古代四方山話

古代について日頃疑問に思っていること、思いついたことを徒然なるままに綴ってみたいと思っています

勾玉

2021-01-28 17:41:21 | 歴史

勾玉の形については諸説あるものの、未だ何の形であるか定説には至っておりません。

獣形勾玉などを見ると胎児の形なのかとも思いますが、そうすると緑色の翡翠に拘った理由が理解できません。

月の形であるならば、太陽の意匠とされる鏡とのバランスが取れていないにもほどがあるように思います。

動物の牙を模したのであれば、固い翡翠を労力かけて削らなくても牙を身に付ければ?って思ってしまいます。

頭が日を尾が月を表し宇宙の表現だとか、魂の意匠なのだとかいう説もあります。

 

金属がまだなかったとされる縄文時代から翡翠の勾玉は作られます。

硬い翡翠を勾玉形に加工して穴をあけるのにどれほどの労力がかかったことでしょうか。

細い竹ひごを使い、きりもみ法で翡翠に穴をあける実験では3時間で1ミリほどしか進まなかったそうです。

そこまでしてあの形にし穴を開けてぶら下げているのだから意味ある形のはずなのですが、これまでの説では納得いくものが私には見当たりません。

あの形のみが重要なのであれば、何も翡翠で作る必要はないと思います。

なのに何故か勾玉の素材は翡翠に拘っていたように見えるのです。

 

翡翠が珍重されるのは理解できます。

翡翠という鉱物が作られるためには高すぎない温度と高い圧力が必要で、翡翠の産地は地球上でも限られています。

その一つが新潟の糸魚川です。

貴重な翡翠を勾玉の形にしたら棄てる部分もたくさん出てしまいます。

翡翠を身につけたいだけなら、勾玉よりも大珠(たいしゅ)のほうが目立ちますよね?

富山の朝日貝塚から出土した大珠は長さ15.9センチもあります。

 

猫がマタタビを体に擦り付けるのは、マタタビに蚊よけの効果があるためだとの京大などの研究が発表されていました。

あの意味不明に見えた猫の行動に意味があったようです。

勾玉の形、翡翠への拘りについても「ほぅ~」と唸る説が発表されませんかね。

自分は思いつかないので他力本願です。

 


卑弥呼・台与と真珠

2021-01-24 13:05:08 | 歴史

真珠って綺麗ですよね。あの光沢や石にはない暖かみとかが大好きです。

天然真珠だけの時代であれば私には手に入れられなかったかもしれません。

「世界中の女性を真珠で飾りたい」と養殖を成功させてくださった御木本幸吉氏に感謝です。

 

真珠って何故か古墳からはほどんど出土しません。

発掘できない宮内庁管理の古墳に大量に眠っているのだとか、交換財として朝鮮半島や中国にほとんど渡ってしまったからだとか言われています。

魏志倭人伝によると、卑弥呼は魏の皇帝から真珠を50斤(約11キロ)、もらっています。

卑弥呼の墓かもしれない平原王墓からも真珠は出土していません。

卑弥呼は魏の皇帝からもらった綺麗な布類や真珠を身に付けたのでしょうか。

巫女である卑弥呼は古来からの呪具である翡翠や麻などしか身に付けなかったのでしょうか。

卑弥呼の墓かもしれない箸墓に真珠が大量に眠っている可能性はありますが。

そういえば古墳ではないですが古事記の編者、太安万侶の墓からは4個の真珠が出てきてますね。

 

真珠を卑弥呼が魏からもらっているのに、台与は白珠=真珠五千個を魏に貢ぎます。

白珠って本当に真珠なのでしょうか?

珠というのは海の産物、玉は陸の産物のことらしいですから白い海の珠ってやっぱり真珠なのかなぁ…。

とすれば卑弥呼がもらった真珠が、今でいうところの真珠ではないのでしょうか??

