右脳と左脳の広場

人間の能力の全面的な開花をめざし、さまざまな話題を提供します。

韓国・朝鮮語マスターの近道

2007-06-22 12:38:49 | 語学
 中国からの留学生も帰国したので、とりあえず中国語の勉強はいったん中断しようと思います。中国語にすごく親近感がもてたのが何よりの収穫です。

 以前から、やらねばと思っていた韓国・朝鮮語を半年ほど勉強してみたいと思っています。

 数年前、ハングルから勉強し始めたのですが、なかなか手ごわくて、全体がわからないうちにそのままになってしまいました。韓国語・朝鮮語の教科書の多くはハングルから入り、読み方、発音に多大なエネルギーを割く方式になっています。、今回私はヒアリングと、日本語との類似を利用する勉強方を採用したいと思います。

 まず、日本語との文法的類似を利用して、日本語の助詞にあたるものをマスターします。それから、漢字語と言われるもの、これは漢字から採った単語なので、日本語と極めて類似しています。この二つをマスターすると、かなり韓国・朝鮮語が喋れるはずです。

 それから、他外国語と同じように、やさしいセンテンスに満ちたCDを飽きるほど聞いてみようと思います。

 何と言っても日本に一番近い国の言葉なので、勉強しておいて損はないように思います。この国と日本の関係は文学としても大きなテーマですから・・・

スリーハンドレッド(続き)

2007-06-21 12:30:29 | Weblog
 映画「スリーハンドレッド」は、いろいろな過去の映画からいい場面を取り入れているようです。私が気がついただけでも、ロード・オブ・ザ・リング、トロイ、グラディエーター、キングダム・オブ。ヘヴンなどです。
 しかし、取り入れているのは場面であり、その精神(主に批判的精神)を受け継いでいるわけではなさそうです。

 それで思い出しました。キングダム・オブ・ヘヴンはよかったですね。「そもそも十字軍は間違いであった」という主張が鮮明であり、配役上も、イスラムの王、サラディーンが非常に魅力的な俳優によって演じられていました。ハリウッドで作られた映画の中では珍しくと東洋人に対する偏見が感じられませんでした。
 「バットマン・ビギンズ」とか「パイレッツ・オブ・カリビアン・ワールド・エンド」も、東洋人の描き方は私たち日本人から見ると辛いものがあります。

300[スリーハンドレッド]

2007-06-20 12:12:23 | Weblog
 スパルタのことも小説にしたいと思っているので、評判の300[スリーハンドレッド]を観て来ました。

 そうですねえ。よかったところは画面が全体にきれいだったことでしょうか。
戦闘に次ぐ戦闘で、ちょっと食傷気味でした。人の命を奪うシーンをあんなに長々と見せる必要があったのでしょうか。人の命を奪うことに何のためらいも後悔もない人々を肯定的に描いているのがやはり一番気になりました。

 少数の人が多数の人を殺戮したからといってそれが手柄話になるのでしょうか?
殺人のプロフェッショナルが、はるばる動員されてきた不慣れな兵士たちを殺したところでそれが英雄視されるべきなのでしょうか。

 それから、ペルシャ王のクセルクセスをあんなに不気味で退廃的な人物として描くのはどうなのでしょう。イラン政府から抗議がきたのも頷けます。やはりアジア人蔑視、アジア人に対する偏見を強く感じました。

フランス人との会話

2007-06-13 12:22:33 | 語学
 昨夜、中国からの留学生の送別会がありました。色紙にお別れの言葉を中国語で書こうと頑張りました。

 送別会で私の正面に例のフランス人留学生が座ったのですが、何せ中国語に集中していたので、フランス語の予習がしてありません。最初は日本語で、その後英語で話しました。若い人がフランス人の両隣と私のとなりに座っていたので、気軽にわいわいという雰囲気で楽しかったです。

 話題は映画のことが中心でした。スタンリー・キューブリック監督の作品が話題になりました。彼は「バリー・リンドン」が一番良い、と言っていました。これはお目が高い。この話で盛り上がりました。キューブリック監督の作品は邦題では全部知っているのですが、原題が出てこなくって困りました。「突撃」とか「博士の異常な愛情」、とか「時計じかけのオレンジ」なんかもむちゃくちゃな英語の題名でわかってもらったような気がします。

 みんなが英語と日本語を混ぜて喋っているのでフランス語の出番も少なかったのですが、それにしても、私の喋ったフランス語は、彼が注いでくれたビールの泡があふれそうになったとき、彼が謝ったので「Ce n'est pas grave(気にしないでください)」と言った、この一言だけでした。せっかくの機会だったのですが・・・
 やはり、まだ私のフランス語は十分準備しないと口から出てくれないようです。

