古代四方山話

古代について日頃疑問に思っていること、思いついたことを徒然なるままに綴ってみたいと思っています

仲哀天皇と西の海と神功皇后

2021-04-05 11:52:12 | 歴史

記紀において仲哀天皇は神託を信じないように書かれていますが、その直前の部分でも貶められているように感じてしまいます。

仲哀天皇と神功皇后が熊襲を討つために筑紫の香椎宮にいたときに神功皇后に神がつきます。

「熊襲など貧しい地でなく海の西の方へ行け。そこに宝の国がある」というような内容の神託を受けた仲哀天皇は「西の方を見るとただ海ばかりである」と言って信じません。

福岡からは朝鮮半島は見えませんから、仲哀天皇が見えないというのはその通りだと思うのです。

でもこの話だと仲哀天皇は「朝鮮半島に豊かな国があることを知らない」人だと小馬鹿にされていませんか?

 

神託を信じなかった仲哀天皇が亡くなった後、神功皇后は所謂「三韓征伐」に出向きます。

神功皇后その人であったかどうかは別にして、倭人がしきりに朝鮮半島に侵入していたのは確かなようです。

倭人というのが日本列島の人かどうかについては見解がわかれるところですが。

「三国史記」「梁職貢図」「好太王碑」どれをとっても倭人は朝鮮半島に侵入しています。

この「倭」にヤマトが含まれていないにしても、九州を討とうとしている仲哀天皇が朝鮮半島の国々を知らないかのように書かれているのは、私には貶められているように感じるのです。

鉄だって必要だったでしょうに、朝鮮半島を知らない??

朝鮮半島と直接関わりを持っているのは九州だったとしても、大和の田舎者は朝鮮半島さえ知らないとでも言いたいのかと・・・。

一説には香椎宮付近がイザナギの禊によって多くの神々が生まれた「筑紫の橘の小戸の阿波岐原」だとされます。

香椎宮で死んだとされる仲哀天皇は貶められたわけではないのかな?とも思いますが。

 

神託の裏事情は神功皇后と通じ合っていた北部九州が、ヤマト王権の軍事力を利用して朝鮮半島を攻めたというところなのでしょうか。

朝鮮半島と事を構えたくない仲哀天皇を亡き者として。

仲哀天皇は熊襲に討たれて亡くなっただけかもしれませんが、大王が討たれた後に神功皇后率いるヤマト軍が九州を征して朝鮮半島にまで手を出したって筋書きには無理があるような…。

 

「三韓征伐」を神功皇后の功績として高らかに歌い上げるのであれば、なぜ神功皇后が卑弥呼かもしれないというような辻褄の合わない匂わせをするのでしょうか。

卑弥呼の実績として「三韓征伐」は相応しくないでしょう?卑弥呼の魏への使いの話を変貌させたにしては話が違い過ぎるでしょう?

百済から七支刀などの重宝を献じられたのも神功皇后だとされますが、神功皇后=卑弥呼なのであれば魏を匂わせて鏡を貰っておけ、と思ってしまいます。

神功皇后が台与であるなら台与であることを匂わせ、先代として卑弥呼らしき人物をでっちあげればいいではありませんか。記紀はいろいろでっちあげているでしょうに。

卑弥呼なんて正直、台与よりも奴国王よりも貧相な貢物を献じているじゃないですか。奴国との関係を匂わすなら、日本は倭奴国の後なり でまだ理解できるのですが。

後の大和朝廷にとって邪馬台国はそんなに特別な存在だったのでしょうか?

もし邪馬台国が特別な存在であるならば、神武天皇の出発地が南九州と思しき書かれ方をしているのもその関係なのかも?

神武天皇が邪馬台国の王だったと考えているわけではありません(その可能性も否定しません)。

魏志倭人伝を素直に読むとどうしても邪馬台国は南九州に存在する、と記紀の編者たちが考えたのだと思うのです。

大和朝廷の始まりを邪馬台国に繋げたいという意思が垣間見れるように感じるのは、思い過ごしでしょうか。


コメントを投稿