行く先は未来か過去か 教育基本法59年ぶり改定
中日新聞・東京新聞・北陸中日新聞 2006年12月16日
教育基本法が59年ぶりに改定された。教育は人づくり国づくりの基礎。新しい時代にふさわしい法にとされるが、確かに未来に向かっているのか、懸念がある。安倍晋三首相が「美しい国」実現のためには教育がすべてとするように、戦後日本の復興を担ってきたのは憲法と教育基本法だった。「民主的で文化的な国家建設」と「世界の平和と人類の福祉に貢献」を決意した憲法。その憲法の理想の実現は「根本において教育の力にまつべきものである」とし、教育基本法の前文は「個人の尊厳を重んじ」「真理と平和を希求する人間の育成」「個性ゆたかな文化の創造をめざす」教育の普及徹底を宣言していた。
■普遍原理からの再興
先進国中に教育基本法をもつ国はほとんどなく、法律に理念や価値を語らせるのも異例だが、何より教育勅語の存在が基本法を発案させた。明治天皇の勅語は皇民の道徳と教育を支配した絶対的原理。日本再生には、その影響力を断ち切らなければならなかったし、敗戦による国民の精神空白を埋める必要もあった。
基本法に込められた「個人の尊厳」「真理と正義への愛」「自主的精神」には、亡国に至った狭隘(きょうあい)な国家主義、軍国主義への深甚な反省がある。より高次の人類普遍の原理からの祖国復興と教育だった。一部に伝えられる「占領軍による押しつけ」論は誤解とするのが大勢の意見だ。のちに中央教育審議会に引き継がれていく教育刷新委員会に集まった反共自由主義の学者や政治家の熟慮の結実が教育基本法だった。いかなる反動の時代が来ようとも基本法の精神が書き換えられることはあるまいとの自負もあったようだ。しかし、改正教育基本法は成立した。何が、どう変わったのか。教育行政をめぐっての条文改正と価値転換に意味が集約されている。
■転換された戦後精神
教育が国に奉仕する国民づくりの手段にされてきた戦前の苦い歴史がある。国、行政の教育内容への介入抑制が教育基本法の核心といえ、10条1項で「教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきもの」となっていた。国旗・国歌をめぐる訴訟で、東京地裁が9月、都教育委員会の通達を違法とし、教職員の処分を取り消したのも、基本法10条が大きな根拠だった。各学校の裁量の余地がないほど具体的で詳細な通達を「一定の理論や観念を生徒に教え込むことを強制する『不当な支配』」としたのだった。不当な支配をする対象は国や行政が想定されてきた。
これまでの基本法を象徴してきた「不当な支配」の条文は、改正教育基本法では16条に移され「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」と改められた。政令や学習指導要領、通達も法律の一部。国や行政が不当な支配の対象から外され、教育内容に介入することに正当性を得ることになる。この歴史的転換に深刻さがある。前文と18条からの改正教育基本法は、新しい基本法といえる内容をもつ。教育基本法の改定とともに安倍首相が政権の最重要課題としているのが憲法改正だが、「新しい」憲法と「新しい」教育基本法に貫かれているのは権力拘束規範から国民の行動拘束規範への価値転換だ。自民党の新憲法草案にうかがえた国民の行動規範は、改定教育基本法に「公共の精神」「伝統と文化の尊重」など20項目以上の達成すべき徳目として列挙されている。
権力が腐敗し暴走するのは、歴史と人間性研究からの真理だ。その教訓から憲法と憲法規範を盛り込んだ教育基本法によって権力を縛り、個人の自由と権利を保障しようとした立憲主義の知恵と戦後の基本精神は大きく変えられることになる。公共の精神や愛国心は大切だし、自然に身につけていくことこそ望ましい。国、行政によって強制されれば、教育勅語の世界へ逆行しかねない。内面への介入は憲法の保障する思想・良心の自由を侵しかねない。新しい憲法や改正教育基本法はそんな危険性を内在させている。
■悔いを残さぬために
今回の教育基本法改定に現場からの切実な声があったわけでも、具体的問題解決のために緊急性があったわけでもない。むしろ公立小中学校長の3分の2が改定に反対したように、教育現場の賛同なき政治主導の改正だった。現場の教職員の協力と実践、献身と情熱なしに愛国心や公共の精神が習得できるとは思えない。国や行政がこれまで以上に現場を尊重し、その声に耳を傾ける必要がある。安倍首相のいう「21世紀を切り開く国民を育成する教育にふさわしい基本法」は、同時に復古的で過去に向かう危険性をもつ。改定を悔いを残す思い出としないために、時代と教育に関心をもち続けたい。
