古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

古事記、本牟智和気王(ほむちわけのみこ)の説話について─啞をめぐって─

2020年06月23日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 古事記の垂仁天皇条に載る本牟智和気王(ほむちわけのみこ)の話は、啞者の御子にまつわる不思議な物語である。本稿では、その話の展開を見ながら、当時の人々が共有していたであろう観念をヤマトコトバに探究し、難訓箇所とされる真福寺本に記載の「於思物言而加思尓勿言事」という字面を解明する。

 故、其の御子[本牟智和気王]を率(ゐ)て遊びし状(さま)は、尾張の相津に在る二俣榲(ふたまたすぎ)を二俣小舟(ふたまたをぶね)に作りて、持ち上り来て、倭の市師池(いちしのいけ)・軽池(かるのいけ)に浮かべて、其の御子を率て遊びき。然るに是の御子、八拳鬚(やつかひげ)心前(こころさき)に至るまで真事とはず。故、今高く往く鵠(くくひ)の音(ね)を聞きて、始めてあぎとひす。爾(ここ)に山辺之大鶙(やまのべのおほたか)を遣はして其の鳥を取らしむ。故、是の人其の鵠を追ひ尋ねて、木国(きのくに)より針間国(はりまのくに)に到り、亦追ひて稲羽国(いなばのくに)に越え、即ち旦波国(たにはのくに)・多遅摩国(たぢまのくに)に到り、東の方に追ひ廻りて、近淡海国(ちかつあふみのくに)に到り、乃ち三野国(みののくに)を越え、尾張国より伝ひて科野国(しなののくに)に追ひ、遂に高志国(こしのくに)に追ひ到りて、和那美(わなみ)の水門(みなと)に網を張り、其の鳥を取りて持ち上りて献る。故、其の水門を号けて和那美の水門と謂ふ。亦、其の鳥を見れば、於思物言而加思尓勿言事。(垂仁記)

 垂仁天皇の御子、本牟智和気王は、天皇と沙本毘売命(さほびめのみこと)との間にできた皇子である。沙本毘売命は実兄の沙本毘古王(さほびこのみこ)とともに反乱を起こした。鎮圧されて母は亡くなっている。天皇は妻を殺した。御子にとっては自分の母親を殺したのが父親の天皇である。心理的に難しいものがある。仲良くするために、尾張にあった二俣榲を二俣小舟に作って倭の市師池、軽池に浮かべ、一緒に舟遊びをしている。ところが、御子は心を開くことなく、髭が胸に達するほどになるまで言葉が出なかった。心配した天皇は、空を飛ぶ白鳥の声を聞いて御子が口をパクパクさせたので、山辺大鶙という人物に命じてその鳥を追わせた。彼は諸国をめぐって末、ようやく捕えて献上した。しかし、その鳥を見ても御子は物言うことはなかった。
 この話は続いて、悩んだ天皇は夢に、宮が修理されて天皇の御殿のようになれば、必ず言葉を発するでしょうというお告げを受ける。太占で占ってみると、出雲大神の祟りであるとわかった。そこで御子を詣でさせるに当たり、占いにしたがって曙立王(あけたつのみこ)を副わせることにした。いろいろと誓約(うけい)を試みてみると、ことごとく誓約どおりに物事が起こった。そこで、曙立王と菟上王(うなかみのみこ)をお伴にして紀伊国に通じる木戸から出て出雲へ旅立ち、赴くところごとに品遅部(ほむちべ)を定めた。
 出雲大神を拝んだ後、肥川の中洲に黒い樔橋を作ってそれを仮宮として休んでいた。すると、土豪の岐比佐都美(きひさつみ)が来て、青葉の茂る山の形の飾り物をその川下に立てて神に食事を捧げようとしていた。御子が仰ったことには、「この川下の青葉の山のようなのは、山のようで山ではない。もしや出雲の石𥑎(いはくま)の曽宮(そのみや)に鎮座されている葦原色許男大神(あしはらしこおのおおかみ)を祭るために仕えている神官の祭場ではないのか」と問いかけられた。お伴は喜び、御子を檳榔(あぢまき)の長穂宮にお迎えして、天皇へ駅使を走らせた。そこで御子は肥長比売(ひながひめ)と一夜の契りを結んだ。覗いてみると蛇だったので恐くなって逃げた。肥長比売はひどいじゃないかと海原を照らして船で追いかけてきた。ますます恐くなって船を山に引き上げて倭へ逃げ帰った。復命すると天皇は喜び、菟上王を出雲に再び送って神宮を造らせた。また、この御子のために、鳥取部(ととりべ)・鳥甘部(とりかいべ)・品遅部・大湯坐(おおゆえ)・若湯坐(わかゆえ)を定めた。話の焦点は、啞と鵠と遠い出雲国である。
 それに対照する紀の記述は簡潔で、記の前半が多少変わって完結している。

 二十三年の秋九月の丙寅の朔丁卯に、群卿(まへつきみたち)に詔して曰はく、「誉津別王(ほむつわけのみこ)は、是生年(うまれのとし)既に三十(みそとせ)、八掬髯鬚(やつかひげ)むすまでに、猶泣(いさ)つること児(わかご)の如し。常に言(まことと)はざること、何由ぞ。因りて有司(つかさつかさにみことおほ)せて議れ」とのたまふ。冬十月の乙丑の朔壬申に、天皇、大殿の前に立ちたまへり。誉津別皇子侍り。時に鳴鵠(くくひ)有りて、大虚(おほぞら)を度(とびわた)る。皇子仰ぎて鵠(くくひ)を観(みそなは)して曰はく、「是何物ぞ」とのたまふ。天皇、則ち皇子の鵠を見て言(あぎと)ふこと得たりと知しめして喜びたまふ。左右(もとこひと)に詔して曰はく、「誰か能く是の鳥を捕へて献らむ」とのたまふ。是に、鳥取造(ととりのみやつこ)の祖(おや)天湯河板挙(あめのゆかはたな)奏(まを)して言(まを)さく、「臣(やつこ)必ず捕へて献らむ」とまをす。即ち天皇、湯河板挙板挙、此には拕儺(たな)と云ふ。に勅して曰はく、「汝(いまし)是の鳥を献らば、必ず敦く賞(たまひもの)せむ」とのたまふ。時に湯河板挙、遠く鵠の飛びし方を望みて、追ひ尋(つ)ぎて出雲に詣(いた)りて、捕獲(とら)へつ。或(あるひと)の曰く、「但馬国に得つ」といふ。十一月の甲午の朔乙未に、湯河板挙、鵠を献る。誉津別命、是の鵠を弄びて、遂に言語(ものい)ふことを得つ。是に由りて、敦く湯河板挙に賞す。則ち姓を賜ひて鳥取造と曰ふ。因りて亦鳥取部(ととりべ)・鳥養部(とりかひべ)・誉津部(ほむつべ)を定む。(垂仁紀二十三年)