ライト設計の旧山邑邸

2007-06-11 17:03:34 | Weblog
 帰省のついでに旧山邑邸(フランク・ロイド・ライトの設計)に行ってきました。阪急芦屋川という駅のすぐそばです。行き当たりばったりだったので、何と休館日。というより火、木、土しかやってないようです。外から見るだけでしたが、なかなかのものです。場所がわかったので日を改めてゆっくり見に来ることにしました。関西にはもうい一つライトの設計といわれる建築があります。旧甲子園ホテルです。どちらも日本人建築家の遠藤新という人が関わっています。この人、ライトの弟子なんですね。両方とも例の阪神間モダニズムが栄えた時期に建てられてようです。

 旧山邑邸は今は淀川製鋼所の所有のようです。来歴をたどると、何と淀川製鋼所の独身寮になっていたことがあるようです。とんでもなく贅沢な独身寮ですね。

山邑太左衛門という人は、「櫻正宗」を作っている酒屋さんだったそうです。これは別邸だそうです。大変なお金持ちですねえ。

そう言えば、この辺りは有力なお酒屋さんが多くて、うちの高校も某酒造会社の経営だったですね。このあたりは、お酒屋さんが作った美術館なんかも多いです。

阪神淡路大震災で潰れてしかった酒屋さんも多かったですが・・・

セカンド・ライフ、meet-me

2007-06-07 12:44:51 | Weblog
 セカンド・ライフを使った感想として、「もっと実際の町や現実感のある場所の方がいいのではないか」、という趣旨の記事を書いたことがありましたが、日本版ともいえるmeet-meでは、東京の街をそっくりそのまま実現するそうですね。この方が魅力的ですね。一度ぜひ行って見たかった場所に飛んでいけるのですから・・・。東京だけでなくいろんな町が順に作られるみたいです。自分の住んでいる家や実家を訪ねたりできると面白いですね。

 実家で思い出しました。週末は関西です。老老介護というやつです。

 全然別件。「春の戴冠」700ページくらいまで読みました。ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」や「春」は絵の美しさもさることながら、当時としては画期的な絵だったようですね。なにしろ「異教」の神々を描いているのですから。それもイタリアで。一つ間違えばカトリックの幹部から大変な責めをうけたに違いありません。やはりルネッサンスなんですね。当時のフィレンツエでは、ギリシャ哲学がもてはやされていたのです。

 ボッティチェリの中ではやはりこの二枚が圧倒的にいいですね。怪僧サボナローラにたぶらかされなければ、あのレベルの絵を描き続けた人なのに。惜しいですねえ。


阪神間モダニズム

2007-06-06 18:50:48 | Weblog
 私、関西の出身ですが、最近、阪神間モダニズムという言葉を初めて聞きました。1990年代に生まれた言葉だそうです。私が知らなくても無理ないかもしれません。阪神間というのは、神戸の灘区、東灘区、芦屋、西宮、伊丹・・・あたりを指すようです。

 大阪が日本最大の経済都市であり、神戸が東洋一の港だったころ(大正時代なんでしょうねきっと)、大阪の金持ちたちが、六甲や甲山の南斜面に豪邸をかまえ、中堅サラリーマンのために住宅地開発が進んだそうです。美術館、学校、病院などがこの地につくられ、この地で、日本に先駆けてモダンな文化が花開いたのだそうです。wikipediaに書いてあったことなので、関西びいきの人が書いたのかもしれません。

 さて、私、いま、長編小説の構想を練っていますが、それが、この阪神間モダニズムと大いに関係があります。阪神間モダニズムの中心地あたりにあった学校が舞台なものですから。田舎から出てきた私が偶然入った学校でひどいカルチャーショックを受けたのは、この阪神間モダニズムのせいだったのでしょう。そのあたりも一つの主題になりそうです。

全然別件。絵が気に入ってテンプレートを変えてみました。この山小屋、八ヶ岳の麦草ヒュッテを描いたんだと思いますね。 

春の戴冠

2007-06-05 12:29:56 | Weblog
 辻邦生の「春の戴冠」という小説を読んでいます。956ページもあるものすごい本です。中心はボッティチェリですが、ルネッサンス期のフィレンツェを中心にいろんな人物が実名で出てきます。レオナルド・ダ・ヴィンチも出てきます

 一番私が興味深く読んだのは、当時の工房の様子です。このころの人気工房は、絵も彫刻も建築も金属細工も何でもひきうけたんですね。手先も器用でないといけないですし、芸術的センスも必要です。力も必要ですし、数字も扱います。

 いろんな能力が要求されますが、工房で働く人の多くはこれらの力を身につけていたものと思われます。人間の能力を育てる上でこれ以上の環境はないのかもしれません。現代の教育にも応用したらどうか、と思うくらいです。

