古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

古事記、走水と弟橘比売の物語について 其の一

2021年01月21日 | 古事記・日本書紀・万葉集
走水での弟橘比売

 倭建命(日本武尊、やまとたけるのみこと)は、「相武(相模)国(さがむのくに)」の野火の難に遇った後、走水(馳水)から浦賀水道を越えて行こうとした。ところが波が荒れて船が進まず、弟橘比売(弟橘媛)が人柱、人身御供となって入水したおかげで穏やかになり、先へ進むことができたという話になっている。記紀により少し話しぶりが異なっている。

 其れより入り幸(い)でまして、走水(はしりみづ)の海を渡りたまひし時に、其の渡(わたり)の神、浪を興して、船を廻(もとほ)して進み渡ること得ず。爾に其の后(きさき)、名は弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)、白(まを)したまひしく、「妾(あれ)、御子に易(かは)りて海の中に入らむ。御子は、遣はさえし政(まつりごと)を遂げて、覆(かへりごと)奏(まを)したまふべし」とまをして、海に入りまさむとする時に、菅畳(すがたたみ)八重、皮畳(かはたたみ)八重、絁畳(きぬたたみ)八重を波の上に敷きて、其の上に下(お)り坐しき。是に、其の暴浪(あらなみ)自づから伏(な)ぎて、御船得進みき。爾に其の后、歌ひて曰く、
 さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも(記24)
といふ。故、七日の後、其の后の御櫛(みくし)、海辺に依りき。乃ち其の櫛を取りて、御陵を作りて治め置きき。(景行記)
 亦、相模へ進(いでま)して、上総へ往(みた)せむとす。海を望(おせ)りて高言(ことあげ)して曰はく、「是れ小さき海のみ。立ち跳りにも渡りつべし」とのたまふ。乃ち、海中(わたなか)に至りて、暴風(あらきかぜ)忽(たちまち)に起り、王船(みふね)漂蕩(ただよ)ひて、え渡らず。時に、王に従ひまつる妾(をみな)有り。弟橘媛(おとたちばなふめ)と曰ふ。穗積氏忍山宿禰(ほづみうぢのおしやまのすくね)の女なり。王に啓(まを)して曰(まを)さく、「今風起(ふ)き浪泌(はや)くして、王の船没まむとす。是れ必(ふつく)に海神(わたつみ)の心(しわざ)なり。願はくは賤しき妾(やつこ)の身を、王の命(おほみいのち)に贖(か)へて海に入らむ」とまをす。言(まをすこと)訖りて、乃ち瀾(なみ)を披(おしわ)けて入りぬ。暴風、即ち止む。船(みふね)、岸に著(つ)くこと得たり。故、時の人、其の海を号けて、馳水(はしるみづ)と曰ふ。(景行紀四十年是歳)

