「オリンピック ナチスの森で」沢木耕太郎著 集英社 1998年
北京五輪開幕直前ということで、オリンピックにまつわる本を紹介しようと思う。
1936年のベルリンオリンピックは、今も語り継がれている。ヒトラーの支配の下、ナチスドイツのプロパガンダに利用された大会であり、三段跳びの田島直人や200m平泳ぎの前畑秀子ら日本人が多く活躍した大会であり、「民族の祭典」・「美の祭典」の二部構成から成る極めて優れた記録映画「オリンピア」が残されている大会でもある。間違いなく言えるのは、この大会で「近代オリンピック」が完成したことである。
本書は、ノンフィクション作家の沢木耕太郎が、1976年にベルリン五輪を記事にした「ナチスオリンピック」を土台に、20年後に日本経済新聞に連載された記事を大幅に加筆修正を加えたものである。当時、90歳を越えていた、「オリンピア」の監督、レ二・リーフェンシュタールのインタビューが本書全体の骨格を成している。20年以上も長き時間をかけて完成された、実に丁寧な仕事だと思う。
実に語るべきことの多い本なのだが、ここではかなり絞ろうと思う。僕は数年前にNHK-BSで「民族の祭典」が放映された際にビデオに録画している。そこでは、アスリートたちが実に美しく描かれている。田島直人の当時の世界最高記録の「飛翔」(レ二の言葉より)、「友情のメダル」の美談を生んだ、棒高跳びの大江季夫と西田修平のジャンプ、そして後述する村社講平と孫基禎の力走。見ていて涙がこみ上げてきた。そして、皆、いい顔をしているのだ。戦後、この映画がドイツで最初に再上映を許可された際には、田島の表彰式の写真がポスターに使われたのだという、
今回の北京五輪を、ベルリン五輪を引き合いに出して語る記事をこの数ヶ月で見かけた。北京もまた、一党独裁体制の国家が国の威信をかけて開催しようとしている大会といわれているし、ベルリン五輪当時、ナチスは反ユダヤ政策を実施し、それが当時の国際世論の批判を浴び、アメリカでは「大会ボイコット」の機運が盛り上がっていた。しかし、当時のアメリカは参加を選んだ。もし、アメリカが参加していなかったら、ジェシー・オーエンスというヒーローは生まれていなかっただろう。
今年の春、聖火リレーをめぐる世界各地の混乱の際、やたらと言われたのは、
「聖火リレーを始めたのはナチスドイツだ。」
という事。中国の現体制をナチス同然と主張したい気持ちが込められているのだろうが、本書によればこれは正確ではない。聖火リレーを最初に実施したのは、ベルリン大会であるのは事実だが、大会の組織委員会事務総長のカール・ディームは、第一次大戦で中止になった1916年のベルリン五輪で、聖火リレーを実施する構想を持っていたのだ。なお、この時の聖火リレーのコースが、後のナチスの侵攻作戦の参考になった=聖火リレーはナチスの陰謀とする説を、本書は否定している。
「前畑がんばれ!」の実況中継の話も、今も語り継がれている話だが、ベルリン五輪は、初めて、ラジオの実況生中継が実現した大会でもあったのだ。本書では、5ページにわたって、葉室鉄夫が金メダルを獲得した男子200m平泳ぎの実況中継をそのまま文章で再現しているが、当時の実況レベルの高さと、ナショナリズムの高まりとを記録した貴重な資料になっている。ちなみに、昭和一桁生まれの僕の母親は、ベルリン五輪の前畑秀子の名前は記憶していても、男子の水泳の金メダリスト、葉室鉄夫と清川正二の名前は記憶していなかった。
「マラソン本」紹介コラムなので、二人の長距離ランナーについて書いておこう。
