(写真は、河芸漁港周辺の豊津の海岸線です。)
豊津地区は中別保、一色、影重の各地区により形成されており、もとは大別保といいました。
その後文禄3年(1594)の太閤検地の記録に「別保郷」「影重郷」各々とあるので、これから推測すれば約400年前から集落をなしていたものと思われます。
一色村は慶長年間(1596~1615)にその名が見られます。
また当地の庄屋・西井久兵衛家の文書に文久元年(1861)「中別保村」「一色村」の記録が見られるので江戸時代の末期には大別保から分離していたようです。
明治9年(1876)には中別保、一色、影重の3カ村をまとめて豊津村と呼ぶようになりました。
豊津村の名はずっと前からここらあたりが豊津と称していたからでしょう。
一色の人家は昔、八雲神社の西方にあったが、漁民の増加とともに次第に東方の海岸寄りに集落が移動したようです。
地形としては、満願寺の東に「山の蔵」という家があってここら一帯はやや高地であったようです。
影重の中央の道より東を「山」と呼んでおり、東方の家に行く事を山へ行くといいました。
山や野にちなんで「山野」という姓も東部に多くあります。
この地区の海岸一帯には、小字名に荒洲、下芦原、上芦原、香浦、浦、中起、浜新田、北州原、中州原、下州原など海浜に関係した地名が沢山あります。
これはこのあたり一帯がかつては海岸の低湿地であったことを意味します。
したがって、この地区には余り古い社寺や遺跡はありません。
(まちの文化財から)