 現代の教育と大きく違うところは、実践が先行していたところでしょうか。なまじっか文字や文章の教育が先行しない分、左脳がでしゃばらないのかもしれません。 
 

鏡文字の練習、新しい発見

2007-06-01 16:55:16 | 心理学
 鏡文字について面白いことを発見しました。
 
 夜、枕を抱いて寝ていたのですが、枕の向こう側から左手で鏡文字を書くと、日本語も漢字もやすやすと書けました。
 枕の向こう側に左手で書くと、書かれた文字は枕を透かせば、普通の文字に見えるはずです。もちろん枕は不透明なので見えるわけではなく、書いた感覚で普通の字が書かれているように感じるだけだと思います。一方、書いている左手は、間違いなく右から左に向かって文字を書いています。いつもと違って迷うこともなく、漢字がらくらく書けたのは驚きです。 
 裏返ってない字のイメージが頭の中にできていて、左手がそれをなぞっていく感じでした。

 認知科学の分野で、身体のいろんな部分にある文字を書くと、場所によってはそれが裏返って書かれたように感じる、という報告を見たことがありますが、それと少し似ているかもしれませんん。

ハンニバル・ライジング

2007-06-01 12:44:24 | Weblog
 昨日珍しく映画の記事を書いたら、いつもと違うたくさんの方が読んでくれたみたいです。調子にのってもう一つ書いてみます。

 「ハンニバル」の原作(英語)は、非常に立派な文章で書かれています。私が英語で小説を書く時にずいぶん参考にさせてもらいました。
 映画の方も、フィレンツエがとても美しかったですし、権力犯罪に立ち向かうレクター博士を応援したくなるという要素もあり、殺人鬼を賛美してよいのかなどいろいろ意見はあるにしても、まあまあの出来ではないか、と私は思いました。アンソニー・ホプキンスの存在感が圧倒的でしたね。

 「ハンニバル・ライジング」は観た時期が特に悪かったです。会津で高校生が母親の首と腕を切り落としたという事件の直後だっただけに、こういう映画が凶悪で猟奇的な犯罪を助長しては困るな、とまず思いました。
 日本の「さらし首」などの風習を取り上げていたのですが、日本人が特別に残酷で奇妙な風習を持つ国民と受け取られても困るなあとも思いました。

 さて、作品そのものの作りですが、なかなか観客の共感を得にくい筋立てであると思いました。主人公は間違いなくレクターであり、場面のほとんどはレクターが中心になって展開していきます。この残酷でわけのわからない主人公に、もちろん多くの観客は感情移入できません。

 小説を書く場合、悪人を主人公にした作品は、特別に注意深く作らないといけない、といわれています。読者が主人公と心を一つにして小説の中に入っていくことができないからです。

 映画の場合には、「視点」というものが移動しても平気(もともと視点なんかないのかも)なので、一応主人公は悪者でも、そのほかの人物で補うことができます。最初の「ハンニバル」の映画の場合にはクラリスが中心になる場面がかなりあります。たとえレクター博士がきらいな人も、一応いろんな部分で共感が得られます。

 「ハンニバル・ライジング」の映画の場合には、ほとんどの場面が不気味なレクターが中心になっているので、息苦しく、また主人公を応援したい観客の心理は満たされないまま映画は終わってしまいます。

 レクターが猟奇的殺人鬼になったきっかけを描いているのですが、それが描かれたからと言って、レクターの行為に少しも同情や共感がわきません。これが決定的ですね。

 よかったところといえば、レクターの生家や山の家(別荘)がなかなか立派で見栄えがしたところ、パリの街並みが美しかったところでしょうか。

 私は物語を作るのを仕事にしている人間なのでどうしたら、もっとよいストーリーになるのか、をつい考えてしまいます。
 百歩譲って、レクターの犯罪を許すとすれば、レクターが幼少時の苦しい悪夢から逃れるためにはどうしても「清算」が必要であった、苦しくて苦しくてしょうがないのだが、「清算」によってようやく心の平安を得ることができる、それが中毒症状のようになるということにしたらいいかなあ、と思いました。しかも最初から殺すことが目的でなくあくまで謝罪を要求していくのだが、相手の出方によって防衛的に殺してしまうことにしたらどうかと思いました。それじゃあ面白くありませんかねえ。ライジングにもならないかもしれませんね。

 さて、ハンニバルシリーズと「右脳と左脳の広場」には関係があります。この作品(特に原作の小説)は、ハンニバルの天才的な頭脳の働きをかなりくわしく記述しています。この人、やっぱり右脳が使えるんですよね。