古代四方山話

古代について日頃疑問に思っていること、思いついたことを徒然なるままに綴ってみたいと思っています

天彦根命・天御影命②

2020-07-31 11:38:30 | 歴史

天津彦根の子とされるのが天御影命(あめのみかげのみこと)です。

天御影は近江富士たる三上山を神体山とする御上神社に祀られている神様です。

 

もし天津彦根がアジスキタカヒコネと同一神であるならば、気になるところが下鴨神社の御蔭祭です。

葵祭を前に執り行われる神事で、祭神の若返りを願い約4キロ北東の「御蔭山」から新たな神霊を迎えます。

祭神が降臨した聖地であり、太陽がただ射すところという意味で御蔭山と呼ばれるそうです。

御蔭山中にある下鴨神社の摂社・御蔭神社で神霊の荒御魂を御神櫃に移して下鴨神社へ運びます。

世界遺産下鴨神社(賀茂御祖神社)の主祭神は、賀茂建角身命(かものたけつぬみのみこと)と娘の玉依媛命(たまよりひめのみこと)です。

この賀茂建角身の化身が八咫烏だとされます。

八咫烏はアジスキタカヒコネと同神だといわれるので、賀茂建角身は即ちアジスキタカヒコネということになります。

 

賀茂建角身が降臨した山が御蔭山と呼ばれ、葵祭に賀茂建角身の「若返り」を願って御蔭山から神霊を迎えるのは、

 賀茂建角身=八咫烏=アジスキタカヒコネが若返ったら御蔭(天御影)になる

ということを暗示しているのではないでしょうか。

天津彦根はアジスキタカヒコネと同一神であり、その子が天御影ですよという暗喩ではないかと疑います。

 

例えば出雲大神宮の神体山も御蔭山であり、一般的に御蔭山とは御神影の意で神の恩徳がこもっている山のことを指すのでしょう。

しかし神戸の御影という地名は、一説に本住吉神社の神影が現れる背後の山を御影山と名付けたことからだ付いた地名だといいます。

住吉神はアジスキタカヒコネと同一神かもしれません。付近は天津彦根の子孫の勢力地だったようです。

この御影山も「天御影の山」ではないのでしょうか。


天津彦根命・天御影命①

2020-07-29 09:36:18 | 歴史

天なるや 弟棚機の項がせる 玉の御統 御統に 穴玉はや

三谷二渡らす 阿遅志貴高日子根神ぞ

 

アジスキタカヒコネの名を明かす歌です。

天上界にいる機織り姫で玉の御統を身につけているといえば、真っ先に天照大神が連想されます。

天照大神と素戔嗚尊の誓約において、天照大神の八尺瓊之五百箇御統(やさかにのいおつみすまる)から生まれた神の一神が、天津彦根です。

この誓約の際に同じく天照大神の御統の玉から生まれたのが、天皇家の祖先・瓊瓊杵尊の父神、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかつあかつあめのおしほみみのみこと)であり、

素戔嗚尊の剣から生まれたのが宗像三女神です。

古事記では鬘に巻いた玉から生まれたと記されていますが、日本書紀第六段一書㈢では「首にかけた玉」を口に含み、左の腕に置くと生れたのが天津彦根です。

 

下照姫の詠んだアジスキタカヒコネの名を明かす歌は、御統の玉にたとえられるに相応しい神としてタケミナカタを暗示していると思いましたが、

ひょっとして

  アジスキタカヒコネとは 実は天津彦根のことであるよ

と明かしているのではないでしょうか。

それとも同時に生まれた宗像三女神がアジスキタカヒコネの母なので、天津彦根の暗示はあるものの

  アジスキタカヒコネとは 実は天御影のことであるよ

と明かしているのでしょうか。

 

 

 


八幡大井、諏訪、住吉は同体④

2020-07-27 10:11:23 | 歴史

アジスキタカヒコネが天若日子と間違われた際、妹神の下照比売がアジスキタカヒコネの「名を明かす歌」を詠んでいます。

     天なるや 弟棚機の項がせる 玉の御統 御統に あな玉はや

     み谷二渡らす阿遅志貴高日子根神ぞ

 

    天上界にいるうら若き機織姫が頸にかけておいでの御統の首飾りの玉

    その玉のように谷二つにも渡り照り輝いておいでのアジスキタカヒコネの神であるぞ

 

「名を明かす」とされる歌においてアジスキタカヒコネは玉の御統にたとえられているのです。

一般的に雷神とされるアジスキタカヒコネが、なぜ御統の玉にたとえられるのでしょうか。

例えば銅鐸であれば音もしますし輝きもありますが、御統…。もちろん記紀の当時に銅鐸は忘れされれた存在でしたが。

武神でありながらも翡翠の女神・ヌナカワヒメの子であるタケミナカタであれば、玉の御統にたとえられるに相応しい神ではないでしょうか。

アジスキタカヒコネとタケミナカタは同一神ではないかとの疑いが深くなります。

ヌナカワヒメは宗像の女神の別名なのでしょうか。

 

