朝陽(あさひ)~三重・河芸の地域情報~

三重県津市河芸町のいろいろな情報を発信します。

あみにかかった人魚~河芸の伝説・昔話~

2009-03-24 15:41:00 | 河芸の伝承
伊勢の国、別保では、そのころ毎日のように漁が行われていた。

ちょうど、平忠盛が、別保にきたときのことである。いつものように、漁師たちが網をひいていると、

「おっ、これはなんじゃ。」

と驚きの声があがった。

「何や。人のようにみえるぞ。」

「いや。猿のような顔をしているぞ。」

その場は、大さわぎになった。



よくみると歯の細かいところは、魚のようでもあるが、顔は、人のようにもみえる。横顔の口の出ているようなところは、猿にそっくりである。尾ひれのあるところなどは、魚とかわりがない。その上、漁師が近づいていくと、悲しそうにうめき声をあげるばかりか、涙まで流す。

おどろいてばかりもいられず、さっそく、それを忠盛に差し出した。ところが、それをみた忠盛は、

「これは、何たるものか。」

とおそれおののき、食べようとはしなかった。

漁師のもとにもどされた魚は、みんなにわけてあたえられた。勇気がいったが、食べてみても何ごともなかった。むしろ、味のよさに、取りあうようにしてたべたということである。

人々は、

「人魚というのは、このようなものか。」

と長く語り伝えた。



中別保の地名の由来は、北に大別保、西に別保上野があり、その中間に位置することにちなみ、中世以降「別保」ともよばれていた。聖武天皇の伊勢行幸(ぎょうこう)にさいし、天平12年(740)に行宮(あんぐう)が置かれたとされている。伊勢平氏と関係が深く、『古今著聞集 巻第20 魚虫禽獣 第30』には、平忠盛(1096~1153)が別保へきたとき、人魚を献上したと記されている。


(かわげの伝承から)


河芸町中別保に伝わる「人魚」にまつわるお話でした。



(マリーナ河芸にある「人魚」です。)

お花見!桜情報~本城山青少年公園~

2009-03-24 14:35:09 | 四季・風景
気象庁が、昨日津の桜の開花宣言を出しました。

河芸のお花見ポイント『本城山青少年公園』の桜は…?



まだ、ほとんど「蕾」というような感じ…。

でも、蕾はピンクに大きく膨らんできています。

間もなく、『開花宣言』というところでしょうか?


(展望台からの風景です。)


中には、花を咲かせている桜もありました!!!




マレットゴルフのマナー

2009-03-24 13:05:54 | スポーツ

(マナーを守って、ナイスショット!)

ラッキーマン2世:
河角さん、マレットゴルフを楽しむうえで、一番大切なことは何ですか?

河角さん:
一番大切なことはマナーですね。

それは、マレットゴルフには、審判がいないからです。

プレーヤー同士がお互いに信頼し合い、ルールを守ってフェアなプレーをすることが大切です。

他人が見ていなくても、常に一人ひとりがフェアプレーの自覚を持って、楽しく明るく、伸び伸びプレーすることが基本だと思います。

プレー中に大きな声を出したり、喫煙をするなどグループの仲間や周囲の人に迷惑をかけるようなことは、絶対にやってはいけないことです。

ラッキーマン2世:
プレーに入る前の心構えは…。

河角さん:
先ず、品位を保つ服装に心がけ、同伴の競技者や関係者に不快感を抱かせないようにすること。とは言っても、上等の服を着てもらう必要はありませんけどね。

次には、コースに出る前にルールをよく理解しておくこと。そのコースのローカルルールというのもありますからね。

大会などでグループでプレーするときは、お互いに自己紹介をし、相互理解を深め、信頼関係をつくることが大切です。

また、身体ならしの体操などをして、怪我の予防に努めることも大切です。

そして、用具の点検もしっかりとして、事故のないようにしたいものです。

ラッキーマン2世:
プレー中はどうですか?

