古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

記紀の諺「さばあま」について 其の二

2018年11月12日 | 古事記・日本書紀・万葉集
(承前)
 鯖読みという言葉は、語用論的に首を傾げたくなる言い方である。ヤマトコトバの「よむ」と性格が大きく異なっている。古典基礎語辞典に、「一つずつ順次数えあげていくのが原義。古くは、一定の時間的間隔をもって起こる事象に多く用いた。一つ一つ漏らさずに確認・認知する意。」(1304頁、この項、筒井ゆみ子)とある。一対一対応をしていなければ「よむ(読・詠・数)」ことにならないはずなのに、そうなっていないケースを鯖読みと言っている。数をよんだ例には、記の稲羽の素菟の例が知られる。ワニを並ばせておいて淤岐島(隠岐島)から気多前(気多岬)まで渡って行った。菟はただ海を渡りたいがためだけにワニの数を読んでいる。欺く目的で「よむ(読)」ことが行われている。今日の文字文明のなかにあっては、契約は契約書によって確認されるもので、「よむ(読)」ことが確からしさの糧である。対して無文字文化にあっては、人々は、逆に「よむ(読)」ことに詐欺的な臭いを感じていたのではないか。その最たる事態が鯖読みであり、その原初を「さばあま」という諺で表しているらしい(注11)
 言っていることとやっていることが異なることは、言霊信仰にアノミー的脅威となる。海人は海人らしく、アサル(漁)ことをしていてもらいたい。ところが、「処々」で「訕哤」状態になった漁民が出た。アサルことをしないで、アザ的な不平を言い出した。アザを語幹に持つ語には、アザケル(嘲)、アザワラフ(嘲笑)、アザムク(欺)といった語がある。それぞれ、ばかにして悪く言ったり、欠点を論ってけなしたり、弱みにつけこんで騙したりすることをいう。語幹のアザは、あるところを欠点として見ることで、嘲る、嘲笑う、欺くといった言葉に展開する。人の目にどぎつく映る意がアザの義である。よく目立つ点の意から、アザヤカ(鮮)という意にもなる。漁るべき人が、痣にばかり目が行っている。

 天孫、其の子等を見(みそこなは)して嘲(あざわら)ひて曰はく、「姸哉(あなにゑや)、吾が皇子(みこたち)、聞き喜(よ)くも生(あ)れませるかな」とのたまふ。故、吾田鹿葦津姫(あたかしつひめ)、乃ち慍(いか)りて曰く、「何為れぞ嘲(あざけ)りたまふや」といふ。天孫の曰はく、「心に疑し。故、嘲る。何(いかに)とならば、復(また)天神の子と雖(いふと)も、豈能く一夜(ひとよ)の間(から)に人をして有身(はら)ませむや。固(まこと)に吾が子に非じ」とのたまふ。(神代紀第十段一書第五)
 馬に乗りて籬に莅(のぞ)みて、皇后に謂(かた)りて嘲(あざけ)りて曰く、「能く薗(その)を作るや汝(なひと)」といふ。(允恭紀二年二月)
 物部弓削守屋大連(もののべのゆげのもりやのおほむらじ)、听然而咲(あざわら)ひて曰く、「猟箭(ししや)中(お)へる雀鳥(すずみ)の如し」といふ。(敏達紀十四年八月)
 天下(あめのした)の百姓(おほみたから)、都遷すことを願はずして、諷(そ)へ諫(あざむ)く者多し。(天智紀六年三月)
 布施置きて 吾は乞ひ祈(の)む 欺かず 直(ただ)に率(ゐ)去(ゆ)きて 天路(あまぢ)知らしめ(万906)
 侫 寧定反、去、謟也、姧也、佞正作。阿佐牟久(あざむく)、又加太牟(かたむ)、又伊豆波留(いつはる)(新撰字鏡)(注12)
 囅辴辴α(單偏に尸のなかに弓2つと衣) 四形同、β(𠡠冠に止)忍反、上天也、安佐和良不(あざわらふ)(新撰字鏡)
 但し朝野(みやこひな)の衣冠(みそつものかうぶり)のみ、未だ鮮麗(あざやか)にすること得ず。(雄略紀二十三年八月)