タケミナカタ=アジスキタカヒコネ=住吉神なのであれば、住吉神が「ヌナ」倉に祀られることにも合点がいきます。

神功皇后が新羅から帰還途中、住吉神が「吾が和魂をば大津の淳中倉(ぬなくら)の長狭に居さしむべし」と託宣したことが日本書紀に記されています。

この淳中倉の長狭に住吉神を祀った地が、神戸の本住吉神社だと考えます。

ヌナ=翡翠は海神の神宝と考えられていました。海神とは住吉神でもあるタケミナカタを指すのかもしれません。

 

それにしても諏訪の地に同じ海神でありながら、住吉神でも宗像神でもなく、綿津見神が祀られるのは何故なのでしょうか。

安曇族はどうして諏訪にやってきたのでしょうか。

 

 


八幡大井、諏訪、住吉は同体③

2020-07-24 11:32:11 | 歴史

宗像がタケミナカタと関係していないと、住吉や応神天皇と諏訪が同体という繋がりが見えてこないように思います。

宗像がヌナカタであり、タケヌナカタと繋がっているのであれば、宗像の子である住吉、孫である応神天皇と諏訪が同体とされる所以がわかります。

また、アジスキタカヒコネが住吉なのであれば、アジスキタカヒコネの異母兄弟であるタケミナカタが諏訪や応神と同体とされてもおかしくはないと思います。

しかし、いま一歩踏み込みたいとも思います。

 

長野県佐久市に鎮座する佐久一之宮たる新海三社神社の伝承に興味深いものがあります。

新海三社神社はタケミナカタの子神である興波岐(おきはぎ)命を主祭神とする神社です。

西本社には誉田別命も祀られています。

この神社の伝承によると、タケミナカタが諏訪から日光二荒山の母神を訪れる途中、上野国貫前の女神と契り、興波岐命が生まれたというのです。

タケミナカタの母神は日光二荒山にいるのだというのです。

日光二荒山の母神とは、女峰山山頂にある二荒山神社別宮・滝尾神社の奥社に祀られている田心姫のことではないのでしょうか。

田心姫はアジスキタカヒコネの母神です。

であるならば、アジスキタカヒコネとタケミナカタは異母兄弟ではなく、同一神なのではないでしょうか。

 

アジスキタカヒコネの聖地である二荒山男体山頂遺跡から出土された鉄鐸が、日光二荒山神社宝物館に所蔵されています。

鉄鐸も二荒山と諏訪、つまりアジスキタカヒコネとタケミナカタの共通項です。


八幡大井、諏訪、住吉は同体②

2020-07-22 10:21:27 | 歴史

ヌナカワヒメの「ヌ」(あるいはヌナ)は、翡翠を表す古語です。

古来より翡翠は新潟県糸魚川周辺が一大産地でした。全国各地の遺跡から糸魚川産の翡翠が出土しています。その糸魚川の翡翠の女神様が、諏訪のタケミナカタの母神・ヌナカワヒメなのです。

越のヌナカワヒメの子神、タケミナカタは本来「タケヌナカタ」なのではないでしょうか。

また同族と思われる「宗像」さえも、元来は「ヌナカタ」なのではないでしょうか。

諏訪の薙鎌の形は鳥や蛇体を模していると言われますが、勾玉の形にも似ています。

 

ヌナカワヒメの祖父神は「意支都久辰為命(おきつくしいのみこと)」、父神は「俾都久辰為命(へつくしいのみこと)」であるといいます。

オキツ・ヘツは、宗像の沖津宮・辺津宮などと同様に海神族で用いられる言葉です。

祖父神、父神に共通する久辰為(くしい)こそがに違いありません。

 

「クシイ」に関しては気になる姫がいます。八俣大蛇退治でスサノオが娶ることとなる櫛稲田姫です。

一般にクシ/イナダヒメとされるこの姫は、クシイ/ナダヒメなのではないでしょうか。

クシイつまり越の国のナダ姫です。クシイ/ナダ姫は越の八俣大蛇を破ったスサノオが先勝品。

そのクシイ/ナダ姫の親神とされる手長・足長もタケミナカタと共に諏訪の地に祀られています。

神名の櫛が「クシイ」なのであれば、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやいのみこと)の櫛玉がクシイとは関係してこないか、

越の国とニギハヤイが関係しないのかも、俄然気になるところです。

 

日本海沿いにタケミナカタの出雲からの敗走ルートと考えられている地が連なっていますが、これは元々タケミナカタの勢力地だったのではないでしょうか。

宗像、出雲、信越へと連なる日本海勢力があったのでしょう。

ツクシ(チクシ)とはツクシイ(チクシイ)の転訛、また仲哀天皇の亡くなった香椎もクシイの転訛であり、宗像はヌナカタ、宗像周辺は越と関係深い土地だったのでは?と考えます。