 30歳になってひげが長く伸びているのに、誉津別王は言葉が出なかった。二十三年九月に群卿に諮問してみたが特にいいアイデアはなかったようである。翌十月、天皇の御前で、空を鳴きながら飛んでいく白鳥を観た誉津別皇子が、「是何物ぞ」と言ったので、天湯河板挙に命じて後を追わせ、出雲国、あるいは但馬国で捕獲する。十一月に献上したところ、誉津別命はその鵠を弄び、最後には物を言うことができた。その功績により、湯河板挙には賜物が下され、また、鳥取造という姓が与えられた。鳥取部・鳥養部・誉津部が定められたのもこの時であるという。
 紀で鵠を見ただけで言葉を話したが、記では、鵠を見ただけでは言語障害は治らなかった。和那美之水門に網を張って鵠を捕まえ、献上したものの、言葉が話せるようにはなっていない。その部分を記す原文に次のようにある。

……亦見其鳥者於思物言而加思尓勿言事……
(真福寺本古事記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1184138/24をトリミング)
 訓みにくいから字句に誤りがあると考え、「亦見其鳥者於思物言而如思尓勿言事」であるとし、今日の各種の訓みが行なわれている。例えば、倉野1963.に、「またその鳥を見たまはば、物言はむと思ほせしに、思ほすが如くに言ひたまふ事なかりき。」(111頁)、尾崎1966.に、「またその鳥を見たまはば物言はむと思ほして、思ほすがごと言ひたまふ事なかりき。」(382頁)、尾崎1972.に、「亦其の鳥を見ば、物言はむと思ほすに、思ほすがごと事はず。」(158頁)、西宮1979.に、「また、その鳥を見たまはば物言はむと思ほすに、思ほすがごとく言ひたまふ事なかりき。」(149頁)、次田1980.に、「またその鳥を見たまはば、物言はむと思ほししに、思ほすが如く言ひたまふことなかりき。」(116頁)、思想大系本古事記に、「またトりモノはむトおモほせししかおモほすがゴトコトくありき。」(167頁)、西郷2005.に、「亦其の鳥を見たまはば、物言はむと思ほせしに、思ほすが如くに言ひたまふ事かりき」(317頁)、中村2009.に、「また其の鳥をば、物言はむと思ほすに、おもほすがごとく言ふことし。」(126~127頁)、新校古事記に、「またとりば、ものはむとおもほししに、しかおもほししごとくには、ことし。」(90頁)などである。新編全集本古事記に至っては、「亦見其鳥者於思物言非如思無物言事」に改竄し、「またの鳥を見ば、ものはむと思ひしに、思ひしが如くあらず、物言ふ事無し」(206頁)と訓んでいる(注1)。これら意改の元凶は、本居宣長・古事記伝である(注2)
 御子を舟遊びに連れ出している。新編全集本古事記の頭注に、「この舟遊びは、物が言えない御子を癒すためというわけではない。もしそうならば、「是の御子…真事とはず」の文がこの文より先行するはず。」(205頁)とする。その点は正しいであろう。紀にはよく似た記事がある。

 [履中]天皇、両枝船(ふたまたぶね)を磐余市磯池(いはれのいちしのいけ)に泛べたまふ。皇妃(みめ)と各分ち乗りて遊宴(あそ)びたまふ。(履中紀三年十一月)
 六十二年の夏五月に、遠江国司、奏上言(まを)さく、「大きなる樹有りて、大井河より流れて、河(かは)曲(くま)り停れり。其の大きさ十囲(とうだき)。本は壱(ひとつ)にして末は両(またまた)なり」とまをす。時に倭直吾子籠(やまとのあたひあごこ)を遣して船に造らしむ。而して南海(みなみのみち)より運(めぐら)して、難波津に将(ゐ)て来りて、御船に充てつ。(仁徳紀六十二年五月)

二股になった大木を刳り抜いて作った船ではないかと考えられる。場所と樹種が指定され、「在於尾張之相津二俣榲」となっている。榲はスギのことで、まっすぐに伸びるのが本当のところ、途中で見事に分かれたと言いたいものと思われる。
 記紀に共通する点は、Y字かV字かの形の刳抜船を浮かべたのは市磯池ないし軽池という溜め池らしいこと、そんな舟に乗ることはとても楽しい舟遊びであって二人の仲がとても良くなるらしいことである。すると、記に載る舟遊びは、垂仁天皇と本牟智和気王との仲を良くする方向へと導くための方途であったと考えられる。なにしろ舟の進む形は逆Y(V)字方向である。二つが一つになること、本来の形の一つになることを象徴している。二人の関係は気まずいものであった。御子にとっては自分の母親を、父親である天皇によって殺されている。憎しみを抱いても不思議ではない。記紀のなかの同様の話としては、安康天皇が皇后に迎え入れた長田大郎女(ながたのおおいらつめ)=中蒂姫皇女(なかしひめのひめみこ)(長田皇女(ながたのひめみこ))の話がある。安康記・安康紀ないし雄略紀には、天皇が彼女の夫であった大日下王=大草香皇子(おおくさかのみこ)を殺して略奪結婚したのであり、元夫との間には目弱王(まよわのみこ)=眉輪王(まよわのおおきみ)があった。その事実を知った少年は、安康天皇を殺したとある。実の父の敵という訳である。
 二俣榲・二俣小舟とある二俣という言葉には、二股を掛けるというように、あちらに付きこちらに従い、どちらにも構えることを指す。その場合、気持ちの上で、相反する両者のどちらにも決め難いことを示している。片方が浮気というのではなく、両方とも本気なのである。垂仁記で二俣小舟に乗った本牟智和気王は、母親が沙本毘売(さほびめ)で、天皇と兄の沙本毘古(さほびこ)と、どちらに付いたらいいか決めきれなかった人物であった。履中紀の場合の「皇妃」とは、履中紀元年七月条に「葦田宿禰が女(むすめ)黒媛を立てて皇妃とする」とある黒媛のことである。ところが、「皇妃」という書き方は紀において他に例がない。続けて、「次妃(つぎのみめ)幡梭皇女(はたびのひめみこ)」とあって、五年九月に黒媛が亡くなった後、「草香幡梭皇女(くさかのはたびのひめみこ)を立てて皇后(きさき)とす」(六年正月)とある。履中天皇は心から二股を掛けていて、当初皇后を決めかねていたということを表わしている。
 そんな二俣小舟を、市磯池や軽池といった溜め池に浮かべている。人工的に作られた貯水池である。下二段活用の動詞タム(溜)には次のような用例がある。

