古代四方山話

古代について日頃疑問に思っていること、思いついたことを徒然なるままに綴ってみたいと思っています

疫病退散の知恵

2020-12-28 18:28:26 | 歴史

半年間の罪や穢れを払い除く大祓は全国各地で、また宮中においても古くから行われてきました。

大祓が毎年6月の晦日と、12月の大晦日に行われるのは春秋二倍年暦の名残なのでしょうか。

 

大祓といえば茅の輪くぐりが思い浮かびますがそこから話は飛んで、

蘇民将来の話ってそもそもは「疫病が流行ったときにはしめ縄をめぐらして家に閉じこもりましょう」という教訓話だったのではないかと思う今日この頃です。

疫病にはステイホームが効果的だという教訓を伝えていくための話なのだと思います。

 

また「家送り」というのも疫病封じだったのではないかと妄想しています。

アイヌではチセウフイカあるいはカソマンデ(カッオマンデ)と呼ばれた家送りの儀式がありました。

老人、特に老女が死んだ折に墓地に土葬した後、個人の持ち物を家ごと焚き上げる儀式です。

家送りは焼失竪穴建物の出土状況から、石器時代から全国各地で行われた風習との可能性が説かれています。

土屋根で燃えにくく失火による焼失だとは考えにくい竪穴式建物が、消火の形跡もなく焼けた状態で数多く発掘されているそうです。

何のためだか、わざと家を燃やしたと考えられます。

この家送りの儀式も、そもそもは疫病で亡くなった一家の住居を病原菌ごと焚き上げたのが始まりではないかと考えています。

 

古代は今以上に疫病は怖いものであったと思います。

対策不能の病が蔓延するのは神の怒りと考えながらも、疫病を乗り越えられた教訓・知恵が伝えられたのではないでしょうか。

時節柄、洗面所で丁寧に手を洗いながら、神社で手水を使うことさえもそういった教訓の一つではないかと、どんどん妄想は膨らみます。

 

例年決まった神社に初詣に出かけるのですが、さて来年はどうしましょう。

ステイホーム…う~ん ((+_+))


ひらがなは神代文字?

2020-12-25 19:35:31 | 歴史

漢字が伝来する以前、古代日本には固有の文字があったのでしょうか。

神代文字としては阿比留草文字などが有名どころですね。

滋賀県彦根市の荒神山神社のお札に今でも書かれている文字も神代文字だと言われていますし、

同じ滋賀県高浜市安曇川町の阿閑神社には神代文字の刻まれた石が残っています。

先史時代に岩に刻まれた文字や文様、絵画であるペトログラフは日本各地にたくさん残されているようです。

また神代文字といえばホツマツタエに使われたヲシテやカタカムナなど、いわゆる古史古伝の真偽も知りたいところです。

 

真偽を論ずるようなものではなく、我々が日常的に使用している「ひらがな」が神代文字であるとの説もあります。

室町時代中期から戦国時代にかけての神道家である吉田兼倶の「日本書紀神代巻抄」に

「いろは四十七字は、弘法大師これを作る。かたかなは吉備大臣これを作る。あいうえをの五十字は、神代よりこれあり」

と書かれているそうです。

「いろは」は弘法大師が、カタカナは吉備真備が造ったのですが、「あいうえお」の方がもっと古くからあったというのです。

漢字が伝わってくる以前から神官など一部の人の間でひらがなが使われていたのでしょうか?

存在していたとしても、焚書にあって残っていなさそうですが。

平安後期の漢学者である大江匡房も、第十五代応神天皇の頃から「ひらがな」はあったと言っているそうです。

しかしもし応神天皇の頃の遺跡から「ひらがな」を書いたものが発掘されたとしても、応神天皇の頃のものとはみなされないのでしょうね。

後世のものが紛れ込んだとされるのでしょう。

 

万葉集が万葉仮名で書かれていることから鑑みるに、ひらがなはその頃には存在しなかったのだろうなとも思います。

ひらがなが神代文字であったと考えるほうが圧倒的に面白いと思うのですが。

それにしても「あいうえお」ってムチャクチャ良くできていると思いませんか。


十三市民病院

2020-12-22 17:43:11 | 病院

古代史以外のことを初めて書きます。

 

私は大阪在住の持病持ちで数年来、十三市民病院に外来患者として通っています。

ご存知の方も多いかと思いますが、十三市民病院は全国初のコロナ専門病院です。

一時はコロナの入院のみに特化した病院となっていましたが、今は外来も再開しています。

多くの医師が退職されましたが、私の主治医の先生方は残っておられ概ね2カ月に一度通院しています。

先日、診察に行ってまいりました。

待ち合いの椅子もガラガラで、明らかに患者数が減っているように感じます。

この病院、未だに会計が機械精算ではなく窓口で人がお金のやり取りをするので、これまでは会計にやたらと時間がかかったのですが、会計さえもスムーズです。

私などは病状が安定している期間だったから良かったものの、外来ストップの期間に多くの患者が転院せざるを得なかったことと思います。

外来を閉めている間に院長先生が、大幅な赤字であることをマスコミに打ち明けておられました。

今も絶対、大赤字ですよ。あの様子。

大阪市立の病院ですので赤字であっても無くなることはないと思うのですが、心配です。

 

