斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

平和ボケのただの日本人が、中央アジアのネタと、日本に残る遊牧遺構の記事など書いた。

宮ヶ瀬 清川村

2024年06月01日 | 自己満

だいぶ前に宮ヶ瀬湖畔園地に行った。

 

今日は本厚木駅5番乗り場から宮ヶ瀬行きのバスに乗り、終点の宮ヶ瀬湖まで行った。先日はその途中の「上飯山」で下車した。

 

牧民の遺構が見つかるか見つからないかは、天の采配が大きいという事で、遺構探しに凝らなくてもいいと思った。

 

*カネディアン🔱が倭人から略奪し、手に入れた和種馬や家畜の脚質は、日本の山勝ちな地形に適していて、山岳地帯を越える事も出来たのではないかと思う。

《カネディアン🔱: 約400前に日本に渡航して来た蒙古系遊牧民。現在、金田(カネダ)地区に定住している人民の祖先だと考えられる》

 

 

倭人は牧畜目的の家畜を飼育しておらず、農耕用か荷運び用の牛🐮や駄馬🐴非常食用の山羊🐐などを飼育していた。

 

峠を越えて、長野、山梨へ足を伸ばしていたのかも知れない。

 

山を登れど登れど更に高い山が現れる。終点の宮ヶ瀬に到着。

 

宮ヶ瀬ダム🦫は、中津川に完成した首都圏最大級の人造湖、ダムである。現在、神奈川県に欠かせない水源地となっている。

 

宮ヶ瀬のバス停を下車後すぐそこに宮ヶ瀬湖畔園地がある。ここは親水地で、芝生広場や、吊り橋、池のある庭園、カヌー🛶や焼き肉などが出来る場所も設けている。カヌー🛶は庭園の池で出来る。遊覧船に乗ってダムを航行する事も出来る。

 

バス停を降りて山と芝生を見渡す景色

なんて雄大な景色なんだろう!

 

宮ヶ瀬ダム🦫

 

宮ヶ瀬の未来を見つめるモミの木

 

説明書

群馬や長野のモミ🌲は、このような温暖で高温多湿な場所では難しいのかも知れない。

カネディアン🔱の家畜も、こんな高温多湿な相模國なんかより、長野・群馬など高原の方が快適なのかも知れない。

 

長野・群馬まで夏営地を求めて移動した年もあったのかも知れない。

牧民はその年の気候に合わせて営地を変更する。ある年はカナダ地区🏹🔥(ダルハン地区🏹🔥)、ある年は信濃國(長野)

 

庭園の池。この時期も良い。切り拓いて人工的に作った空間だが、それも良い。向こう側に見える疎に木がある所に馬を放牧したら絵になる。

 

吊り橋

 

池に浮かぶ島

 

吊り橋からのダム🦫

 

今日は、ダムの水が少ない。ダムの縁の薄い緑色の部分何だろう?鉱物にも見える。

 

吊り橋全景

 

この辺り一帯には元々、モミの木が自生していたらしい

 

自生していたモミの木🌲

ここ宮ヶ瀬は、長野のような寒冷地ではないがモミが自生するような植生であった。

先ほどのモミの木とは違う種類なのかも知れない。

 

モミの木の説明書

 

みやかぜみーや館に入る。ここは、クラフトなどの工房。

 

ネズミ🐭自分にはこのような個体同士の関係性が感じられるモノは作れない。

 

 

清川村・宮ヶ瀬水の郷交流館に入る。ここは歴史的な遺物や逸話などを展示している。

 

宮ヶ瀬の七不思議というコーナーがあった。そのひとつに、おとぼうが淵というものがある。

 

 

「オトボウよオトボウよテンゴボウが負われて連れていかれるぞい」

 

自分はこれを見て一瞬、何これ?と思った。*オトゴンテンゲル山🏔️(エンフ・タイワン)というものを連想してしまった。

《オトゴンテンゲル山🏔️: モンゴル国🇲🇳西部ザブハン県にあり、ハンガイ山脈に属する。標高4,008m。古くから神聖な山として信仰されている。》

 

考えられるのは、カネディアン🔱の父親と「オト坊」などと名付けられた息子との日本語での会話。「テンゴ坊」というのは別の息子ではないかと考えられる。

 

カネディアン🔱という蒙古人🇲🇳アイディンティティーを持ちながら、倭人と共存する複雑な立ち位置を表しているのではないかと考えられる。

家の外では日本語を話し、息子には蒙古名を残したいという想いがありながら、対外的には「倭人」として生きなければならない為、倭人男児にありふれた「坊」という呼称でよんでいると考えられなくもない。そして、山岳信仰のとても強い家族なのではないか?