 …… 帯にせる 明日香の川の 水脈(みを)速み 生(む)し溜め難き 石枕 蘿(こけ)生すまでに ……(万3227)

同音の下二段活用の動詞タム(矯・揉)は、意に沿わせてたわめたり曲げたり真っ直ぐにしたりすることをいう。万葉集の例では、地名の多武峰との掛け詞として使われている。

 ふさ手折(たを)り 多武(たむ)の山霧 茂みかも 細川の瀬に 波の騒ける(万1704)

 和名抄に、「檠〈揉字附〉 野王案に、㯳〈音は敬、又、音は鯨、由美多女(ゆみため)〉は弓弩を正す所以也とす。四声字苑に云はく、揉〈人久反、字は亦、煣に作る、訓みは太无(たむ)〉は火を以て申木を屈する也といふ。」とある。ユミタメは、また、ユダメともいい、弓の弾力を整えるために、伸びている弓幹(ゆがら)を矯めて反らせたり、逆に曲がりすぎているのを矯正するための道具のことである。条件に適合するように矯正することが、タムという動詞の意味である。
 したがって、溜め池で二俣小舟に乗って遊ぶのは、懐柔の策としての役割を果していることがわかる。垂仁記で本牟智和気王を率いて遊んだことで、御子は自らの母を殺した天皇に対し反抗することはなくなったわけである。ところが、どうも腑抜けになってしまったらしく、鬚が胸に届くまでに伸びても口が聞けなくなってしまった。そこで、どうしたら話せるようになるか、模索されることになった。「然、是御子、八拳鬚至于心前、真事登波受。」の「然」について、新編全集本古事記に、「『記』の「然」はほとんどが逆接に用いられるが、ここでは逆接とは認めがたいので、シカクシテと読む。さて、ところでの意。」(205頁)とある。しかし、手なづけてうまくいくはずだったところが、変な形でうまくいかなかったという意味だから、シカルニの訓のほうがふさわしい。躾は大事なことであるが、きつくやり過ぎると、ひがみ、すねて、いじけてしまう子が出てくる。
 そして、「今聞高往鵠之声、始為阿芸登比。」たことから、鵠を捕まえてきて見せようとした。新撰字鏡に、「鵠 久々比(くくひ)、又古比(こひ)」、和名抄に、「鵠 野王案に曰く、鵠〈胡篤反、漢語抄に古布(こふ)と云ひ、日本紀私記に久々比(くくひ)と云ふ〉は大鳥也といふ。」とある。「白鵠(くくひ)」(出雲風土記秋鹿郡)ともあって、白鳥のことである。古語としては、ククヒ、コフ、コヒ、クビ、クヒなどと言ったらしい。

 ひさかたの 天の香具山 鋭喧(とかま)に さ渡る鵠(くび) 弱細(ひはぼそ) 撓(たわ)む腕(がひな)を 枕(ま)かむとは ……(景行記、記27)

 「斗迦麻邇佐和多流久毘」の「久毘(くび)」は鵠の古語の一名とされる。オオハクチョウは140cm、コハクチョウは120cmほどである。列島には冬に越冬のため飛来し、湖沼、河川、内湾、河口などに見られる。甲高い声でコォー、ホゥーと鳴き、雌雄のディスプレイ時に激しく鳴き交す。
ハクチョウの鳴き交わし(秋田市、Hideyuki Endo様https://www.youtube.com/watch?v=lNme0sigcoM&app=desktop)
 古語は、鳴き声を模した以外に、頸を上に持ち上げて鳴くところからの命名であることを匂わせる。この、鵠が頸を上に向けて口を開いて鳴く様子は、魚が水面で口をパクパク開閉させる仕種と似ている。赤子が母親に抱かれながらその顔を見上げて片言でものを言おうとする仕種とも似る。それらを表わす動詞は、アギトフで、アギ(顎)+トフ(問)の意味である。和名抄に、「嬰児 唐韻に云はく、孩〈戸来反、弁色立成に嬰児は美都利古(みどりご)と云ふ〉は始めて生れし小児也といふ。顔氏家訓に云はく、嬰孩〈師説に阿岐度布(あぎとふ)〉といふ。」とある。垂仁紀の「言」のほか、魚が酔って水面で口をパクパクさせることを、「噞喁」(神武前紀戊午年九月)、「傾浮」(仲哀紀二年六月)と記す。すなわち、アギトフとは、口を上にして動かす動作である。垂仁記の「故、今聞高往鵠之音、始為阿芸登比阿下四字以音。」、垂仁紀の「時有鳴鵠、度大虚。皇子仰観鵠曰、是何物耶。天皇則知皇子見鵠得一レ言而喜之。」とあるとおり、御子(皇子)は上空を飛ぶ鵠のほう、つまり、上を向いてアギトフことをしている。鵠を捕まえてくれば、それを真似してもっと上手にアギトフことをしてくれるのではないかというのが、垂仁天皇の親心であった。
 しかし、記ではそうはならなかった。難訓部分の前の文に、「遂に高志国に追ひ到りて、和那美の水門に網を張り、其の鳥を取りて持ち上りて献る。故、其の水門を号けて和那美の水門と謂ふ。」というおかしな表現が行なわれている。ワナミノミナトに網を張って鵠を取ってきた。だからその地をワナミノミナトと号けたという。地名譚に仕立ててある。西郷2005.に、「ワナミは羂網ワナアミの約、したがって必ずしもワナミという地名があったということではなく、網にかけて鵠を捕えたのをこのように表出したものと思われる。」(321~322頁)、新編全集本古事記に、「地名ワナミの起源を、「罠網(わなあみ)」の意として説いたもの。」(205頁)などとある。一般に、ワナ(罠)+アミ(網)→ワナミであることを物語っているのであるとされ、この時のできごとによって「号」けられたと考えられている。本当にそうであろうか。
 「号」けたとする地名譚の一般的な例としては、Aという地で何か事件が起こった、というのもその出来事にちなんでAと号けられたからだ、ないし、A´と号けられたのが訛って現在のAという地名になっている、といった説明が行なわれる。記において、「故、……を号けて……と謂ふ。」と記される地名譚を列挙すると次のようになる。

