古老は、家の中に漂流物があふれていた、と振り返った。
◆風化する惨事の記憶
その話を聞き、取材に同行していた田野畑村長が「ここまで津波が来たとすると…」と驚きの声をあげたというのである。
この本が「海の壁」の原題で出版されたのは一九七〇年。その時すでに、地元でも、惨事の記憶は風化しつつあったのだろうか。
文庫版のあとがきとして、吉村さんは、その羅賀で二〇〇一年に講演した際のエピソードを書き加えている。
「話をしている間、奇妙な思いにとらわれた。耳をかたむけている方々のほとんどが、この沿岸を襲った津波について体験していないことに気づいたのである」
明治の大津波では羅賀に五十メートルもある津波が押し寄せた、という話をしたところ、沿岸市町村から集まった人々の顔に驚きの色が浮かんだのだという。
羅賀の高台には、明治の大津波で海岸から運ばれたと伝えられる巨石があった。一一年三月十一日の津波は、その「津波石」と集落を再びのみ込んだ。
親も子もない。助けを求められても、立ち止まらずに逃げろ…。「津波てんでんこ」は、三陸の悲しくも重要な教訓である。
「われわれは明治、昭和の大津波と同じことをしてしまった」と三年前を振り返ったのは、名古屋市で先月開かれたシンポジウムに招かれた岩手県釜石市の野田武則市長である。
大きな揺れが収まって三十分ほど。いったん避難した後、家族の安否などを心配して自宅に戻った大勢の市民が津波にのみ込まれてしまった。「平時には冷酷に聞こえる『てんでんこ』だが、その教えは実に正しかった」
◆犠牲多かった市街地
野田市長の率直な講演は示唆に富む。「犠牲者が多かったのは、沿岸部ではなく、海の存在を忘れがちな市街地だった」「防潮堤や防波堤は高くなるほど危ない。海が見えなくなるからだ」
守るよりも、まず、迷わず逃げよ。平成の三陸大津波の犠牲者が残した教訓も、結局は、明治、昭和と変わらぬ「てんでんこ」だったのではないか。国土強靱(きょうじん)化が海の脅威を視界から遮ることにつながるとすれば、このまま突き進んで大丈夫なのだろうか。
よく知られるようになった岩手県宮古市重茂姉吉(おもえあねよし)地区の「高き住居は児孫の和楽/想(おも)へ惨禍の大津浪(おおつなみ)/此処(ここ)より下に家を建てるな」と刻まれた古い石碑。
その地では、三年前の大津波で住宅被害が一戸もなかった。死者の声を風化させなかったことが後の人々を守った好例である。
過去に繰り返された津波の被害や到達地点を伝える石碑や古文書は、紀伊半島沿岸部など南海トラフ巨大地震の大津波が予想される地域にも数多く残されている。
同じように関東、東海地方でも、一七〇三年の元禄地震津波の犠牲者を供養する千葉県山武(さんむ)市の「百人塚」など、房総半島や伊豆半島にいくつもの津波碑が建てられている。
先人たちが石に刻んで後世に残そうとしたメッセージを再確認する試みが、東日本大震災を機に、各地で始まっている。
その土地で何が起きたのか。将来、何が起きうるのか。逃げるべき場所はどこか。よそから移り住んだ人にも、一時的に立ち寄る人にも、先人の経験を共有できるようにする工夫を歓迎したい。
こうした津波碑は漢文など古い文体で書かれている上、物理的に風化していたり、こけむしていたりで判読の難しいものが多い。
◆巨大津波に備えよう
例えば南海トラフ地震の津波想定域にある三重県志摩市阿児(あご)町の「津波遺戒碑」。だれにでも分かるように、地元の自治会が内容説明の看板を碑の隣に設置した。碑には、一八五四年の安政東海地震の津波で百四十一戸が流失し、十一人が溺死した被害状況とともに「後世の人が地震に遭った際は、速やかに老人、子どもを連れて高台に逃げよ」と刻まれていた。
人間は忘れるからこそ前進できるという考え方もあるが、東日本大震災で、また多くの犠牲者を出してしまった事実は重い。なぜ、命を救えなかったのか。悲しみを忘れることなく、死者の声にあらためて耳を傾けたい。
☆ 今日も皆様にとって良い一日で有りますように ☆