朝陽(あさひ)~三重・河芸の地域情報~

三重県津市河芸町のいろいろな情報を発信します。

弘法井戸~河芸の文化財~

2009-03-25 14:35:05 | 河芸の文化財


上野中町の北端、道路の東側にあります。

石造の弘法大師を祭る御堂の前に井戸家形があり、中は深さ2メートル程の貯水槽になっていて、常に清水を湛(たた)えています。

弘法大師のお告げにより井戸を掘ったという伝説は全国各地にありますが、弘法大師の時代にはまだ伊勢街道はなく、大師伝説とこの清水を結び付けて弘法井戸と名付けたのでしょう。

付近の家々で井戸講を組織し、清掃管理や法要を営んでいます。

伊勢街道が出来て、多くの人が通るようになり井戸の水が旅人に利用されるようになり、この大師堂も出来たものと思われます。


(これが「弘法井戸」です。)

(まちの文化財から)

弘法(こうぼう)さんの井戸~河芸の伝説・昔話~

2009-03-25 13:02:33 | 河芸の伝承


昔、上野の村をとおりかかった旅の高僧が、一軒の農家に立ちより、

「旅の者であるが、のどが大変かわいている。のどをうるおす水をいただけないか。」

といわれた。その家の人は、

「このあたりは赤水(あかみず)(鉄分を多く含み飲み水に適しない水)しか出ませんので、しばらくお待ちください。」

といい、急いできれいな水を遠くまでくみにいき、さし上げた。

高僧は大変喜ばれ、

「さぞ、日々の飲み水に困っていることでしょう。ここをためしに掘ってみなさい。」

と持っていた錫杖(しゃくじょう)でお指しになった。



近くの人々が高僧のいわれたところを掘っていくと、清水(しみず)がわきでて、その水は次から次へとあふれんばかりの量であった。

人々は、

「弘法さまのおかげだ。ありがたいことだ。」

と大変喜んだ。そして、さっそく近くの人々は「弘法講(こうぼうこう)」という仲間をつくり、井戸のまわりに屋形を建て、弘法大師の石の座像を安置した。村人はこの井戸を「弘法井戸」と称して大切に使ってきた。

伊勢街道を旅した人々も多く立ちより、この水でかわいたのどをうるおし、旅の疲れをいやしたという。



この「弘法井戸」は、上野中町にあり、昭和40年(1965)ごろまで、共同井戸として使われていた。

毎年、4月21日には、「弘法まつり」が催され、そのころまでは近くの町や村からも多く参詣者がありにぎわっていた。

屋形や井戸の保存、祭礼の経費は、3アールほどの「弘法田」という共有田で収穫された米でまかなっていたが、昭和20年代に国道23号が現在のところに設けられことによって田がなくなり、それ以後は講の方々が出しあってまかなっている。

現在では、近所の6軒で弘法大師の遺徳をしのび、講をつくり、井戸の管理・保全・まつりを継承している。

まつりの日には、赤地の布に「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」と墨書(ぼくしょ)したのぼりを10本ほど立て、米、野菜などの農産物や竹の子、ふきなど季節の食べ物をお供えする。さらに、もちを二臼(うす)つき、まるい形にまるめてお供えし、残りは参詣者にくばっている。

この井戸も現在ではほとんど利用されないため、「そぶ」などの水あかがたまり、4月の祭礼と8月のお盆の前の2回、井戸のそうじをすることにしている。

(かわげの伝承から)


河芸町上野に伝わる「弘法大師」にまつわるお話でした。

マレットゴルフの基礎技術

2009-03-25 11:42:29 | スポーツ

(何事も基本が大切です。)

ラッキーマン2世:
河角さん、今回は基礎技術を教えてもらえますか?

河角さん:
そうですね。先ずはステイックの握り方からいきましょうか。

グリップの中心より上の位置を両手を揃えて握ります。人差し指は、伸ばしても、曲げてもかまいません。握りやすいほうでいいと思います。

グリップの握り方には、インターロッキングとオーバーラッピングという握り方があります。

ラッキーマン2世:
ゴルフと同じですね。

河角さん:
そうですね。インターロッキングというのは、右利きの人の場合、左手の人差し指と右手の小指を組み合わせる握り方です。両手の手首が一緒になって動きやすいといわれています。

オーバーラッピングというのは、同じく右利きの人の場合、右手の小指を左手の人差し指の関節の上に置き、右手の親指の付け根のふくらみを左手の親指の上にのせるような握り方です。

ラッキーマン2世:
では、どのようにボールを打てばいいんですか?