河角さん:
他のプレーヤーが打つときは、静かにして迷惑にならないように見守ります。

プレーするときは、「○○(名前)、第何打」と氏名と打数をグループの仲間に分かるようにコールしてからプレーしてください。

他の仲間がプレー中は危険防止のため、近くで素振りはしない。また、全員が討ち終わるまでは、マットの後方で待ち、前に進んではいけません。

プレー中にバンカーやフェアーウエイにつけた足跡や穴は必ず直してから次のホールへ進んでください。

そして、プレーの進行を早めるため、自分の打球の行方を見失わないように注意します。

第2打以降を打つときは、他のプレーヤーに迷惑にならないような位置で待っていてください。

また、先行のグループがホールアウトするまで後続のグループは打ってはいけません。ただし、ロングコースなどで安全が確認できる場合は、打ってもかまいません。

先行グループは、ホールアウト後、速やかに後続組に合図をして、妨げにならない位置に移動してから、打数の確認を行ってください。

たばこを吸いながら、食べ物を食べながらのプレーは厳禁です。

そして、コース内にある草や花や樹木などを痛めないよう、自然を大切にしたプレーに心掛けてください。

ラッキーマン2世:
プレー後はどうですか。

河角さん:
スコアーカードに書いた、総打数の確認を行います。

そして、お互いの検討を讃え合いましょう。

ラッキーマン2世:
ありがとうございました。






御幸城跡~河芸の文化財~

2009-03-24 10:04:02 | 河芸の文化財

(写真手前のオレンジ色の屋根の建物が三行公民館です。その奥の小高い丘が城跡です。)


三行の公民館前の小路を北に登って行くと左手に小高い丘があります。

俗称を城屋敷といい城跡で標柱が建ててあります。

西端の一段高いところにわずかばかり平地があり、ここが本丸で天主台があった場所です。

周囲の平地に侍屋敷があって井戸の跡もあったようです。

城主は工藤祐経(鎌倉時代、曽我兄弟に討たれた武士)の子孫で、元亀年間以前(1570年ごろ)は織田信長の配下であった長野親光-伊藤光種-伊藤助重が城主であったが、元亀3年(1573)当時城主であった伊藤重坊は名を茂坊と改め、領地と城を上野城主分部光嘉に譲り、村の神社の神職となりました。

なお、三行は江戸時代以前は、御幸と書いたので「御幸城」と名付けられています。

(まちの文化財から)

河芸・歴史のあらまし~鎌倉・室町・安土・桃山時代~

2009-03-24 08:49:02 | 河芸の歴史

(写真は、現在の浄光寺(北黒田)さんです。)

この時代の当地では、上野御厨(みくりや)、北黒田御厨、別保御厨、林御厨などほとんどが伊勢神宮領でしたが、鎌倉幕府が成立すると当地にも鎌倉武士が進出し神宮との間で度々いざこざが起こりました。

幕府の滅亡後は朝廷によって神宮領は安堵されましたが、長禄年間(1457~1460)には在地の領主と神宮領との間に紛争が頻発し、神宮の経済的基盤は大きく揺さぶられました。

また仏教の布教も活発で、北黒田・浄光寺、東千里・本福寺が創建されました。

やがて戦国時代になり織田信長が伊勢に侵攻、当地方を平定し、永禄11年(1568)上野城に弟・信包を配しましたが、天正8年(1580)信包は津城に移り、上野城には分部光嘉が入城して、上野の集落を城下町として整備しました。

(まちの文化財から)


上野の地が歴史上に姿を現したのは、永禄12(1569)年織田信長の弟である信包(のぶかね)が津城の仮城としてここに居城を定め、元亀元(1570)年上野城を築き入城したときからであると考えられています。

天正8(1580)年、信包は津城が完成するとその城主となり、上野城は津の出城として、家臣分部光嘉(みつよし)に城代として上がらせました。天正10(1582)年の夏、本能寺の変で豊臣秀吉が天下を取ってからは、信包と光嘉は豊臣方に仕えましたが、朝鮮出兵の折、秀吉の忌諱(きい)に触れ、信包は領地を没収され江州(現在の滋賀県)に移封、代わって富田知信が津城主、光嘉が上野城主となります。

光嘉は秀吉から知行壱万石を与えられ、このとき初めて独立した上野城となりました。

(河芸町制施行50周年記念誌から)