 記に、「以菅畳八重、皮畳八重、絁畳八重、敷于波上而、下-坐其上。」とある。この畳という語は、「みちの皮の畳八重を敷き、亦、絁(きぬ)畳八重を其の上に敷き、その上に坐せて」(記上)、「葦原の 穢(しけ)しき小屋(をや)に 菅畳 弥(いや)清(さや)敷きて 我が二人寝し」(神武記、記19歌謡)などともある。「畳」は敷物一般のことを指している。今日の畳は、藺草を泥染めしたものを織って作り、さらに縁布をめぐらせた畳表を、藁を綴じ固めた畳床の上につけたものである。畳という言葉は、歴史的変遷を経てきた。当時のタタミと称されるものは、薄縁と呼ばれる今日の畳表、ないし、イグサ上敷のことを言っていたと考える(注1)
 弟橘比売命は、各種の畳をこれでもかと言わんばかりに八重に敷いている(注2)。紀に登場しない畳が、記にはとても凝った設定のために用いられている。稗田阿礼、太安万侶の伝に、畳というもの自体に意味があって語られていると考えられる。「興浪」に対し、それを収めるのに「畳」が持ち出されている。目には目を、歯には歯を、浪には浪をもって対処しようとしている。タタミの織り方、ないし編み方は、経糸の麻糸を2本ずつ飛ばして緯糸の藺草を通していき、隙間なく硬く叩くように織りあげたものである。経糸が表からも裏からも見えなくなり、整った波模様が全体に続いている。そのきれいな波立ちを穏やかな浪として見て取り、船の進み渡ることができるように変えたと言っているのであろう。
 「其渡神、興浪、廻船、不進渡。」(記)とある。「廻」の古訓にモトホスとある。新編全集本古事記に、「字に即してメグラスと読む。船をぐるぐるまわして先へ進ませないのである。モトホスと読む説では曲線を描きながら先へ進むこととなるので不適切」(227頁)とあるが、モトホス・モトホルの義は、周囲をまとうようにめぐるようなことをいう。元へ戻るからモト・・ホス・モト・・ホルというのではないか。文中で「船」は目的語になっている。「御船、廻海」とあるなら、船が海(湾)をめぐることだからメグリテといった訓もあり得るが、「廻船」の部分に使役として訓む仕掛けは特に施されていない(注3)
 メグラスという訓の場合、船は進行せずにその場で帆柱付近を軸として廻旋しているように感じられる。船外機に弄ばれる小型ボートをイメージできないわけではないが、鳴門の渦潮に巻かれて難破しかかっているようなことを表現したかったようには思われない。浦賀水道を渡れない、船が対岸へ向かわないことを率直に言っている。メグラスという訓には難がある。一方、古訓のモトホスならば、船は舳先を前にして進んではいるが、湾から出た後ぐるりと一周遊覧して元のところへ戻ること、それが二周、三周、四周、……といった具合に続くこと、何回にも渡ることを表している。「其神」の執念を示す洒落になっている。自己言及する言葉の仕組みから適切な訓とわかる。
 旧訓のモトホス(廻)という言葉は、言葉としても興味深い。モトルを再活性化させ、他動詞化させた語とも考えられる。古典基礎語辞典の「解説」として、「モドルは、モトル(悖る、道理などに反する意)と語源が同じで、モドク・モジル(捩る、ねじるの意)とは同根である。目的地をもった移動や、目的のある作業の途中で、目的を達成せず、中途からはじめの点へ逆行する意。」(1207頁、この項、須山名保子。)とある。「悖る」と「戻る」は同根の語である。モトホスは、戻る意を汲んでいるから、出航しても元へ戻ることばかりか、悖る意を汲んでいて道理に合わないことを示唆している。紀に、「是小海耳。可立跳渡。」とあるほど狭いのに、走り幅跳び流に渡れないのは理屈が噛み合わないということである。
 倭建命の相武での野火に対しては、草薙剣を用いて草を薙ぎはらい、嚢を解いて火打石を取り出し、向い火を放つことで対抗できた。今度は、弟橘比売が、「妾、易御子而入海中。」と言っている。倭建命が入るべきところ、「易」りて弟橘比売が海に入るのであると断られている。明記されている「易」は、同時に焼津の野火の対処法と対比し、それに「易」る相応の手法をとったということを表している。だからこそ、彼女は、辞世の歌に、火の歌、「さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」(記24)を詠んでいる(注4)。「問」うたものは火への対処法である。倭比売命は嚢を使うのだと教えていた。その設定を追加すべく弟橘比売命が新たに登場している。「走水海」で突然に現れた「后」である。この唐突感を解消するために、奥ゆかしいなぞなぞが繰り広げられている。焼遺(焼津)では草を薙ぐことをしたのに対し、走水では浪を「伏(な)」(凪)ぐことをした(注5)。弟橘比売がどんな嚢を使ったかについては後述する。
 なぜ浪が起こっていたのか。それは、地名が「走水(馳水)」だからである。記では設定として、紀では地名譚として扱われている。今日、浦賀水道と呼ばれる。水道とは、陸地に両側から挟まれて狭くなっている海や、大きな湖の部分を指す。海峡と呼んでも構わないのであるが、「道」のように一定の幅で相当の長さがあって流れをもつところを呼んでいる。飛鳥時代の首都圏である奈良盆地南部に暮らしている人たちにとって、「走水」という名から受けるイメージとしては、水が馳せるように走る道のことで、人工的な構造物に譬えるならまさに水道である。水道のことは、古語に、「樋(ひ、ヒは乙類)」という。
台所へ取水する懸樋(川崎市立日本民家園展示品、山田家住宅展示品)
 角川古語大辞典に、次のようにある。

ひ【樋・楲】①水源から水を導くための長い管。竹を縦に割ったものを使ったり、檜(ひのき)などの木で作るほか、石樋や土を固めて作るものもある。埋樋(ウズミビ)、懸樋(かけひ)、下樋(したひ)、伏樋(ふせひ)、立樋(タテヒ)など種類がある。樋管。……②水路などで、せきとめた水の出入り口に設けた戸。開閉して水位を調節する用を果たすが、単に水の流れを遮るためのものもある。楲(イ)。……③刀や薙刀(なぎなた)の身の背に沿って付けた細長い溝。血流れ。……④敷居(しきゐ)や鴨居(かもゐ)などの面に付けられた細長い溝。……⑤大便を受ける箱状の器。また、便器の総称。厠(かはや)に置かれ、また、対屋や細殿を囲った場所、帳台(ちやうだい)の中などで用いられた。『内匠寮式』では朱漆器としている。使用後水で洗い、再び用いる。……(第五巻2頁)

