古代四方山話

古代について日頃疑問に思っていること、思いついたことを徒然なるままに綴ってみたいと思っています

土佐の遺跡群

2021-03-15 08:26:29 | 歴史

縄文時代末期や弥生時代の土佐が各地と繋がっていたことに、私ただいま興味津々です。

土佐市の居徳遺跡群からは縄文晩期の面白い遺物がたくさん出土しています。

まずは、金属器によるとみられる鋭い傷や矢じりの貫通痕がある人骨が三体分。

人骨にはノミ状の金属器によると思われる刺突痕があり、同時に出土した猪の解体痕にも同様の金属器が使われた様子がうかがえます。

国内最古の集団同士の戦闘行為の痕跡なのだそう。縄文時代末期に金属器で戦闘です!

この遺跡から出土した木胎漆器は、東北地方の漆を使う特徴と中国・長江流域の影響を受けたと考えられる文様を併せ持っています。

東北地方と長江流域、なんて広域なんでしょう!わくわくします❤️

日本最古の木製鍬や、全国最大級の土偶頭部なども出土しています。

 

南国市の田村遺跡群もまた面白い!

現在までに発掘された日本最大の弥生遺跡で、三重の環濠をもつ農耕集落跡です。

朝鮮無文土器の直接の影響をうけて成立したと考えられる弥生土器は、北部九州の遠賀式土器よりも古い可能性があるといいます。

大陸的要素の強い石器や九州系の石材も出土していますが、紀伊半島南部の弥生初期農耕集落との関係も考えられるようです。

紀伊半島からは太平洋ルートによる伝播が想定されています。

 

平安時代の「土佐日記」の印象からか、遠流の印象からか、土地のかたには失礼ながら土佐は辺鄙な地と勝手に誤解しておりました。

ところで太平洋航路っていつからあったのでしょうね?

どうやって渡海していたかは不明ですが、縄文の人びとは事実として遠路はるばる移動しています。

弥生時代には土佐の特徴を持つ壺や甕が少数ではあるものの宮崎にも持ち込まれている様子ですね。

太平洋ルートがもし既にあったなら、神武天皇はなぜ何年もかけて瀬戸内海を西に進んだとされるのかが疑問です(瀬戸内海航路も通れなかったと言われていますが)。

ニギハヤヒの天降りしたクニがヤマトにできて、そのクニを乗っ取りに行くのであれば宮崎を出発し、土佐経由で紀伊半島、そこから大和へ・・・となりませんか?

塩土老翁が瀬戸内の勢力だったからですか??


2 コメント

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神武東征は建国の史実を誤魔化す神話です(^_-)-☆ (刮目天 一(はじめ))
2021-03-15 22:42:29
BC10Cは以前は縄文晩期でしたが、弥生草期というのが正しいようです。といいますのも、その頃に江南系の倭人が水田稲作を北部九州にもてきましたから、弥生時代の定義からです。その頃殺害された人骨が見つかりますので、江南系の倭人でしょう。倭人同士の殺し合いなのか、先住民の縄文人との抗争か詳しく見ていませんが、そうであるなら縄文人と倭人では考え方が違うので、行き違いがあって殺人にまで発展したのではないかと想像しています。縄文人のアニミズムでは厳格なタブーが沢山あったのではないかと思います。三国志魏書東夷伝の濊人の記述から想像すると縄文人に近いのではないかと考えられます。金属器を携えた倭人も海の男たちですので、多分気が荒いし、顔はいかつい入れ墨だらけですから、紛争が起こっても不思議な感じがしませんね(*^-^*)

しかし、倭人にはしっかりした上下関係があったようですから(縄文人もあったようですが)、戦争というような大規模な抗争は、2世紀初頭(弥生後期中葉)の奴国宮廷楽師の師升のクーデターからだと思います。

それからヤマト王権成立は弥生時代後期末から古墳時代初頭の3世紀の纏向遺跡ですから、神武東征は日本書紀の日本建国を隠すために作られた創作ですよ。ヤマトは九州勢との戦闘の痕跡はありませんから分かりますし、BC660年は弥生前期ですので、倭人の最初の王の天御中主が吉武高木遺跡に降臨するのは4世紀初頭ころの前期末か中期初頭です。

神武の前に降臨していたニギハヤヒですが、本当はその子孫の狗奴国王卑弥弓呼だと推理しています。2世紀初頭に奴国の最後の大王スサノヲが師升に殺され、脱出したその弟のニギハヤヒは吉備を平定し2世紀後半の楯築王墓に葬られています。その頃ニギハヤヒの子孫たちは吉備から河内や東海に勢力を伸ばしています。3世紀初頭に縄文海人ムナカタ族の姫巫女卑弥呼たちが裏切って師升の子孫の伊都国男王側についたので、半島南部の鉄資源が来なくなったので、卑弥弓呼大王が旧奴国王族を纏向に集めたと推理しています。

大和盆地は生駒山系があるので西からの攻撃に強く、いざとなったら東の山地から東国へ逃げられる地政学的に優れた場所だったと関裕二さんも指摘していますね。なので、3世紀になって纏向に政治都市が新たに作られました。

だからナガスネヒコがニギハヤヒに殺されて神武が即位する神話は、大国主がニギハヤヒの子孫たちに殺されて、大国主と台与の子ホムダワケが祭祀王(応神天皇)として即位した史実を誤魔化すために史実から作った創作ですよ。

最後に、ご指摘の太平洋航路は、伊勢ー紀伊半島ー徳島ー高知でそこからいきなり宮崎(西都原)は雄略天皇の帆船の時代じゃないかと思います。丸木舟の時代は高知から宮崎へは、いったん宇和島に行って九州に渡る航路でしょう。神武東征のルートは壬申の乱で百済王族が逃げた逆コースが元になったのではないかと荒木先生が百済王族の謎で書いていたと思います。
どうもぐちゃぐちゃ書いて、失礼しました(*^-^*)
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Unknown (咲くやこの花)
2021-03-16 08:18:39
神武についてはいろいろな意見を読み聞きし、一旦なるほどと思うのですが結局「腹落ち」せずに今にいたっています。
ニニギなんて何故かポンと天降りしているのに、神武は大和への道程まで書くのは初代天皇だから?などとウダウダ考えてしまいます。

そもそも九州勢が大和へ向かう意味もわからないのですが、いっそ単にあちこち遠征したうちのひとつが大和と考えてみようか、どうもわからない…という感じです。

だから言ってるでしょう、わからない人だな、とならずくだらない話にお付き合い頂きありがとうございます(#^.^#)
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