古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

応神記の「この蟹や いずくの蟹」(記42)歌の伝えるもの

2021年01月25日 | 古事記・日本書紀・万葉集
国見歌と大御饗の歌

 応神記に、近淡海に行幸した際、葛野を望んだときの国見歌と、木幡村で矢河枝比売と出会って饗宴に家へ招き入れられたときの歌が載っている。

 一時(あるとき)、天皇、近つ淡海国(あふみのくに)に越え幸(いでま)しし時、宇遅野(うぢの)の上に御立(たた)して、葛野(かづの)を望(みさ)けて歌ひて曰はく、
  千葉の 葛野を見れば 百千足(ももちだ)る 家庭(やには)も見ゆ 国の秀(ほ)も見ゆ(記41)
とうたひたまひき。
 故(かれ)、木幡村(こはたのむら)に到り坐(ま)しし時、麗美(うるは)しき嬢子(をとめ)、其の道衢(ちまた)に遇へり。爾(ここ)に天皇、其の嬢子に問ひて曰りたまはく、「汝(な)は誰が子ぞ」とのりたまへば、答へて白さく、「丸邇之比布礼能意富美(わにのひふれのおほみ)の女(むすめ)、名は宮主矢河枝比売(みやぬしやかはえひめ)なり」とまをしき。天皇、即ち其の嬢子に詔りたまはく、「吾(わ)、明日還り幸(いでま)さむ時、汝が家に入り坐さむ」とのりたまひき。故、矢河枝比売、委曲(まつぶさ)に其の父に語りき。是に父答へて曰く、「是は天皇の坐すなり。恐(かしこ)し。我が子仕へ奉れ」と云ひて、其の家を厳餝(かざ)りて候(さもら)ひ待てば、明日(あくるひ)入り坐しき。故、大御饗(おほみあへ)を献りし時、其の矢河枝比売命に、大御酒盞(おほみさかづき)を取らしめて献りき。是に天皇、其の大御酒盞を取らしめ任(なが)ら、御歌(みうたよ)みして曰(のたまは)く、
  この蟹や 何処(いづく)の蟹 百伝ふ 角鹿(つぬが)の蟹 横去らふ 何処に到る 伊知遅島(いちぢしま) 美島(みしま)に着(と)き 鳰鳥(みほどり)の 潜(かづ)き息づき しなだゆふ 佐々那美道(ささなみぢ)を すくすくと 我が行(い)ませばや 木幡の道に 遇はしし嬢子 後姿(うしろで)は 小楯(をだて)ろかも 歯並(な)みは 椎菱(しひひし)如(な)す 櫟井(いちひゐ)の 和邇坂(わにさ)の土(に)を 初土(はつに)は 膚(はだ)赤らけみ 底土(しはに)は 土黒(にぐろ)きゆゑ 三つ栗の その中つ土を かぶつく 真火には当てず 眉(まよ)画(が)き 此(こ)に画き垂れ 逢はしし女(をみな) かもがと 我(わ)が見し子ら かくもがと 我(あ)が見し子に うたたけだに 対ひ居(を)るかも い添ひ居るかも(記42)
とうたひたまひき。如此(かく)御合(みあひ)したまひて生みませる御子は、宇遅能和紀郎子(うぢのわきいらつこ)なり。(応神記)