河角さん:
打つときの基本的な姿勢ですが、ボールから20センチから30センチほど離れて立ちます。

ボールは、左足のつま先の延長線上ぐらいに置きます。

両足は肩幅に平行に開き、体重は足先にかけ、膝は軽く曲げる感じです。

肘を軽く曲げ、スティックのヘッドを真下に見る位置で、呼吸を整え、打つ動作に入ります。

次にスイング動作です。

スイングは、脇に紙を挟んでも落ちないくらいに軽くしめ、打つ方向に直角に立ちます。

時計の振り子のように平行にステイックを上げてください。

全身をつかって体重を右から左へ移動します。

目標を定めたら、それ以降はボールを見て、打ち終わるまでボールから目を離さないようにします。

ラッキーマン2世:
あとは、どれくらいの力で打てば、どのくらいの距離が出るかを、練習の中でつかんでいくということですね。

河角さん:
そのとおりです。

ラッキーマン2世:
ありがとうございます。


河芸の歩み~平成18年から~

2009-03-25 10:22:07 | 河芸の歴史
平成18年
    1月 合併により三重県津市河芸町となる
        旧河芸町役場が津市河芸総合支所となる。
        河芸総合支所に、総務課、地域振興室、市民福祉課、産業建設課、生活環境課、教育委員会河芸事務所が設置され、津市土地開発公社が配置される。
    5月 河芸地区地域審議会設置


平成20年
    4月 組織機構改革により、産業建設課と生活環境課が統合され産業環境課となる

(続く…)   

道標~河芸の文化財~

2009-03-25 09:42:09 | 河芸の文化財

(現在は、修復され河芸中央公民館中庭に立てられています。)

中央公民館ロビー東の中庭に道標が二つに折れたまま保管されています。

この道標はもと河芸消防署前の三差路に立っていたものですが、折損したので中央公民館に移し保存しているものです。

「右 しろこかいたう(白子街道) 左 かんへちかみち(神戸近道)」、側面に「元禄三庚午(かのえうま)年三月吉日」(1690)野町中 と彫ってあります。

野町は鈴鹿サーキットの東にある村落で、昔から瓦の製造が盛んに行われていました。

上野から白子を経由して神戸にいくよりも野町を経由が近道である事を、旅人に知らすため野町の人々が上野地内へ親切に建てたものです。

約300年前の古い道標です。

(まちの文化財から)


河芸・歴史のあらまし~江戸時代~

2009-03-25 08:34:25 | 河芸の歴史
分部家は上野城にあること50年、第2代・光信が元和5年(16199には近江国・大溝に移封(いほう)され、城は廃され、当地は紀州藩領となりました。

徳川幕府は国内統治を促進するため特に道路整備に意を注ぎ、各地の街道を改修し、伊勢街道を整え、上野には宿場を設けたので、上野は城下町から宿場町として繁栄しました。

一方、海岸平野部は低湿地で住む人も少数でしたが次第に陸化が進み、多くの人が定着し豊津地区は漁業基地として発展しました。

(まちの文化財から)


江戸時代に入ると、関東方面への人々の往来がはげしくなり、伊勢湾に沿って南北に走る主要街道であった伊勢街道は、諸大名の伊勢神宮参拝のための通行などに利用されていたこともあってますます繁栄を極めたといいます。

特に上野宿は桑名や山田への道のりが十里ほどの位置にあったため、旅人の宿泊が多く宿場町として発展していきました。このような諸大名や旅人たちの宿泊により、本陣ができ、また荷物や旅人、文書などを運ぶ問屋や公文書を運搬する御七里ができ、およそ2キロメートルにわたる上野の宿場は日夜多くの人々でにぎわったといいます。