 

台与は白珠五千個の他に「青大句珠」をも貢いでいます。

青大句珠とは大きな翡翠の勾玉だと解釈されています。

平原王墓からはガラス製の青い勾玉が出土していますが、青大句珠とは本当に翡翠勾玉なのでしょうか。

しかし珠なのですから、ガラス製ではなく翡翠ですよね(翡翠は海の石と古代の人たちは思っていましたから珠です)。

魏に貢いだ真珠と翡翠勾玉の数が全然違っています。真珠が五千個に対して、翡翠勾玉はたったの2個ぽっきり。

大きな翡翠勾玉って当時の倭人にとって大変価値のあるものだったと推測できます。

やはりヌナカワヒメの国、越は大きな力を持ってたに違いないと思うのです。


畿内の鉄

2021-01-19 17:34:18 | 歴史

青銅器と鉄はほぼ同時期に朝鮮半島経由で日本列島に伝わったとされます。

弥生時代にまずは北部九州に入って来た青銅器と鉄。

纏向遺跡が誕生する直前の畿内からは鉄の出土が著しく少なく、その時代の鉄の出土分布は北部九州に偏っていると言われてきました。

最近ではタニワなどにも鉄が多く存在したことが判明していています。

 

銅鐸文化圏という言葉があったように、近畿では銅鐸を盛んに作っていました。

その青銅は一体どこから手に入れていたのでしょうか。北部九州が絡んでいないとは思えないのですが。

鉄資源をめぐって倭国大乱が起ったとするならば、青銅はなぜ争いの対象とならなかったのでしょうか。

当時の青銅器は神器として使用されており、巫女王の時代には対立国に青銅器による宗教的な権威を与えることは危険なこととなりかねないようにも思われます。

実用品ではなかったから青銅だけは畿内と交易していたのですか?

 

徳島県阿南市の加茂宮ノ前遺跡は弥生中期末~後期初頭の遺跡です。

20軒ほどの竪穴住居跡のうち10軒から19か所の鍛冶炉や鉄器作りに用いた道具類が出土しています。

淡路島の五斗長垣内遺跡も弥生時代後期の製鉄遺跡です。

徳島や淡路島で鍛冶炉が出土しているのに、畿内に鉄が入っていないなんてことがあるのでしょうか。

畿内が鉄欠乏状態にあったというなら、北部九州だけの嫌がらせ(?)ではないですよね。

北部九州や出雲・タニワなどの日本海側、阿讃吉備などの瀬戸内海側、皆が一斉に鉄を畿内に渡さなかったのだと思われます。

しかも鉄のみを渡さず、青銅などの交易はあるのです。

 

畿内にも鉄はあって、その鉄は倭国大乱の折に首長が回収して武器にしてしまった、なんてことはないでしょうか?

金属回収令のように。


前方後方墳と近江

2021-01-16 10:34:38 | 歴史

前方後墳は前方後墳から派生したのだと以前は考えられていました。

前方後円墳は王家や勢力圏の首長の墓で、それに準じた者に前方後方墳の造営が認められたと。

しかし植田文雄氏は、前方後方墳は纏向遺跡誕生とほぼ同じ時代に近江に出現していたのだと主張されています。

前方後方墳が先に全国に伝播し、そのあとを追うように前方後円墳が広まっていったのだといいます。

 

ヤマトのシンボルであり全国へ伝播した前方後円墳は、纏向で誕生していることで間違いなさそうです。

ヤマトの建国は前方後円墳という新しい埋葬文化を共有することによって成されたのだと考えられています。

纏向遺跡から出土する外来土器のうちの半数近くを伊勢・東海地方の土器が占めているといいます。

伊勢・東海地方は纏向遺跡、つまりヤマトの建国に中枢として関わっており、単なる労働力だったなどとは思えません。

とすれば、前方後円墳の出現には伊勢・東海地方も関わっていたはずです。

もし前方後方墳が「纏向時代」に誕生していたなら、伊勢・東海地方にたくさん造られる前方後方墳の存在をどう考えればよいのでしょうか。

伊勢・東海は前方後円墳を創り出した勢力の一部でありながら、地元には前方後方墳を造った?