 それぞれの用例としては、①に、「廃渠槽(ひはがち)」(神代紀第七段一書第三)、「斯多備(したび=下樋)」(允恭記78歌謡)、「下樋」(万2720)、また、「佐保川の 水を塞(せ)き上げ 植ゑし田を〈尼作る〉 刈る早飯(わさいひ)は 独りなるべし」(万1635)の「独り」には「樋取り」が掛かっているとする説、②に、「塘(いけ)の楲(ひ)」(武烈紀五年六月)、「池〈楲附〉 玉篇に云はく、池〈直離反、和名は伊介(いけ)〉は水を蓄ふ也といふ。淮南子に云はく、塘を決し、楲〈音は威、和名以飛(いひ)〉を発すといふ。許慎曰く、楲は陂竇を通す所以也といふ。」(和名抄)、④に、「楲㢏 説文に云はく、楲〈音は威、比(ひ)〉は㢏也といふ。国語に云はく、㢏〈音は投〉は行清する廁也といふ。」(和名抄)がある(注6)
 倭建命は、焼津で何とか火難から逃れた。ところが、またもや、走水で火(ヒは乙類)と同音の樋(ヒは乙類)の災難に遭っている。浦賀水道は、「浪」が激しくて渡れないらしい。記に「渡神」、紀に「海神」の仕業とされているが、当然ながら自然界のことである。飛鳥時代の人であれ、ある程度の知識は経験上かならず持っていたに違いない。紀では「暴風」が起こっているが、記に風は出ていない。記の「浪」とは敷浪(頻浪、重波、及波)(しきなみ)のことを指しているのであろう。新撰字鏡に、「𣴊涾 波浪相重之㒵、之支奈美(しきなみ)」とある。寄せては返す波が、潮の干満によって激しくなっている。江戸(東京)湾の場合、浦賀水道という樋に相当する部分の流れが速くなり、川の早瀬や海の瀬戸のように流れが急になっている。湾奥へと向かう上げ潮と、湾外へと向かう引き潮が集中し、とても速くなっている。すなわち、潮汐の話である。「廻船」とあるのは、船が対岸へ行こうとしているのに、流れがきつく、湾奥へ行かされたかと思えば湾外へ流されといった繰り返しで、全然前へ進めていないことを示している。そして、シキナミに対して、各種の畳を加えたシキモノ(敷物)で対抗しようとしている。
 走水の荒波は、火→樋によって表されている。したがって、水が火によってたぎっているということである。古典基礎語辞典の、「たぎ・つ【激つ・滾つ】」項に、「タギル(滾る)と同根。」とし、「①水が逆巻くように音を立てて激しく流れる。また、激しく湧きあふれ出る。涙にもいう。……②心情が激しく湧きあふれ出る。」、「たぎ・る【滾る・沸る】」項に、タギツ(激つ)と同根。タギルは上代に確例はない。」とし、「①川水が激しく流れる。涙にもいう。……②熱湯が激しく沸き立つ。……③心中の思いが激しく湧き出る。嫉妬の思いが煮えくり返る。」(707頁、この項、白井清子。)とある。急流、奔流をいうタギ(滝、上代に濁音とされる)、道が凸凹していたり、足がよろよろして歩けないことをいうタギタギシも同系の語である。「……然れども、今吾が足歩むこと得ずして、たぎたぎしく成りぬ」とのりたまひき。故、其地(そこ)を号けて当芸(たぎ)と謂ふ。」(景行記)とある。
 江戸湾の細くなった入口部分が、樋のようであり、タギのように急流になっている。それを最もよく示す事柄は、煮えたぎる釜とそこから樋を通して湯桶へ流す bath のことではないか。記に、「廻船、不進渡。」のフネとは、浴びたり使ったりする湯を受ける湯槽(ゆぶね)のことをも連想させる。沸かしている釜から懸樋(筧)で離れて設置されているのが槽である。釜のまわりに浴槽があって、沸いた湯が送られて満たされる。たぎる湯の元は、すべて釜にあるのがふつうである。ところが、湯船から釜の方へ樋を伝って逆流して戻ることがあるらしい。つまり、敷浪がモトホスことになっている。記になぞなぞが出題されている。
 そして、その答えはすでに述べられている。ヒ(樋・楲)という語義の①と②は対立項になる。水道と水道栓である。灌漑用水路、上下水道、ないし運河のことをヒと言いつつ、水門になるところもヒと呼んでいる。浦賀水道は水の走るヒであるから、そこに水門のヒ、それはヒノクチ(樋の口)とも呼ばれるものを作って、水の流れを遮断するということである。焼津で火に対して向い火で対抗したように、樋の流れには樋の口をもって対処するということである。樋の口のことは、圦樋(いりひ)、また、単に圦(いり)ともいう。記では、「妾、御子に易りて海の中に入らむ」、「海に入りまさむ」と、浦賀水道にイリすることが告げられている。まさに、イリヒ(圦樋)である。きちんとひとことひとこと違わぬように語られている。水道(ヒ)に水門(ヒ)をつけて流れを遮り、向う岸へ行けるようにしようというのである。焼遺(焼津)での火には火をの話が、樋には樋をの話に「易」っている。

