さて、いろんな意味で話を端折りすぎてるのかもしれません。
2004年10月の時点で、片渕はスタジオ4℃とマッドハウスの両方の作品を、同時並行で準備しつつありました。
「企画は水もの」という感じもあり、どちらの企画もすんなり通るにはまだまだ何かありそうな雰囲気が漂っていました。
11月1日はたまたまスタジオ4℃の机にいたのですが、そこにマッドハウスのCCO丸山正雄プロデューサーからメールで「こういう企画を進めることになったので」と一報をもらったのが、自分と『マイマイ新子』との出会いです。小説『マイマイ新子』はその一月ほど前の9月末に刊行されたばかり、という時期のことでした。本の発売と同時にマッドの丸田社長が気に入ってしまっていたわけです。
マッドハウスのそれまでの作風と『マイマイ新子』のようなものは、一見縁遠いようにも見えますが、実のところ、そういうわけでもありません。その昔、片渕は『うしろの正面だあれ』(有原誠治監督)という海老名香葉子さん原作の本のアニメーション映画化に携わったことがあり、丸山さんはそれが他社の仕事でありながら気に入ってしまったようで、マッドでも同じような傾向の『お星さまのレール』を作ったり、それから、『うしろの正面だあれ』のエンディング・クレジットからわざわざ片渕の名前を探し出して、「この人は今どこで仕事してるの?」とアプローチしてくれたりしたのです。
たまたまそのときには片渕はスタジオ4℃で『MEMORIES』(大友克洋監督)という3部構成のオムニバス映画の第3話に関わっていたのですが、マッドハウスはその第2話を作っていたところで、「なんだ、同じ映画を作ってたのか」とわかり、「とにかく一回、マッドに来て」と、人づてに誘われたのが1996年のこと。
それ以来のマッドとの付き合いです。
そういう経緯でのマッドハウスと片渕との出会いであったのですから、『マイマイ新子』のような企画でまず監督候補に登らされるのは、まあ自然な成り行きだったともいえます。
さて、2004年秋当時、スタジオ4℃で進めていた企画は、日ロ合作企画だったのですが、片渕がやらんとすることとロシア側の意向がうまく噛み合わなくなり、11月12日にはこの仕事から離れなければならないことになってしまいました。
やはり「企画は水もの」だったわけで、その時点から、もう一本マッドハウスで「シリーズ構成」兼「脚本」という距離感で関わっていた『ブラック・ラグーン』に仕事を集中させることになり、当初監督不在のままだったこの作品の監督の立場に就くことになってゆきます。そうした中で、さらに先を見据えた仕事としていくつかの企画を並べられましたが、何より『マイマイ新子』をまず頭においといてね、といわれています。
『ブラック・ラグーン』はすぐに現場的な作業に移行してゆき、以降丸2年間にわたってこれに従事することになります。
その間にも、『マイマイ新子』の片渕なりの映画化プランも平行して作りはじめていました。
2005年4月19日からは、若い友人でありシナリオ・ライターの練習生だった経験を持つ八木陽一さんを話し相手に選んで、最初のストーリー検討に着手しています。
ファースト・インプレッションは、
「青い麦がさわさわ揺れる中を真っ直ぐにとおった細い道。
そこにぽつんと一軒建った家がお船みたい」
という部分にまずありました。
緑色に支配された世界・・・・・・。
この年の7月22日には、ほぼプランが出来上がってきたように感じられましたので、翌日にはマッドハウスの方に、「『マイマイ新子』の製作に着手していただけないでしょうか」とお願いを出してしまいました。『ブラック・ラグーン』第1話の完成前後のことだったのではないでしょうか。
この頃すでに、完成した映画で実際に語られている台詞のかなりの部分が出来上がっています。
ただ、千年前に起こる出来事だけは、まだどんなものにしてよいのかわからずにいます。
2004年10月の時点で、片渕はスタジオ4℃とマッドハウスの両方の作品を、同時並行で準備しつつありました。
「企画は水もの」という感じもあり、どちらの企画もすんなり通るにはまだまだ何かありそうな雰囲気が漂っていました。
11月1日はたまたまスタジオ4℃の机にいたのですが、そこにマッドハウスのCCO丸山正雄プロデューサーからメールで「こういう企画を進めることになったので」と一報をもらったのが、自分と『マイマイ新子』との出会いです。小説『マイマイ新子』はその一月ほど前の9月末に刊行されたばかり、という時期のことでした。本の発売と同時にマッドの丸田社長が気に入ってしまっていたわけです。
マッドハウスのそれまでの作風と『マイマイ新子』のようなものは、一見縁遠いようにも見えますが、実のところ、そういうわけでもありません。その昔、片渕は『うしろの正面だあれ』(有原誠治監督)という海老名香葉子さん原作の本のアニメーション映画化に携わったことがあり、丸山さんはそれが他社の仕事でありながら気に入ってしまったようで、マッドでも同じような傾向の『お星さまのレール』を作ったり、それから、『うしろの正面だあれ』のエンディング・クレジットからわざわざ片渕の名前を探し出して、「この人は今どこで仕事してるの?」とアプローチしてくれたりしたのです。
たまたまそのときには片渕はスタジオ4℃で『MEMORIES』(大友克洋監督)という3部構成のオムニバス映画の第3話に関わっていたのですが、マッドハウスはその第2話を作っていたところで、「なんだ、同じ映画を作ってたのか」とわかり、「とにかく一回、マッドに来て」と、人づてに誘われたのが1996年のこと。
それ以来のマッドとの付き合いです。
そういう経緯でのマッドハウスと片渕との出会いであったのですから、『マイマイ新子』のような企画でまず監督候補に登らされるのは、まあ自然な成り行きだったともいえます。
さて、2004年秋当時、スタジオ4℃で進めていた企画は、日ロ合作企画だったのですが、片渕がやらんとすることとロシア側の意向がうまく噛み合わなくなり、11月12日にはこの仕事から離れなければならないことになってしまいました。
やはり「企画は水もの」だったわけで、その時点から、もう一本マッドハウスで「シリーズ構成」兼「脚本」という距離感で関わっていた『ブラック・ラグーン』に仕事を集中させることになり、当初監督不在のままだったこの作品の監督の立場に就くことになってゆきます。そうした中で、さらに先を見据えた仕事としていくつかの企画を並べられましたが、何より『マイマイ新子』をまず頭においといてね、といわれています。
『ブラック・ラグーン』はすぐに現場的な作業に移行してゆき、以降丸2年間にわたってこれに従事することになります。
その間にも、『マイマイ新子』の片渕なりの映画化プランも平行して作りはじめていました。
2005年4月19日からは、若い友人でありシナリオ・ライターの練習生だった経験を持つ八木陽一さんを話し相手に選んで、最初のストーリー検討に着手しています。
ファースト・インプレッションは、
「青い麦がさわさわ揺れる中を真っ直ぐにとおった細い道。
そこにぽつんと一軒建った家がお船みたい」
という部分にまずありました。
緑色に支配された世界・・・・・・。
この年の7月22日には、ほぼプランが出来上がってきたように感じられましたので、翌日にはマッドハウスの方に、「『マイマイ新子』の製作に着手していただけないでしょうか」とお願いを出してしまいました。『ブラック・ラグーン』第1話の完成前後のことだったのではないでしょうか。
この頃すでに、完成した映画で実際に語られている台詞のかなりの部分が出来上がっています。
ただ、千年前に起こる出来事だけは、まだどんなものにしてよいのかわからずにいます。