「改正教基法の課題」 危うい国家的関与の強化
陸奥新報 2006年12月18日
「教育の憲法」といわれる教育基本法改正案が成立した。しかし参院本会議では投票総数230票のうち賛成131票、反対99票。総数を100とすると「57%対43%」と、ある意味ではわずかの票差は異様であり、それだけ問題のある改正法である点を忘れてはならない。
教基法は1947年に制定されて以来、初の改正だ。なぜこの時期に、という素朴な疑問は消えない。「戦後体制からの脱却」を掲げる安倍晋三首相にとって、政権の最終目標は憲法改正であり、その布石となるのが教基法改正だ。また、郵政造反組の復党問題や政府のタウンミーティングでの「やらせ質問」などで内閣支持率が急落している折である。今回の改正はつまずいてはならない改憲への第一歩とみての強行突破なのだろうか。とすれば教基法は踏み台とみなされたことになる。教基法の審議中には、いじめ自殺や必修科目の未履修など教育にかかわる深刻な問題が相次いだ。それだけに民主、共産、社民、国民新の野党四党の反対を押し切った与党の姿勢に対して「なぜ今なのか」「急ぎ過ぎ」という批判の声が上がっている。
改正教基法の一番の特徴は、教育に対する国家的な関与の度合いを強めたことだろう。この点で同法が具体的に反映される今後の学習指導要領改定や学校教育法、教員免許法、地方教育行政法など30を超す関連法の改正から目が離せない。法律は一度成立すると、反対意見があったことは次第に忘れられ、やがて拡大解釈されていく。「抵抗力」の弱い地方では特にその傾向が強く、法解釈は形式的になりがちだ。教員が多忙で、子供と正面から向き合うことが少なくなった教育現場では、国の方向転換に混乱し、いじめの再発や新たな問題も起こりかねない。
改正教基法の条文では第二条「教育の目標」として豊かな情操と道徳心、公共の精神、伝統と文化を尊重し国と郷土を愛し国際社会に寄与する態度が明記された。これまでの教基法で学問の自由や自発的精神が前面に出ていたのと比べ、改正法では徳目教育を目標化した点が目立っている。「愛国心」について安倍首相は「内面に入り込んで評価することはない」と言っている。だが政府は「教員の指導は責務」「学習姿勢を評価」と、現場に具体的な指導を求めている。
現場にとって、徳目教育は難題だろう。これから新たな指導要領や関連法に沿った教育が試みられ、やがて「模範校」が一つの基準になるだろう。その過程で、教師の多様な価値観や子供の自由な発想が変にゆがめられないか心配である。学校や教育委員会の硬直的な対応でいじめ問題が膨れ上がったのと同様、徳目教育も形式化する恐れがある。国歌斉唱が学校評価の一つの基準になっているのと同じ理屈だ。上意下達ではない幅のある試行を望みたい。国の教育への関与は、あくまでも抑制的であるべきだ。
改正教育基本法が成立
北海道新聞 2006年12月16日
憲法とともに戦後日本の民主主義を支えた教育基本法が改正された。改正法は「わが国と郷土を愛する態度」などを条文に盛り込んだ。戦後教育の枠組みと理念を根底から変える内容だ。
新しい法律の下で、教育はどう変わるだろう。「国を愛せ」と教師が子供たちに強く求める場面が起きないか。そんな授業を受ける子供たちの態度が「評価」につながらないか。教育現場の創意工夫はどこまで生かされるだろう。こうした点の審議が必ずしも十分だったとは思えない。改正に国民の合意ができていたともいえない。数の力を背景に、今国会で改正法の成立を図った政府・与党のやり方は強引だった。
安倍首相は、占領時代に制定された教育基本法と憲法の改正は、「自民党結党以来の悲願」だとしていた。それほど重要なら、国民への丁寧な説明と合意形成の真摯(しんし)な努力を重ねる必要があったはずだ。次の課題は憲法改正ということになるのか。国の基本にかかわる問題で、「数の力」に頼る姿勢は、許されるものではない。
*「国家」重視に軸足を移す
教育基本法は一九四七年、戦前の国家中心教育への深い反省を踏まえて制定された。 前文で「個人の尊厳」を基本とする教育理念を掲げ、憲法の理念の実現を「教育の力」に託した。これに対し、改正法は「わが国と郷土を愛する態度」や「公共の精神」などの徳目を「教育目標」に掲げた。教育理念の軸足を「個人」から「国家社会」の重視に移した。
しかし、そもそも法で、内心にかかわる「教育目標」を定めることは、憲法が保障する「思想と良心の自由」にそぐわないのではないか。中国や旧ソ連のような社会主義国を除けば、多くの先進国では「国を愛する態度」のような内心の問題まで国法では定めていない。教育目標に徳目を並べ、評価までするという日本の教育は、異質と見られるのではないか。