 此の時に、登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)、軍を興し待ち向へて戦ひき。爾くして、御船に入れたる楯を取りて、下り立つ。故、其地(そこ)を号けて楯津(たてつ)と謂ふ。今には、日下(くさか)の蓼津(たでつ)と云ふ。(神武記)
 其地より廻り幸して、紀国の男之水門(をのみなと)に到りて、詔ひしく、「賤しき奴が手を負ひてや死なむ」と、男建(をたけ)び為て崩(かむあが)りましき。故、其の水門を号けて男水門(をのみなと)と謂ふ。(神武記)
 〈其の河を佐韋河(さゐがは)と謂ふ由は、其の河の辺に山ゆり草多(あま)た在り。故、其の山ゆり草の名を取りて佐韋河と号けき。山ゆり草の本の名は佐韋(さゐ)と云ふ。〉(神武記)
 山代国の相楽(さがらか)に到りし時に、樹の枝に取り懸(さが)りて死なむと欲ひき。故、其地を号けて懸木(さがりき)と謂ひき。今、相楽と云ふ。又、弟国(おとくに)に到りし時に、遂に峻(さが)しき淵に堕(お)ちて死にき。故、其地を号けて堕国(おちくに)と謂ひき。今、弟国と云ふ。(垂仁記)
 是に、山代の和訶羅河(わからがは)に到りし時に、其の建波邇安王(たけはにやすのみこ)、軍を興して待ち遮(さ)へき。各(おのもおのも)中に河を挟みて、対(む)き立ちて相挑みき。故、其地を号けて伊杼美(いどみ)と謂ふ。〈今は伊豆美(いづみ)と謂ふぞ。〉(崇神記)
 故、其の軍、悉く破れて逃げ散りき。爾くして、其の逃ぐる軍を追ひ迫めて、久須婆(くすば)の度(わたり)に到りし時に、皆迫め窘(たしな)めらえて、屎出で、褌(はかま)に懸りき。故、其地を号けて屎褌(くそばかま)と謂ふ。〈今は久須婆(くすば)と謂ふ。〉又、其の逃ぐる軍を遮へて斬れば、鵜の如く河に浮きき。故、其の河を号けて鵜河(うかは)と謂ふ。亦、其の軍士(いくさ)を斬りはふりし。故、其地を号けて波布理曽能(はふりその)と謂ふ。(崇神記)
 爾くして、即ち其の咋ひ遺せる蒜の片端を以て、待ち打ちしかば、其の目に中(あ)てて乃ち打ち殺しき。故、其の坂に登り立ちて、三たび歎きて詔ひて云ひしく、「あづまはや」といひき。故、其の国を号けて阿豆麻(あづま)と謂ふ。(景行記)
 故、還り下り坐して、玉倉部の清泉(しみづ)に到りて息ひ坐しし時に、御心、稍(やをや)く寤(さ)めき。故、其の清泉を号けて居寤清泉(ゐさめのしみづ)と謂ふ。其処(そこ)より発ちて、当芸野(たぎの)の上に到りし時に、詔ひしき、「吾が心、恒に虚(そら)より翔り行かむと念ふ。然れども、今吾が足歩むこと得ずして、たぎたぎしき成りぬ」とのりたまひき。故、其地を号けて当芸(たぎ)と謂ふ。其地より差(やや)少し幸行(いでま)すに、甚だ疲れたるに因りて、御杖を衝きて、稍く歩みぬ。故、其地を号けて杖衝坂(つゑつきさか)と謂ふ。……其地より幸して、三重村(みへのむら)に到りし時に、亦、詔ひしく、「吾が足は、三重に勾れるが如くして、甚だ疲れたり」とのりたまひき。故、其地を号けて三重と謂ふ。(景行記)
 是に八尋(やひろ)の白ち鳥と化(な)り、天に翔りて、浜に向ひて飛び行きき。……故、其の国より飛び翔り行きて、河内国の志幾(しき)に留りき。故、其地に御陵(みはか)を作りて鎮め坐(いま)せき。即ち、其の御陵を号けて白鳥御陵(しらとりのみはか)と謂ふ。(景行記)
 ……筑紫国に渡るに、其の御子、あれ坐(ま)しき。故、其の御子の生みし地(ところ)を号けて宇美(うみ)と謂ふ。(仲哀記)
 亦、其の入鹿魚(いるか)の鼻の血、臰(くさ)し。故、其の浦を号けて血浦(ちぬら)と謂ひき。今は都奴賀(つぬが)と謂ふ。(仲哀記)
 故、訶和羅之前(かわらのさき)に到りて沈み入りき。故、鉤を以て其の沈みし処を探れば、其の衣の中(うち)に甲(よろひ)繋(かか)りて、訶和羅(かわら)と鳴りき。故、其地を号けて訶和羅前と謂ふ。(応神記)
 是に大后、大きに恨み怒りて、其の御船に載せたる御綱柏(みつながしは)をば、悉く海に投げ棄(う)てき。故、其地を号けて御津前(みつのさき)と謂ふ。(仁徳記)
 爾くして、席(むしろ)の下に置ける剣を取り出して、其の隼人が頸を斬りて、乃ち明日(あす)に上り幸き。故、其地を号けて近飛鳥(ちかつあすか)と謂ふ。倭に上り到りて、詔ひしく、「今日は此間(ここ)に留りて、祓禊(みそぎ)を為て、明日参ゐ出でて、神宮を拝まむ」とのりたまひき。故、其地を号けて遠飛鳥(とほつあすか)と謂ふ。(履中記)
 此の時に呉人、参ゐ渡り来たり。其の呉人を呉原に安置(お)きき。故、其地を号けて呉原と謂ふ。(雄略記)
 爾くして、𧉫(あむ)御腕(みただむき)を咋ひしに、即ち蜻蛉(あきづ)来て、其の𧉫を咋ひて飛びき。是に御歌を作りき。其の歌に曰はく、「…… 手腓(たこむら)に 𧉫掻き着き 其の𧉫を 蜻蛉早咋ひ ……(記96)」故、其の時より、其の野を号けて阿岐豆野(あきづの)と謂ふ。(雄略記)
 其の歌に曰はく、「媛女の い隠る岡を 金鉏(かなすき)も 五百箇(いほち)もがも 鋤き撥(ば)ぬるもの(記98)」故、其の岡を号けて金鉏岡と謂ふ。(雄略記)