 皮膚の上に見える痣は、あるいは海人がよく行っていた刺青(入れ墨)のことを指すようである。海人の仕事は、漁(あさ)ることであるのに、痣(あざ)があるのは少しおかしい。細かい矛盾をはらみながらも話を続けて相手を欺くのが詐欺師である。海人が詐欺師化している状態が、「処処海人、不命。」である。処処の海人がサバメクこととは、海人の処処がサバメクことになっているとも言えよう。諺とは言葉の技、言葉の“あや”である。海人の体の処処が痣になるほどに刺青を施しているとすると、鯖の体にある縞模様に似てくる。その点でも、本来漁(あさ)るべきはずの海人が、痣(あざ)に溺れて逸脱していることを示している。サバアマとは、あってはならない言葉のつながりである。諺、言葉の技が起こっている模様である。
 それによって何を表したいのか。まぶしくて目をしばたたせるほどのとき、眉によって強い光線を幾分和らげることができる。つまり、顔に眉をもう一つ拵えることに同じである。これは、目先を刻むこと、または、カラーペインティングとして顔に刺青を施すことである。魏志倭人伝には、「男子は大小と無く、皆、黥面文身す。」、「今、倭の水人、好みて沈没して魚蛤を捕へ、文身し亦以て大魚・水禽を厭(はら)ふ。」とあって、海人族に刺青をする習俗はあったようである。
 つまり、痣(あざ)は刺青であり、まぶしいのを目隠しで遮る意味となる。射翳(まぶし)に同じである。サバメク状態がそのままに平定される意味合いとは、言葉(音)をそのままに捉え返す頓知の才覚によって、意味合いを反転させることである。柴(ふし)使いに長けた阿曇連が、マブシの意をもってサバメク意を反転させている。
 この諺譚に、登場人物は「処処の海人」と「阿曇連の祖(おや)大浜宿禰」だけである。ヤマトコトバ的には、先にアヅミという人名、ないし、地名があり、それに漢字「阿曇」を当てて表記したというのが経緯として正しい。したがって、「曇」字の音、ドム→ヅム→ヅミという流れからだけで、阿曇をアヅミと訓むと信じることはできない。他にヅミに「曇」字を当てた例は知られない。特異に難しい字を当てている(注13)
 「曇」は音にタン、ドンである。「曇」字は中国でも新しく、梵語のダルマ(dhárma)の訳として、達摩、曇摩、曇無と音写される際に作られたという。梵字のことをいう悉曇(しったん)文字、釈迦の出家前の名前のゴータマ・シッタールダ(瞿曇悉達多)、紀に見える僧に曇慧(どむゑ)、曇徴(どむてう)などの例がある。「阿」字も、密教真言の「阿」である。口を開いた状態を声で真似ている。阿曇氏は、仏教と何かしら関係があると考えられる。
 「曇」字をドムと読むと、訛る、濁る、といったニュアンスを伝える。吃(ども)るの意である。そして、字義としてはくもり cloudy である。日差しが雲に覆われて当たらない状態をいう。晴れやかでない印象がある。この点と「阿」字とはつながりがある。今日、庭園の景色に点景として四阿(東屋、四舎)(あずまや)が設けられることがある。筆者は不勉強でその成立の過程をよく知らないが、壁を持たない休憩用の小屋をいう。いま、さまざまな意匠が試みられ、切妻、方形、寄棟、入母屋、六角、八角などいろいろある。日除けになりながら風が吹き通っている。「阿」字には、阿(おもね)るというような邪(よこしま)な意味があり、横、斜めになった屋根の側面、軒や庇のことも指す。周礼・冬官・考工記に、「四阿は重屋なり。」と見え、注に、「四阿は今の四つ柱の屋の若し。」とある。新撰字鏡に、「四阿 阿豆万屋(あづまや)」、和名抄に、「四阿 唐令に云はく、宮殿皆四阿あり〈弁色立成に云はく、四阿は安都末夜(あづまや)といふ〉といふ。」とある。続日本紀には、「十四年春正月丁未の朔、百官朝賀す。大極殿成らぬ為に、権(かり)に四阿殿(あづまやどの)を造る。此に於きて朝(でう)を受けたまふ。」(聖武紀天平十四年正月条)とある。切妻造の建物を「真屋(まや)」というのに対して、寄棟造や方形造の建物をアヅマヤと呼んでいるのではないかとされ、本邦の建築の歴史が切妻造を正式なもの、気品あるものとして捉えてきた名残りであろうとする見解もある。建物の四方に屋根の「面」を向けるほどおもねっているから、「四阿」という当て字は合理的である。アヅマヤは日除けにも雨除けにもなる。つまり、天気はいつも曇っている。アヅミさんは、アヅマヤに通じている。倭建命が東国平定の帰路に宿った「酒折宮」はアヅマヤの淵源であると考えられる(注14)。いずれにせよ、四阿に壁がない点は注目されよう。天平14年の記事は、大極殿が完成する前に、大極殿風になる寄棟造の建物を壁なしで拵えて朝賀に臨んだことを示している。仮宮である。
四阿(小石川後楽園)
瓦葺の四阿(多摩動物公園、ヤクシカ舎)
 魚の鯖には不思議な縞模様がある。シマ(縞)という言い方は、中世末期以降に、島で作られた染織品の模様からとられた語のようである。上代語でそれを言い表わすには、マダラ(斑)、フチ(ブチ)(斑)、アザ(痣)といった語になる。一定の斑紋となっているものの全体像をマダラ、フチ(ブチ)と呼び、そのひとつひとつの汚れのように見えるものをアザと捉えていたようである(注15)。縞模様の鯖を捕っていたから、海人はアザ(痣)やアザムク(欺)ことにばかり関心を寄せるようになっている。