5000mと10000mで4位に入賞した村社講平と、マラソン金メダルの孫基禎。村社はこの大会、最初の日本人ヒーローだった。どちらの種目でも前半から果敢にトップに立ち、ラスト1000mまで先頭を引っ張った。小柄な日本人、27歳で中央大学に入学した苦学生が大柄な3人のフィンランド人を従え、走る姿はスタジアムを埋め尽くした観衆を大いに熱狂させ、逆転を喫したとはいえ、新聞報道でも、ほとんどメダルリストと同等の扱いだったという。日本国内の新聞はもちろん、地元ドイツの新聞においてさえも。ドイツから「ベルリン・ムラコソ」だけで日本へファンレターが届いたほどだったという。
村社本人は、順位よりも記録を重んじるランナーだったそうで、4位に負けたことより、どちらのレースも当時の日本新記録で走れたことで大いに満足していたという。
孫基禎は金メダリストでありながら、その後の人生は苦難に満ちたものとなった。マラソン当日は、猛暑だったという。その中、トップを独走する前回の金メダリスト、サバラは棄権し、28kmでスパートをかけてトップにたった孫がリードを守り、2時間29分19秒2の当時の世界最高記録で優勝した。40km過ぎて、左足が痛み出した時は、
「このレースに勝つためにさまざまな労苦に耐えてきたのだ。足が痛いくらいでどうしてスピードを落とせよう。」
という気持ちで耐え抜いた。もともと、孫の練習量は、それほど多くはなかったという。激しい練習をして、失われたエネルギーを補充しうる食料を買うだけの財力がなかったせいで。
朝鮮人である孫と銅メダルの南昇龍は、表彰台で「無念の想い」で日の丸で見つめて、君が代を聞いていた。しかし、彼にとっての最大の悲劇は、彼が朝鮮独立運動のシンボルとなることを警戒した総督府が、祝賀会の開催さえ禁じ、思想警察の取調べまで受けさせられたことだろう。当時、孫は23歳だったが、ベルリンが最後のマラソンになってしまった。
孫はレース後、ヒトラーに面会を申し込んだという。会って握手をして、サインをもらったのだが、
「孫はヒトラーに対して悪感情を持たなかった。それは、彼に対する蔑視のようなものが感じられなかったからだ。」
という。言い換えれば、彼はこれまで、どれだけ日本人から蔑視されてきたかという事だと思う。
日本代表選手の後日談で、もっとも胸をしめつけられたのは、女子の飛び込みの選手が、大会後、結婚して満州へ渡り、引き揚げの途中で亡くなったのだが、その遺髪と爪が遺族の元に届けられた際、手掛かりになったのは、肌身離さず身につれていた日本代表にユニフォーム姿の自分の写真だったというエピソードである。棒高飛び銅メダリストの大江も、5年後フィリピンで戦死し、「バロン・ニシ」と呼ばれた馬術の西竹一も硫黄島で戦死した。
先述の通り、現在の北京(中国)のチベット問題に代表される人権問題同様に、当時のナチスは
「反ユダヤ政策」という火種を抱えていた。しかし、
「ヒトラーとナチス・ドイツは、ベルリンを訪れた外国人に対して大きな失策を犯さなかった。」
選手たちには、大がかりな大会で好感を呼び、一般の訪問客には
「表面をとりつくろっていいところばかり見せ」、
大会を成功に導いた。著者の表現を借りれば、ベルリン五輪は、ヒトラーとナチスドイツにとっての「短い休暇」だったのだ。
はたして、北京五輪はどのような大会になるのだろうか。世界にとっては、この大会は「成功」と「失敗」、どちらが好ましい結果なのだろうか。ベルリンにモスクワ、一党独裁体制の国家が五輪を開催すると10年以内にその体制は崩壊するという。五輪後、中国はどうなるのか。
北京五輪直前に読み返したせいで、このような事ばかり考えてしまった。
ヨット競技の代表だった、藤村紀雄はその後広島で被爆しながら、本書刊行時まで生き延びた。彼は言う。
「ベルリン大会はさまざまに評価されるオリンピックだったかもしれないが、参加した自分たちにとっては最高の祭りだった。」
せめて、北京もそうあって欲しいものである。
レ二・リーフェンシュタイルについては、何も書けなかったことをお詫びしたい。映画に多大に興味の深い方は必読です。
