古代四方山話

古代について日頃疑問に思っていること、思いついたことを徒然なるままに綴ってみたいと思っています

神功皇后の裏切り

2020-10-31 10:10:12 | 歴史

第10代崇神天皇が実在する初めての天皇で、倭の五王「武」=第21代雄略天皇が現れるまでは、ヤマト政権はずっと連合国家であり、天皇は連合の盟主だったと考えています。

 

「宋書倭国伝」には讃と珍は兄弟、興と武も父親を済とする兄弟であると書かれています。

ところが、珍と済がいかなる関係にあったのかについては書かれておりません。

二つの系譜は血縁関係になかった可能性があります。

このことから倭の五王の頃までの天皇というのは、万世一系ではなく、連合しているクニグニの首長の持ち回り制だった可能性さえあるのではないかと、最近、私は疑っています。

 

そんな中、第12代景行天皇からヤマトタケルを経て第14代仲哀天皇までは、血族で皇統を引き継ぎ、専制君主を目指して東奔西走していたのではないでしょうか。

代が替わるごとに宮を遷す歴代遷宮が当たり前の中、景行天皇の志賀高穴穂宮で子の成務、孫の仲哀天皇が即位している特殊性はこのことと関係しているのではないでしょうか。

そして九州は連合制を良しとし、専制君主をめざす天皇に反発していたのだと思うのです。

尾張も連合政権支持派であり、反発しレガリアである草薙剣を手元に取り戻したのでは。

 

仲哀天皇の皇后である神功皇后は、実は「連合の盟主たる天皇制」を支持する勢力の一員であったとは考えられないでしょうか。

日本海勢力と思われる神功皇后は、いかにも北部九州と繋がっていそうです。

「専制君主たる天皇制」をめざす派の仲哀天皇の元へ、刺客として乗り込んだのが神功皇后だったと妄想しております。

北部九州の首長たちは仲哀天皇にではなく、日本海勢力の神功皇后がやってきたからこそ、こぞって恭順したのでは?

 

ヤマトが裏切ったのではなく、裏切ったのは神功皇后で、北部九州と通じ合い仲哀天皇を亡き者としてしまったように思えます。

熊襲を征討にきたのだという名目を果たすために山門県の女首長を滅ぼして、

実は仲哀天皇の子ではなく武内宿禰の子である、後の応神天皇を連れてヤマトに帰還しようとします。

仲哀天皇の皇子・忍熊王は父を殺された故、ヤマトに戻ろうとする神功皇后一派を向かえ撃ったのではないでしょうか。

神功皇后が「連合の盟主たる天皇」を出せる家柄であったため、ごたごたはあったものの、応神天皇が天皇として認められる結果となったように思えるのです。


オオクニヌシの幸魂 奇魂 ②

2020-10-29 14:06:39 | 歴史

神話の中でオオクニヌシの幸魂・奇魂は自らを「やまとの国の三輪山(御諸山)に祀れ」と指示しています。

指示どおりに祀られた三輪山・大神神社の大物主神がこのオオクニヌシの幸魂・奇魂です。

倭大物主櫛甕魂という名前もお持ちです。

この名前の櫛甕魂も怪しい…。

ひょっとしてオオモノヌシが小さな蛇となって櫛笥に入っているのも櫛=越で、越を暗示している可能性はないでしょうか?

するとオオモノヌシは出雲の神と思いきや、越の神なのでしょうか?

 

神武天皇即位前紀では、神武天皇がヤマトにやってきたとき、ヤマトに盤踞していたのは「夷」だったことが歌われています。

蝦夷であるならば、出雲よりも越や関東のほうがそれらしい…。

 

櫛甕魂の櫛は奇であり越だとすると、甕とは関東の神と考えられる天津甕星の「甕」でしょうか?

天津甕星=天香香背男は関東といっても常陸方面と思われ、さきたまとは距離があり過ぎるかなぁ…。

関東には甕がつく神様がもう一柱。武甕槌です。

しかし武甕槌は出雲に国譲りを迫った神だからあり得ないか…。

いや、武甕槌や経津主が関東勢力で、出雲の国造りに尽力した神だからこそ、国を譲れといわれて禅譲に至ったのではないのでしょうか?

