古代四方山話

古代について日頃疑問に思っていること、思いついたことを徒然なるままに綴ってみたいと思っています

蘇我氏は諏訪と関係がありますか?

2021-02-27 12:55:06 | 歴史

蘇我氏の本拠地だった飛鳥と、応神天皇陵、住吉大社は一直線に並んでいます。

この直線の延長線上に伊和神社、倭文神社があることから蘇我氏は出雲の出身者なのかと、以前考えました。

 

今回気になってきたのは、諏訪と蘇我氏の関係です。

諏訪大社上社の「大祝信重解状」には諏訪明神が守屋大臣(洩矢神)を追討したと記されているといいます。

洩矢神(守矢神)はタケミナカタより前の先住の神ですが神の名を「大臣」としていることから、これはもう物部守屋のこととしか思えないではありませんか。

物部守屋は廃仏派として崇仏派の蘇我馬子との戦いで敗死したとされます。

もっとも物部氏の本拠地である八尾市の渋川から廃寺跡が出土し、物部氏が廃仏派であったことについては疑問を持たれています。

また物部氏の史書「先代旧事本紀」には物部守屋と蘇我馬子の争いさえ記されていません。

 

しかし日本書紀を信じるのであれば、犬猿の仲の物部守屋を追討したのは蘇我氏です。

大祝信重解状において、物部守屋が洩矢神に仮託されているのであれば、諏訪明神に仮託されているのは蘇我馬子のはずだと思うのです。

タケミナカタは出雲のオオクニヌシの子神とされます。

蘇我氏が出雲の出身ということでタケミナカタに仮託されたのでしょうか。

出雲の国譲り以降、諏訪に引き込んだタケミナカタが後の蘇我氏だったらもっと面白いなぁ・・・

 

「大鏡」で中臣鎌足の出生地とされた鹿島神宮の神宝は271cmもの直刀、十握剣です。

十握剣は一般名詞でしょうが、もしこれをスサノオのものであると考えるならば、中臣鎌足に首をはねられた蘇我入鹿はヤマタノオロチに仮託されたとは考えられないでしょうか?

ヤマタノオロチは越。タケミナカタも越のヌナカワヒメの子神です。

蘇我氏の祖、武内宿禰は孝元天皇の系譜で母は紀国造の女とされます。

しかし蘇我氏には日本海勢力の匂いが濃厚にするように思うのです。

八幡大井、住吉、諏訪は同体です。


閑話

2021-02-26 07:48:47 | 歴史

あなたがいつ くだらなくない話 をした?との声が聞こえたような気が…

 

久しぶりに松本清張氏の「古代史疑」を読み直しました。

やっぱり面白いですね。とても昭和に書かれたものとは思えません。

生れていなかったなどと しょうもない冗談を言うつもりはありませんが、私がまだまだ漢字を読みこなせない時代の書物です。

なのに全然古びていません。

でも高木彬光氏の「成吉思汗の秘密」になると本当に生まれていませんよ。

推理小説家の書かれた古代史もの、大好きです。

古代史疑のような形ではなく、完全な推理小説であれば大胆な説であろうと許されますし。

自分にこのような文才があれば、書いてみたいものです。憧れます。

しかし何を書く?

まさかの疑問をばかり並びたて 一切解決しない迷探偵(名をば咲くやこの花と申す…)がでてくる話とか?

 

大阪のおばちゃんです。飴ちゃんは持ち歩きますし、知らんけどは口癖です。ただし指ピストルで打たれても倒れません。

古代史ブログを書いているようには見えません。どちらかというとオシャレ生活ブログを書いているような…。と、これは顔だしすることはないので言いたい放題です!

私が古代についてわからないと思っていることと、古代妄想を書き綴っているだけのブログです。

わからないことなんてそんなにあるだろうか?続けられるのか?と思っていましたが、なんのなんの、まだまだわからないことだらけ。

しばらくは書かせていただきたいと思っています。

お目汚し、失礼いたしました。


「ぬ」の勢力

2021-02-24 19:17:41 | 歴史

少し前の2019年発行の本ですが、ちくま新書の「考古学講義」大変楽しく読ませていただきました。

第7講「青銅器のまつりとは何か」で北島大輔氏が、銅鐸と玉作りとの関連を指摘されています。

玉作りの広域ネットワークと古式銅鐸の分布がほぼ重複しているというのです。

 

こういうものを読むともう妄想が止まりません。

 「ぬ(ぬな)」と「ぬて(ぬりて)」

 この「ぬ」がつく祭器、玉と銅鐸が関連しているなんて!!