 後半の歌物語は、天皇が木幡村を通りかかった時に美少女を見初めたという話として捉えられてきた。そして、記42歌謡、「この蟹や ……」歌について、料理に出された「蟹」のことから歌い出して矢河枝比売のことを口説く歌であるとされてきた(注1)
 しかし、この歌物語は、前半の国見の話(注2)と連動するものである。なぜなら、「故(かれ)」で始まっているからである。そういう訳で、で始まる話だから、前の国見の話ゆえに生じ、後の矢河枝比売との酒宴へと展開していっていると考えなければならない。
 宇遅野の高いところから見晴るかして、たくさんの家屋敷を見ている。「千葉の」は「葛野」を導く。カヅラは鬘、髪飾りにする蔓性植物などの総称である。カヅラをウィッグにしたことは、「黒き御縵(みかづら)を取りて投げ棄(う)つるに、乃ち蒲子(えびかづらのみ)生(な)りき。」(記上)などにより理解されている。芋蔓式に葉がたくさんついている。したがって、3句目の「百千足(ももちだ)る」までも予感させている。
ヤマブドウ(ウィキペディア、Jamesjhawkins様「Vitis Coignetiae growing with Ampelopsis at Chelsea Physic Garden」https://ja.wikipedia.org/wiki/ヤマブドウ)
 「家庭(やには)」とある。庭付き一戸建てである。「庭」と呼ばれるところは、作業場であり、神事や宴会がとり行われる家の前の平らな空間のことである。そしてまた、「国の秀(ほ)」も見ている。この「国の秀」については、新編全集本古事記に、「国の秀でている所。ヤニハが平地であるのに対して、高く隆起した所をいう。」(261頁)とある(注3)。そういった抽象的な意味合いを漠然と歌ったとして、人々の賛同が得られるはずはない。ぼやっとしかわからないことは十分な理解、納得に至らず、したがって伝達されることはない。
 ここでの歌いについて、「一時、天皇、越-幸近淡海国之時、御-立宇遅野上、望葛野、」という場面設定が記されている。それが歌の“題詞”ということになる。天皇は近淡海国に坂を越えて行幸している。宇遅野の上から山背国の葛野を望んでいるが、そこは近淡海国にわけ行った場所である。つまり、近淡海国、山背国が両方見渡せるところということになる。「野」は裾野というように小高いところである。実際がどれほどかは問題ではなく、そういう筋書きにしているから、それに則って歌われていると考えられる(注4)。「一時、天皇、越-幸近淡海国之時」という条件は意味あるものである。無意味なことをしないのが、言霊信仰のもとにあった上代の人々の言語活動である。過不足なく述べることでしか、音声言語は確かなものとならない。
 つまり、「のホ」というからには、行幸している「国」、「近淡海国」のホの意味である。近淡海国に見えるホは、琵琶湖に浮かぶ船の帆(ほ)のことであると理解されよう。他の国ではなく「近淡海国」と断られている。他の国でなら、「国のホ」と言えばその国で飛び出して突きあがっている所ということになるが、他に適用された例がない。言い得て妙な言い方として、「近淡海国」の「国のホ」なのである。
瀬田夕照(近江八景之内、歌川広重、天保5年頃(1834頃)、江戸時代、文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/238148)
 それによりわかるのは、経済が回っているということである。向かって左側の北西方向に見える葛野には、家があって農家のようで、作業場の庭を構えている。そして、右側の北東方向に見える近淡海国では、船が浮かんでいて漁業や交易が行われている。立っているところは宇遅野で、なぜそこにいるかと言えば狩りをしに来ていると考えるのが妥当であろう。つまり、農耕、狩猟、漁撈ほか、各地の名産品が行き交って交易圏を形成している。応神天皇の都していた「軽島之明宮」(応神記)は、奈良県橿原市大軽町かと比定されている。そこは阪奈から瀬戸内海を食料や生活物資に関してひとつの経済圏としているが、京滋と日本海側においても、同じように経済圏が形成されていることが確認されている。だから、なるほどそういうことかと悟るに至っていて、「一時、天皇、越-幸近淡海国之時、御-立宇遅野上、望葛野、歌」が作られている。向こう側にはもう一つの世界があると悟ったのである。この悟りの意味合いは、応神天皇が名易えによって得た悟りと通ずるところがある(注5)。そのときも日本海側の角鹿(敦賀)が舞台になっていた。所変われば品変わる、であり、品には必ず名(言葉)がついている。
