晴旅雨旅

爺の前に道は無し。爺の後にも道は消えかけて…枯れた中年爺の独り言

一人を見捨て、サッカーから見捨てられる名古屋…降格は当然の結果!

2016-11-06 19:30:14 | サッカー
社長、指揮官に続き…闘莉王退団「悲しい。2回も苦しませるのか」
サッカーは「人間」が織りなす文化だということを名古屋人は知らないのかもしれない。そして、こんなに冷たい名古屋人は紛れもなく私たち自身であることを曖昧にしてはならない。グランパスが降格した意味は、私たち自身の「降格」と言えなくもないのだ。

一人のサッカー人間をここまで落胆させても単なる一個人の問題だと軽く見ている冷たさが、私たち名古屋人の本性なのだろうか。いや、そんなことはない、と強く否定できる名古屋人が、私を含めてどれほど居るだろうか?私たちは一人の人間の気持ちよりも、いつの間にやら経済指数の数字ばかりを気にかけるようになってはいないだろうか。

たかがサッカーだが、これが私たちの名古屋文化だとしたら、恥ずかしさを通り越して寂しい限りだ。

 アートで世界が変えられるか?

2016-11-06 01:33:29 | 政治
アートを通して世界をひっくり返す
「アート」って何だろう…絵?音楽?うーん、ちょっと分からないが、要するに何か美しいと感じるもの?
でも、政治には関係なさそうな気もするのに、時の権力者は滑稽なほど警戒するからそれなりに力を持っているのかも。

実は「警戒される」ことは怖いことというよりも、名誉なことだと私は思っている。税金をいっぱいつぎ込んだ官憲がわざわざ時間と労力を傾けてくれるわけだからね。例えば、一人の警官をデモ警備に配置すれば、単純に人件費は一人数万円と計算できる。小さなデモでも、数百万円の税金を使うことになる。

しかし、この場合の名誉は得たとしても大した使い道はない。それほどの金とエネルギーを注いで街頭でどんなに声を上げても、ビラを配っても、ある程度の規模を超えないと新聞記事にもならない。記事になったとしても、交通事故や強盗の記事ばかりでは飽きられる穴埋めとしてのデモ・集会の記事扱いだと、注ぎ込んだエネルギーが虚しく思える。デモコースに当たった住民やタクシードライバーには、まず殆どの人がデモをする主催者に反感を抱くだろう。冷徹な現実は、一人の味方を得るために、10人の敵を作るかもしれないデモは、危険な博打とも言える。

人を説得するのに、言葉は微力だ。おまけに最近の言葉は散々政治家に弄ばれて、真実と遠くなってしまっている。耳障りの良い言葉ほど、それを用いる人物の裏ばかりを探られる。昔ならいざ知らず、政治的プロパガンダ言語を真に受けるのはよほどのお人好しとして見なされ、まともな大人としては世間は見てくれない。正義を語るほど正義から遠去かるのが、今の日本だ。

そんな呆れ返るのも飽きてしまった日本の現状に、一石を投じられるかもしれないのが、アートなのかもしれない。あくまで、さざ波を起こす程度のことしかできないかもしれないが、じわじわとウイルスのごとく身体の奥深く侵入して、人間を根本から変えてしまう力がアートにある、のかもしれない。希望は捨てるには早過ぎる。