現在ではひっそりとたたずむ伊勢街道筋の町並みを歩いていると、旅をする人々でにぎわっていた当時の情景が思い浮かぶ情緒が残っています。

(河芸町制施行50周年記念誌から)

あみにかかった人魚~河芸の伝説・昔話~

2009-03-24 15:41:00 | 河芸の伝承
伊勢の国、別保では、そのころ毎日のように漁が行われていた。

ちょうど、平忠盛が、別保にきたときのことである。いつものように、漁師たちが網をひいていると、

「おっ、これはなんじゃ。」

と驚きの声があがった。

「何や。人のようにみえるぞ。」

「いや。猿のような顔をしているぞ。」

その場は、大さわぎになった。



よくみると歯の細かいところは、魚のようでもあるが、顔は、人のようにもみえる。横顔の口の出ているようなところは、猿にそっくりである。尾ひれのあるところなどは、魚とかわりがない。その上、漁師が近づいていくと、悲しそうにうめき声をあげるばかりか、涙まで流す。

おどろいてばかりもいられず、さっそく、それを忠盛に差し出した。ところが、それをみた忠盛は、

「これは、何たるものか。」

とおそれおののき、食べようとはしなかった。

漁師のもとにもどされた魚は、みんなにわけてあたえられた。勇気がいったが、食べてみても何ごともなかった。むしろ、味のよさに、取りあうようにしてたべたということである。

人々は、

「人魚というのは、このようなものか。」

と長く語り伝えた。



中別保の地名の由来は、北に大別保、西に別保上野があり、その中間に位置することにちなみ、中世以降「別保」ともよばれていた。聖武天皇の伊勢行幸(ぎょうこう)にさいし、天平12年(740)に行宮(あんぐう)が置かれたとされている。伊勢平氏と関係が深く、『古今著聞集 巻第20 魚虫禽獣 第30』には、平忠盛(1096~1153)が別保へきたとき、人魚を献上したと記されている。


(かわげの伝承から)


河芸町中別保に伝わる「人魚」にまつわるお話でした。



(マリーナ河芸にある「人魚」です。)

お花見!桜情報~本城山青少年公園~

2009-03-24 14:35:09 | 四季・風景
気象庁が、昨日津の桜の開花宣言を出しました。

河芸のお花見ポイント『本城山青少年公園』の桜は…?



まだ、ほとんど「蕾」というような感じ…。

でも、蕾はピンクに大きく膨らんできています。

間もなく、『開花宣言』というところでしょうか?


(展望台からの風景です。)


中には、花を咲かせている桜もありました!!!




マレットゴルフのマナー

2009-03-24 13:05:54 | スポーツ

(マナーを守って、ナイスショット!)

ラッキーマン2世:
河角さん、マレットゴルフを楽しむうえで、一番大切なことは何ですか?

河角さん:
一番大切なことはマナーですね。

それは、マレットゴルフには、審判がいないからです。

プレーヤー同士がお互いに信頼し合い、ルールを守ってフェアなプレーをすることが大切です。

他人が見ていなくても、常に一人ひとりがフェアプレーの自覚を持って、楽しく明るく、伸び伸びプレーすることが基本だと思います。

プレー中に大きな声を出したり、喫煙をするなどグループの仲間や周囲の人に迷惑をかけるようなことは、絶対にやってはいけないことです。

ラッキーマン2世:
プレーに入る前の心構えは…。

河角さん:
先ず、品位を保つ服装に心がけ、同伴の競技者や関係者に不快感を抱かせないようにすること。とは言っても、上等の服を着てもらう必要はありませんけどね。

次には、コースに出る前にルールをよく理解しておくこと。そのコースのローカルルールというのもありますからね。

大会などでグループでプレーするときは、お互いに自己紹介をし、相互理解を深め、信頼関係をつくることが大切です。

また、身体ならしの体操などをして、怪我の予防に努めることも大切です。

そして、用具の点検もしっかりとして、事故のないようにしたいものです。

ラッキーマン2世:
プレー中はどうですか?

