goo blog サービス終了のお知らせ 

朝陽(あさひ)~三重・河芸の地域情報~

三重県津市河芸町のいろいろな情報を発信します。

河芸・歴史のあらまし~明治・大正・昭和~

2009-03-26 09:07:22 | 河芸の歴史
長らく続いた幕藩体制も終わり、明治維新を迎え、明治5年(1872)には三重県が誕生しました。

明治22年(1889)町村制が実施され、上野村、黒田村、豊津村の3か村が生まれました。

上野は宿場町、黒田は農業、豊津は漁業という3本柱でバランス良く発展しました。

日清、日露の戦争を経て大正時代を迎え、大正2年(1913)には電気、続いて大正4年(1915)には町内にはじめて鉄道が敷設(ふせつ)されるなど、あたらしい文明の恩恵がもたらされましたが、日本は暗い軍国主義の体制下、太平洋戦争に突入しました。

多くの都市が空襲で焼野原となりましたが、当地では中瀬に若干の被害を被っただけで終戦となりました。

戦後各地で町村合併が進行し、ここに上野、黒田、豊津の3カ村が合併して、昭和29年10月15日河芸町が誕生しました。

以来順調な発展を続けた河芸町は、平成6年度には町制施行40周年を迎えることになります。

(まちの文化財から)

河芸の歩み~平成18年から~

2009-03-25 10:22:07 | 河芸の歴史
平成18年
    1月 合併により三重県津市河芸町となる
        旧河芸町役場が津市河芸総合支所となる。
        河芸総合支所に、総務課、地域振興室、市民福祉課、産業建設課、生活環境課、教育委員会河芸事務所が設置され、津市土地開発公社が配置される。
    5月 河芸地区地域審議会設置


平成20年
    4月 組織機構改革により、産業建設課と生活環境課が統合され産業環境課となる

(続く…)   

河芸・歴史のあらまし~江戸時代~

2009-03-25 08:34:25 | 河芸の歴史
分部家は上野城にあること50年、第2代・光信が元和5年(16199には近江国・大溝に移封(いほう)され、城は廃され、当地は紀州藩領となりました。

徳川幕府は国内統治を促進するため特に道路整備に意を注ぎ、各地の街道を改修し、伊勢街道を整え、上野には宿場を設けたので、上野は城下町から宿場町として繁栄しました。

一方、海岸平野部は低湿地で住む人も少数でしたが次第に陸化が進み、多くの人が定着し豊津地区は漁業基地として発展しました。

(まちの文化財から)


江戸時代に入ると、関東方面への人々の往来がはげしくなり、伊勢湾に沿って南北に走る主要街道であった伊勢街道は、諸大名の伊勢神宮参拝のための通行などに利用されていたこともあってますます繁栄を極めたといいます。

特に上野宿は桑名や山田への道のりが十里ほどの位置にあったため、旅人の宿泊が多く宿場町として発展していきました。このような諸大名や旅人たちの宿泊により、本陣ができ、また荷物や旅人、文書などを運ぶ問屋や公文書を運搬する御七里ができ、およそ2キロメートルにわたる上野の宿場は日夜多くの人々でにぎわったといいます。

現在ではひっそりとたたずむ伊勢街道筋の町並みを歩いていると、旅をする人々でにぎわっていた当時の情景が思い浮かぶ情緒が残っています。

(河芸町制施行50周年記念誌から)

河芸・歴史のあらまし~鎌倉・室町・安土・桃山時代~

2009-03-24 08:49:02 | 河芸の歴史

(写真は、現在の浄光寺(北黒田)さんです。)

この時代の当地では、上野御厨(みくりや)、北黒田御厨、別保御厨、林御厨などほとんどが伊勢神宮領でしたが、鎌倉幕府が成立すると当地にも鎌倉武士が進出し神宮との間で度々いざこざが起こりました。