「わが国や郷土を愛する態度」を自然にはぐくむことは、国民として大切なことだろう。「公共の精神」を身につけることも、社会生活を営むうえで欠かせない。それを法律に書き込み、子どもが学ぶ態度まで評価するとなると話は別だ。国による管理や統制が過度に強まる懸念がぬぐえない。
*法の名の下で行政介入も
改正法で見逃せないのは、教育行政のあり方に関する条文の変更だ。改正前の基本法一○条は、教育は「不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負う」と定めている。戦前の国家統制への反省を踏まえ、行政の教育への介入を防ぐ役割を果たしてきた。
改正法は、「国民全体に対し直接に責任を負う」という文言を削除し、新たに「法律の定めるところ」によって教育を行うと定めた。現場の教師はこれまで、「国民全体に直接に責任を負う」という条文があったからこそ、父母や子どもたちとともに、創意工夫のある教育活動を試みることができた。しかし、法改正によって、時の政府が法律や指導要領を決め、それに基づいて教育内容が厳密に規定されれば、教員は行政の一員としての役割を強いられる。教育法学者からは、政治や官僚の不当な圧力からの独立と自由を目指した当初の立法の趣旨が、法改正で逆転したという見方が出ている。
文科省は教員評価制度の導入を一部の学校で始めている。制度の運用によっては、教師の仕事が国の決めた教育目標をどこまで実現したかという観点から評価されかねない。こうした問題をはらんでいたからこそ国民の間に懸念の声は強かった。東大が十月にまとめた全国アンケートでは、公立小中学校の管理職の三人に二人が「現場の混乱」を理由に改正に反対していた。ところが安倍首相は国会で「国民的合意は得られた」と繰り返した。政府のタウンミーティングでは、姑息(こそく)な世論誘導も明らかになった。
*施策の吟味が欠かせない
「教育基本法は個人の価値を重視しすぎている。戦後教育は道徳や公共心が軽視され、教育の荒廃を招いた」 自民党内の改正論者は、このように基本法を批判してきた。教育現場は、子どもの学力低下やいじめなど多くの課題を抱えている。しかし、教育荒廃の原因は基本法に問題があったからではない。むしろ、文科省や教育委員会が、基本法の理念を軽視し、実現に向けた努力を怠ってきたのが現実ではないか。
文科省は今後、改正法に基づき具体的な教育政策を網羅した「教育振興基本計画」を策定する。教育改革の名のもとに打ち出される施策の中身を、学校現場と父母は十分に吟味し、子どもの成長に役立つ施策かどうかを見極める必要がある。改正法の下での教育現場の変化を、注意深く見守らねばなるまい。
教育基本法 運用の監視が怠れない
信濃毎日新聞 2006年12月16日
教育基本法の改正案が参議院の本会議で可決、成立した。戦後教育の背骨となった重要な法律が全面的に改定された。個人の尊重より公共の精神を優先し、国を愛する心を求める内容だ。反対が根強い中、論議を尽くさないままに成立したのは残念だ。今後、関連する法律の見直しが進められる。法律に何が盛り込まれるのか。学校はどう変わるか。国の動きをチェックする必要がある。
何より、子どもたちがより息苦しくならないよう、現場の声を上げ続けることが大切になる。
「伝統と文化を尊重」「わが国と郷土を愛する態度を養う」「公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度」-。改正法にはこういった「教育の目標」がずらりと並ぶ。憲法の理想を実現するには「教育の力にまつべきもの」として、個人の尊厳を重んじる現行法から、基本的な考え方が大きく変わる。規範意識を植え付け、国が期待するあるべき姿を押しつける方向に教育がねじ曲げられないか、心配になる。
<規律の重視だけでは>
教育をめぐる問題は深刻だ。学ぶ意欲の低下、家庭や地域の教育力の弱体化など山積している。こうした問題を、政府は個の尊重や自由が行き過ぎたゆえに生まれたものだとする。根本的な改革のための、基本法見直しだと説明している。
いまの教育を良くしたいという思いは国民の間に強い。ただ、そのために教育の理念を変える必要性は認め難い。政府の目指す方向と、学校現場や家庭が抱えている問題には大きなずれが感じられる。例えば、相次いで表面化したいじめにどう対応するかだ。いじめられた経験を学校などで語る、20代の人たちの話を聞く機会があった。「学校に行けない自分を悪い人間だと責めながら、行くなら死んでしまいたいと包丁を持った」「生きるのもつらいが、死ねないつらさにも苦しんだ」