河角さん:
他のプレーヤーが打つときは、静かにして迷惑にならないように見守ります。

プレーするときは、「○○(名前)、第何打」と氏名と打数をグループの仲間に分かるようにコールしてからプレーしてください。

他の仲間がプレー中は危険防止のため、近くで素振りはしない。また、全員が討ち終わるまでは、マットの後方で待ち、前に進んではいけません。

プレー中にバンカーやフェアーウエイにつけた足跡や穴は必ず直してから次のホールへ進んでください。

そして、プレーの進行を早めるため、自分の打球の行方を見失わないように注意します。

第2打以降を打つときは、他のプレーヤーに迷惑にならないような位置で待っていてください。

また、先行のグループがホールアウトするまで後続のグループは打ってはいけません。ただし、ロングコースなどで安全が確認できる場合は、打ってもかまいません。

先行グループは、ホールアウト後、速やかに後続組に合図をして、妨げにならない位置に移動してから、打数の確認を行ってください。

たばこを吸いながら、食べ物を食べながらのプレーは厳禁です。

そして、コース内にある草や花や樹木などを痛めないよう、自然を大切にしたプレーに心掛けてください。

ラッキーマン2世:
プレー後はどうですか。

河角さん:
スコアーカードに書いた、総打数の確認を行います。

そして、お互いの検討を讃え合いましょう。

ラッキーマン2世:
ありがとうございました。






御幸城跡~河芸の文化財~

2009-03-24 10:04:02 | 河芸の文化財

(写真手前のオレンジ色の屋根の建物が三行公民館です。その奥の小高い丘が城跡です。)


三行の公民館前の小路を北に登って行くと左手に小高い丘があります。

俗称を城屋敷といい城跡で標柱が建ててあります。

西端の一段高いところにわずかばかり平地があり、ここが本丸で天主台があった場所です。

周囲の平地に侍屋敷があって井戸の跡もあったようです。

城主は工藤祐経(鎌倉時代、曽我兄弟に討たれた武士)の子孫で、元亀年間以前(1570年ごろ)は織田信長の配下であった長野親光-伊藤光種-伊藤助重が城主であったが、元亀3年(1573)当時城主であった伊藤重坊は名を茂坊と改め、領地と城を上野城主分部光嘉に譲り、村の神社の神職となりました。

なお、三行は江戸時代以前は、御幸と書いたので「御幸城」と名付けられています。

(まちの文化財から)

河芸・歴史のあらまし~鎌倉・室町・安土・桃山時代~

2009-03-24 08:49:02 | 河芸の歴史

(写真は、現在の浄光寺(北黒田)さんです。)

この時代の当地では、上野御厨(みくりや)、北黒田御厨、別保御厨、林御厨などほとんどが伊勢神宮領でしたが、鎌倉幕府が成立すると当地にも鎌倉武士が進出し神宮との間で度々いざこざが起こりました。

幕府の滅亡後は朝廷によって神宮領は安堵されましたが、長禄年間(1457~1460)には在地の領主と神宮領との間に紛争が頻発し、神宮の経済的基盤は大きく揺さぶられました。

また仏教の布教も活発で、北黒田・浄光寺、東千里・本福寺が創建されました。

やがて戦国時代になり織田信長が伊勢に侵攻、当地方を平定し、永禄11年(1568)上野城に弟・信包を配しましたが、天正8年(1580)信包は津城に移り、上野城には分部光嘉が入城して、上野の集落を城下町として整備しました。

(まちの文化財から)


上野の地が歴史上に姿を現したのは、永禄12(1569)年織田信長の弟である信包(のぶかね)が津城の仮城としてここに居城を定め、元亀元(1570)年上野城を築き入城したときからであると考えられています。

天正8(1580)年、信包は津城が完成するとその城主となり、上野城は津の出城として、家臣分部光嘉(みつよし)に城代として上がらせました。天正10(1582)年の夏、本能寺の変で豊臣秀吉が天下を取ってからは、信包と光嘉は豊臣方に仕えましたが、朝鮮出兵の折、秀吉の忌諱(きい)に触れ、信包は領地を没収され江州(現在の滋賀県)に移封、代わって富田知信が津城主、光嘉が上野城主となります。

光嘉は秀吉から知行壱万石を与えられ、このとき初めて独立した上野城となりました。

(河芸町制施行50周年記念誌から)