 春は萌え 夏は緑に 紅の 綵色(まだら)に見ゆる 秋の山かも(万2177)
 若し臣(やつかれ)の斑皮(まだらはだ)を悪みたまはば、白斑なる牛馬をば国の中に畜(か)ふべからず。(推古紀二十年是歳)
 天(あめ)の斑馬(ふちこま)を逆剥(さかは)ぎに剥ぎて、堕(おと)し入れたる時に、……(記上)
 疪 晋書に云はく、趙孟の面に二つの疪〈疾移反、師説に阿佐(あざ)〉有り。(和名抄)

 大浜宿禰のオホハマという名は、オホヒ+アマの意を含んでいると考えられる。諺は言葉の技であり、パラドックスを含んだ語として用いられていると定められよう。すなわち、アマがサバメクのを、オホヒなるアマが上回ったことを言っている。令制に大炊(おほひ)寮は、オホ(大)+イヒ(炊)の約とされる。役所の給食係である。養老令・職員令に、「大炊寮 頭一人。〈掌らむこと、諸国の舂米、雑穀の分給、諸司の食料の事。〉……」とある。相曽2015.は、官吏への食糧支給について、米のままで与えられる場合と飯に調理して与えられる場合のあったことをあげている。そして、炊かれると保存が利かず、重ねて支給されることはなく、量に限りがあることも指摘している。大炊式の「侍従卅人……」に、「右毎日料依前件。熟食充之。」とあるのは、調理された食事のことであるとする。また、「大炊寮は定例的な官人への給飯をはじめ、儀式や祭儀等の臨時的な給飯も担当することとなっていた。」(135頁)とし、ケータリングが行われていたことを大炊式の「共赴祭所事。」に見ている。大炊寮が出張する祭儀には、テントを臨時に張って炊事をしている。庭園に常設の四阿とは素材が異なって、大きな布を用いて覆っている。オホ(大)いなるオホヒ(被・覆・蔽)をするから大炊寮と洒落ている。日差しを遮断し、にわか雨も防ぐことができる。このテントの役割は、すべての天気を「曇」にすることである。「阿」なる軒のおかげである。そんなテントは、いつからあるかはわからない(注16)が、年中行事絵巻には、炊事場のためにまだらな幄(あげはり)が描かれている。
テント(年中行事絵巻 巻3、国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966665(14/19)をトリミング)
宴の場面(秦致貞筆、聖徳太子絵伝第六面、建久元年(1069年)、綾本着色、東博展示品)
現代のテント(日野自動車工場。工場棟に遜色のなく空間を覆う。)
 亦、其の山の上に、絁垣(きぬがき)を張り帷幕(あげはり)を立て、欺りて舎人を以て王と為て、露(あらは)に呉床(あぐら)に坐(いま)せ、……(応神記)
 時に、高麗・百済・新羅、並に使を遣(まだ)して調(みつき)進(たてまつ)る。為に紺(ふかきはなだ)の幕(あげはり)を此の宮地(みやどころ)に張りて饗(あ)へたまふ。(斉明紀二年是歳)
 幄 四声字苑に云はく、幄〈於角反、和名、阿計波利(あげはり)〉は大帳也といふ。(和名抄)
 正庁東第一間為伊勢幣、……第六間為内侍候所、〈東有隔敷帖〉東屋〈為幄屋〉東第二間敷上卿座。(江家次第・十二・於神祇官-奉幣使儀)
 一 酒部所。二丈幄一宇。〈首書。康和記。黒漆骨。纐纈覆。蘇芳綱。東西行立之。久安。西中門南廊東砌立酒部所幄。東西妻。〉(大饗雑事)