北京五輪開幕直前ということで、オリンピックにまつわる本を紹介しようと思う。
1936年のベルリンオリンピックは、今も語り継がれている。ヒトラーの支配の下、ナチスドイツのプロパガンダに利用された大会であり、三段跳びの田島直人や200m平泳ぎの前畑秀子ら日本人が多く活躍した大会であり、「民族の祭典」・「美の祭典」の二部構成から成る極めて優れた記録映画「オリンピア」が残されている大会でもある。間違いなく言えるのは、この大会で「近代オリンピック」が完成したことである。
本書は、ノンフィクション作家の沢木耕太郎が、1976年にベルリン五輪を記事にした「ナチスオリンピック」を土台に、20年後に日本経済新聞に連載された記事を大幅に加筆修正を加えたものである。当時、90歳を越えていた、「オリンピア」の監督、レ二・リーフェンシュタールのインタビューが本書全体の骨格を成している。20年以上も長き時間をかけて完成された、実に丁寧な仕事だと思う。
実に語るべきことの多い本なのだが、ここではかなり絞ろうと思う。僕は数年前にNHK-BSで「民族の祭典」が放映された際にビデオに録画している。そこでは、アスリートたちが実に美しく描かれている。田島直人の当時の世界最高記録の「飛翔」(レ二の言葉より)、「友情のメダル」の美談を生んだ、棒高跳びの大江季夫と西田修平のジャンプ、そして後述する村社講平と孫基禎の力走。見ていて涙がこみ上げてきた。そして、皆、いい顔をしているのだ。戦後、この映画がドイツで最初に再上映を許可された際には、田島の表彰式の写真がポスターに使われたのだという、
今回の北京五輪を、ベルリン五輪を引き合いに出して語る記事をこの数ヶ月で見かけた。北京もまた、一党独裁体制の国家が国の威信をかけて開催しようとしている大会といわれているし、ベルリン五輪当時、ナチスは反ユダヤ政策を実施し、それが当時の国際世論の批判を浴び、アメリカでは「大会ボイコット」の機運が盛り上がっていた。しかし、当時のアメリカは参加を選んだ。もし、アメリカが参加していなかったら、ジェシー・オーエンスというヒーローは生まれていなかっただろう。
今年の春、聖火リレーをめぐる世界各地の混乱の際、やたらと言われたのは、
「聖火リレーを始めたのはナチスドイツだ。」
という事。中国の現体制をナチス同然と主張したい気持ちが込められているのだろうが、本書によればこれは正確ではない。聖火リレーを最初に実施したのは、ベルリン大会であるのは事実だが、大会の組織委員会事務総長のカール・ディームは、第一次大戦で中止になった1916年のベルリン五輪で、聖火リレーを実施する構想を持っていたのだ。なお、この時の聖火リレーのコースが、後のナチスの侵攻作戦の参考になった=聖火リレーはナチスの陰謀とする説を、本書は否定している。
「前畑がんばれ!」の実況中継の話も、今も語り継がれている話だが、ベルリン五輪は、初めて、ラジオの実況生中継が実現した大会でもあったのだ。本書では、5ページにわたって、葉室鉄夫が金メダルを獲得した男子200m平泳ぎの実況中継をそのまま文章で再現しているが、当時の実況レベルの高さと、ナショナリズムの高まりとを記録した貴重な資料になっている。ちなみに、昭和一桁生まれの僕の母親は、ベルリン五輪の前畑秀子の名前は記憶していても、男子の水泳の金メダリスト、葉室鉄夫と清川正二の名前は記憶していなかった。
「マラソン本」紹介コラムなので、二人の長距離ランナーについて書いておこう。
5000mと10000mで4位に入賞した村社講平と、マラソン金メダルの孫基禎。村社はこの大会、最初の日本人ヒーローだった。どちらの種目でも前半から果敢にトップに立ち、ラスト1000mまで先頭を引っ張った。小柄な日本人、27歳で中央大学に入学した苦学生が大柄な3人のフィンランド人を従え、走る姿はスタジアムを埋め尽くした観衆を大いに熱狂させ、逆転を喫したとはいえ、新聞報道でも、ほとんどメダルリストと同等の扱いだったという。日本国内の新聞はもちろん、地元ドイツの新聞においてさえも。ドイツから「ベルリン・ムラコソ」だけで日本へファンレターが届いたほどだったという。
