遠州横須賀城は明治7年に廃城となり取り壊されましたが、町屋ではその時当時は貴重品だった瓦を払い下げてもらい、自宅の瓦に使っていました。
清水家でも多くの瓦を払い下げてもらったようで、その中に「城内清改」の文字の入った瓦がたくさんあります。
これは当時お城の中で疫病が流行ったり、また死人が出たりすると縁起が悪いということで、「城内清改」すなわち城の中を清め改めるという瓦を差し替えて、ゲンかつぎをしたといわれています。
掛川市景観形成地区認定状、清水邸ご本宅内に掲示してあります。
書斎は片付けずに、戸棚の中も当時のままの本を置いてあります。当時のご当主様の性格やご趣味、また興味が推測できておもしろいです。
お茶室に関わる子どもたち用のお話をもう一つ、本格的なお茶室は躙り戸(口)といって、狭い低い戸をくぐってお茶室へ入ります。
これは身分に関係なく、誰しもが頭を下げて入るという意味もあります。
また天井が低いのは、二人になることが多いため、刀を抜こうとした時に天井に当たって抜けないようになっているといいます。
※諸説あります。
ご本宅内には、江戸時代の横須賀の地図があります。
この地図を見るとお城のすぐ南は入江(姥が懐)で、現在の弁財天川今沢橋付近に横須賀湊があったとされています。
今もその辺りを「三河屋堤」と呼んでいる場所もあります
今に残る横須賀12町も横須賀街道もそのままですね。
建てられた当初の昔通りの大空間もそのままですが、十年ほど前まではここに郵便局の建物がありました。
昔通りの姿に戻したくて撤去し、古の姿にもどりました。