 そして、木幡村に来ている。少女に会い、明日お前の家に行くからと伝えている。そのことをそのまま伝え聞いた矢河枝比売の父は、天皇が来るとは恐れ多いことだと言い、家をひどく飾り立てて待っていた。そこへ天皇は訪れている。たくさんの家々があると感心していたのが、実際に近づいて見てみると、ゴージャスな装飾、「厳錺」が施されていた。よって次の記42歌謡、「この蟹や」歌を含む歌物語が成立している。
 葛野にたくさんの家々があると言っても、都と比べれば田舎であり、御殿のようなお屋敷があるわけではない。実際、家屋敷自体が豪華なのではなく、ふつうの家屋をにぎにぎしく華やかに装飾品をつけて飾ったということであろう。木々や花々、幕や帳、各種の敷物などによってである。そしてまた、葛野ならではのこととして、葛(かづら)を使って飾り立てられていたに違いない。だからこそ、葛野の地名が名を以て体を成してくる。「宮主矢河枝比売」(応神記)は、「宮主宅媛(みやぬしやかひめ)」(応神紀二年三月)とある点を考慮すれば、ヤカ(宅)+ハエ(映、エはヤ行のエ(ye))の意で、家を装飾、舗設したことを物語っていることを示すものと考えられる。そのような職掌は、宮中では掃部司の仕事である。屋敷の掃除、舗設にかかわっている(注6)。掃部はなぜかカニモリと呼ばれ、カニ(蟹)の守部のように呼ばれている(注7)
 筆者は、蟹の脚のように見えることが、掃守司の仕事である作業工程にあったからと考える。薦、席、牀、簀、苫、狭畳など、敷物類を織るには、それぞれ機織機があり、棒綜絖を使って織りあげていく。経糸には麻糸を張っておいて、緯糸には1本ずつ藁や藺草を入れていき、両サイドにはみ出した形で織っていって最後に処理する。その処理するまでの間、いずれの製品でも両サイドからは緯糸がまるで蟹の脚のように伸びている。1本の長繊維の緯糸を左右で折り返して進める布作りの機織りとは違うのである。よって、カニモリと呼ばれるようになったと考える。とりわけ藺草を次いで作る畳の中継ぎ法による場合、横に脚がたくさん出ていて脚の長い蟹さながらの様相を呈する。命名は機(はた)によっているから、場所は「木幡(こはた)村」と設定されている。「掃部(かにもり)」という名称表記は、最終的にこのはみ出したイグサをカットして、当然ながら廃棄などせずに箒に作ったであろう点に求められよう。畳の製造工程をもってカニモリという名称となり、副産物をもって職掌名の漢字表記となっているものと考える(注8)。そして、矢河枝比売の父の名が、「丸邇之比布礼能意富美(わにのひふれのおほみ)」とある点も織り方と関係するものと考える。紀に、「和珥臣(わにのおみ)の祖(おや)日触使主(ひふれのおみ)」(応神紀二年三月)とある。ワニ氏については、渡来技術を伝えるものとして、横臼の伝来をワニに例えた例が記の稲羽の素菟の説話に盛り込まれている(注9)。ここでも同様に、新しく伝来した敷物の織り方、畳織りの技術を名に負っていると考える。オホミは「使主(おみ)」で、技術伝達者を表す。ヒフレとは、ヒ(一)+フ(二)+レ(接尾語)、つまり、経糸2本飛ばしにすることを表している。レは、「これ(此)」、「それ(其)」、「われ(吾)」、「おのれ(己)」などと代名詞の下について体言性を強める働きをする。ひふ、ひふ、ひふ、と2本ずつ表、裏、表、と順繰りに繰りかえす織り方の謂いである(注10)。
左:畳織り(手織り中継ぎ機の裏面の様子、織り人ブログ『日々織々(ひびおりおり)』「広島の「麻の古市を伝える会」のみなさんのお話」http://orijin-asia.jugem.jp/?cid=7)、右:蟹小屋の風景(「しまね観光ナビ」https://www.kankou-shimane.com/pickup/3854.html)(注11)