 すべては、由来としてほんまかいなというお話(噺・咄・譚)である。問題のワナミノミナトという地名の地名譚には、上の例にない違和感がある。諸説のとおりに罠網のことを伝えたいのだとすれば、「和那美の水門に罠の網を張り、其の鳥を取りて、持ち上りて献りき。故、其の水門を号けて和那阿美(わなあみ)の水門と謂ふ。今、和那美と云ふ。」という記し方が行なわれてよいはずである。ワナミノミナトという既存の地名の説明に合致するように、たまたま当該事が起こったからであるとする可能性もないではないが、そのようなときには太安万侶自身が納得して次のような記し方をしている。

 南の方より廻り幸しし時に、血沼海(ちぬのうみ)に到りて、其の御手の血を洗ひき。故、血沼海と謂ふぞ。(神武記)
 爾くして東の方より遣(つかは)さえし建沼河別(たけぬなかはわけ)と其の父大毘古(おほびこ)とは、共に相津(あひづ)に往き遇ひき。故、其地は相津と謂ふぞ。(崇神記)

 「故、号……謂……也。」のように「号」とは記さず、ただ「故、謂……也。」としている。逆に言えば、「故、号……謂……也。」と御大層に表現していることは、ワナミ≒アミ、ないし、ワナミ≠アミであると、意図的に曖昧化するための言い方であると言える。その理由は、網の形態が罠とは呼べないものか、罠という言葉を使いたくないような話をするに当たり、もったいをつけたかったからであろう。その時のできごとが地名を説明するなぞなぞ話なのではなく、反対に、地名ができごとを説明するための謎掛け話であることを表わしている。そしてそれは、出来事と地名との関係が原因と結果の関係にあるのではなく、互いに呼応し、連関しあう関係にあると捉えられていたことを示唆してくれている。言葉と事柄とが同一であるとする言霊信仰とは、事柄があったから言葉があるのでもあり、言葉があるから事柄があるのでもあり、その両者がない交ぜになっている状態そのもののことを指している。
 では、「於和那美之水門張網」というアミとはどのようなものであったか。アミについて、和名抄には用途別、対象別に記されている。

 罘網〈紭附〉 纂要に云はく、獣網は罘〈音は浮〉と曰ひ、麋網は罠〈武巾反〉と曰ひ、兎網は罝〈子耶反、已上、訓は皆、阿美(あみ)〉と曰ふといふ。文選注に紭〈戸萌反、訓は乎(を)、又、■(言偏に罡)と同じ〉は罘の䌉也とす。
 網罟 広雅に云はく、罟〈音は古、阿美(あみ)〉は漁網也といふ。
 鳥羅 爾雅に云はく、罟は羅〈度利阿美(とりあみ)〉を曰ふといふ。

 鵠という鳥を捕まえたのだから、「鳥羅」であると考えたいところである。蔀関月・日本山海名産図会に、カモ類を獲る方法として、高縄、霞網のほか、無双返しという方法が紹介されている。「又一法無双がへしといふあり、是摂州嶋下郡鳥飼にて鳧を捕る法なり、昔はおふてんと高縄を用ひたれども、近年尾州の猟師に習ひてかへし網を用ゆ、是便利の術なり、大抵六間に幅二間許の網に、二拾間斗の綱を付て水の干潟、或は砂地に短き杭を二所打、網の裾の方を結び留め、上の端には竹を付け、其竹をすぢかいに両方へ開き、元打たる杭に結び付、よくかへるようにしかけ、羅、竹、縄とも砂の中によくかくし、其前をすこし掘りて窪め、穀稗こめひえなどを蒔きて鳥の群るを待て、遠くひかへたる網を二人がかりにひきかへせば、鳥のうへに覆いて一つも洩らすことなく、一挙数十羽を獲るなり、是を羽を打ちがひにねぢて、堤などにはなつとぶことあたはず、是を羽がひじめといふ、鴈を取るにも是を用ゆ、されども砂の埋やう、餌のまきやうありて、未練の者は取獲がたし、」(国文学研究資料館・新日本古典籍総合データベースhttp://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100249892/viewer/53、漢字の旧字体等は改め、ルビの多くは割愛した。)
「津国無双返鳬羅」(日本山海名産図会、国文学研究資料館・新日本古典籍データベースhttp://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100249892/viewer/56をトリミング)
 これは、ワナミ=ワナ(罠)+アミ(網)と説明するにはもってこいの仕掛けである。ワナの原義は、輪にしたところに獲物の足や首を入れさせて、締めることで獲ることによるともされている。新撰字鏡に、「𥥾 古去反、上、繋也、挂也、和奈(わな)」、和名抄に、「蹄 周易に云はく、蹄は兎を得る所以也、故に兎を得て蹄〈師説に和奈(わな)、今、即ち牛蹄、馬蹄也と案ふ、玉篇に見ゆ〉を忘るといふ。」とある。さらに、和名抄には、「弶 四声字苑に云はく、弶〈其高反、漢語抄に久比知(くひぢ)と云ふ〉は獣を取る械也といふ。」とある。クヒなる音が現れている点は興味深い。寺島良安・和漢三才図会には、「弶 和名は久比知(くひぢ)、今案ずるに和奈(わな)を云ふ。……弶は四声字苑に云はく、獣を取る械也といふ。字彙に云はく、弶は罟を道に設けて以て其の足を掩ふといふ。故に蹄と曰ふ。……按ずるに、狐弶は弾弓(はじきゆみ)を作りて油熬鼠(あぶらあげねずみ)を用ゐ、機械の中に置く。則ち香を喜び来りて終に弶に係る。狗弶は縄を結びて輪の形に為(し)、前に餌を置く。則ち食はむと欲し頸を入れば弶は則ち縮みて解けず。」と説明されている。
罠網類(倭漢三才図会、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1772984/218をトリミング結合)
アイヌの罠(沿海地方、木製、19世紀、黒龍江地学協会寄贈、東博展示品)
 ところが、「水門」に網を張ったとある。ミナト(水門・港・湊)は、水の入り込んでいる所で、船の出入りできる河口や湾口、海峡などを指す。和名抄に、「湊 説文に云はく、湊〈音は奏、和名は美奈度(みなと)〉は水上に人の会(つど)ふ所也といふ。」とある。どうしても、網は水の中に張ったことになる。日本山海名産図会の無双返しは陸上である。水中に張る網は、ふつうは魚を捕まえるための漁網、和名抄にいう「網罟」のことである。仕掛けておいて翌朝引き上げに行くことも多い。捕まった魚は、網のなかでアギトフているであろう。事の次第は、御子がアギトフことにあるのだから、そうあらねばならない。同じように、水中に仕掛けて鳥を獲る方法について、『八郎潟の漁撈習俗』に次のように記されている。