 縄文以来の玉作りの広域ネットワーク「ぬ」の勢力があったに違いない。

 青銅が伝わった弥生時代、その「ぬ」の勢力が作った青銅器が「ぬて」。

 「ぬ」といえばぬなかわひめ。「ぬ」なかわひめの子、タケミナカタはたけ「ぬ」なかたで、宗像も「ぬ」なかた…。

 宗像氏の墓所かと考えられている奴山だって「ぬ」やまだぞ。

 この勢力が「ぬ」の勢力?でも銅鐸とも関連する??

 また、奴国だって「な」でなく「ぬ」?

 それとも2つの奴国のうち1つが「ぬ」?

 「ぬ」の勢力の本拠地は一体どこなのか。各地のネットワークであり本拠地なんてものは特にないのか。

・・・と北島氏の話からどんどんかけ離れて・・・

 

「ぬ」が翡翠を指すものであれば、「ぬ」も「ぬて」も歴史の中で一旦忘れ去られたものです。

忘れ去られた祭器であることも、偶然?


オオクニヌシと白楯

2021-02-22 14:58:42 | 歴史

日本書紀の出雲国譲りの話の中で、異伝としてオオクニヌシのために「幾重にも革を縫い合わせた白楯を造りましょう」とあります。

革盾とは弥生時代以来の伝統的な木盾と異なり、古墳時代中期に突如出現し副葬品に加わったもので、古墳時代後期には副葬品としての役割を終えるものなのでは?

神庭荒神谷や加茂岩倉に青銅器が埋められたころに革の盾ってあったのでしょうか?

 

八千矛の神・オオクニヌシはおそらく弥生時代の神ですよね。

オオクニヌシが矛の神なのは深い意味があることなのでしょうか。

山陰では荒神谷を除くと今のところ銅矛の出土はみられないようです。

綾杉状の文様から荒神谷で出土した銅矛は、佐賀平野など北部九州で作られたと考えられています。

青銅器の文化圏については以前とは違った考えが一般的になったものの、銅矛の「本場」は九州なのでは?

 

古墳時代の革盾は黒漆を塗布したものと、さらにその上に一部赤漆を塗布したものがあるようです。

黒や赤が一般的な中、オオクニヌシが賜った「白楯」とは一体どういうものなのでしょう?

 

弥生時代の木製盾は厚さ1センチに満たないものが多く、1センチにも満たない間隔で小さなさな孔を整然と穿つために柔らかいモミの木で作られています。

孔に糸や樹皮、革紐などを通して文様を作り、また貴重な水銀朱や黒漆を塗布したものもあるようです。

薄くて柔らかい木材、美しい装飾。

木盾も武具としてではなく、祭祀用であった可能性のほうが高いように思うのですがどうなのでしょう。

 

高地性集落や環濠集落は絶対にあったし、戦いで死んだ人骨も出土します。

倭国が争いのない国だったとは思えないのに、弥生時代の人びとは武具を祭祀用に転じていく…。

荒神谷に埋められた銅剣や銅矛だって祭祀用だと思われます。戦いに用いた武具ではないでしょう。

出雲の国譲りとは本当はいつ、どんな形で起こった出来事なのでしょうか?

 


出雲大社柱跡

2021-02-20 19:22:03 | 歴史

2000年に出雲大社境内から3.5メートルの巨木を3本組にして1つの柱とした柱根が出土した時には心底驚きました。

本当に48メートルもの木造巨大神殿が建っていたようだ!すごいっ!!

「天の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建てる」ことが大国主の国譲りの条件でした。

出雲大社の巨大神殿はその約束を果たすために造られたと考えられています。

 

高天原がどこであるかは虚構の可能性も高く、邪馬台国を探し当てるよりも困難で永遠の謎だと思われます。

出雲大社は高天原の建物を真似てあるはずですが、出雲大社境内から出た柱跡と類似するような遺物は国内外のどこからも出土していません。

この柱跡が出雲大社境内から出土したとき以降、私は天孫が中国大陸や朝鮮半島からやって来たとは思えなくなりました。

出雲大社の建築と大陸や半島の建築とでは、根本的な発想が違っているように思えてなりません。

 

海外よりむしろ鳥取県の稲吉角田遺跡から出土した弥生中期の土器の絵のほうが気になります。

柱と梯子が異常に高い建物が描かれています。

この絵に描かれた建物が出雲大社の大神殿の前身だとの説も多くあります。

これがすなわち48メートルもの神殿の絵だとは私も思っていませんが、出雲や鳥取などではこういう柱と梯子が異常に高い建物を伝統的に建てていたのではないのでしょうか。

しかし、高い建物や長い梯子の遺物は山陰からも出土していません。日本列島の他の地域からも出土していません。

どこかから三本組の柱跡、出ませんかね。

場所によってはそここそが高天原だとなりそうですが。

 

いっそ古代エジプトが高天原でピラミッドの大回廊と出雲大社が類似していると捉えるほうがロマンがありますか…。