幕府の滅亡後は朝廷によって神宮領は安堵されましたが、長禄年間(1457~1460)には在地の領主と神宮領との間に紛争が頻発し、神宮の経済的基盤は大きく揺さぶられました。

また仏教の布教も活発で、北黒田・浄光寺、東千里・本福寺が創建されました。

やがて戦国時代になり織田信長が伊勢に侵攻、当地方を平定し、永禄11年(1568)上野城に弟・信包を配しましたが、天正8年(1580)信包は津城に移り、上野城には分部光嘉が入城して、上野の集落を城下町として整備しました。

(まちの文化財から)


上野の地が歴史上に姿を現したのは、永禄12(1569)年織田信長の弟である信包(のぶかね)が津城の仮城としてここに居城を定め、元亀元(1570)年上野城を築き入城したときからであると考えられています。

天正8(1580)年、信包は津城が完成するとその城主となり、上野城は津の出城として、家臣分部光嘉(みつよし)に城代として上がらせました。天正10(1582)年の夏、本能寺の変で豊臣秀吉が天下を取ってからは、信包と光嘉は豊臣方に仕えましたが、朝鮮出兵の折、秀吉の忌諱(きい)に触れ、信包は領地を没収され江州(現在の滋賀県)に移封、代わって富田知信が津城主、光嘉が上野城主となります。

光嘉は秀吉から知行壱万石を与えられ、このとき初めて独立した上野城となりました。

(河芸町制施行50周年記念誌から)

河芸・地区のあらまし~千里ヶ丘地区~

2009-03-23 12:59:10 | 河芸の歴史
西千里地区は隣接する千里ヶ丘とともに丘陵台地の東端部にあります。もとは円応寺村と称していました。ここには明治の初めまで円応寺という大きなお寺があり、それが村の名になったのです。地区の西北方は鈴鹿市になりますが、郡山台地が続き、縄文時代の遺跡や大古墳群があって古くからひらけていた所です。中世には東千里と二つにわかれました。

千里ヶ丘は西千里と続く台地を形成しています。もとは西千里の一部でしたが、昭和40年(1965)代初め大型団地が建設されたので独立して千里ヶ丘となりました。団地建設に先立って発掘調査の結果、ここには古墳時代から鎌倉時代にかけての住居跡、中世墓などが発見調査されましたが、現在はすべて住宅の下になっています。


(写真は、千里ヶ丘にある県営住宅サンシャイン千里です。)

西方に続く久知野地区にあった古窯跡で須恵器製作に従事していた人々が住んでいた場所ではなかろうかと言われています。

(まちの文化財から)


杜の街の開発が進み、最近では、この杜の街を含んだ地域を千里ヶ丘地区と呼んでいます。

河芸・歴史のあらまし~奈良・平安時代~

2009-03-23 11:58:35 | 河芸の歴史

(写真は、現在の尾前神社(東千里)さんです。)


(写真は、現在の弥尼布理神社(北黒田)さんです。)


この時代の当町の様子を知る資料はきわめて少なくほとんど分かりません。

奈良地方に大和政権が確立し、律令制が施行され、当地方は伊勢国庵芸郡(あんげごおり)に属し、古書には黒田郷、服部郷(はとりごう)の郷名が見られます。

平安時代に編纂された延喜式神名帳にある、尾前(おざき)、伊弥布理(いねふり)、服部(はとり)の各神社はいずれもこの時代に創建されたと伝えられています。

(まちの文化財から)


和同開珎(わどうかいちん)銀銭

昭和33年(1958)、千里ヶ丘で農作業中の町民によって発見されました。和同開珎は我が国最古の貨幣で、奈良時代の和銅元年(708)に鋳造された貨幣で、銅銭と銀銭の二種があり、特に銀銭は出土例も少なく貴重なものです。
(三重県埋蔵文化財センター 蔵)

(まちの文化財から)             


河芸・地区のあらまし~黒田地区~

2009-03-19 10:38:22 | 河芸の歴史
黒田地区は、北黒田、南黒田、三行、赤部、高佐、浜田の各地区が含まれています。当地区は河芸町の西方の丘陵地の大部分を占め、町内では最も古くから拓けた地域で、古代遺跡が多く存在しています。

