古い記録によると、第54代仁明(にんみょう)天皇の時代に、弘法大師(こうぼうたいし)が、高佐にこられたことがあるという。その時、氏神(うじがみ)さんの日天八王子(ひてんはちおうじ)の神前に、
「恐れ多いことですが、どうか御神体(ごしんたい)を拝見(はいけん)させていただきたい。」
といって、17日間、密教(みっきょう)の法を修め祈願(きがん)した。
その満願(まんがん)の夜、夢の中に老人が出てきて、大師の枕辺(まくらべ)に立ち、
「わたしは今お庭へ一本の柏(かしわ)の木を持ってきました。これをあなたに差しあげます。」
とていねいにいって、西方へさっていった。
すると不思議にもすぐ白雲が湧(わ)き、音楽が聞こえてきて、今度は天人が舞いおりてきた。そして大師に、
「今あなたに授けた柏の木で、像を彫ってみなさい。この木の中に虚空蔵菩薩(ぼさつ)の尊いお姿が現れます。これがすなわち八王子の御神体です。」
と告げて、この天人も西方へ去っていった。
夢がさめた大師は不思議に思って、庭をみると、一本の柏の木があった。
これはまちがいなく八王子さまのお告げであると思い、すぐ斧(おの)を持ってきて、柏の木を割った。それをみた大師は、
「これは、三体の菩薩さまのお姿にちがいない。」
といって、すぐさま彫り始めた。わずかの日数で、この菩薩はできあがった。
大師はたいへん喜び、この菩薩をおまつりして焼香礼拝(しょうこうらいはい)した。その時、不思議なことにこの仏像が声をお出しになり、
「わたしは、日本の高い山の峰にあって、すべての人々や生き物たちに福徳円満(ふくとくえんまん)を与えるつとめをしている。」
といわれた。このお言葉によって、三体の仏像は、高佐の芥子山(かいしざん)福満寺と度会(わたらい)郡の朝熊嶽(あさまだけ)と鈴鹿郡の白木(しらき)山の3か所にまつられた。この仏像は一樹三体の尊像となっていて、世にもまれなことであるといわれている。
しかしながら、慶長(けいちょう)18年(1613)3月中旬に、思いがけなく高佐のこの寺は火事で全焼してしまった。
集落の人は、涙を流して歎(なげ)き悲しんだ。この由緒(ゆいしょ)ある寺や御本尊を焼失してしまったことで、悲しみと落胆(らくたん)のあまり、日々の仕事も手につかぬありさまであった。
ところが、その翌年の正月12日夜に住職の元寿僧正(げんじゅそうじょう)が不思議な夢をみた。
それによると寺の東北にある池の中から、金色の光をはなっている龍が、頭に菩薩をのせ、水面に浮かび上がっている。元寿はびっくりして夢からさめ、すぐとび起きて池へかけていった。
するとどうだろう、夢のとおり池の水辺に金色に輝いた龍が、頭上に虚空蔵菩薩をのせて、水面に浮かびあがっているではないか。元寿は、
「これはもったいないお姿です。」
と地にひれ伏して礼拝した。そうして、
「どうか、この菩薩さまを、この集落の本尊としてお迎えしたいのです。」
と懇願した。願いがとどいたのか、龍は岸辺に近づいてきたので、この菩薩を龍の頭上からいただくと、それをみとどけた金色の龍は静かに水の底へ沈んでいった。
このことを聞いた高佐の人々は、元寿の教えを受けて、この菩薩を本尊として日々礼拝した。
この寺は、昔から芥子山福満寺という寺の名であったが、このような不思議な出来事があってからは、金龍山(きんりゅうざん)妙光寺と名を改めた。
後世の人々は、この菩薩を「池からお出ましの菩薩さま」といっており、この池を虚空蔵池とよんでいる。
(かわげの伝承から)
(写真は、現在の虚空蔵池です。)
河芸町高佐に伝わる「龍」にまつわるお話でした。