ざるやぶり神事(一色)~市指定無形民俗文化財~

2009-03-23 16:23:58 | 河芸の文化財
【一色の起源】


(写真は、ざるやぶりの行われる一色の八雲神社です。)

一色の八雲神社は弘治元年(1555)7月2日、三井治郎左衛門高次が建てたものである。現在の棟札(長さ6寸6分)のうちもっとも古いものは、のちに慶長16年(1611)に社殿を造営の時、針金でしばりつけたものと伝えられている。

高次は、有名な佐々木四郎の末裔(まつえい)である。紀州あたりを転戦の末敗れて舟でのがれ、高次、高治の兄弟は3、40人の一族郎党とともに、豊津の海岸にたどりついたのは少なくとも弘治以前のことであろう。

そのころ、一色は千次浜といって中別保から移住した住家がわずか3軒であった。角政(現 朝日新聞専売所)を100メートルほど下った角の、当時、保衛という家に榎の大木があった。海上よりこの大木をみて舟を着けたといわれている。

民家に入ったがあたりに人影もない。空腹にたえかねた高次たちは、台所のざるに入れてあった「よまし麦」をむさぼり食べた。そこへ家人が帰って来て、たちまち大げんかとなったが、事情がわかって無事おさまり、高次らは、この地に住みつくようになった。

【ざるやぶり神事】



昔は夏と秋の2回の祭りがあった。ざるに夏は麦を、秋は白米を神前に供えて、終了後に、それを参拝者にわけた。今は祭礼は、7月14日、15日の夏祭りとなって、15日の夜は「ざるやぶり」神事が行われる。

氏子の青年を中心とする裸男たちが、神社の境内いっぱいに、体と体をぶっつけあいもみあいをして、ざるをやぶるという裸祭をくりひろげる。

この神事の由来は、三井高次一族が一色海岸にたどりついたことによるものである。

「よまし麦」のざるを奪いあったことことをしのび、この神事が行われるようになった。当時の祖先を追憶し、豊漁と安穏無事を祈願するという祭礼である。

現在の神事は、神社から100メートルほど離れた宿所(以前は北端家や集会所)に、裸男たちが集合し、午後7時30分の打ち上げ花火の合図とともに、4、5人ずつ組になって参道を「ワッショイ、ワッショイ、ワーイ」の叫び声とともに、いく組みもが社前に掛けこむ。5アール位の社の庭で、数十人ほどの裸の若者が、肌と肌をぶつけあって、もみあう。そのつど「ワッショイ、ワッショイ」の叫びとともに「ワーイ」のひとしお高い声があがる。

青年幹部の団長、書記、会計の提灯が、それを統制する。一段と熱気は高まり、その裸男の集団に冷水があびせられる。



かくして、もみあいは境内の外の参道までおよぶ。約20分ほどして潮の引くように一たん宿所に引きあげ小休止する。これが1回のからねりである。

第2回は、また花火を合図に波状突進が行われ、社前でもみあい、さらに拝殿のなかでも祈るごとくもみあう。そのつど「ワッショイ、ワッショイ。ワーイ」の叫びと喚声があがる。

さらに、花火が数発夜空をいろどる。第1回より人数を増し、ひとしお熱気をおび、水をかぶせる、かぶる。それは勇壮である。約30分ほどして引く。

第3回は9時ごろから最終のもみあいになる。一段と熱気を増し、人の上に人がのしかかって一段と高まる。やがて、前日より白米を入れて、神前に献上してあった「たんばざる」(直径約60センチメートルぐらい)を神社総代から幹部に渡すと、裸男たちが、おたがいに引っ張りあい奪いあいために、ひとしお背高く、人の上に人がのし上がって騎馬戦のようである。

そして、ざるは、やぶられる、ちぎられる。



拝殿では、午後7時ごろから、神社総代はじめ関係の方々が着座し、参拝者に答礼し、神酒をくみ、お神楽を奏して、地区の平和安全と氏子の無病息災を祈願する。特に、豊漁とその安全と発展を祈願するのはいうまでもない。

神前に供えられた白米が、参詣の人々に授与される。つぶされ、ひきちぎられたざるの竹の端は、かむと歯痛が治るということから、この小片を参拝者や観衆が持ち帰る。

この神事は、明治以降、盛衰をくり返し、時には、一時中断されたようであったが、ざるやぶりの衰退は漁業の衰退であり、漁獲量にかかわりあるものとして、漁民の願いを込めて、継続すべく関係者の努力が払われたので、近年ますます盛んとなり、7月15日には晴雨にかかわらず決行されている。

(かわげの伝承から)

Let's Play!『 マレットゴルフ』

2009-03-23 13:39:52 | スポーツ

(ナイスショット!)