 かも刺網(かも網)……
〔対象〕かも。
〔期間〕解禁(十一月から)期間中。
〔由来と変遷〕霞が浦から伝えられたといっているが、おそらく八郎潟では明治末期か大正初期のころがそのはじまりであろう。八郎潟では鴨がおびただしい群をなしているし、これを捕獲しなかったはずはないがまだその記録に接しない。『絹篩』によれば「白鳥・雁を取るなり」として「輪縄差」の方法を紹介している。また白鳥については江戸時代初期にすでに何らかの方法でつかまえているし、中世末期の資料に散見する白鳥献上の事実からして、鴨を相手どっての狩猟方法があったであろうことは考えておいてよい。
〔方法〕刺網による鴨猟を行なうためには、狩猟免許が必要で、かもが餌になる魚を求めて水中を泳ぎ回るときにひっかかるという珍しい猟法である。一把二十尋(ひろ)もあるものを、多く使用するときは十把にもおよぶ。これを一直線状に水底にさす。猟場は湖岸から一〇〇メートル以上の沖合で、漁網の両端にだけ杭をフル(突き立てる)。しかもその杭はできるだけ短くして水面上三〇センチメートル程度しかあらわさない。盗難やいたずらを避けるためである。なお網はアバカタ(浮子部)とアシカタ(沈子部)とのつり合いがとれて当然水中に垂直にはられている。網をさすのは夕方で、他の刺網と同様早朝にひきあげる。刺網でとれた鴨は味が落ちるので猟銃でとったものより安価である。(139~140頁)
網を仕掛ける(八郎潟漁撈習俗、文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/170275/2#content_header)
 嘉永五年(1852)に記された鈴木平十郎重孝・絹篩には、次のようにある。

輪縄差 白鳥、雁を取るなり。寒中湖一面に氷リて餌を求る処なし、然るに八龍堂の近処に湯の出る所有り、其処氷リ薄きと云。切りぬき穴口にして其中に這入て輪縄をさし、白鳥群り来りて餌を求めんとて輪へ首筋をひつかくるを遥に見ぬいて走り行き棒を持て叩き取るなり。今其業する者なし。白鳥は藻の根、蜆を餌とす。(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1174015/112、漢字の旧字体等は改めた。)

「刺網でとれた鴨は味が落ちる」とあるのは、もがいて消耗するからであろう。鵠であっても、水中の網にかかれば苦しみながら溺死したであろう。輪縄差は罠というに値するが、刺網の場合は罠仕立てではない。記に、「於和那美之水門網」とあっただけで、罠仕立てであるとは特筆されていないから、刺網と張ったということであろう。ワナミという地名につられて、勝手に罠のことに思い及んだのは早とちりであるらしい。
 この推論が正しいことは、記に鵠を捕まえに派遣された人物の名から確かめられる。「山辺之大鶙」とある。姓が山辺とある。山近くの人が、慣れない水辺に赴いている。記紀には、山の猟と海の漁との勝手の違いにまつわる説話が載っている。いわゆる海幸山幸の説話である。

 故、火照命は、海佐知毘古と為て、鰭(はた)の広物・鰭の狭物を取り、火遠理命は、山佐知毘古と為て、毛の麁物(あらもの)・毛の柔物(にこもの)を取りき。(記上)
 兄(あに)火闌降命(ほのすそりのみこと)、自づらに海幸幸、此には左知(さち)と云ふ。有(ま)します。弟(おと)彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、自づからに山幸有します。始め兄弟二人、相謂(かたら)ひて曰はく、「試に易幸(さちがへ)せむ」とのたまひて、遂に相易ふ。各其の利(さち)を得ず。(神代紀第十段本文)

 このような文に始まっている。古代にあっては、山辺に暮らす人々と海辺に暮らす人々では、今日以上に異なる生業が行なわれていたであろう。その山辺という姓にあやかるなら、鵠を捕らえる猟法としては、日本山海名産図会に載る「峯越鳬」の法によったのではあるまいか。記に鵠を捕らえる場所を、「高志国」=越国と設定していた。鳥が山を越えてくるときに峰をかすめてぎりぎりに飛ぶ際、網をもって捕まえることをにおわせている。聞き手の意識を鳥の猟法へ導こうとしていると思われる。