過去を語ることは、死にたいほどのつらさを再び体験することにもなる。それでもいじめをなくしたいと、訴え続けている。彼らがそろって口にするのは、いじめる側を厳しく指導しても、解決にならないということだ。「なぜいじめるのか、自分の心に向き合わせる対応が大切」「先生は忙しく、子どもに接する時間が少なすぎる」「親や教師も絡んだ複雑ないじめの実態に、もっと耳を傾けてほしい」。こうした訴えは、どこまで国会に届いているのか。
14日の参議院特別委員会で、安倍晋三首相は「相手をいじめる気持ちを自律の精神で抑え、教室で迷惑をかけてはいけないと公共の精神や道徳心を教える」と述べた。体験者の声とは懸け離れた理屈である。問題を深刻化しかねない。論議が不十分に終わった一因は、民主党にある。民主党の対案は前文に「日本を愛する心」をうたい、保守的な色合いは政府案よりむしろ強い。政府案が決まれば、どんなマイナスの影響があるのかといった問題追及が足りなかった。
<内心に踏み込む恐れ>
改正法に基づき、政府は5年間の目標を定める「教育振興基本計画」を作る。関連法の改正や、学習指導要領の見直しも始まる。今後の動きに厳しい目を向ける必要がある。最も心配されるのは、子どもの内面に踏み込む方向が強まることだ。安倍首相は「内心の評価は行わない」としたものの、日本の伝統や文化を学ぶ姿勢や態度を評価することは明言している。評価の対象は「態度」だとしても、法律などで教育目標となれば、子どもに強制することになりかねない。通知票で「愛国心」を評価することに、どんな意味があるのか。
かつて国旗国歌法の審議でも、日の丸掲揚や君が代斉唱を義務付けるものではないとの答弁はあった。しかし、現実には教職員への指導強化になり、自殺者まで出た。事実上の強制である。二の舞いは避けねばならない。第二の心配は、地域や学校の自主性が狭められることだ。教育基本法は、戦前の教育が国家のために奉仕する国民を育てた反省に基づいて生まれた。「不当な支配に服することなく」と、教育の中立性や自由をうたっている。
<改憲への岐路に?>
改正法は教育行政について「この法律及び他の法律の定めるところにより行われる」としている。教育内容への国の関与は、強まると考えねばならない。学校の裁量や自由が狭められる心配が募る。学校も家庭も余裕がない。そんな中で、例えば「いじめや校内暴力を5年で半減」といった目標が掲げられたらどうなるか。現場はより息苦しくなる。子どもたちに徳目を押しつけるだけは解決にならない。そういった生の声をこれからも上げ、法の運用に目を光らせていく必要がある。
教育基本法改正は、憲法改正にもつながる。自民党の新憲法草案は個人の自由と権利の乱用を戒めている。このまま、国の関与が強まる道を選ぶのか。岐路に立っていることを自覚しなくてはいけない。
教育基本法改正・懸念は残されたままだ
琉球新報 2006年12月16日
教育基本法の改正案が参院本会議で与党の賛成多数で可決、成立した。1947年の制定以来、59年目にして初めて改定となった。教育基本法改正案は、衆院特別委員会、本会議でも与党の単独で採決され、参院でも与党単独での力ずくの採決となった。与党側は、審議は十分尽くしたとするが、果たしてそうだろうか。「成立ありき」の感がぬぐえない。国会での論議を聴いていても、高校の社会科未履修問題などに時間が割かれた。そのことは重要だが、なぜ教育基本法改正が必要なのか、改正で教育をどう変えていくのかなど、改正の本体を問う論議は少なかった。政府側の説明も不十分だった。
教育が現在、解決すべき問題を抱えていることは、多くの国民の共通の認識だろう。しかし、その解決が教育基本法改正とどうつながるのか、政府、与党から明確な答えを聞くことはできなかった。教育基本法は、憲法と同じく戦後の日本の進むべき方向性を示してきた重要な法律だ。改正は慎重の上にも慎重を期して当然だ。教育は「国家100年の大計」といわれる。その理念を定めた基本法が国民合意とはほど遠く、数を頼みの成立では、将来に禍根を残すことになる。
改正する理由について政府、与党は「個人重視で低下した公の意識の修正」や「モラル低下に伴う少年犯罪の増加など教育の危機的状況」などを挙げる。しかし、教育を取り巻く問題がすべて現行の教育基本法にあるとするのは、無理がある。安倍晋三首相は、いじめ問題などについて「対応するための理念はすべて政府案に書き込んである」と繰り返した。「公共の精神」や「国を愛する態度」といった精神論を付け加えることで果たして問題が解決できるのか。むしろ、現行法の最も重要な理念である「個の尊重」が、教育現場で本当に生かせるような枠組みづくりが必要なのではないか。