記42歌謡

 記42歌謡は、敷物がたくさんある家に入ったのだから、掃部→蟹と連想された。そして、それは酒宴に出されていた(注12)。酒の肴にあった。肴(な)は、応神天皇と切っても切れない因果のある品である。名易えをしに角鹿に赴いていた。名易えとは、自らが負っていた「中(な)」という「名」についての自己撞着を、「魚(肴)(な)」という「己(な)」へと自己肯定するための方便であった(注13)。ここに、応神天皇(胎中天皇)と「厳錺(かざ)」られた「家庭(やには)」の「大御饗(おほみあへ)」の肴としての蟹との接点、共通点が見出され、衆人に納得される説話がくり広げられていることになる。

 この蟹や 何処(いづく)の蟹 百伝ふ 角鹿(つぬが)の蟹 横去らふ 何処に到る 伊知遅島(いちぢしま) 美島(みしま)に着(と)き 鳰鳥(みほどり)の 潜(かづ)き息づき しなだゆふ 佐々那美道(ささなみぢ)を すくすくと 我が行(い)ませばや 木幡の道に 遇はしし嬢子 後姿(うしろで)は 小楯(をだて)ろかも 歯並(な)みは 椎菱(しひひし)如(な)す 櫟井(いちひゐ)の 和邇坂(わにさ)の土(に)を 初土(はつに)は 膚(はだ)赤らけみ 底土(しはに)は 土黒(にぐろ)きゆゑ 三つ栗の その中つ土を かぶつく 真火には当てず 眉(まよ)画(が)き 此(こ)に画き垂れ 逢はしし女(をみな) かもがと 我(わ)が見し子ら かくもがと 我(あ)が見し子に うたたけだに 対ひ居(を)るかも い添ひ居るかも(記42)