三行地区には1300~1600年前の古墳時代の遺跡と奈良時代から平安時代にかけての遺跡が各所にあり、高度な焼成技術による須恵器の土器が出土しています。なかでも鈴鹿市との境に近い西毛谷からは陶棺が発掘されています。またこれら土器を焼いた窯跡が鈴鹿市徳居古窯跡群の一部として町内の久知野から三行にかけての丘陵に存在し、このあたりが古くから窯業生産地としてひらけていた事がわかります。

北黒田地区には1700年前の弥生時代後期の遺跡があり、また南黒田にも古墳時代の遺跡があって、共に土器や土器片を出土しています。

高佐地区の弥生時代中期遺跡からは石斧や土器も採集されています。

時代が降り、南北朝時代成立の「神鳳抄」という古書には北黒田御厨、南黒田御厨、浜田御厨の名がみられ、神宮の荘園ともいうべき土地柄であったと思われ、式内社・弥尼布理神社の存在とも合わせ考え、当地区は上代から集落を形成していたものと思われます。

明治22年(1889)4月、南黒田、北黒田、三行、赤部、高佐の各地区を統合し「黒田村」としました。

黒田とは、黒土の地、即ち腐植土を多く含む黒い土、また開墾されたあたらしい土地を意味し、農耕に適した所、特に米作が盛んでここで収穫される米は「黒田米」の名で親しまれ、おいしいお米として有名です。

(まちの文化財から)


(写真は、南黒田地内の田園風景です。)

河芸・歴史のあらまし~古墳時代~

2009-03-19 10:37:06 | 河芸の歴史
約1600年前になると古墳時代になり、近畿地方を中心として各地に古墳が造られるようになります。

なかでも大和や河内には有力支配者の巨大な古墳が造営されました。

町内には有力支配者がいなかったせいか、大型の前方後円墳は無く、小型の円墳が千里ヶ丘、久知野、三行の丘陵地に存在していますが、数も多くありませんし、その後の開発などによって消滅し、現在は三行に1基残っているだけです。

考古資料として特記することは、古墳時代の末期ごろから須恵器の生産が、久知野、三行から隣接する鈴鹿市徳居にかけての地域で盛んに行われ、県下でも有数の須恵器生産地で、多くの古窯跡があります。

道路建設などで破壊消滅したものもありますが、三行地区には現在も数ヵ所の古窯跡があり、須恵器の生産は平安時代のころまで続いていたようです。

(まちの文化財から)


時代は下り古墳時代では、その名のとおり古墳が築かれた時代です。河芸町では30基ほどの古墳が確認されており、出土した古墳の中には、陶棺や方陶状土製品などの特殊な土製品も発見されています。

古墳時代中ごろになると、須恵器という青灰色で硬質の土器がつくられ始めます。素焼きで軟質の土師器と違い、須恵器は窯を使って焼き締めるため、薄くてかたい土器に仕上がります。この当時の人々の暮らしを考えると、全く新しい画期的な土器であったことでしょう。

三行地区の七ヶ谷にはこの須恵器を焼いた窯跡が現在でも残っており、須恵器片や窯壁、灰捨場などが発見されています。また、七ヶ谷に接する西尾谷からは奈良時代につくられたと考えられる甕棺(かめかん)が発掘されており、この辺りの地域は三重県下でも有数の須恵器の大産地であったことがうかがえます。

(河芸町制施行50周年記念誌から)

河芸・地区のあらまし~上野地区~

2009-03-18 11:53:01 | 河芸の歴史

(写真は、上野城跡につくられた本城山青少年公園の展望台です。)