皆さん、マレットゴルフというスポーツをご存知ですか?

マレットゴルフとは、スティックとボールを使って、決められた打ち出し地点からカップへ、できるだけ少ない打数で入れることを競うスポーツです。

マレットとは、英語で「木づち」を意味し、木づちを使ってボールを打ち、ゴルフのルールで競技するという意味でマレットゴルフと名付けられたそうです。

福井県生まれの長野県育ち。当初は、ゲートボールの道具を使って、広々とした自然の中で、ゴルフのような感覚で経費をかけず豪快な気分を味わえないだろうかとの発想からはじまったそうです。

特徴としては、

1 1人でも楽しむことができ、2人以上でも競いながら楽しむことができます。

2 個人戦なので、人に迷惑をかけずにプレーすることができます。

3 ゴルフと同じ感覚で豪快なショットやパッテングの妙を楽しむことができます。

4 性別、年齢に関係なく、「いつでも」「どこでも」「誰とでも」楽しむことができます。

5 自然を相手に広い場所で伸び伸びと仲間と語らいながらコースを回る事で、仲間づくり、健康づくりに役立ちます。

そんな、ニュースポーツが、河芸の町民の森公園周辺で出来るって、ご存知でした…?


かわげマレットゴルフコース 18ホール 全長726m Par72

本格的ですネ!!!

これ、かわげスポーツクラブの皆さんの手づくりコースなんですよ。(先日、3月18日にも出会い仕事でコース整備が行われていました。)


(写真は、コース整備をする愛好家の皆さんです。)

パー3のショート、パー4のミドル、パー5のロング、タフな打ち上げ、豪快に打ち下ろし、右ドックレックに左ドックレックと設定は、ゴルフ場とそっくり。

カップ周辺は、芝目を読む必要はありませんが、こんもりと盛り上げられ微妙なアンジュレーションがあり、腕の見せどころ。

奥へこぼしてしまうと、OB(アウト・オブ・バウンズ)の危険性も…?。

こんな面白うそうなこと、黙って見過ごす訳にはいかないよネ!

そこで、かわげスポーツクラブ副会長の河角さんや同クラブの熱烈マレット愛好家の皆さんのご協力をいただき、「マレットゴルフ」の基礎からかわげマレットゴルフコースの紹介などをしていきたいと思います。

乞うご期待…。


河芸・地区のあらまし~千里ヶ丘地区~

2009-03-23 12:59:10 | 河芸の歴史
西千里地区は隣接する千里ヶ丘とともに丘陵台地の東端部にあります。もとは円応寺村と称していました。ここには明治の初めまで円応寺という大きなお寺があり、それが村の名になったのです。地区の西北方は鈴鹿市になりますが、郡山台地が続き、縄文時代の遺跡や大古墳群があって古くからひらけていた所です。中世には東千里と二つにわかれました。

千里ヶ丘は西千里と続く台地を形成しています。もとは西千里の一部でしたが、昭和40年(1965)代初め大型団地が建設されたので独立して千里ヶ丘となりました。団地建設に先立って発掘調査の結果、ここには古墳時代から鎌倉時代にかけての住居跡、中世墓などが発見調査されましたが、現在はすべて住宅の下になっています。


(写真は、千里ヶ丘にある県営住宅サンシャイン千里です。)

西方に続く久知野地区にあった古窯跡で須恵器製作に従事していた人々が住んでいた場所ではなかろうかと言われています。

(まちの文化財から)


杜の街の開発が進み、最近では、この杜の街を含んだ地域を千里ヶ丘地区と呼んでいます。