 アゲハリは、箋注倭名抄に、「按、阿計波利有棟梁、蓋揚張之義、対平張之名」とする。江家次第の例は、「大極殿焼亡後、数年被此儀」の記事で、仮設テントで儀式が執り行われたことを示している。すなわち、先述の続日本紀、聖武天皇天平十四年正月条の「四阿殿」よりもさらに簡略化したテントということになる。形式的には、屋根におおわれていて支障はないから、同じ意味を持たせ得ると考えられたのであろう。建物は、実は素材が問題なのではなく、屋根があるかどうかが最も重要なことであった。最低限必要なものとは屋根だから、建物のことを「や(屋・舎)」と言った(注17)
 大浜宿禰は阿曇連の祖先であると断られている。阿曇の字面は、仏教とかかわりがあるかと指摘した。仏教関連で「平らぐ」とあるほどに大飯食らいのアマ(尼)として、鬼子母神(きしもじん、きしぼじん)があげられる(注18)。自分には子どもが500とも10000ともいわれるほどあったのに、よその人の子を奪い殺し食べていた。釈尊は鬼子母神のいちばん末の子を鉢の下に隠し、鬼子母神に子を失う親の悲しみを悟らせた。鬼子母神は改心して五戒を受け,以後王舎城の守護神となったとされる。鬼子母神は、梵名のハリティ(Harītī)=訶利帝母(かりていも)の意訳である。また、歓喜母(かんきも)、青衣とも訳す。青と表わされて、青魚の代表、鯖と関係があることをにおわせている。サバ(mackerel)は中国で、「鮐」、「青花魚」と書かれた。
 鯖が劣化する点に関し、食中毒の起こし方に、特にじんましんになることがよく知られている。鯖の縞々模様を見ただけでも痒くなるという人までいる。アナロジー思考がゆきわたっている。悪い毒を身に持っていると思われていたのではないか。「身毒」という字は、「天竺」とも書くインドのことをいう(注19)。仏教はインドに起こっている。また、インドのことは、贍部洲、閻浮提とも称される。これは生飯(さば)のイメージと連動する。鬼子母神は(訶利帝母)は、心を改めて不殺生を守るが、すると今度は、何を食べたら良いかという疑問が浮かぶ。仏教は思想体系として網羅されており、答えは周到に用意されている(注20)。生飯(さば)を食べなさいということになっている。つまり、大炊(おほいひ)の尼さんとは、後に改心する鬼子母神が他人の子を漁って食べていたことを暗示している。
 大炊寮から割り当てられる食糧に、炊いたご飯の場合があった。炊いたご飯が支給されたら、家に持って帰ってその日のうちか次の日の朝にでも家族で食べればいいのだが、何日も置いておけるものではない。腐ってしまう。見た目は白いご飯で上等の銀舎利に見えても、すえた臭いがしたらよしておいた方がいい。まことに、魚の鯖に同じである。ところがおもしろいことに、その両者を合わせてうまく乳酸発酵させると、鯖の馴れずしが出来あがる(注21)。鯖と給飯の両者を桶に合わせ漬け、鯖読みするように2日を1日と思って気長に待っていると、おいしく食べられるようになる。不思議な食べ物である。すなわち、鯖読みという誤謬かと思える言辞は、自己言及的に誤謬を消化している。すごく時間が経っているのに腐らずに、生(なま)のままの飯(干飯ではない)、ならびに鯖(干物や焼鯖、鯖節ではない)状態を保っている。鯖の馴れずしほど、頭を悩ませつつもたいそう喜ばれる食べ物はない。サバ(鯖・生飯)なのだから、鬼子母神の貪食欲を叶えるのにもってこいである。
鯖のなれ寿司(長浜生活文化研究所HP「長浜くらしノート」http://naga-labo.org/daily/%E3%81%95%E3%81%B0%E5%AF%BF%E5%8F%B8%E3%82%92%E8%B2%B7%E3%81%84%E3%81%AB%E3%80%81%E5%B0%8F%E6%9E%97%E5%95%86%E5%BA%97%E3%81%B8/)
 これは、捕獲してしまった鯖という手におえないやっかいな生鮮品の群れを、上手にまるごと飼い馴らしたことに当たる。上手に飼い馴らすことは、古語に、アマナフ(甘)という。鳥飼のことを「鳥甘」、馬飼のことを「馬甘」と記されることがあった(注22)。語義的には、海人(あま)や尼(あま)に、字義的には甘(あま)に、そして決まり文句として「さばあま」という言葉に収斂されているわけである。そして、本諺が阿曇連と関係せられているのは、阿曇連が得意の柴使いをもって管掌する名負いの人と目されていたことと一致する。(注23)
 尼僧のことをアマと呼ぶ。一説に、パーリ語で ammā は、母、女性の意であり、その音写であるとされている。尼僧の見た目の特徴に剃髪があり、高齢の女性の一部に髪の抜けた人がいる。アマ(海人)という言葉が既存し、後を襲って和訓されるようになったのであろう。そこに何か共通するものを見て取ったから、古代の人は同じアマという語に収めている。海人は潜水して漁を行い、尼は剃髪して頭巾や衣被きをかぶる。ともにカヅキ(潜、被)の様子に共通点がある。尼は人であることを止めて出家した身である。女の生き腐れである。そう考えてみても、「さばあま」という言葉は、言葉の技としての諺たるにふさわしい。
 馴れずしを作るとき、桶の中に鯖とご飯とを積み上げていく。交叉させて積み上げていくことは、上代語にアザフ(貯)と言っている。