オオクニヌシは越や関東の力を借りて出雲の国造りをし、その関東に国を譲れと言われて譲ることとなったのでは?

タケミナカタが越を経由して諏訪に逃れたとの伝承は、国を譲らされた出雲の人々が国造りを助けたもう一方の勢力=越を頼ったから生まれた伝承なのでは?

 

あれ?そもそも出雲の古い時代に関東や越の影響はうかがえるの???

・・・となり妄想から覚めます。

櫛や奇が越と関係すれば妄想が妄想を呼び、色々面白いんですがねぇ・・・

 


オオクニヌシの幸魂 奇魂 ①

2020-10-27 11:16:48 | 歴史

縄文時代の人口密度の数字を眺めていると、また妄想に捕らわれてしまいました。

今回は幸魂・奇魂についてです。

 

縄文後期の100万方kmあたりの人口(推定)は、関東が一番多く161人、中部が73人、東北65人、北陸63人、東海54人と続きます。

中国地方が最も少なく7人です。

推定人口16万300人のうち、14万700人が東日本、西日本はたったの1万9600人だそうです。

今から約2500万年前に気候が寒冷化して急激な人口減少がおこるまでは、東日本が圧倒的に先進地だったようです。

中国地方の出雲は、縄文時代にはまだ過疎地域だったことでしょう。

 

日本書紀のオオクニヌシ(オオナムチ)に関する神話に幸魂・奇魂が登場します。

神々しく海を照らしてやってきた光が

「私がいなければ、あなたは国を平定できなかった。私が共に国造りをしたからこそあなたは大きな功績を立てることができたのだ」

と語っています。

オオクニヌシが「あなたは何者か」と問うたところ

「私はあなたの幸魂 奇魂である」と答えています。

出雲大社には神話のこの場面を再現した、波と光る玉に向かい合うオオクニヌシの像があります。

 幸魂 奇魂 守給 幸給

出雲大社の「神語」です。

出雲大社教信者だった祖父母が存命中は、おくにがえりの際に私も「神語」を謹書し奉納してまいりました。

 

さきたま古墳群の「さきたま」の地名由来は幸魂からとする説があります。

オオナムチの国の平定を助けた「幸魂」とは、縄文後期には一番人口が多かった関東「さきたま」の勢力だったのではないでしょうか。

これが今回の妄想です。

神道でいうところの「幸魂」が助けたということではなく、現実に「さきたま」の勢力が出雲を開拓するのに尽力したということではないのかと疑っています。

「奇魂」はクシイ=越の勢力でしょうか。

これは関東や越の勢力の助けによってオオクニヌシが出雲を平定したという、古層の神話ではないのでしょうか。

神を冒涜する気はさらさらございません、祖父母よ怒らないで。


褐鉄鉱製鉄 ③

2020-10-25 10:32:03 | 歴史

原始的製鉄では世界的に褐鉄鉱が使われていたのだそうです。

スウェーデンやハンガリーでは泥状沼鉄による褐鉄鉱製鉄が行われていました。

鉄は熔解しなくとも700度~800度で可鍛鉄が得られるらしいですから、縄文土器を焼く温度で製鉄も可能です。

1870年には既にドイツの学者、ルードヴィヒ・ベッグ氏が青銅器よりも先に鉄器がつくられたという「鉄器先行説」を主張してます。

もし作られていたとしても粗製鉄器は腐食しやすいため、残らないのだといいます。

古代の日本においても、ベンガラの材料として高師小僧や鬼板などを日常的に熱していたのであれば、褐鉄鉱による製鉄があったとて不思議ではないと思うのです。

 

岡山県赤磐郡の門前池遺跡は弥生中期末の遺跡です。

浅いピット内の一部に焼土面があり、その側から多量の褐鉄鉱(沼鉄)が出土してます。

報告書では鍛冶炉遺構となっているようですが、製錬炉ではないかとの意見もあるようです。

この遺跡などは褐鉄鉱製鉄の遺跡のように思うのですが。

 