 峯越鴨〈鴨の字はアヒロなり。故に一名水鴨といふ。カモは鳧を正字とす。今俗にしたかふ。〉
 是豫州の山に捕る方術なり。八九月の朝夕鳧の群れて峯を越るに、茅草も翅に摺り切れ高く生る事なきに、人其草の陰に周廻、深さ共に三尺斗に穿ちたる穴に隠れ、羅(あみ)を扇の形に作り、其要の所に長き竹の柄を付て、穴の上ちかく飛来るをふせ捕に、是も羅の縮(ちぢみ)鳥に纒はるゝを捕。尤手練の者ならでは易獲がたし〈但し峯は両方に田のある所をよしとす。朝夕ともに闇き夜を専らとす。網をなづけて坂網といふ。〉。(国文学研究資料館・新日本古典籍総合データベースhttp://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100249892/viewer/53・57、漢字の旧字体等は改め、ルビの多くは割愛した。)
「豫州峯越鳧」(日本山海名産図会、国文学研究資料館・新日本古典籍総合データベースhttp://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100249892/viewer/54をトリミング)
坂網(国立歴史民俗博物館展示パネル)
 むろん、「於和那美之水門網」とあるから、峯越鳬の法にはよらない。すなわち、山辺氏にとってはいつもとは勝手の違う猟法をしたに違いない。そして、名が大鶙とある。今日の分類では、オオタカはタカ目タカ科ハイタカ属で、日本で繁殖するのは亜種オオタカである。古語のオホタカは、タカ科の鳥のなかでも大きなタカ、すなわち、鷲と通称されるものを指したものかもしれない。獲物を捕らえるのは食べるためで、命を奪うのは当然である。特に水鳥を狩る場合、ましてや相手が大きなハクチョウの場合、溺死させる方法が有効である(注3)
お話の中では、鵠は捕らえられた時に死んでしまっている。猟師が鵠を獲るのは食料としてであり、それを献上したのであろうが、天皇としては生け捕りにしてもらうつもりであった。鵠の鳴く声に反応して「あぎとひ」をしたのだから、肉や剥製を献上されても、頸を持ち上げることも鳴き声をあげることもない。御子は動かぬ鵠を前にして、アギトフ真似ができなかった。それがこの逸話の眼目である。
 刺網では、網の両端に、目立たないように短い杭を立てている。新撰字鏡に、「杙 弋字同、餘職反、檝を謂ひし杙、即ち橛也、久比(くひ)、又加止佐志(かどさし)」、和名抄に、「杙〈椓字附〉 文選に云はく、嶻嶭(せつげつ)を椓(う)ちて杙〈餘織反、訓は久比(くひ)、椓、音は琢、訓は久比宇都(くひうつ)、今、俗に杬を以て杙と為るは非ざる也、杭の音は元、木の名也と案ふ、唐韻に見ゆ〉と為すといふ。」とある。文選の引用は、揚雄・長楊賦にある「嶻嶭を椓ちて弋(くひ)と為し、南山を紆(めぐら)せて以て罝(あみ)と為す。(椓嶻嶭而為弋、紆南山以為罝。)」から採られたものである。つまり、ワナミの水門に網を張るとは、水門(港・湊)にある船を繋ぐための杭、舫い杭を使って水中に網を張ったということである。杭(くひ)に張った網に鵠(くひ)がかかった。しかし、溺死してしまい、動かない杭と同じになってしまった。舫い杭は、別名、戕牁(かし)という。和名抄に、「戕牁 唐韻に云はく、戕牁〈贓柯の二音、楊氏漢語抄に加之(かし)と云ふ〉は舟を繋ぐ所以也といふ。」とある。生きている鵠が首の動きを表わすのと対照的に、港の杭は船の首の動きを自由にしない首枷のことを表わしている。拘束具である。和名抄に、「頸 陸詞切韻に云はく、領〈音は冷〉頸〈居井反、久比(くび)〉は頭の茎也といふ。」、「盤枷 唐令に云はく、若し鉗無き者は盤柯〈音は加、日本紀私記に久比加之(くびかし)と云ふ〉を著せといふ。」、新撰字鏡に、「盤 莫香反、又猛音、佐良(さら)、又久比加志(くひかし)」、紀に、「枷(くびかし)」(継体紀二十四年九月・孝徳紀大化五年三月)とある。鵠は枷と化した。
 したがって、最後の難訓部分は、「於思」、「加思」をそれぞれ音で読み、啞(おし)、戕牁(かし)である。記に、音仮名の「思(し)」は見られないが、紀の歌謡には見られ、万葉集でも多く用いられている。

 亦見其鳥者於思物言而加思尓勿言事
 亦、其の鳥[鵠]を見ば、啞(おし)物言ひて、戕牁(かし)に言ふ事勿し。
 また、鵠(くひ)を見たら、啞(おし)は物を言うものだけれど、戕牁(かし)に相当する杭(くひ)のような鵠の死骸に対しては、言うことはないものだ。

 杭は形としては鵠の首に似ているが、御子は動かないクヒを見ても言葉を発する動きを真似ることはできなかった。啞が治らないのは理の当然である。それは戕牁と呼ばれるもので、嵌められれば口など聞けるものではない。この巧みな言い回しを太安万侶は端的に文字に表わしているといえる。
 以上、垂仁記の本牟智和気王という啞の御子の説話をヤマトコトバに読んだ。すべてはヤマトコトバに納得される話(咄・噺・譚)である。言葉だけで事柄を逐一、唯一に伝えていたのである。

(注)
(注1)古典全書本古事記は、「亦見其鳥者於思物言而加思尓勿言事」として、「また、其の鳥を見ては、物はむと思ほすに、思ひを加ふるに、事はず。」(113頁)と訓んでいる。
(注2)「○於思物言而如思爾勿言事、此処諸本いさゝかづゝのカハリありて、同じからず。【はじめの於思二字は、旧印本延佳本には無し。は思字重なれる故に、さかしらに削れる本なるべし。今は真福寺本マタ一本又一本などにあるに依れり。而字は、諸本皆爾の下にあり。たゞ真福寺本にのみ、物言の下にありて、爾の下には無し。如字は、諸本皆加とり。たゞ延佳本にのみ、如とあり。】今は彼を合せエリて、宜しとおぼしきに依れり。【但し於字は心得ず。若は所の誤にて、所思オモホシか爾字も穏ならず。若は念又は者などの誤にてゴト思念オモホスガか、又はゴトオモホスガならむか。】訓は母能伊波牟登於母富斯弖モノイハムトオモホシテ於母富須賀碁登伊比多麻布許登那迦理伎オモホスガゴトイヒタマフコトナカリキと訓べし。於字爾字は訓がたし。【若又於思字無く、而字、爾の下にある本によらば、母能伊波牟登於母富須賀碁登久爾弖モノイハムトオモホスガゴトクニテと訓べし。下は同じ。師は、コトトハスコトオモホスマヽナリシカレドモコトゴトニコトトヒマスコトナシ○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○、と訓れつれどもわろし。延佳も、爾而をシカレドモ○○○○○、事をコトゴトニ○○○○○と訓れど、書ざま然は聞えず。コトは軽く付て云辞の許登コトなるを、語のまゝに書るのみなり。さて勿字は、記中の例いづくも不字の格に用ひたれども、コヽコトと云辞あれば、不字の格には訓がたき故に、ナカリキ○○○○と訓つ。】さて凡ての意は、物言モノイハむとオモほせども、其オモほす如くに賜ふことなきなり。【もし於思二字なき本によるときは、物言むとオモほすさまには見ゆれども、給はぬなり。】さて母能伊布モノイフと云も古言なり。穴穂段にも、宇多弖物云王子ウタテモノイフミコと見え、萬葉十四【二十三丁】に、毛乃伊波受伎爾弖モノイハズキニテ、【四の巻には、物不語来而モノイハズキニテとあり。】十六【九丁】に、物不言先爾モノイハヌサキニなどあり。【師の物言を、コトトハズ○○○○○と訓れたるはいかゞ。物字あれば然は訓がたし。ひたぶるにことゝふをのみ古言とせられしはカタオチなり。】」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/66、漢字の旧字体等は改めた。)
 文中にあるとおり、「加」を「如」とするものは、延佳の鼇頭古事記によっており、兼永本でも「加」に作っている。この個所の校異を詳細に検討する神道大系本古事記に、「「加」は真・兼一致していて、原型であり、延佳が「如」と改めた根拠は不明であるから、「加」のままで訓めるならば、それに従いたいのであるが、資料に乏しい。……当校異の一節は検討を要するところであって、未詳としておくこととする。」(364~365頁、漢字の旧字体は改めた。)としている。
 わからないから誤字だとして解釈した末には、現代人が犯しがちな誤読を展開することになる。例えば、三浦2002.の脚注に次のようにある。

