古代四方山話

古代について日頃疑問に思っていること、思いついたことを徒然なるままに綴ってみたいと思っています

天叢雲剣と越の国

2020-10-21 10:19:03 | 歴史

記紀神話の中で天岩戸隠れの際に、八咫鏡と八尺瓊勾玉は作られています。

八咫鏡と八尺瓊勾玉が一般名詞であるならば、瓊瓊杵尊が天照大神からもたらされた鏡と勾玉が岩戸隠れの際のものと同一であるとは限りませんが、ヤマト政権のご先祖はどうやら八咫鏡と八尺瓊勾玉を作ることができたようです。

八咫鏡と同じサイズと思われる平原王墓出土の大型内行花文鏡は仿製鏡だと考える研究者が多く、このことからも八咫鏡は自らで作成可能な鏡であると推測できそうです。

 

対して天叢雲剣はヤマタノオロチの体内から出た剣とされます。

ヤマタノオロチを退治したスサノオの十握剣(天羽々斬剣)ではなく、敗者の側の剣が天皇のレガリアとなっていくのです。

天叢雲剣とはそれほど別格なものなのでしょうか。

スサノオの十握剣が欠けたというのですから鉄剣のように思われるのですが、江戸時代に熱田神宮の神官が盗み見たところによると「長さ85センチほどで刃先は菖蒲の葉のようになっており、剣の中ほどは厚く魚の背骨のような形。色は白っぽくサビがなかった」といいます。

この刃の形状は銅剣だけなのだそうで、また錆びやすい鉄が白っぽい色のままの状態というのも考えにくく、鉄剣ではなく銅剣なのかもしれません。

 

ヤマト政権には服従(連合に加盟かもしれませんが)したクニの神剣がたくさんあったことでしょう。

その中でなぜ出雲神話の中でスサノオが倒したヤマタノオロチの剣が別格となったのでしょうか。

これはヤマタノオロチが特別視されたということと考えてもよいのでしょうか。

古事記では「高志のヤマタノオロチ」と記されています。

ヤマタノオロチの人身御供となるはずだった櫛稲田姫は、私見ではクシイ・ナダ姫です。

越のヌナカワ姫の祖父・父神の名に共通する久辰為(くしい)こそが越であると考えています。

ナダは蛇の古語であり、ヤマタノオロチに関連する姫の名前としてクシイ・ナダ姫が相応しいと考えます。越の蛇のお姫様です。

ヤマタノオロチは越の国と関係すると考えて間違いないように思います。

草はクシの訛りで、蛇のことをナギともナダとも言います。

すると草薙もクシナダ?

 

ヤマト政権にとって「越」が特別だったということなのでしょうか。

越には何か秘密がありそうです。


なぜ草薙剣は固有名詞なのですか

2020-10-19 11:15:31 | 歴史

八咫鏡、八尺瓊勾玉、草薙剣。

なぜ剣だけが固有名詞なのかが、ずっと気になっています。

 

卑弥呼の墓かもしれない福岡は平原王墓出土の大型内行花文鏡は、直径46.5センチもある鏡です。

この鏡の円周は、漢の時代の寸法で「八尺」=八咫となるため、発見当時から伊勢神宮に伝わる八咫鏡との関係が取り沙汰されてきました。

具体的な数字ではなく大きいという意味で「八」が使用されたと思われてきましたが、平原王墓の鏡が出土以降、八咫は寸法と考える研究者も増えたようです。

また八咫鏡は、周防国の神夏磯媛が服従の意を示すために景行天皇に差し出しています。唯一無二のものではないようです。

八咫鏡というのは円周が八咫の長さになる大きな鏡を指す一般名詞だと考えられます。

 

八尺瓊勾玉についても、岡県主・熊鰐や伊都県主・五十迹手、周防・神夏磯媛が服従に差し出しています。

丹波の甕襲からも献上されています。

「八尺瓊」の解釈については諸説あります。

八尺の尺は咫と同じ。これを鏡と同様に寸法とみるのか、それとも単に大きいという意味と取るのか意見が割れるところです。

鏡が寸法であるならば、勾玉も寸法とみるべきでしょうか。

八尺とは約140センチです。

この長さを結わえてある緒の長さが140センチの御統の首飾りだと考えると、八尺という寸法は非現実的なものではなくなります。

天照大神の神話中の勾玉も「八尺瓊之五百箇御統」です。

赤い瑪瑙の勾玉なのか翡翠勾玉なのかはさておき、八尺瓊勾玉についても一般名詞だと考えられます。

 

八咫、八尺ときて剣だけに固有名詞をつけるというのは、どういう美学なのでしょうか。

まさか草薙剣や天叢雲剣も一般名詞?

また、剣で八尺は長すぎるにしても、八握剣ではなぜいけなかったのでしょうか。

初期のヤマト政権は連合国家。八咫鏡、八尺瓊勾玉、草薙剣がそれぞれ元々どこのクニのレガリアだったのかが気になっているのですが、鏡と勾玉が一般名詞、つまり他にも存在しうるものであれば、その出処は特定できそうにないですね。


大王(おおきみ)  絶対君主と連合体の盟主

2020-10-17 10:51:39 | 歴史

3世紀の遺跡と考えられる奈良県の纏向遺跡からは、他の遺跡より多くの比率で外来土器が出土しています。

この遺跡は実在した初めての天皇とされる崇神天皇から垂仁、景行天皇と三代にわたる都の跡だと考えられています。

遺跡のあり方から初期ヤマト政権は絶対君主が統治したものではなく、各地のクニグニが連合して国家を成したものとの説が昨今では有力です。

 