bath・ゆがけ

 ここで、2つの技術について検討しなければならない。第一に、bath について、第二に、樋の口(圦樋)についてである。まず、bath についてみる。古い時代の風呂の様子については、資料が乏しい。奈良文化財研究所飛鳥資料館2004.に、次のようにある。

 現在では、ごく一般的に「湯につかる」ことと「風呂に入る」ことは同じ意味で用いられています。本来「風呂」は「蒸風呂」のことですから、かつては「湯につかる」ことと「風呂に入る」ことは全く違った入浴方法だったのです。また、肩までどっぷりと湯につかる入浴方法は近世になってからといわれていますから、それまでは沸かした湯を浴びるだけであり、それを「風呂」とは区別して「湯」といっていました。とはいうものの、「風呂」と「湯」は早くから混用されるようになっていたようです。
このように、湯屋とは本来、湯を浴びる場をさしますが、古代の湯屋については建物が残っていませんから詳しくはわかっていません。しかし、いくつかの寺院に残されている『資材帳』に「温室」や「浴堂」などの湯屋を示す記載を見つけることができますから、建物規模やそこで用いられた湯釜などについて知ることができます。(24頁)

 和名抄・伽藍具に、「浴室 内典に温室経〈今案ずるに、温室は即ち浴室也。俗に由夜(ゆや)と云ふ〉有り。」とある。巷間いわれるように、昔は入浴方法がサウナ形式だけであったわけではない。風呂という言葉が蒸し風呂を指し、湯という言葉が湯浴みを指しており、両者が早くから混同されていたとする説は妥当であろう。また、入浴一般を指す語として、西日本では風呂、東日本では湯と呼ぶのがふつうであったとする説や、フロという言葉がムロを語源とし、岩窟を意味するムロが訛ってフロとなり、風呂という字を当てたとの説もあるが当否は定めがたい。季節が良ければ水浴びもしていたろうし、水垢離もしていた。温泉地ではどっぷりと湯につかることもしていたであろうし、水蒸気浴や岩盤浴風の熱気浴も条件が合えば行われていたであろう。
 斎戒沐浴にも湯を使った。建武年中行事・六月に、「とのもんれう(主殿寮)、御ゆまいらす。御舟にとるなり。めす程にうめたり。そのゝちひの口より七たびまゐらす。」とある。延喜式・木工寮に、「沐槽(かしらあらふふね) 長さ三尺、広さ二尺一寸、深さ八寸。浴槽(ゆあむるふね) 長さ五尺二寸、広さ二尺五寸、深さ一尺七寸、厚さ二寸」とある。50cmほどの深さで、湯浴みをしたらしい。死に装束を整える際にも湯を浴びた。源平盛衰記・巻四十五に、「[重衡卿]「湯かけをせばや」と宣ひければ、[土肥次郎]近所より新しき桶・杓(ひしゃく)を尋ね出だし、水を上げて奉る。」などとある。
 ただし、たくさんの薪を使って湯を沸かすのには経済的な制約がつきまとう。天武紀元年六月条に、「沐令(ゆのうながし)」、「湯沐(ゆ)の米(よね)」とある。養老令・禄令に、「中宮(ちうぐう)の湯沐(たうもく)に二千戸」の食封(じくふ)とかなり多い。鉄の大釜を手に入れるのも庶民にはとうていかなわない。高度経済成長期以前には、もらい湯も多く行われていた。ここで注目したいのは、どっぷりと湯に入る場合であれ、湯を浴びる場合であれ、五右衛門風呂形式以前のものに、懸樋形式のものが確かに見られる点である。今日の給湯タイプ、追い炊きタイプは、いずれもボイラーで湯を沸かしている。浴槽と連絡はしても別である。安全性や煙の遮断をとるか、熱効率をとるかによって前近代(前現代)には形態が異なるようである。絵巻物や建築図面、遺構からその構造は垣間見られる。
湯屋(慕帰絵々詞模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2590849/28をトリミング)
湯屋(一遍聖絵 模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591575/22をトリミング)