 この掃部(かにもり)のように敷物をたくさん作って舗設して、宴席の御馳走に蟹を出しているこの蟹は、どこの蟹かと言えば遠く伝え来た角鹿の蟹であることは、朕、天皇のいきさつと遠く伝え合うようだ。畳機に緯糸となる藺草を入れては短いからとさらに入れるように横移動するように横這いする蟹がどこに至ったかと言えば、伊知遅島、美島に着き、潜水が得意な琵琶湖に名立たる鳰鳥が、潜っては息をしに水面にあがってくるのに同じように表から裏、裏から表と、畳をさざ波状に織っていく、そんな(しなだゆふ)佐々那美道を、ずんずん我が進んで行くと、木幡の道で出会った乙女は、畳表の裏同様に後ろ姿は蟹の甲羅のような小さな楯のようで、畳表の表面同様に歯並びは椎や菱のようにびっしりとしていて、丸邇氏の息女というからには櫟井の和邇坂とゆかりがあって、その土の表土は赤いから、また、底土は黒いから、藺草の泥染めに使うのには(三つ栗の)その中ほどの土がよいのだが、その土を(かぶつく)強火にはかけずに作った眉墨で眉を描いて、中継ぎ法で作っているように描き垂れている、出会った乙女、こうあったらと自分の境遇と併せて思い描く子、こうあったらと思い描く子に、急転直下まさしく向き合っているなあ、寄り添っているなあ。

 「百伝ふ」は、記41歌謡の「百千足る」が「蟹」へと意味を伝わっていることを受けている。「横去らふ」は畳織りに藺草を横へと放りやることをくり返すからである。藺草は1本ごとに畳み込んでいくから、終止形になって句切れを起こしている(注14)。「佐々那美道」がとりあげられているのは、琵琶湖西南部一帯のことをいう地名、楽浪道(ささなみぢ)でありつつ、小さく細かな波模様になる敷物、すなわち、繊細で一続きの波が続いていくような織りをほどこす畳ゆえのことであろう。緯糸の藺草は、経糸の麻糸2本の上を通し、つづいて2本の下を通して、それを互い違いにしている。叩くように硬く押さえて織るから、表面に経糸が見えないように仕上がる。中継ぎしながらびっしりと織り込まれている。裏側から見れば蟹さながらだから、蟹の甲羅のようであるとして、「後姿は 小楯ろかも」と言っている。「歯並みは 椎菱如す」も、畳みかけるように強く押さえられていることから、隙間ないほどに敷き詰められている感じがしてそのような表現になっている(注15)。「中つ土」は、藺草の泥染めのことから思い起こされている。表面の赤い土や底面の黒い土ではなく、中ほどの灰色の土が選ばれている。それはまた、彼が「胎中天皇」であったからである。ナから離れることはできない点が同じであって、ご同慶の至りと考えている。「眉画き」と例えているのは、畳の機に藺草の端がもじゃもじゃに出ている点を眉に言うとともに、マヨ(眉)がマヨ(繭)と同根の語であることも言い含めている。絹製品の染色に同様であると見立てている(注16)
藺草の泥染め(殖藺図巻、福山城築城400年記念事業公式サイト「水野勝成とびんごいぐさチラシ」https://fukuyama400.jp/wp/wp-content/uploads/06f848dec49852cc38f54a98070df712.pdf)
 「かもがと 我が見し子ら かくもがと 我が見し子に」とは、自分の希望と同じことが現前に準えるように出来していることを言っている。応神天皇が名易えで目指した超克の次第を顕現する状況が、宮主矢河枝比売によって作りだされている。
 「うたたけだに」(注17)は「転(うたた)蓋(けだ)に」の意で、ウタタには、転回する意を持ちながら、いよいよ、ますます、の意があらわれているものと考えられる(注18)。日葡辞書に、「Vtata.ウタタ(転)移り変わり,または,移り変わったり,交替したりしやすいこと.」(735頁)とある。見方を変えてみたらお話の事情は転回して見えてきたということである。また、ケダシ(蓋)については、白川1995.に、「「氣(け)甚(いた)し」の意。そのような思いがしきりであるとの意から、強い蓋然性を示す。」(317頁)とある。まったくもってこれは確かに運命の出逢いであったのであろうと歌っている。
 以上、応神記の国見歌と大御饗の歌を伴う一連の話の意味合いについて述べた。応神天皇は淡海国へ行幸して、自らの名易えのエピソードに重ね合わさるような事柄を矢河枝比売の接遇に見出しており、それは同時に、当地に都とは別の経済生活圏を認めることでもあった。古代のヤマト朝廷が、中央集権的な国家経営のもと首都に一極集中させることを目指していたわけではなく、連邦的な統治を指向していたことが確かめられる記述となっている。