ヤマト政権の大王が絶対君主ではなく、各地域の連合体の「盟主」という存在だったのは、いつまでなのでしょうか。

少なくとも、倭の五王「珍」や「済」の時代までは連合体の盟主だったように思えます。

「宋書倭国伝」に425年の珍の朝貢の際「珍、又倭隋等13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号に除正せんことを求む」と記されています。

自身が「安東将軍倭国王」の称号を賜るにあたり、何故か臣下の称号まで宋の皇帝に求めているのです。

451年の済の朝貢の時も同様に他人の称号を求めています。

珍や済が専制君主であったなら、臣下の称号などを求める必要はなかったでしょう。

これは連合政権内のクニグニの首長を懐柔するために、中国の皇帝の権威を利用したのではないかという説があります。

珍や済がどの天皇にあたるかについては学者の間でも意見がわかれておりますが、5世紀になってもヤマト政権はどうやら連合国家です。

初の専制君主はきっと、倭王「武」=雄略天皇でしょう。

 

5世紀の吉備に墳丘長350メートルもの巨大古墳、造山古墳が築かれたり、

雄略天皇が葛城で天皇そっくりの一言主神と出会ったりすることからすれば、

大王は盟主権をもつ首長の持ち回りだったり、

祭祀王と政治王は別で2人いた可能性さえも考えられないでしょうか。

 

記紀においては、服従儀礼の際に鏡・剣・勾玉を差し出しています。

この三種の宝は首長たる証しだったと考えてよさそうです。

ヤマト政権が連合政権であったなら「三種の神器」とは一体どこのクニの首長の証し、神器だったのかが気になるところです。


淡路島の弥生鉄器工房

2020-10-15 10:43:45 | 歴史

鉄器製造が北部九州に偏っていたとされることに、まず一石を投じたのが淡路島です。

播磨灘を見下ろす海抜200メートルの地にある五斗長垣内遺跡は、弥生時代後期の遺跡です。

23の竪穴式建物のうち12棟が鉄器工房とみられ、約130点もの鉄器が出土し世間を驚かせました。

およそ100年間にわたり鉄器作りをしていた様子です。

 

ほぼ同時期、五斗長垣内遺跡から6キロほど南西に舟木遺跡が存在しています。

舟木遺跡からも4棟の竪穴建物跡と刀子などの鉄器や鉄片、約60点が出土したそうです。

 

どちらの遺跡も2世紀後半が最盛期で、3世紀には終わっていたようです。

突然山の上に現れた2つの遺跡は、3世紀、大阪湾の奥に纏向遺跡ができた頃に何故か消滅しています。

この2つのムラに当時貴重だった鉄器を作らせていたのは、はたして淡路島の勢力だったのでしょうか。

淡路島は紀元前からの青銅器が多数出土しており、淡路島には古くから財力も勢力もあった様子です。

それとも阿波や播磨、紀、摂津などのクニが秘密を守りやすい離島に工房を設けたのでしょうか。

遺跡が突然現れ、忽然と姿を消すことから考えるに畿内の勢力の秘密工房とみるほうがロマンがあるかもしれません。

しかし淡路島で鉄器を作っていたにもかかわらず、纏向が造られる直前の畿内は鉄不足だったというのですから不思議です。

淡路島で作られた鉄器はどこで使われたのでしょう?

 

一番最初に生まれた島とされるくらい重要な島ですから、淡路島からはまだまだ何か出土しそうです。

舟木遺跡は「淡路市国生み研究プロジェクト」を立ち上げお金も人もかけて発掘調査を行った結果、大きな成果をあげています。

大企業が本社を淡路島に移すことにより淡路島の財政が潤い、あるいは新たな工事が必要となった結果、まだ見ぬ遺跡が発掘されることを期待して止みません。

・・・発掘されたらされたで、私の場合、また判らないことが増えそうですが。


淡路島と銅鐸

2020-10-13 11:51:06 | 歴史

国産みの島、淡路島からは21点もの銅鐸が出土しています。

淡路島の銅鐸を思うに、イザナギは鐸(さなき)の神だと感じます。

松帆銅鐸は弥生時代中期前半の最古級の銅鐸と同じ特徴を持っているそうです。

出雲の荒神谷と同范の銅鐸も出土しています。

この銅鐸に付着した植物片の放射性炭素年代測定を実施したところ、銅鐸は紀元前4世紀から紀元前2世紀に埋納されたということがわかったと、南あわじ市の教育委員会より発表されています。

松帆銅鐸の研究が進み、私には銅鐸を埋納した理由がますますわからなくなりました。

 

銅鐸が埋納された理由は、首長霊信仰の成立によるものであると多くの研究者が発言されています。

しかし松帆銅鐸は紀元「前」4世紀から紀元「前」2世紀に既に埋められたというのです。

この埋納が首長霊信仰と本当に関係しているのでしょうか。

しかも銅鐸は各地でバリバリの現役である時期に埋められるのです。

要らなくなっただけであれば、銅鐸を他の地域に流通できたはず。

銅鐸を欲しがる地域も多かったでしょうに。

倭国大乱の時期でもないし、この直前に災害の痕跡が淡路島であったという学者の話も聞いたことがありません。

 

そもそも淡路島に多くの青銅器が眠っているのは何故なのでしょうか。

淡路島の銅鐸は舌を伴って埋納されており、これは淡路島の地域性だと思われることから、銅鐸を埋めたのは畿内の中心地域の集団などではなく、淡路島の在地勢力だという説があります。

淡路島は青銅器をたくさん所持できる豊かな島だったということです。

交換財があったがこそ青銅器を所持しているはずですが、淡路島の交換財は何だったのでしょう。

交換財ではなく、海運で財をなした島なのでしょうか。

 

銅の交換財は何だったのか。これは淡路島だけの話ではありません。

倭国は一体何を銅と交換していたのでしょう。

朱?硫黄?木材?海産物?布?玉?それとも奴隷?