湯屋(是害房絵巻、南北朝時代、14世紀、泉屋博古館蔵、@SenOkuKyoto様https://twitter.com/sorori6/status/1324287421945540609)
上醍醐西風呂指図(国立歴史民俗博物館HP「中世寺院の姿とくらし―密教・禅僧・湯屋―」https://www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/project/old/021001/img/photo1.jpg)
長岡京跡宝菩提院廃寺の湯屋遺構(財団法人向日市埋蔵文化財センター「長岡京跡右京第755・762次調査現地説明会資料 宝菩提院廃寺の湯屋遺構」2003年2月22日。http://pit.zero-city.com/houbodaiin/houbodaiin.htm)
排水路の施された湯室(川崎市立日本民家園、佐々木家住宅、長野県南佐久郡佐久穂町畑の名主の家、18世紀。浴びるだけのようである。)
 慕帰絵詞では、釜で湯を沸かして蒸気を建物内へ送り込んでいるように見られており、蒸し風呂形式であったとされている。向かって左の釜は室内へ蒸気を送っている。広さが三帖ほどあろうかと思われる室を蒸気で満たしてサウナのように温めている。右の釜は浴びせ湯用と考えられているが、湯屋の中へ送る配管装置が描かれていない。どこで浴びたのか不明ながら、絵としては蒸気用と浴びせ湯用の2つが描かれているからそれで良しということであろうか。
 一遍聖絵では、内部を窺うことはできないながら、排水が外へと流れ、そこへ石橋を渡す庭の造りになっている。湯を浴びた証拠である。今昔物語・巻第二十八・池尾禅珍内供鼻語第二十に、「湯屋ニハ寺ノ僧共、湯不涌(わか)サヌ日无クシテ、浴(あみ)喤(ののしり)ケレバ、▼(貝偏に充)(にぎ)ハヽシク見ユ。」とあり、贅沢なバスタイムぶりが描かれている。
 是害房絵巻では、釜で沸かした湯を湯屋へ送る樋が描かれている。このような形態が古くからあったとすれば、この樋こそ、倭建命が渡ろうとして廻された“水道”に当たるものと考えられる。煮えたぎるほど熱いから、代わりに弟橘比売が入ろうというのである。もちろん、修辞的表現、なぞなぞである。允恭天皇の時代に、盟神探湯(くかたち)をして氏姓を正したという記事が載る。

 是に、天皇、天の下の氏々名々(うぢうぢなな)の人等の氏姓の忤(たが)ひ過(あやま)れるを愁へて、味白檮(あまかし)の言八十禍津日前(ことやそまがつひのさき)に、くか瓮(へ)を居(す)ゑて、天の下の八十友緒(やそとものを)の氏姓を定め賜ひき。(允恭記)
 ……詔して曰はく、「群卿(まへつきみたち)百寮(つかさつかさ)及び諸の国造等(くにのみやつこたち)、皆各言さく、『或いは帝皇(みかど)の裔(みこはな)、或いは異(あや)しくして天降れり』とまをす。然れども、三才(みつのみち)顕れ分れしより以来(このかた)、多(さは)に万歳(よろづとせ)を歴ぬ。是を以て、一の氏蕃息(うまは)りて更に万姓(よろづのかばね)と為れり。其の実を知り難し。故、諸の氏姓の人等、沐浴(ゆあみ)斎戒(ものいみ)して、各盟神探湯せよ」とのたまふ。則ち味橿丘(あまかしのをか)の辞禍戸𥑐(ことのまがへのさき)に、探湯瓮(くがへ)を坐(す)ゑて、諸人(もろひと)を引きて赴(ゆ)かしめて曰はく、「実を得むものは全(また)からむ。偽らば必ず害(やぶ)れなむ」とのたまふ。盟神探湯、此には区訶陀智(くかたち)と云ふ。或いは泥(うひぢ)を釜(なべ)に納れて煮沸して、手を攘(かきはつ)りて湯の泥を探る。或いは斧を火の色に焼きて、掌(たなうら)に置く。是に、諸人、各木綿(ゆふ)手繦(たすき)を著(し)て、釜に赴(ゆ)きて探湯(くかたち)す。則ち実を得る者は自づからに全く、実を得ざる者は皆傷れぬ。是を以て、故(ことたへ)に詐(うつは)る者は、愕然(お)ぢて、予め退きて進むこと無し。是より後、氏姓自づから定りて、更に詐(うつは)る人無し。(允恭紀四年九月)