いろいろな思いが錯綜します。

若い人や元気な中年は自粛に疲れてもいたしかたないな という思いが浮かんだ日には、持病がある私なんぞ自然淘汰されるべきなのかと僻んでみたりもします。

でもまだまだやりたいことがあるので、生きなければなりません。

感染対策をとっていない人や対策が甘い人がたくさんいます。

怒りの感情はわいてこず、ただただ悲しいです。


日本列島の中の倭国とそのほかの国

2020-12-21 16:55:46 | 歴史

7世紀の中国は南朝の「梁書」などによると、どうも日本列島には倭国のほかにも国があった様子です。

「文身国」は倭国の東北7千里にあり、刺青の習慣があるといいます。

物は豊かで安く、王のいるところは金銀、珍宝、美しい品で飾っている。館の周囲は濠をめぐらし、幅一丈に水銀を流している。市場がある。犯罪には厳しいと書かれているそうです。

なかなか素晴らしい国のようです。

文身国の東5千里には「大漢国」があるとし、武器がなく戦争をしない。風俗は文身国と同じだが言語が違っていると記されています。

こういう記述があると、やはり「倭国」というのは九州を指すのだろうなと思います。

九州が倭国で、扶桑国は関西、北陸が文身国で、関東が大漢国、女国が伊勢あたりでしょうか。

また「三国史紀」には、新羅の第4代王の脱解の出身地である「多婆那国」は倭国の東北1千里にあると記されています。

倭国が吸収したのか吸収されたのか定かではありませんが「日本国」もあります。

祝詞に出てくる「日高見国」もそのほかの国に入れるべきでしょうか。

 

日本列島がどの段階でどの程度、中央集権が進んでいたのかはわかりません。

しかし、大王という存在があったとしても実際は各地方で自治統括していた時期が長く続いたのだろうなと思います。

「梁書」の段階でも中国では「倭国」と「扶桑国」は別物だったのです。

白村江の戦いに敗れても畿内の政権が存続したのは、中国側の認識のお陰だったのでしょうか。

白村江で敗れたのは「倭国」であり、日本なり扶桑国なりの国には関係がないとみなされたってことはありませんか?

当時の日本列島に広域連合政権があったのであれば、一地方である九州倭国が、朝鮮半島に出兵することに反対する中央政権の蘇我氏を亡き者として白村江の戦いに挑んだのかもしれません。

ひょっとすると八佾の舞を奉納した蘇我氏は、倭国以外の国の王家だったのかもしれませんね。

 

日本書紀が隠してしまった本当の歴史、事実が知りたいと切に願います。


卑弥呼と台与の間の男王

2020-12-18 17:59:39 | 歴史

新羅本紀に249年に出兵した倭王についての記載があるそうです。

倭の使節を接待する席で「いずれ倭王は塩汲み奴隷に、妃は飯炊き女になるだろう」という冗談を言った新羅の名将、于老(うの)。

この冗談を伝え聞いた倭王は激怒し出兵したといいます。

倭王は謝罪する于老を許さず、火炙りの刑に処したそうです。

于老とは百済との戦いで大いなる戦果をあげた、古代新羅の12代王の従兄で10代王の子にあたる人物だそうです。

兵にも慕われていたという名将を火炙りにされても、新羅は倭に対して争いを起こすことはなかったようです。

当時の倭国と新羅の力関係を考えさせられるエピソードです。

列伝・于老では253年の出来事として同様の事件が記されているようですが、いずれにせよ年代的に于老を処罰した倭王こそが、卑弥呼と台与の間の男王だと思われます。

 

魏志倭人伝において、卑弥呼の死後に「男王を立てるも国中服さず」と書かれている男王のことです。

この男王では国が治まらず国中に争いが起こったため、まだ13歳にすぎない台与(壱与)を立てたところ国が治まったと記されています。

新羅本紀の記載から鑑みるに短気な人物であったでしょうが、倭国王としての権威や権力は持っていたように想像されます。

その男王だと国が治まらず、13歳の女王だと治まる・・・

私の頭ではなかなか理解しがたい話です。

邪馬台国、不思議な国です。

13歳が今の13歳であれば巫女としての女王の姿を想像できますが、春秋二倍年暦であるならば台与は小学校1年生くらいの童女の可能性がありませんか。

血気盛んな男王ではなく、童女を王として担ぐ国のあり方はかなり特殊に感じます。

 

話は変わって「歴女」というのは今では歴史好きな女性全般を指すというのが私の認識です。

だとすれば私、歴女です。

以前にも書きましたように邪馬台国がどこなのかいくら考えても判らないだけで、興味は非常に持っております !(^^)!