教育と政治の関係も大きく変わる。現行法では「教育は、不当な支配に服することなく」とされているが、改正法では「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり」が付け加えられた。国会で多数をとって法律を制定させれば、教育内容に介入することも容易になる。教育が時の政権の思惑によって変えられることになりはしないか。改正法が成立したことで、政府は教育振興基本計画を定め、関連法案の改正に着手する。しかし、基本法改正への懸念は残されたままだ。政府は、計画策定などの論議の中で国民の懸念に十分に応える必要がある。
国会閉会 将来恥じぬ議論したか
中国新聞 2006年12月20日
安倍内閣が九月に発足後初めての臨時国会が閉会した。85日間の今国会では、「教育の憲法」といわれる教育基本法が制定以来59年ぶりに改正され、防衛庁の「省」昇格関連法もあっけなく成立した。戦後の教育の根幹や防衛政策が大きく転換する、曲がり角の国会になったといえる。しかし、重要法案の白熱した論戦があったか。政府の説明は全く十分でなく、民主党など野党の追及も迫力を欠く体たらくだ。国民に賛否があり、国の行く末を左右する法案に対して、今国会が将来の検証に恥じない丁々発止の議論をしたとはとても思えない。今国会は、安倍新内閣の国づくりの方向性とその実像を国民に示す機会だった。「改革、競争」一辺倒だった小泉前内閣の何を継承し、何を刷新するのか。だが、安倍晋三首相の打ち出す「戦後体制からの脱却」の必然性や真意は、多弁ながら明確ではなかった。
改正教育基本法は、現行法が培った「個」の尊重から「公」重視に基本理念を急旋回させた。教育目標に「愛国心」重視の姿勢を掲げた。では、なぜ戦前回帰なのか、それによっていじめ自殺や各教委の無責任対応など混迷する現場が立て直せるのか。愛国心も個々に価値観が違うものを強要していいはずはない。社会情勢の変化を見据えた教育再生について、説明責任が果たせたとはいえまい。
防衛庁の省昇格関連法にしても、国防権限が強化され、「付随的任務」だった自衛隊の海外派遣が「本来任務」に格上げになる。これまでの「専守防衛」を根本から覆しかねない重大な懸念をはらむ法案である。こうした安倍内閣の「危険ゾーン」への踏み込みをただせなかった民主党の責任は大きい。独自に提出した教基法改正案では、むしろ愛国心は自民党より色濃く盛られた。集団的自衛権でも一昨日まとめた「政権政策」で一部容認に踏み込むなど、自民党との対立軸が明確でない。対案を出しつつ攻め切れない小沢体制の弱さが、重要国会で露呈した形だ。考えてみれば、自民党復党問題に大義があったか。タウンミーティングやらせ問題、税制改正の企業優遇路線。民主党が攻める切り口は多々あった。それを生かせない野党第一党に、来夏の参院選で政権交代をかける力量があるか。
昨秋の衆院選で自民党に圧倒的多数議席を与えた有権者も、今後の国の在り方を見極めたい。
中日新聞・東京新聞・北陸中日新聞 2006年12月16日
教育基本法が59年ぶりに改定された。教育は人づくり国づくりの基礎。新しい時代にふさわしい法にとされるが、確かに未来に向かっているのか、懸念がある。安倍晋三首相が「美しい国」実現のためには教育がすべてとするように、戦後日本の復興を担ってきたのは憲法と教育基本法だった。「民主的で文化的な国家建設」と「世界の平和と人類の福祉に貢献」を決意した憲法。その憲法の理想の実現は「根本において教育の力にまつべきものである」とし、教育基本法の前文は「個人の尊厳を重んじ」「真理と平和を希求する人間の育成」「個性ゆたかな文化の創造をめざす」教育の普及徹底を宣言していた。
■普遍原理からの再興
先進国中に教育基本法をもつ国はほとんどなく、法律に理念や価値を語らせるのも異例だが、何より教育勅語の存在が基本法を発案させた。明治天皇の勅語は皇民の道徳と教育を支配した絶対的原理。日本再生には、その影響力を断ち切らなければならなかったし、敗戦による国民の精神空白を埋める必要もあった。
基本法に込められた「個人の尊厳」「真理と正義への愛」「自主的精神」には、亡国に至った狭隘(きょうあい)な国家主義、軍国主義への深甚な反省がある。より高次の人類普遍の原理からの祖国復興と教育だった。一部に伝えられる「占領軍による押しつけ」論は誤解とするのが大勢の意見だ。のちに中央教育審議会に引き継がれていく教育刷新委員会に集まった反共自由主義の学者や政治家の熟慮の結実が教育基本法だった。いかなる反動の時代が来ようとも基本法の精神が書き換えられることはあるまいとの自負もあったようだ。しかし、改正教育基本法は成立した。何が、どう変わったのか。教育行政をめぐっての条文改正と価値転換に意味が集約されている。