 「盟神探湯」とは、熱湯(熱泥、熱斧)に手を入れたり当てたりして爛れたら嘘をついている、火傷しなかったら正直に言っている、という嘘発見器である。景行記に、倭建命が嘘つきかどうかについては触れられていない。源平盛衰記にあったように、ユアミ(湯浴)のことはユガケ(湯掛)ともいう。ユガケは、また、弽(弓懸、韘)と書く弓を射る時に使用する手袋のことも指す。和名抄に、「弽 毛詩注に云はく、弽〈戸渉反、訓は由美加介(ゆみかけ)〉は扶也、能く射るを馭し、則ち之れを佩く也といふ。周礼注に云はく、扶〈音は决〉は矢を挟む時、弦の飾りを持つ所以也といふ。」、文明本節用集に、「弓懸・指懸 ユガケ」とある。
弽をして弓を射る(男衾三郎絵巻、鎌倉時代、13世紀、東博展示品。)
 すなわち、焼遺(焼津)の野火に対して果たした倭建命の火打嚢の役割を、走水の樋のたぎる急流に対して弟橘比売は手袋をもって果しているという意味である(注7)。氏姓についての判定に限られて行われた盟神探湯は、氏姓が正しければ火傷を負わずに済む秘策があったものと推定する。簡単である。手袋をはめていればいい。熱湯に手を入れても手袋は火傷したように見えても、なかに入っている人の手は、火傷せずに済む。皮で作られる弽の手袋は、絵柄に鶉柄や疱瘡でも患ったような模様に仕立てられていた。
弽(弓懸)(左:指懸図(武器袖鏡二編、国文学研究資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200000845/viewer/98をトリミング)、中:「芸州三則の「仕事」」ブログ様、「弓道 ゆがけ制作」mitsugake.exblog.jphttps://mitsugake.exblog.jp/15301738/、右:大洲藩加藤家伝来、江戸時代、文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/293410)
 ウズラという鳥は、丸く膨らんで、縞模様は皺々に爛れたようでも、さざ波が立っているよう(注8)でも、フクロウとよく似ているようにも見える。つまり、手袋を鶉柄にするのは、言葉どおりに小型のフクロ、テブクロらしく拵えたいからである。景行記に「興浪、廻船、」とある点を捉え返すには、さざ波模様の鶉柄の手袋が、一番効果があるという洒落を言っているものと考える。
 そのような模様が入った手袋をはめれば、火傷を負っているように見える。手前勝手に氏姓を主張していた輩は、丁寧な染めを施した弽をお上から賜わっておらず、そのような裏事情があることも知らない。熱湯の中へ素手のまま入れれば、即座にやけどし爛れてしまう。正真正銘の氏姓を持つ人は、お上から氏姓を賜わった時、弽も拝領している。もしもの時はこの手袋を使うようにと言い含められている。もしもの時とはどのような時かは伝えられていなくても、湯掛けが行われると聞かされれば同音の弽のことを思い出されて持参したことであろう。盟神探湯で手を入れるように促されれば、恐れをなして熱湯に手を入れずに嘘を白状するが、本当の氏姓の人に順番が回ってきたときには弽をはめて手を入れ、爛れたふうの手をあげるがよくよく調べると素手は何ともなくて誇ったという次第である。允恭天皇代の「盟神探湯」とは、そういう話である。

樋の口(圦樋)