 夫の品(くさぐさ)の物悉(ふつく)に備へて、百机(ももとりのつくゑ)に貯(あざ)へて饗(みあへ)たてまつる。(神代紀第五段一書第十一)
 倉廩〈㮹字附〉 唐韻に云はく、倉円きを囷と曰ひ、去倫反、渠殞反といふ。兼名苑に云はく、囷は一に廩と云ひ、力稔反〈萬呂久良(まろくら)〉、一に〈與奈久良(よなくら)〉と云ひ、一に〈伊奈久良(いなくら)〉と云ひ、倉也といふ。釈名に云はく、倉、七岡反、甲倉〈古不久良(こぶくら)〉、校倉〈阿世久良(あぜくら)〉、俗に之れを用うといふ。今案ずるに、本文並びに未だ詳らかならず。……(和名抄)

 交叉させて積み上げることが貯えることにつながる。倉庫建築に最適なものは校倉造であると、言葉の上からも認められる。技法上のことはさておき、言葉の上でそれをアゼクラと定めたのは知恵である。外壁に四角い柱を四角く交叉させて積み上げている。鯖の馴れずしの材料は、腐りやすくて到底貯蔵など不可能と思われたものどうしなのに、アザフ(貯)ことができてしまった。アザル(鯘)的なものなのに、自らをアザムク(欺)が如く、別の醗酵が生じている。
 鯖を貯(あざ)うことなど考えられもしなかった。人々の経験に基づく知恵によって、技術は発達し、塩鯖どころか馴れずしまでも開発された。馴れずしの発明が応神朝であったかはさておき、日本書紀の筆録者の修辞においては、大炊寮の給飯によって持ち帰ったご飯が食べきれずに無駄になることとの兼ね合いが捻られたと推測される。すなわち、鯖と三飯との洒落である。無駄にならないようにするには、三飯としての施しを与えることがある。阿曇という用字に屋根を意識させていたのは、屋根の上に三飯を置くからであり、アヅミという語に何かを積むように感じさせるのは、貯(あざ)ふことと関係させているのである。あろうことか、鯖と給飯とを桶の中に交互にぎっしりと積み重ねてうまい具合に貯蔵しておくと、ともに腐っていくであろうと思われるものが、長持ちする保存食にして不思議な味覚のものに超熟したのであった。
 諺は言葉の技である。言葉と事柄とが合致しないとして海人が「さばめく」事態が起こっていたが、阿曇連の祖の大浜宿禰の登場で、言葉の意味に重層化が生まれ、言=事という秩序が回復された。それを「さばあま」という「諺」として収めている。サバに、鯖と生飯の語を掛け、鯖の生き腐れ、鯖読みといった慣用句を交えつつ、アマという語に海人に加えて尼も含める。馴れずしによって鯖読みという言辞が実は正しい「読み」であることも主張する。そんな巧妙な言葉の“あや”が、「さばあま」という諺である。諺はあくまで言葉のワザ(技・業)であり、多義的に組み合わされた言葉の“あや”があやなされたもの、それが上代の諺そのものである。
 そしてその“あや”の重層性が「諺」という枠組までに及んでしまうところが、「さばあま」という諺の凄さである。アザ(痣)、アザフ(貯)、アザル(鯘)、アザムク(欺)といった語の言葉のワザとは、コトワザの waza のなかに aza という音を入れ籠構造にしてしまい、「さばあま」という「諺」が形成されている。言語の論理学に精通していた上代人の、面目躍如たる側面を目にすることができる格好のテキストである。
(つづく)