日本では紀元前3世紀頃に鉄器が伝わったものの、製鉄が始まったのは5世紀後半から6世紀というのが通説です。

本当に800年もの長きにわたり、製鉄技術は伝わらなかったのでしょうか。

しかも日本で始まった製鉄は、中国や朝鮮半島では5世紀後半には痕跡のない「たたら製鉄」だというのですから、どうもおかしい。

 

広島市小丸遺跡では3世紀のものと推定される2基の製鉄炉が見つかっています。

鉄鉱石やスラグと共に弥生後期の土器片も製鉄炉遺構のそばから出土しており、弥生後期の広島で製鉄が行われていたことは間違いないようです。

今後も続々と弥生以前の製鉄遺跡が発見されれば、日本の古代製鉄の実態が解明されるでしょうか。

 

ひとつ行き過ぎた妄想を語ります。

銕という字はなぜ金偏に夷なのでしょうか。

鉄の中国への伝播はシルクロードを通ってきたはず。

中国は四方のえびすを東夷、西戎、南蛮、北狄と言い分けています。

西から来たえびすの金なら、金偏に戎がテツという漢字になっていてもいいのでは。

夷の字を使ったのは鉄が最初に中国に伝わったのが、実は東のえびすからだったから。

東とは=倭。鉄が伝わったとき、中国の人は「これは倭が使っている金属だ」と思ったのなら楽しいんですが。

 

しかし褐鉄鉱製鉄があったならそれを手放した理由がわからないので、やはり褐鉄鉱製鉄などなかったのでしょうか。

材料となる褐鉄鉱なら今でも豊富に採れますもの。


豊葦原の褐鉄鉱とベンガラ

2020-10-23 11:20:01 | 歴史

「豊葦原の瑞穂の国」「豊葦原千五百秋瑞穂国之水穂国」

記紀における日本の美称です。瑞穂はとにかく、葦原をなぜ称えるのでしょうか。

葦原が「豊葦原」と称えられたことは、葦の根もとに高師小僧や鈴石などと呼ばれた褐鉄鉱ができたことと関係しているのかもしれません。

葦そのものは茅葺などに使用され、根もとの褐鉄鉱はベンガラの材料となったのだと思われます。

 

ベンガラは人類が最初に使用した顔料です。

17000年前のフランス・ラスコー洞窟の赤色壁画にもベンガラが使用されていることは有名ですね。

日本においても旧石器時代の石皿や石臼に付着しているといいますし、縄文早期からは赤彩土器や赤色漆などの使用例があります。

9500年前の鹿児島県・上野原遺跡の土器や、6000年前の福井県・鳥浜遺跡の櫛など、ベンガラを使用した遺物が多数出土しています。

以降、古墳の装飾やベンガラ格子などに日本各地で使用されており、褐鉄鉱の「阿蘇黄土」は今でも商業採掘されています。

最近ではペットの消臭用に使用されたりするようです。

 

褐鉄鉱を800度ほどの高温で焼くと、簡単にベンガラとなるそうです。

縄文時代に土器を作るのに野焼きをした温度が600度~800度だといいます。

土器を作っている際に偶然にも褐鉄鉱がベンガラに変化したのが、高師小僧などをベンガラの材料とする始まりではないかと推測できます。

 

弥生時代の近畿地方の盟主的な環濠集落と考えられている唐古・鍵遺跡からは、不思議な褐鉄鉱が出土しています。

褐鉄鉱で作った容器の中に2個の翡翠勾玉が納められたものです。こんなものが出土しているのはこの遺跡だけです。

古代中国では褐鉄鉱内の粘土を不老長寿の仙薬として珍重していたそうです。

唐古・鍵遺跡の人々はこのことを知っていたのでしょうか。

なぜ翡翠勾玉が褐鉄鉱の容器に入れられていたのかは不明です。

現在のいわゆるパワーストーンの世界で、翡翠勾玉が不老長寿の石とされているのは偶然…ですよね。