(注)
(注1)日本書紀には、次のようにのみあり、後半の矢河枝比売の件はない。

 六年の春二月に、天皇、近江国に幸(いでま)して、菟道野(うぢの)の上に至りて、歌(みうたよみ)して曰はく、
  千葉の 葛野を見れば 百千足る 家庭も見ゆ 国の秀も見ゆ(紀34)
とのたまふ。(応神紀六年二月)

 土橋1972.は、「千葉の ……」歌を国見の国讃め歌、「この蟹や ……」歌を丸邇氏の娘の婚姻譚を歌った物語歌と別に扱っている。古典集成本古事記では、前者を葛野地方の讃国歌であり、丸邇氏の繁栄を指すもの、後者を妻問の歌で、丸邇氏の女の後宮入りを氏族の誉れとして丸邇氏が伝承したものとしている。新編全集本古事記では、天皇が巡行して国を確かめ、土地の女を娶ることで天皇のもとに成り立つ秩序と充足を確認する話とする。西郷2006.は、2つの歌の間にある齟齬感を、歌が先にあって物語は歌から導き出されたものであるとする“詩学”によって解こうとしている。
(注2)国見歌という概念を近代に設定し、記41歌謡をいわゆる国見歌という範疇でのみ語り終わることは、堂々巡りを犯していることになる。
(注3)本居宣長・古事記伝に、「山の周(メグ)れる中にある平原(タヒラ)なる地(トコロ)を云なり、……葛野……は、東北西に山立廻(タチメグ)りて、山城ノ国の奥区(オクドコロ)なれば、真(マコト)に国の富(ホ)なり。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041637/250)、谷川士清・日本書紀通証に、「国之秀モ見也。言人家冨也。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917894/11)と解されていたことがあるが、近年は、「ホはすぐれた所、突出した所。この歌は、いわゆる国誉めの歌。」(大系本日本書紀433頁)、「クニは海に対して陸地をいう。国土の高く隆起している所。低湿の地ではなく高燥の地を良しとするところから生まれた国讃めの言葉」(土橋1972.181頁)、「「国の秀(ホ)」は、山などが突き出ているところ。……稲の穂はあくまで稲の穂であり、すぐれた稲のことではないように、「国の秀」もすぐれた国ではなくやはりあくまで山などの突き出たのをほめた語である。」(西郷2006.279~280頁)、「「国の秀」は、国のなかでも特にすばらしい場所。「秀」は目立ってよいものをいう。「汝が恋ふるその保追多加ほつたかは」〔万十七・四〇一一〕の「秀つ鷹」は、またとない優れた鷹。」(佐佐木2010.59頁)などとある。いずれにせよ、「国」を葛野のある山背(山城)国だと思っている。
(注4)今日の行政区分においても、宇治市の奥宮神社から琵琶湖を望むことは可能である。
(注5)応神天皇は太子時代、角鹿によって悟りを開いている。今日の人はたくさんの情報を得ている気になっているが、それはみな自らの視点、そのフィルターを通して見ているにすぎない。情報処理であって、情報覚悟ではない。そうなのか、という気づきによって、自らのものの見方が覆されることに乏しい。モンテーニュ1965.に、「誰かがソクラテスに向かって、誰それは旅をしても少しもよくなっていない、と言うと、「そうだろうとも。あの人はあの人自身を一緒に持って出かけたのだから」と言った。」(52頁)とある。
(注6)養老令・職員令・大蔵省に、「掃部司 正一人。掌らむこと、薦(こも)、席(むしろ)、牀(とこ)、簀(すのこ)、苫(とま)のこと、及び舗設(ふせち)、洒掃(さいさう)のこと、蒲(かま)、藺(ゐ)、葦(あし)の簾(すだれ)等の事。佑一人。令史一人。掃部十人。使部六人。直丁一人。駈使丁廿人。」、宮内省に、「内掃部司 正一人。掌らむこと、供御(くご)の牀、狭畳(たたみ)、席、薦、簀、苫、舗設のこと、及び蒲、藺、葦等の事。佑一人。令史一人。掃部卅人。使部十人。直丁一人。駈使丁卅人。」、後宮職員令に、「掃司(かにもりのつかさ) 尚掃(かにもりのつかさ)一人。掌らむこと、牀席、灑掃、舗設に供奉せむ事。典掃(かにもりのすけ)二人。掌らむこと尚掃に同じ。女孺十人。」とある。
 掃部の職掌について、「舗設」は確かであるが、「洒掃」、つまり、掃除のことは確かとは考えられていない。宮内省・主殿寮に、「頭一人。掌らむこと、供御(ぐご)の輿輦(よれん)、蓋笠(かいりう)、繖扇(さんせん)、帷帳(ゆいちゃう)、湯沐(とうもく)のこと、殿庭(でんぢゃう)洒掃せむこと、及び、燈燭(とうそく)、松柴(しょうし)、炭燎(たんれう)等の事。助一人。允一人。大属一人。少属一人。殿部(とのべ)卌人。使部廿人。直丁二人。駆使丁八十人。」(いずれも原漢文)とあって、主殿寮が天皇の身辺を掃除しており、殿部制の初期段階からそうであったのであろうと考えられている。
(注7)古語拾遺に、「誕育(ひだ)したてまつる日に、海浜(うみへた)に室(みや)を立てたまひき。時に、掃守連(かにもりのむらじ)が遠祖天忍人命(とほつおやあめのおしひとのみこと)、供(つか)へ奉り陪侍(はべ)り。箒(ははき)を作りて蟹を掃(はら)ふ。仍(よ)りて、鋪設(しきもの)を掌(つかさど)る。遂に職(つかさ)と為す。号(なづ)けて蟹守(かにもり)と曰(い)ふ。(今の俗(よ)に借守(かりもり)と謂ふは、彼の詞(ことば)の転(うつ)れるなり。」とある。西宮1985.に、「「蟹守」説は正しいが、蟹の近づくのを防ぐのではなく、その逆に蟹が逃げ出すのを防ぐ意味である。」(82頁)とある。黛1994.は、「掃部」の古訓カミモリを説明するための語呂合わせであろうとしている。岡森2009.は、「箒」が出産や死の儀礼の場面でも用いられるもので、掃部氏がその役を担っていたからであるとしている。