 次に、樋の口(圦樋)についてみる。走水はタギ状態の流れの急な水道だから、樋の口を設けて堰きとめて浪を伏(凪)(な)ぎるようにしたと仮定している。
堤の樋の口付近を進む一行(板橋貫雄模、春日権現験記絵第四軸、国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286814/15をトリミング)
「水閘(ひのくち)」(寺島良安編・和漢三才図会、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1772984/364をトリミング)
登戸排水樋管
 江戸期の用例ながら、地方凡例録・九に、「一 圦樋の事 是ハ川より井路筋へ用水引入、又悪水落し、堀より川への落口に板にて差込、堤に伏込戸を明立致す物也。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1365507/33、句読点等を施した。)、宮崎安貞・農業全書に、「若(もし)川なき所(ところ)ハ塘(つつみ)を築(つき)、閘(ひ)をふせ、或(あるひハ)筧(かけひ)にてとり、又高(たか)き所に汲上(くみあぐ)るハ桔槹(はねつるべ)、又龍骨車(りうこつしゃ)の類(るい)にて水(ミづ)をとるべし。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2557373/68、句読点等を整えた。)、たはらかさね耕作絵巻に、「…本朝のいにしへ、田はたの用水、こころのまゝにならさりしに、聖徳太子世に出給ひ、河内・津の国に四十八个所の池をつくらせ水をたゝえ、田はたにせきいれさせられしより、諸国是にまなひて川のほとりにハつゝミをかたくつかせてつゝミのしたに樋をふせ、用水の池にきりとをして、水なき田にハ水をいれ、あまる水をハ流し出し、かのはねつるへハふかき池よりたかき田畠に水を入るゝの用意也。(11~12頁、句読点等を施した。)とある。
樋の口関連図(左:溜池丸堤の図(秋田義一編・算法地方大成、天保8年(1837)、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563366(31/36)の文字部分など消去)、中:尺八樋伏埋仕立上の図(同https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563366/34)、右:一戸前圦樋の図(同https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563367?tocOpened=1(8/40)をトリミング合成))
 大阪府大阪狭山市の狭山池からは、さまざまな時代の樋の口の遺構が出土している。市川2009.によれば、「取水部は大きく、一段だけの底樋型のものと、樋管に竪樋(斜樋)を取り付け、竪樋にいくつかの樋穴を設けた尺八樋型に分類される。底樋型の場合、樋穴は上面にあけられそこに男柱がささるものがもっとも多い。男柱は支柱二本の間に穴のあいた板材(笠木と呼ぶ)をわたした鳥居状のもので支持されるので鳥居建と呼ばれることもある。」(99~100頁)とあり、概念図が示されている。これが古い形の樋の口であり、尺八樋型は後代のものである。
樋の構造概念図(市川秀之「狭山池出土の樋の復元と系譜」狭山池埋蔵文化財編『狭山池出土の樋の復元と系譜(復元)』の東樋下層遺構(奈良時代)取水部復元図(部分)図http://skao.web.fc2.com/rack/ike/hi-fkgn.pdf(2/10))
 水の出し入れのために堤を開削して水門を施けて行う形式は、満濃池や韓国の溜池、潮堤や河川堤防、洪水用の請堤などには見られるが、溜池には例が少ないという。技術は適所に用いられた。日本書紀に、すでに樋(楲)は記されている。

 人をして塘(いけ)の楲(ひ)に伏せ入らしむ。外(と)に流れ出づるを、三刃(みつは)の矛を持ちて、刺し殺すことを快(たのしび)とす。(武烈紀五年六月)

 樋尻(出口)側には穴が開いていて、ヒューム管のようなところへ人を入れ、反対側の取水口の栓となっている男柱を引き上げて一気に水を排出し、一緒に出てきた人を大きなフォークで刺して殺したということであろう。池溝を造ったという記事は、崇神紀、垂仁紀、景行紀、神功紀、応神紀、仁徳紀、履中紀、推古紀、崇神記、垂仁記、景行記、応神記、仁徳記などに見える。一定規模以上の溜池には水門が必要である。古墳時代のいつ頃のことか正確にはわからないものの、記事としては確かであろう。亀田2000.には次のようにある。

 ……五世紀中葉にいたると、洪積大地の水田化が進み、畿内王権や地方首長による大規模な開発労働力も編成されるようになるが、ここに半島から伝えられた新たな技術が行使されるようになる。開析谷における造池のみならず、大和平野にも、自然地形を利用しての造池が積極的に行なわれていったと見られる。記紀に見える応神・仁徳朝の造池溝の記事は、この時期のそれを物語っているものであって、おそらく池の造堤、堤下の樋管を通しての用水溝への導水といった工事が、渡来系技術を軸に活発に展開されていったのではなかろうか。(240頁)
 では、この時期において開樋は使用されなかったのであろうか。出土例がほとんどないことからその当否を確かめることはできないが、河川分流の場合、あるいは溝の開掘のさい地形条件などとあいまって開樋が設置されることはあったことと思う。そうした現象はそれ以前の時代にも存在したであろうが、ただ、五世紀中葉の開発に溜池が大きな比重を占めることを思うとき、この時期において注目されるのは閉樋であり、それも丸太を縦に二つ割りにし、中を刳りぬいたものを再び接合させた樋管の出現こそ、この時期の灌漑技術の一端を物語るものといえよう。開樋が灌漑技術の上で大きくクローズアップされるのは、むしろ次の八世紀にいたってである……。(242頁)

