古代四方山話

古代について日頃疑問に思っていること、思いついたことを徒然なるままに綴ってみたいと思っています

大王(おおきみ)  絶対君主と連合体の盟主

2020-10-17 10:51:39 | 歴史

3世紀の遺跡と考えられる奈良県の纏向遺跡からは、他の遺跡より多くの比率で外来土器が出土しています。

この遺跡は実在した初めての天皇とされる崇神天皇から垂仁、景行天皇と三代にわたる都の跡だと考えられています。

遺跡のあり方から初期ヤマト政権は絶対君主が統治したものではなく、各地のクニグニが連合して国家を成したものとの説が昨今では有力です。

 

ヤマト政権の大王が絶対君主ではなく、各地域の連合体の「盟主」という存在だったのは、いつまでなのでしょうか。

少なくとも、倭の五王「珍」や「済」の時代までは連合体の盟主だったように思えます。

「宋書倭国伝」に425年の珍の朝貢の際「珍、又倭隋等13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号に除正せんことを求む」と記されています。

自身が「安東将軍倭国王」の称号を賜るにあたり、何故か臣下の称号まで宋の皇帝に求めているのです。

451年の済の朝貢の時も同様に他人の称号を求めています。

珍や済が専制君主であったなら、臣下の称号などを求める必要はなかったでしょう。

これは連合政権内のクニグニの首長を懐柔するために、中国の皇帝の権威を利用したのではないかという説があります。

珍や済がどの天皇にあたるかについては学者の間でも意見がわかれておりますが、5世紀になってもヤマト政権はどうやら連合国家です。

初の専制君主はきっと、倭王「武」=雄略天皇でしょう。

 

5世紀の吉備に墳丘長350メートルもの巨大古墳、造山古墳が築かれたり、

雄略天皇が葛城で天皇そっくりの一言主神と出会ったりすることからすれば、

大王は盟主権をもつ首長の持ち回りだったり、

祭祀王と政治王は別で2人いた可能性さえも考えられないでしょうか。

 

記紀においては、服従儀礼の際に鏡・剣・勾玉を差し出しています。

この三種の宝は首長たる証しだったと考えてよさそうです。

ヤマト政権が連合政権であったなら「三種の神器」とは一体どこのクニの首長の証し、神器だったのかが気になるところです。