上野地区は、上野、東千里、久知野、中瀬、大蔵園、新上野、東上野の各地区を含む地域です。

上野地区は西方から続く丘陵の東端の台地で周辺は低湿地帯の水田です。東は海に臨み居住に適した所で、すでに弥生時代には人々の暮らしが営まれ、台地中央には八幡谷弥生遺跡があり弥生式土器の出土記録があります。その後定着する人の数も増え、鎌倉時代には「上野御厨(みくりや)」の名が神鳳抄(しんぽうしょう)に見られ、すでにこのころは神宮の御厨でした。室町時代には上野城が築かれ分部家が入り着々と城下町は整備されて、分部家の移封後も徳川幕府により伊勢街道の宿場町として発展を続け、常に当地方の中心集落でした。現在も伊勢街道沿いには多くの文化財が残されています。

大蔵園地区は地籍上は上野地区に含まれ、上野の集落の東方近鉄線路の東側にあります。昔は畑地でしたが、近年になって小住宅団地として開発されたところです。

新上野地区は上野の集落の西北方に位置し、旧地名鐘鋳場、石塔谷という場所があり、室町期には神社、寺がありましたが、今は小規模な新上野団地になっています。鐘鋳場からは時代不詳の骨壷が出土した記録があり、石塔谷はその地名から墓場であったのでしょう。

東上野地区は上野地区の海岸寄りにあり、小字名を芦原と称し低湿地帯であって昭和60年(1985)から小規模住宅団地として開発された所です。

東千里地区は河芸町の北端の低地にあり伊勢湾に臨む地域です。このあたり一帯は近世まで湿地帯や浅い海であり、従って歴史時代以前の遺跡は存在しません。東千里の集落が形成されたのは鎌倉時代以降でしょう。もとは西方の西千里に含まれ円応寺村であったのが中世に分離独立して大別保村(現在東千里)となりました。集落の中心を伊勢街道が通っています。

中瀬地区は、町の西南端にある小集落で、伊勢街道が通るようになり発達した場所で、地名からも中瀬は中州に通じることから比較的近世まで湿地もしくは浅い海底であったのでしょう。従って古い遺跡や社寺はありません。

(まちの文化財から)

河芸・歴史のあらまし~あけぼの~

2009-03-18 10:54:30 | 河芸の歴史
当地方に人がいつから住み始めたかはっきりと分かっていません。

縄文時代(約2200年以前)の遺跡は町内から未発見ですが、次の弥生時代の遺跡は千里ヶ丘、久知野、三行、南黒田、北黒田の丘陵地とそれに接する上野、赤部、高佐などの台地で確認されていますことから、多分このころから人が住みつき、狩猟や漁獲また低地では農耕を営んでいたものと思われます。

(まちの文化財から)


人類が登場したのは今から2、300万年前と言われています。現在、河芸町で確認されている遺跡の一つに、南黒田地区で発見された弥生時代のものと考えられる「山王遺跡」があります。この遺跡などにより、人々の定住が進んだのは弥生時代であることが判明しています。

(河芸町制施行50周年記念誌から)

河芸・地区のあらまし~豊津地区~

2009-03-17 15:42:31 | 河芸の歴史

(写真は、河芸漁港周辺の豊津の海岸線です。)

豊津地区は中別保、一色、影重の各地区により形成されており、もとは大別保といいました。

その後文禄3年(1594)の太閤検地の記録に「別保郷」「影重郷」各々とあるので、これから推測すれば約400年前から集落をなしていたものと思われます。

一色村は慶長年間(1596~1615)にその名が見られます。

また当地の庄屋・西井久兵衛家の文書に文久元年(1861)「中別保村」「一色村」の記録が見られるので江戸時代の末期には大別保から分離していたようです。

明治9年(1876)には中別保、一色、影重の3カ村をまとめて豊津村と呼ぶようになりました。

豊津村の名はずっと前からここらあたりが豊津と称していたからでしょう。

一色の人家は昔、八雲神社の西方にあったが、漁民の増加とともに次第に東方の海岸寄りに集落が移動したようです。

地形としては、満願寺の東に「山の蔵」という家があってここら一帯はやや高地であったようです。

影重の中央の道より東を「山」と呼んでおり、東方の家に行く事を山へ行くといいました。

山や野にちなんで「山野」という姓も東部に多くあります。

この地区の海岸一帯には、小字名に荒洲、下芦原、上芦原、香浦、浦、中起、浜新田、北州原、中州原、下州原など海浜に関係した地名が沢山あります。

これはこのあたり一帯がかつては海岸の低湿地であったことを意味します。

したがって、この地区には余り古い社寺や遺跡はありません。

(まちの文化財から)