■転換された戦後精神
教育が国に奉仕する国民づくりの手段にされてきた戦前の苦い歴史がある。国、行政の教育内容への介入抑制が教育基本法の核心といえ、10条1項で「教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきもの」となっていた。国旗・国歌をめぐる訴訟で、東京地裁が9月、都教育委員会の通達を違法とし、教職員の処分を取り消したのも、基本法10条が大きな根拠だった。各学校の裁量の余地がないほど具体的で詳細な通達を「一定の理論や観念を生徒に教え込むことを強制する『不当な支配』」としたのだった。不当な支配をする対象は国や行政が想定されてきた。
これまでの基本法を象徴してきた「不当な支配」の条文は、改正教育基本法では16条に移され「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」と改められた。政令や学習指導要領、通達も法律の一部。国や行政が不当な支配の対象から外され、教育内容に介入することに正当性を得ることになる。この歴史的転換に深刻さがある。前文と18条からの改正教育基本法は、新しい基本法といえる内容をもつ。教育基本法の改定とともに安倍首相が政権の最重要課題としているのが憲法改正だが、「新しい」憲法と「新しい」教育基本法に貫かれているのは権力拘束規範から国民の行動拘束規範への価値転換だ。自民党の新憲法草案にうかがえた国民の行動規範は、改定教育基本法に「公共の精神」「伝統と文化の尊重」など20項目以上の達成すべき徳目として列挙されている。
権力が腐敗し暴走するのは、歴史と人間性研究からの真理だ。その教訓から憲法と憲法規範を盛り込んだ教育基本法によって権力を縛り、個人の自由と権利を保障しようとした立憲主義の知恵と戦後の基本精神は大きく変えられることになる。公共の精神や愛国心は大切だし、自然に身につけていくことこそ望ましい。国、行政によって強制されれば、教育勅語の世界へ逆行しかねない。内面への介入は憲法の保障する思想・良心の自由を侵しかねない。新しい憲法や改正教育基本法はそんな危険性を内在させている。
■悔いを残さぬために
今回の教育基本法改定に現場からの切実な声があったわけでも、具体的問題解決のために緊急性があったわけでもない。むしろ公立小中学校長の3分の2が改定に反対したように、教育現場の賛同なき政治主導の改正だった。現場の教職員の協力と実践、献身と情熱なしに愛国心や公共の精神が習得できるとは思えない。国や行政がこれまで以上に現場を尊重し、その声に耳を傾ける必要がある。安倍首相のいう「21世紀を切り開く国民を育成する教育にふさわしい基本法」は、同時に復古的で過去に向かう危険性をもつ。改定を悔いを残す思い出としないために、時代と教育に関心をもち続けたい。
「改正教基法の課題」 危うい国家的関与の強化
陸奥新報 2006年12月18日
「教育の憲法」といわれる教育基本法改正案が成立した。しかし参院本会議では投票総数230票のうち賛成131票、反対99票。総数を100とすると「57%対43%」と、ある意味ではわずかの票差は異様であり、それだけ問題のある改正法である点を忘れてはならない。
教基法は1947年に制定されて以来、初の改正だ。なぜこの時期に、という素朴な疑問は消えない。「戦後体制からの脱却」を掲げる安倍晋三首相にとって、政権の最終目標は憲法改正であり、その布石となるのが教基法改正だ。また、郵政造反組の復党問題や政府のタウンミーティングでの「やらせ質問」などで内閣支持率が急落している折である。今回の改正はつまずいてはならない改憲への第一歩とみての強行突破なのだろうか。とすれば教基法は踏み台とみなされたことになる。教基法の審議中には、いじめ自殺や必修科目の未履修など教育にかかわる深刻な問題が相次いだ。それだけに民主、共産、社民、国民新の野党四党の反対を押し切った与党の姿勢に対して「なぜ今なのか」「急ぎ過ぎ」という批判の声が上がっている。
改正教基法の一番の特徴は、教育に対する国家的な関与の度合いを強めたことだろう。この点で同法が具体的に反映される今後の学習指導要領改定や学校教育法、教員免許法、地方教育行政法など30を超す関連法の改正から目が離せない。法律は一度成立すると、反対意見があったことは次第に忘れられ、やがて拡大解釈されていく。「抵抗力」の弱い地方では特にその傾向が強く、法解釈は形式的になりがちだ。教員が多忙で、子供と正面から向き合うことが少なくなった教育現場では、国の方向転換に混乱し、いじめの再発や新たな問題も起こりかねない。