 

或いは、倭人と共存するカネディアン🔱僧侶(チベット仏教僧(ラマ))は一般家庭よりも更に複雑な立ち位置であった。「〜坊」は僧侶の呼称。オトボウ、テンゴボウは、山岳信仰オトゴンテンゲル山🏔️信仰を彷彿とさせられるが、人名に坊をつけているのだろう。これは僧侶同士の会話という事が考えられる。状況と時代背景を考えると、平穏な話題ではない。彼らは外で日本語ではない言語を喋っているところを倭人に見つかると、身が危険である。江戸時代は異教徒と異民族に対する弾圧が苛烈だった。前者の親子でも、平穏な内容の話題とは限らない。

 

将軍徳川家と言われるが、正確には(征夷大)将軍徳川である。征夷大将軍は平安、鎌倉辺り迄で終わってしまい、蛮族が征服された時点でいなくなってしまったと勘違いする。

 

「征夷大将軍とは、東方の「蝦夷(蛮族)」を征討することを任とする大和朝廷の役職である。 権限の大きさから臨時にしか置かれなかった。 後に、武家の棟梁の称号となり、源頼朝の鎌倉幕府の頃より、武家政権の為政者としての意味を持つようになる。」

《引用: Yahoo JAPAN》

 

しかし、将軍とは、江戸時代になっても(征夷)の意味が含まれていた事が分かった。単にMilitary leaderを意味する武家政権の為政者ではない。

徳川家はMilitary Leaderであり、倭人以外の民族を討伐する役割もあった。倭人以外とは、外国人移住者、倭人化を拒む在倭異民族を意味する。徳川家は、有事の芽を摘む、紛争の芽を摘む為に、異民族を討伐していた。幕府としては天下平定の為、倭人一色にしたかった。

 

倭族とは、日本に於いて、時の主流民族を指した。日本の主流民族とは、戦で政権を勝ち取った民族を指す。邪馬台国の倭族と、大和政権(朝廷)の頃の倭族と、徳川時代の倭族はそれぞれ全く違う血統的種族であった。日本は昔から平和だったと言われるが、戦争ばかりをしている。

 

倭人というのは、ある郷土史資料によれば、倭族化した人を言う。元々血統的には異民族だが、倭族と同じ慣習で生きるようになり、日本語を話すようになり、倭族と同じ宗教に改宗し、倭族に吸収されてしまった人達をいう。

 

自民党一党独裁に通ずるような気もする。

 

オトボウ、テンゴボウの話に戻る

淵の近くで息子に語りかけている男の声が、偶然通りかかった漁師の耳に入り、漁師はこれを、淵の中の魚が、自分の悪口を言っていると勘違いして逃げ出したと解釈できる。

 

或いはそれと同様の会話を僧侶がしていた所を偶然漁師が通り掛かった。(以下同文)

 

淵の中の魚同士の会話で、ある魚が「オトボウ」という名の魚に話し掛けている。「テンゴボウ」という大魚が捕まえられ、背負われて運ばれていくと言う。漁師は、大魚を連れて行くと祟りなどが起きると思い、魚を置いて逃げ出してしまったのかも知れない。

 

昔の倭人には、自然界と密接に共存していると考える精神世界があった。

 

いずれにせよ、日常的に耳覚えが無い言葉なので不気味に聞こえたのであろう。

 

オトゴンテンゲルという言葉を知らなかったら、これを見ても反応できなかったのかも知れない。

 

 

 

昔の倭人は、現代では分かりずらい感覚の中で生きている。

 

遠くに見えるとうもろこし畑が、敵の槍に見えて自決した話などが書かれていた。

勝ち目がない戦だと思えば、敵を探る事や逃げる事を考えず自決する。

 

敵に囲まれた大将は、仲間の為に投降する。自分が犠牲になれば仲間の命を助けてくれると敵を信じる。投降した自身は殺されると分かっている。

自分が死んだ後、仲間がどうなるか責任が持てない。敵は敵だから裏切るに決まっていると思うが、敵も律儀に、自己犠牲の精神を重んじ、仲間を殺す事はなかった。

 

昔の倭人は、そのような精神で生きていた。

 

宮ヶ瀬の歴史

 

鎌倉から江戸の部分を抜き出す。

 

宮ヶ瀬を開墾したと伝承される人物は、井上角之承(イノウエカクノショウ)という。

 