(注8)座敷箒として広く用いられているものに、イネ科のホウキモロコシの花穂を乾燥したものなどが用いられている。小泉・渡辺2020.に、箒の素材としてイグサはあげられていないが、「箒は元来、身近にある植物を用いて自らつくるものであ」(97頁)るとする。あるものを使うのが民俗の知恵である。畳の製造工程で生まれる副産物として、藺草箒を作ったことを言っているとすることに何ら疑問はない。
(注9)拙稿「「稲羽の素菟」論」参照。
(注10)ひふ、ひふ、と数えることと、ひふくめとも呼ばれる子とろ子とろとの関係、「久米(来目)(くめ)」にかかる枕詞「みつみつし」の関係については、拙稿「記紀説話の、天の石屋(いわや)に尻くめ縄をひき渡す件について」参照。
(注11)藺草の長さが横幅に満たないため、2本を使って作る。畳はたたみこむように強く筬でおさえるから、ふくらんだ感じはしても表面にそれとはわからない。絵巻には中央がふくらんでいる畳が描かれている。小泉1979.参照。
ふくらみのある薄縁(源氏物語絵巻・宿木一、徳川美術館蔵、ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/源氏物語絵巻)
ふくらみのある畳(法然上人絵伝模、左:巻6、右:巻19、筆者模)
(注12)契沖・厚顔抄に、「是ハ御肴ニ蟹ノ有ケルニ託テカクハヨミ出サセタマヒテ行幸ニナツマセタマイシヨシヲノタマハントテ喩ヘ出サセタマフ歟」(新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100077672/viewer/132)とあるとし、本居宣長・古事記伝に、「契冲も云る如く、此ノ時御饗の御肴に、此ノ物の有つるに寄(ヨセ)てなるべし、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/253)としている。
 蟹が登場して理由について、ほかにも数多く議論されている。蟹神、演劇、聖婚、芸謡など、何とか解決策はないかと模索されている。諸説のまとめは、烏谷2017.参照。それらの諸説が限りなく誤りに近い理由は、わからないことを定まらない観念の産物として定めようとしている点にある。具体的に「蟹」とは何かが定められなければ、仮に誰かが神や祭りと認定しても他の人には理解されず、話として伝播することはない。無文字の時代、曖昧模糊では言葉は通行しない。台本も絵本もない時代である。
(注13)拙稿「古事記の名易え記事について」参照。
(注14)佐佐木2010.に、「横去らふ」が「横去ら」とあれば、「横歩きして/横歩きしながら」の意となり、構文面で自然。」(60頁)とある。
(注15)「畳(たたみ)」という語について、その語義をたたんで置いておくことに求める説がある。しかし、「菅畳八重」(景行記)といった表現が行われている。座布団を十枚も積み重ねることが滑稽なように、本来、畳のように目の詰まった敷物を積み重ねる必要はない。畳というものは、タタク(叩)と同根の語ではないかと考えられるタタム(畳)という動詞の連用形から起こった語であろう。たたみかけるようにきつきつに織りあげられ、稠密にして隙間がないものに仕上げられている。少しく違う用途に使う様子であると強調するために、本来重ねる必要がないものをあえて「菅畳八重」などと言って楽しんでいると理解される。景行記の場合、堤築造の基盤となる敷き粗朶工法を暗示している。他方、筵(むしろ)の場合、粗く織られていて目があいており、重ねて使われて十分なものである。和訓とされる「寧(むし)ろ」という語は、精緻に仕上げられた上等の「畳」よりも寧ろ、「筵」のほうが重ねて使えば保温性、弾力性に富んでいて好ましい場合がある、という意味から戯れられた語ではないかと推測する。拙稿「走水と弟橘比売」、「上代語「畳」をめぐって―「隔(へだ)つ」の語誌とともに―」、「枕詞「たたなづく」、「たたなはる」について」参照。
(注16)繊維の染色において、動物性繊維のほうが植物性繊維よりもよく染まることが知られている。逆に言えば、繊維を染めることによる発色の妙を取り立てて言いたい場合、動物性繊維の染めを引き合いに出すほどに表現にふさわしいことになる。本邦において、古代には植物性繊維としては麻が代表であり、動物性繊維は絹(生糸)ばかりであった。そこへ藺草繊維を染めるという画期的な方法が編み出されている。色彩を青畳に映えさせ、色落ちしにくくするすぐれた染色法、泥染めが行われ始めたのだから、マヨ(繭)という言葉を使うことに整合性があると考えられたのであろう。
(注17)ウタタケダニ(宇多々気陀迩)については、難語としていくつか試訓がほどこされてきた。語構成として、ウタ(歌)+タケ(長く)+ダニ(副詞)(古典全書本古事記)、ウタ(転)+タケ(酣)+ダ(分量)+ニ(副詞化)(古典集成本古事記)、ウタタ(転)+ケダニ(蓋)(新編全集本古事記、中村2009.、佐佐木2010.)と解する説があげられている。最後の説は、ウタタ(転)はいよいよ、程度の強さ、程度が甚だしい意、ケダニはケダシ(蓋)と同源で、正(まさ)しく、真正面に、の意とする。
(注18)多くの辞書は、ウタタに、いよいよ、はなはだ、の意を表わすとし、名義抄に、「転」ばかりか「漸」の字に訓じられているところから、事態の進行ばかりを考えて転回する義の含意が乏しい。ウタ(歌)・ウタガヒ(疑)と同根の語であるとされているが、そのウタという義に、捻ってみるイメージがついてまわるように感じられる。叙述に「Aである」とあるのを、「「Aである」?」、「「Aである」!」として別して伝えようとするとき、ウタ・ウタタ・ウタガヒが現れていると考えられないだろうか。この段階に至ると、「歌」とは何か、その“意味”を問い直さなければならないことになる。根本的な大問題について、後考を俟つこととする。