河芸・歴史のあらまし~地質時代~

2009-03-17 11:44:01 | 河芸の歴史

今から約数100万年前の新生代第3紀鮮新世と呼ばれること、当地方一帯は東海湖という大きな湖の底でした。

東海湖は、その後次第に干上がり陸化し、現在の河芸町の土台となる地盤ができました。

当時は今よりずっと暖かで多くの植物が繁茂し、象、サイ、馬、鹿などの大型哺乳類が生息していました。

北黒田で発掘されたステゴドン・シンシュウゾウ(絶滅した旧象の1種)の化石が何よりの証拠です。

湖が陸化してできた地層を庵芸層と呼び、県内の伊勢湾沿岸に広く分布していますが、河芸町では総面積の約65%が庵芸層で覆われています。

残りの35%が海岸平野を構成する沖積層や洪積層と呼ばれる比較的新しい地層で、主として西方の山地から河川によって運ばれ堆積したものです。

(まちの文化財から)


伊勢平野の中央部から北部にかけて広く分布している地層を「庵芸(あんげ)層群」といいます。河芸町にかかる庵芸層群は鮮新世の時代に堆積されたもので、ここから三重県を代表する化石ゾウ「ミエゾウ」が発見されました。昭和30年に北黒田で出土したこのゾウの化石は、およそ300万年前の第3紀鮮新世前期ごろ主に日本列島に生息していた象の一種です。

(河芸町制施行50周年記念誌から)

河芸の歩み~平成17年~

2009-03-16 09:08:28 | 河芸の歴史

平成17年
    3月 公共下水道事業影重ポンプ場完成


    6月 千里ヶ丘小学校体育館改築工事着工
   12月 河芸町閉町式

(写真は、閉町式で降納される河芸町旗です。)


(広報かわげから)

河芸の歩み~平成16年~

2009-03-16 08:43:31 | 河芸の歴史

平成16年
    4月 町民バス「スマイルGO(号)」運行開始
        かわげスポーツクラブ発足
        プラスチックごみの分別収集スタート
    7月 河芸町個人情報保護条例施行
   10月 河芸町50周年記念式典
   11月 津地区合併協議会合併協定調印式

(写真は、合併調印後に握手する市町村長さん方です。)


スマイルGOスタート 町民バスの運行

平成16年4月から町民バス「スマイルGO(号)」の運行が始まりました。

運行日は火・水・金曜日の週3回で、マイクロバスとワゴン車の2台で運行し、運行路線はほほえみセンターを起点に、2路線を走っています。

この町民バスの名称は、河芸町の町民バスとしてふさわしい愛称を住民に公募し決定しました。

その中でも「スマイルGO(号)」という声が一番多く、また町民バスが「ほほえみ(スマイル)へと続く、笑顔で楽しく乗車できるバスにしてほしい」「河芸のみんながニコニコ笑顔で過ごせるように」という願いを込めて名づけられました。


(河芸町制施行50周年記念誌及広報かわげから)

河芸の歩み~平成15年~

2009-03-16 08:35:19 | 河芸の歴史

平成15年
    1月 津地区合併協議会が発足
    4月 公共下水道事業影重ポンプ場工事着工

(写真は、現在の影重ポンプ場です。)

    8月 7代目町長に長谷川政春氏当選
   11月 中勢北部サイエンスシティが内閣府の「複合型産業集積特区」に認定される
 
(河芸町制施行50周年記念誌から)