 堤を築いて樋管を埋めていたと考えられる。市川2009.は、樋管の類型として、U字型、O字型、箱型を挙げている。「丸太を半裁して双方の内部をえぐって再びあわせて樋管としたものは最近まで多くの溜池で利用されており、狭山池周辺でも池尻城跡で出土している。」(101~102頁)とある。他方、仁徳紀には、堤防を築いた話が載る。

 冬十月、宮の北の郊原(の)を掘りて、南の水(かは)を引きて西の海に入る。因りて其の水を号けて堀江といふ。又将に北の河の澇(こみ)を防(ほそ)かむとして、茨田堤(まむたのつつみ)を築(つ)く。是の時、両処(ふたところ)の築かば乃ち壊れて塞ぎ難き有り。時に天皇、夢(みいめ)みたまはく、神有(ま)しまして誨(をし)へて曰(まを)したまはく、……故、時の人、其の両処を号けて、強頸断間(こはくびのたえま)・衫子断間(ころものこのたえま)と曰ふ。(仁徳紀十一年十月)
是歳、新羅人朝貢(みつきたてまつ)る。則ち是の役(えだち)に労(つか)ふ。(仁徳紀十一年是歳)

 新羅の人を堤防建設へかり出している。新しい技術を伝授してもらっているようである。川に放水路を作り、また、堤防を作っている。逸話のなかで大きく占めるのは、引用に略した天皇の夢の話や請(うけ)いの話である。天皇の夢のお告げにしたがって、武蔵人強頸と河内人茨田連衫子の二人が人柱に指名されている(注9)。話の上では、人柱によって堤を築くということがあったことがわかる。柳田1970.に、「伝説普及の条件は、聴く人のこれを信ずるといふことである。さうしてこの人柱の伝説は、本質の奇怪を極むるにも拘らず、近世の初め頃になるまで、なほ我が国では頗る民衆に信じられ易かつた事情があつたらしいのである。」(354頁、漢字の旧字体は改めた。)とある。走水で弟橘比売が人柱になったのは、話の上において堤防の建設を示唆していると知れ、圦樋(伏樋、埋樋)が設置され、男柱が樋管の栓になっていたことがわかる。人柱とは、男柱のことを暗示していると考える。
陶棺栓(岡山県勝央町平五反逧(ごたんざこ)所在古墳出土、古墳(飛鳥)時代、7世紀、国政小市氏寄贈、東博展示品。)
 注目すべきは、浪が静まったので船で渡ったといえばそれまでのところを、堤防が築かれたらしいと思考している点である。江戸時代の諸図に、堤のことは「堤馬踏(つつみばふみ)」とある。土を馬が踏んで固める効果を狙っていた。倭建命の逸話も、走水から堤馬踏を馬を駆って渡ることができたことを暗示させる。紀の日本武尊の「高言(ことあげ)」に、「是小海耳。可立跳渡。」と言っていた。船は「立跳(たちをどり)」するものではないから、馬がひとジャンプすることを示すものである。景行紀の弟橘媛の啓上する言葉に、「願賤妾之身、贖王之命而入海。」とあった。何を贖(あがな)っているかといえば、日本武尊の高言を贖罪している。大風呂敷を広げていたため、海神を怒らせることになった。浦賀水道が風呂の樋に譬えられたから、風呂敷の話になっている(注10)。そして、「命」はオホミイノチのことではなく、オホミコト、すなわち、偉そうに言ったことを指している。この部分、熱田本傍訓に、「御命申ニ」とある。蓋し、正解と言えよう。渡神に捧げるのに、賤しい弟橘媛の身が、貴い王の命(おほみいのち)の代償になるはずはない。
 走水で、浦賀水道に弟橘比売が人柱になることで、江戸湾を仕切る堤防が築かれたことを話の上で想定していたのである。ヤマト朝廷が江戸湾干拓化事業を実際に画策したとは考えられないが、飛鳥時代の難波近辺の整備について思いを致せば、頭のなかで構想できないことではない(注11)。そして、堤の下に埋められた樋管に栓をした、という話の展開で、倭建命は無事渡れた。歴史学の観点から言えば、倭建命の「覆奏」すべき「所遣之政」とは、コトムケヤハス(言向和平)ことに干拓地造成計画のための地理的掌握も含まれていたと考えられる。
(つづく)

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