(引用・参考文献)
居駒2003. 居駒永幸『古代の歌と叙事文芸史』笠間書院、2003年。
居駒2012. 居駒永幸「「蟹の歌」―応神記・日継物語の方法―」『文学』第13巻第1号、岩波書店、2012年1月。
及川1990. 及川智早「「この蟹や」歌謡試論―ワニ氏始祖発生を語る原歌謡の想定―」『古事記年報』第32号、1990年。
大浦2001. 大浦誠士「「道行」考」『椙山女学園大学研究論集 人文科学篇』第32号、2001年3月。
岡森2009. 岡森福彦『八色の姓と古代氏族』岡森福彦君遺稿集刊行委員会、2009年。
小川2016. 小川光暘『寝所と寝具』雄山閣、平成28年。
烏谷2017. 烏谷知子「宇遅能和紀郎子伝承の考察―第四二番歌謡・第五一番歌謡を中心に―」『学苑』第915号、昭和女子大学、2017年1月。昭和女子大学学術機関リポジトリhttps://swu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=410&item_no=1&page_id=30&block_id=97
黒須2015. 黒須利夫「掃部司・内掃部司と掃部寮」根本誠二・秋吉正博・長谷部将司・黒須利夫編『奈良平安時代の〈知〉の相関』岩田書院、2015年。
小泉1979. 小泉和子『家具と室内意匠の文化史』法政大学出版局、1979年。
小泉・渡辺2020. 小泉和子・渡辺由美子『掃除道具』法政大学出版局、2020年。
古典集成本古事記 西宮一民校注『新潮日本古典集成 古事記』新潮社、昭和54年。
古典全書本古事記 神田秀夫・太田義麿校註『日本古典全書 古事記 下』朝日新聞社、昭和37年。
西郷2006. 西郷信綱『古事記注釈 第六巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2006年。
佐佐木2010. 佐佐木隆校注『古事記歌謡簡注』おうふう、平成22年。
大系本日本書紀 坂本太郎・井上光貞・家永三郎・大野晋校注『日本書紀(二)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
武田1956. 武田祐吉『記紀歌謡集全講』明治書院、1956年。
田辺1957. 田辺行雄「この蟹や いづくの蟹」『古事記大成2 文学篇』平凡社、1957年。
土橋1972. 土橋寛『古代歌謡全註釈 古事記編』角川書店、昭和47年。
中村2009. 中村啓信訳注『新版 古事記 現代語訳付き』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成21年。
西宮1985. 斎部広成撰、西宮一民校注『古語拾遺』岩波書店(岩波文庫)、1985年。
深沢1976. 深沢忠孝「角鹿の蟹(応神記)」『記紀歌謡 古代の文学Ⅰ』早稲田大学出版部、1976年。
古橋1988. 古橋信孝『古代和歌の発生—歌の呪性と様式—』東京大学出版会、1988年。
黛1994. 黛弘道「古代史雑考二題:「授刀」と「掃守」」『学習院大学文学部研究年報』第41輯、平成7年3月。
三浦1992. 三浦佑之『古代叙事伝承の研究』勉誠社、1992年。
守屋1992. 守屋俊彦『日本古代の伝承文学』和泉書院、1992年。
モンテーニュ1965. モンテーニュ著、原二郎訳『エセー(二)』岩波書店(岩波文庫)、1965年。(原著Montaigne, Michel de. Les Essais, 1595.)

(English Summary)
During the time of Emperor Ojin in Kojiki, there was an article with two songs about going to Aꜰumi prefecture. In this paper, we will clarify that the "Tibanö ..." song and the "Könökaniya ..." song are deeply linked to each other. When Emperor Ojin was a child, he once went to Tunuga for a purification ceremony. Then, he exchanged his name ‘na’, which meant in the womb, for ‘na’ of The enshrined deity Këꜰi-nö-oꜰokamї at Tunuga, which meant fish, and he became an adult. The visit of this article reaffirmed his previous experience. In their songs, "Kuni-nö-ꜰo" stood for the sail “ꜰo” of a ship floating in Lake Biwa in Aꜰumi Prefecture, and the crab of "Könökaniya" stood for tatami weaving, because they looked similar. He was usually at the capital palace in the Nara Basin and lived in the economic area consisting of surrounding prefectures, but there was the other economic area of Aꜰumi, Yamasirö and Wakasa prefecture and so on. And he declared that he governed widely while recognizing each living area. So, the fact he left the womb and the fact the national version of the map left the Nara Basin were expressed side by side. It shows that the Ancient Yamato Imperial Court aimed at the federate state in those days.

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