鎌倉時代を過ぎた頃の宮ヶ瀬は足利の領地だった。今までに二度開墾されたという

 

宮ヶ瀬は江戸時代 天領(幕府直轄地)

その為、税収が安定していた。

 

歴史博物館の存在がとても有難い。オトボウ・テンゴボウに出会えた事もそうだが、歴史が調べてあるものがまとめてそこに置いてあるという状態がとても有り難かった。

 

清川村を経て帰る。

カネディアン🔱はこの辺りで狩猟をしていたのだろう。清川村は細長い構造の村である。山間部はどこもそう。

 

 

超越した者が、自分の注意を引こうとする力が働いているような気がする。

カネディアン🔱の行動範囲が限定されていない事や、営地をランダムに選定していた可能性のある事を考えると、どこでカネディアン🔱に出くわすか分からない。

 

普通、点が先に現れてそれを繋ぐ線を考えるものだが、自分には線が先に見えていたが「点」が見つからなかった。最近になって、線上に「点」が現れ始めた。

 

オトボウ、テンゴボウのおとぼうが淵の逸話は、今に伝える暗示を含んでいる。オトゴンテンゲル🏔️に関するメッセージ性がある気がする。

煤ヶ谷や宮ヶ瀬は山岳地帯である。

 

オトゴンテンゲルと直接関係が無くても何かありそうである。

 

この逸話で、自分たちの存在を後世に伝えたかったのでしょうか?

 

実際には謎の声も漁師も無かったのかも知れないけど。オトボウとテンゴボウを連呼する事で人々の注意を引く意図が垣間見える。

 

全く関係ない場所で込み上げて来て、堪えるのが大変だった。他人がいて恥ずかしかった。

 

江戸時代にはこういう話がめちゃくちゃ多い。

 

テンゴボウはどこに連れて行かれてしまったのか?

 

オトボウ、テンゴボウは多岐に渡る解釈が出来る。

 

「オトボウよオトボウよテンゴボウが負われて連れていかれるぞい」

 

韻踏みをしている。ラップの一文にも聞こえる。この歌詞の続きが知りたい。

 

ここ(宮ヶ瀬)迄来て再度カネディアン🔱に真正面から遭遇した。

 

以前、歩き回る事は無駄で馬鹿馬鹿しいと書いたが、歩き回る、出掛けるなどしないと得られない情報もある。これが貴重であったりする。

 

決してネットには載ってない事も多々ある。

 

ここ最近カネディアン🔱🇲🇳が出現する。

 

カネディアン🔱出現事例

 

・厚18系統 飯山行き路線沿線で出会った謎の石群を後で見返したところで、カネディアン🇲🇳は実在したと確信出来た事から始まる。石囲いの跡ではないかと確信。

 

・廣田千恵子先生が上げたインスタで、モンゴル国内🇲🇳で撮影したカナダ型🏹🔥かと考えられるオボー☸️🕉️を上げていた。

 

・ブルーオーシャンというラジオ番組のパーソナリティ住吉美紀氏が、自称「カネーディアン🔱」と連呼していた。

 

・清川村 宮ヶ瀬の観光地の歴史博物館で見た宮ヶ瀬の七不思議のひとつに「オトボウ オトボウ テンゴボウ」という声が聞こえたという話。

 

宮ヶ瀬湖畔園地は、連れや相棒など懇意にしている人と来る事を勧める。宮ヶ瀬界隈はバスより車での移動が良い。

 

オトゴン・テンゲル山。インスタからの引用であるが、その美しさがよくわかる。

長文のご精読ありがとうございます😊

 

《カナダ地区🏹🔥: 倭国にある地区名称。金田地区(カネダ)というものが倭人が定めた行政区画である。カナダ地区というものはモンゴル牧民目線でなんとなく定めた地区のひとつ》

 

*「カナダ(金田)🏹🔥」と使うのは、牧民が鏃などを盛んに鍛造していた事を意味するが、幕府軍や奉行などの火縄銃と牧民らの弓矢🏹と戦ったら戦果は一目瞭然、牧民らは火器の餌食。恐らく牧民らが幕府軍と相対し紛争が起きた時、彼らの約半数は戦死しただろうと考えられる。元寇の頃は「てつはう💥」という火薬型の火器を使ったが、西洋人の開発した銃は持っていなかった。これはモンゴル本国にいる人も同じであった。

 

ロシアのコサック軍とモンゴル軍が戦った時と同じでロシア軍の火縄銃が弓矢のモンゴル軍を打ち破った時のように、鉄器は火器には勝てなかった。

 

ご精読ありがとうございます。

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