 はじめ、御子の病いの原因は、内在する魂の欠陥によると考え、その魂の宿る肉体を揺さぶることによって病んだ魂を正常化しようとして、御子を特殊な船に乗せたのである。ところがいくら魂を揺さぶっても言語を回復することはなかった。ということは、治療法として魂を揺さぶることは正しい方法ではなかったということになる。そこで別のところに原因が求められるのである。ここにいう「舳先が二俣になった丸木舟」は他にも例があり、揺さぶるという行為はさまざまな場面に描かれている。……船に乗せて御子の魂を揺さぶることによって言語を回復させようとする試みが失敗した後に行われたのは、オオハクチョウを捕まえて、御子に見せることで言語を回復させようとする試みであった。ところが、その二つめの試みも失敗に終わったのである。それはなぜか。先にふれたように、古代の人々にとって、物を言わないという異常が生じる原因は、その人の魂に何らかの障害や欠陥があるからだと考えていた。そして、その障害を除くために、魂への働きかけが行われたのである。船に乗せることで、体の中に宿る魂を揺さぶって活性化させようとしたのであり、それが失敗すると、御子の魂は肉体を離れてしまっているために物が言えないのだと考え、御子の肉体から離れた魂を宿して飛ぶオオハクチョウを捕らえて見せることで、御子の体から脱け出た魂を元の体に戻そうとしたのである。ところが、 そのどちらの試みも成功しなかった。ということは、御子自身の魂の欠陥や魂の遊離によって、その病いが招来されているわけではないのだということになる。つまり、魂に対する人為的な治療行為では癒せない病いとして、御子の物言わぬという状態はあり、その真の原因は、内在的なものではなく、外部からもたらされていると考えるのである。それゆえに、次に語られるように、御子の病いは神の「祟り」によって生じているのだと解釈されるのである。(179~180頁)

 いかにも尤もらしい説明が行なわれている。言葉が出ないことを精神上の疾患と捉えており、その治療法として、魂に対していろいろと働きかけてみたり、それが叶わなければ外的要因の祟りだからそれを除去しようという。西洋医学と文化人類学におけるシャーマニズムの概念をもって包括しようとする考え方である。しかし、この説明は古代の人にとってチンプンカンプンであろう。なぜ揺さぶるのにブランコではなく二俣小舟なのか、なぜ宿して飛ぶのはガンではなくオオハクチョウなのか、なぜ祟っている神は気比大神ではなくて出雲大神なのか。古代における知は、抽象的な観念を構造化することによって成っているわけではなく、それぞれの事柄の具体性のうえに立っている。事柄とはすなわち、言葉のことであるというのが、言霊信仰と呼ばれる古代の人の基本精神なのである。だからこそ、太安万侶らは個々の説話を懸命に書き記し残そうと努めている。それが上代「文学」というものであろう。古事記は、概念ばかり抽出して整理した大学の講義ノートではなく、いわゆるお話(噺・咄・譚)である。
(注3)kouiti simazaki様「オオタカの狩り <コサギ>」https://www.youtube.com/watch?v=kOmTR4Y8b4k参照。

(引用・参考文献)
尾崎1966. 尾崎暢殃『古事記全講』加藤中道館、昭和41年。
尾崎1972. 尾崎知光編『全注古事記』桜楓社、昭和47年。
倉野1963. 倉野憲司校注『古事記』岩波書店(岩波文庫)、1963年。
古典全書本古事記 神田秀夫・太田善麿校註『古事記 下』朝日新聞社、昭和37年。
西郷2005. 西郷信綱『古事記注釈 第五巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2005年。
思想大系本古事記 青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注『日本思想大系1 古事記』岩波書店、1982年。
新校古事記 沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉『新校古事記』おうふう、2015年。
神道大系本古事記 財団法人神道大系編纂会編『神道大系古典編 古事記』同会発行、昭和52年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
次田1980. 次田真幸全訳注『古事記(中)』講談社(講談社学術文庫)、昭和55年。
中村2009. 中村啓信訳注『新版古事記』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成21年。
西宮1979. 西宮一民校注『新潮日本古典集成 古事記』新潮社、昭和54年。
『八郎潟の漁撈習俗』 文化庁文化財保護部編『八郎潟の漁撈習俗』平凡社、昭和46年。
三浦2002. 三浦佑之訳・注釈『口語訳古事記 完全版』文藝春秋、2002年。

※本稿は、2014年10月稿(「垂仁天皇の御子、本牟智和気王(誉津別命)の言語障害の説話」)を2020年6月、2021年9月に整理したものである。

この記事についてブログを書く
« 忍歯王殺害事件について | トップ | 江田船山鉄剣銘を読む 其の一 »