改正教基法の条文では第二条「教育の目標」として豊かな情操と道徳心、公共の精神、伝統と文化を尊重し国と郷土を愛し国際社会に寄与する態度が明記された。これまでの教基法で学問の自由や自発的精神が前面に出ていたのと比べ、改正法では徳目教育を目標化した点が目立っている。「愛国心」について安倍首相は「内面に入り込んで評価することはない」と言っている。だが政府は「教員の指導は責務」「学習姿勢を評価」と、現場に具体的な指導を求めている。
現場にとって、徳目教育は難題だろう。これから新たな指導要領や関連法に沿った教育が試みられ、やがて「模範校」が一つの基準になるだろう。その過程で、教師の多様な価値観や子供の自由な発想が変にゆがめられないか心配である。学校や教育委員会の硬直的な対応でいじめ問題が膨れ上がったのと同様、徳目教育も形式化する恐れがある。国歌斉唱が学校評価の一つの基準になっているのと同じ理屈だ。上意下達ではない幅のある試行を望みたい。国の教育への関与は、あくまでも抑制的であるべきだ。
改正教育基本法が成立
北海道新聞 2006年12月16日
憲法とともに戦後日本の民主主義を支えた教育基本法が改正された。改正法は「わが国と郷土を愛する態度」などを条文に盛り込んだ。戦後教育の枠組みと理念を根底から変える内容だ。
新しい法律の下で、教育はどう変わるだろう。「国を愛せ」と教師が子供たちに強く求める場面が起きないか。そんな授業を受ける子供たちの態度が「評価」につながらないか。教育現場の創意工夫はどこまで生かされるだろう。こうした点の審議が必ずしも十分だったとは思えない。改正に国民の合意ができていたともいえない。数の力を背景に、今国会で改正法の成立を図った政府・与党のやり方は強引だった。
安倍首相は、占領時代に制定された教育基本法と憲法の改正は、「自民党結党以来の悲願」だとしていた。それほど重要なら、国民への丁寧な説明と合意形成の真摯(しんし)な努力を重ねる必要があったはずだ。次の課題は憲法改正ということになるのか。国の基本にかかわる問題で、「数の力」に頼る姿勢は、許されるものではない。
*「国家」重視に軸足を移す
教育基本法は一九四七年、戦前の国家中心教育への深い反省を踏まえて制定された。 前文で「個人の尊厳」を基本とする教育理念を掲げ、憲法の理念の実現を「教育の力」に託した。これに対し、改正法は「わが国と郷土を愛する態度」や「公共の精神」などの徳目を「教育目標」に掲げた。教育理念の軸足を「個人」から「国家社会」の重視に移した。
しかし、そもそも法で、内心にかかわる「教育目標」を定めることは、憲法が保障する「思想と良心の自由」にそぐわないのではないか。中国や旧ソ連のような社会主義国を除けば、多くの先進国では「国を愛する態度」のような内心の問題まで国法では定めていない。教育目標に徳目を並べ、評価までするという日本の教育は、異質と見られるのではないか。
「わが国や郷土を愛する態度」を自然にはぐくむことは、国民として大切なことだろう。「公共の精神」を身につけることも、社会生活を営むうえで欠かせない。それを法律に書き込み、子どもが学ぶ態度まで評価するとなると話は別だ。国による管理や統制が過度に強まる懸念がぬぐえない。
*法の名の下で行政介入も
改正法で見逃せないのは、教育行政のあり方に関する条文の変更だ。改正前の基本法一○条は、教育は「不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負う」と定めている。戦前の国家統制への反省を踏まえ、行政の教育への介入を防ぐ役割を果たしてきた。
改正法は、「国民全体に対し直接に責任を負う」という文言を削除し、新たに「法律の定めるところ」によって教育を行うと定めた。現場の教師はこれまで、「国民全体に直接に責任を負う」という条文があったからこそ、父母や子どもたちとともに、創意工夫のある教育活動を試みることができた。しかし、法改正によって、時の政府が法律や指導要領を決め、それに基づいて教育内容が厳密に規定されれば、教員は行政の一員としての役割を強いられる。教育法学者からは、政治や官僚の不当な圧力からの独立と自由を目指した当初の立法の趣旨が、法改正で逆転したという見方が出ている。
文科省は教員評価制度の導入を一部の学校で始めている。制度の運用によっては、教師の仕事が国の決めた教育目標をどこまで実現したかという観点から評価されかねない。こうした問題をはらんでいたからこそ国民の間に懸念の声は強かった。東大が十月にまとめた全国アンケートでは、公立小中学校の管理職の三人に二人が「現場の混乱」を理由に改正に反対していた。ところが安倍首相は国会で「国民的合意は得られた」と繰り返した。政府のタウンミーティングでは、姑息(こそく)な世論誘導も明らかになった。