村社本人は、順位よりも記録を重んじるランナーだったそうで、4位に負けたことより、どちらのレースも当時の日本新記録で走れたことで大いに満足していたという。
孫基禎は金メダリストでありながら、その後の人生は苦難に満ちたものとなった。マラソン当日は、猛暑だったという。その中、トップを独走する前回の金メダリスト、サバラは棄権し、28kmでスパートをかけてトップにたった孫がリードを守り、2時間29分19秒2の当時の世界最高記録で優勝した。40km過ぎて、左足が痛み出した時は、
「このレースに勝つためにさまざまな労苦に耐えてきたのだ。足が痛いくらいでどうしてスピードを落とせよう。」
という気持ちで耐え抜いた。もともと、孫の練習量は、それほど多くはなかったという。激しい練習をして、失われたエネルギーを補充しうる食料を買うだけの財力がなかったせいで。
朝鮮人である孫と銅メダルの南昇龍は、表彰台で「無念の想い」で日の丸で見つめて、君が代を聞いていた。しかし、彼にとっての最大の悲劇は、彼が朝鮮独立運動のシンボルとなることを警戒した総督府が、祝賀会の開催さえ禁じ、思想警察の取調べまで受けさせられたことだろう。当時、孫は23歳だったが、ベルリンが最後のマラソンになってしまった。
孫はレース後、ヒトラーに面会を申し込んだという。会って握手をして、サインをもらったのだが、
「孫はヒトラーに対して悪感情を持たなかった。それは、彼に対する蔑視のようなものが感じられなかったからだ。」
という。言い換えれば、彼はこれまで、どれだけ日本人から蔑視されてきたかという事だと思う。
日本代表選手の後日談で、もっとも胸をしめつけられたのは、女子の飛び込みの選手が、大会後、結婚して満州へ渡り、引き揚げの途中で亡くなったのだが、その遺髪と爪が遺族の元に届けられた際、手掛かりになったのは、肌身離さず身につれていた日本代表にユニフォーム姿の自分の写真だったというエピソードである。棒高飛び銅メダリストの大江も、5年後フィリピンで戦死し、「バロン・ニシ」と呼ばれた馬術の西竹一も硫黄島で戦死した。
先述の通り、現在の北京(中国)のチベット問題に代表される人権問題同様に、当時のナチスは
「反ユダヤ政策」という火種を抱えていた。しかし、
「ヒトラーとナチス・ドイツは、ベルリンを訪れた外国人に対して大きな失策を犯さなかった。」
選手たちには、大がかりな大会で好感を呼び、一般の訪問客には
「表面をとりつくろっていいところばかり見せ」、
大会を成功に導いた。著者の表現を借りれば、ベルリン五輪は、ヒトラーとナチスドイツにとっての「短い休暇」だったのだ。
はたして、北京五輪はどのような大会になるのだろうか。世界にとっては、この大会は「成功」と「失敗」、どちらが好ましい結果なのだろうか。ベルリンにモスクワ、一党独裁体制の国家が五輪を開催すると10年以内にその体制は崩壊するという。五輪後、中国はどうなるのか。
北京五輪直前に読み返したせいで、このような事ばかり考えてしまった。
ヨット競技の代表だった、藤村紀雄はその後広島で被爆しながら、本書刊行時まで生き延びた。彼は言う。
「ベルリン大会はさまざまに評価されるオリンピックだったかもしれないが、参加した自分たちにとっては最高の祭りだった。」
せめて、北京もそうあって欲しいものである。
レ二・リーフェンシュタイルについては、何も書けなかったことをお詫びしたい。映画に多大に興味の深い方は必読です。
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