 

纏向遺跡の外来土器は伊勢・東海が半数近を占めるのに対し、近江の土器は5%ほどしか出土していません。

滋賀県の伊勢遺跡からは弥生時代後期の国内最大級の大型建物群が出土しています。

今は埋め戻されているためでしょうか、一般的な知名度が低いのが残念です。吉野ケ里に匹敵する遺跡です。復元されるか埋め戻されるかで、これだけ認知度が変わってくるのですね。

整然と並ぶ大型建物群には祭殿と思われる独立棟持柱付建物もあり、伊勢神宮との関係を指摘する説もあります。

伊勢遺跡は何故かヤマト建国の頃に衰退しています。

伊勢遺跡の住民が大和に移動したならば近江の土器がもっと出土して然りだと思うし、何故衰退したのでしょう?

近江や伊勢遺跡の人々は前方後円墳や前方後方墳にどう関係しているのでしょうか?

 

交通の要所である近江。近江と前方後方墳が古代史の謎を解くキーの1つであることは間違いないと思っています。

例のごとく私には解けない謎ですが。


長柄・豊崎と難波宮

2021-01-13 14:59:01 | 歴史

「地名は歴史の生き証人」とよく言われます。

難波長柄豊碕宮。前期難波宮の名前を見ると、モヤモヤしてしまいます。

大阪の人ならもう察していただけたでしょうか。

長柄・豊崎という地名が前期難波宮跡とは別の場所にあるのがモヤモヤの源です。

 

現在も「長柄橋」という橋が淀川に架かっています。新大阪から直線で1キロほど南にいった辺りです。

この長柄橋の西には「豊崎」という地名が残っています。この地にある豊崎神社には「大化の改新後、遷都された難波長柄豊碕宮旧跡地」であるとの伝承があるそうです。

淀川沿いの長柄・豊崎は、法円坂にある難波宮跡公園から5キロ程度離れているでしょうか。

同一地域とみるには遠すぎると思うし、かといってたまたまにしては長柄・豊崎と両方の地名が並んで存在しているのですよね。

 

長柄橋にまつわる大阪の昔話が「長柄の人柱」で、推古天皇の時代のお話だとされます。

垂水の長者である巌氏が「架橋を成功させるには人柱が必要」だと進言し結果自分が犠牲になることとなった話で「雉も鳴かずば撃たれまい」ということわざの由来だそう。

推古天皇の時代ですから、孝徳天皇の前期難波宮よりも少し古い時代にすでに「長柄橋」は淀川に架けられた様子です。

 

加えてモヤモヤするのが、この昔話に因んだ「巌氏碑」が立っているのが淀川区東三国の大願寺。

人柱の場所もこの地とされていますが、東三国は現在の長柄橋とは直線距離で2.5キロ程度離れており、淀川沿いではなく神崎川沿い(かつての三国川)なのです。

垂水の長者の「垂水」は吹田市の垂水神社付近だと考えられ、東三国のほうが長柄橋より近い…。

ここが長柄なのでしょうか?垂水から淀川に向かうならば、まず神崎川を渡る立地関係です。

垂水神社は「石走る垂水の上の早蕨の萌え出づる春にはりにけるかも」という志貴皇子の歌に出てくる「垂水」の候補地の一つです。垂水の地名も古くからの由緒ある地名です。

で、この垂水神社には干ばつに苦しむ難波豊碕宮に懸け樋を作って水を送ったという伝承が残っています。

まぁこの伝承については、一番近い東三国の大願寺が「長柄」であっても懸け樋で水を送るには遠いかなとは思うのですが、東三国=長柄も捨てがたい…。

 

あれほど立派な遺跡が出土しているのですから、法円坂が難波豊碕宮であることに異存などありません。

でも「地名は歴史の生き証人」であるならば長柄豊碕宮という名前って?とモヤモヤしてしまうんです・・・。