*施策の吟味が欠かせない
「教育基本法は個人の価値を重視しすぎている。戦後教育は道徳や公共心が軽視され、教育の荒廃を招いた」 自民党内の改正論者は、このように基本法を批判してきた。教育現場は、子どもの学力低下やいじめなど多くの課題を抱えている。しかし、教育荒廃の原因は基本法に問題があったからではない。むしろ、文科省や教育委員会が、基本法の理念を軽視し、実現に向けた努力を怠ってきたのが現実ではないか。
文科省は今後、改正法に基づき具体的な教育政策を網羅した「教育振興基本計画」を策定する。教育改革の名のもとに打ち出される施策の中身を、学校現場と父母は十分に吟味し、子どもの成長に役立つ施策かどうかを見極める必要がある。改正法の下での教育現場の変化を、注意深く見守らねばなるまい。
教育基本法 運用の監視が怠れない
信濃毎日新聞 2006年12月16日
教育基本法の改正案が参議院の本会議で可決、成立した。戦後教育の背骨となった重要な法律が全面的に改定された。個人の尊重より公共の精神を優先し、国を愛する心を求める内容だ。反対が根強い中、論議を尽くさないままに成立したのは残念だ。今後、関連する法律の見直しが進められる。法律に何が盛り込まれるのか。学校はどう変わるか。国の動きをチェックする必要がある。
何より、子どもたちがより息苦しくならないよう、現場の声を上げ続けることが大切になる。
「伝統と文化を尊重」「わが国と郷土を愛する態度を養う」「公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度」-。改正法にはこういった「教育の目標」がずらりと並ぶ。憲法の理想を実現するには「教育の力にまつべきもの」として、個人の尊厳を重んじる現行法から、基本的な考え方が大きく変わる。規範意識を植え付け、国が期待するあるべき姿を押しつける方向に教育がねじ曲げられないか、心配になる。
<規律の重視だけでは>
教育をめぐる問題は深刻だ。学ぶ意欲の低下、家庭や地域の教育力の弱体化など山積している。こうした問題を、政府は個の尊重や自由が行き過ぎたゆえに生まれたものだとする。根本的な改革のための、基本法見直しだと説明している。
いまの教育を良くしたいという思いは国民の間に強い。ただ、そのために教育の理念を変える必要性は認め難い。政府の目指す方向と、学校現場や家庭が抱えている問題には大きなずれが感じられる。例えば、相次いで表面化したいじめにどう対応するかだ。いじめられた経験を学校などで語る、20代の人たちの話を聞く機会があった。「学校に行けない自分を悪い人間だと責めながら、行くなら死んでしまいたいと包丁を持った」「生きるのもつらいが、死ねないつらさにも苦しんだ」
過去を語ることは、死にたいほどのつらさを再び体験することにもなる。それでもいじめをなくしたいと、訴え続けている。彼らがそろって口にするのは、いじめる側を厳しく指導しても、解決にならないということだ。「なぜいじめるのか、自分の心に向き合わせる対応が大切」「先生は忙しく、子どもに接する時間が少なすぎる」「親や教師も絡んだ複雑ないじめの実態に、もっと耳を傾けてほしい」。こうした訴えは、どこまで国会に届いているのか。
14日の参議院特別委員会で、安倍晋三首相は「相手をいじめる気持ちを自律の精神で抑え、教室で迷惑をかけてはいけないと公共の精神や道徳心を教える」と述べた。体験者の声とは懸け離れた理屈である。問題を深刻化しかねない。論議が不十分に終わった一因は、民主党にある。民主党の対案は前文に「日本を愛する心」をうたい、保守的な色合いは政府案よりむしろ強い。政府案が決まれば、どんなマイナスの影響があるのかといった問題追及が足りなかった。
<内心に踏み込む恐れ>
改正法に基づき、政府は5年間の目標を定める「教育振興基本計画」を作る。関連法の改正や、学習指導要領の見直しも始まる。今後の動きに厳しい目を向ける必要がある。最も心配されるのは、子どもの内面に踏み込む方向が強まることだ。安倍首相は「内心の評価は行わない」としたものの、日本の伝統や文化を学ぶ姿勢や態度を評価することは明言している。評価の対象は「態度」だとしても、法律などで教育目標となれば、子どもに強制することになりかねない。通知票で「愛国心」を評価することに、どんな意味があるのか。
かつて国旗国歌法の審議でも、日の丸掲揚や君が代斉唱を義務付けるものではないとの答弁はあった。しかし、現実には教職員への指導強化になり、自殺者まで出た。事実上の強制である。二の舞いは避けねばならない。第二の心配は、地域や学校の自主性が狭められることだ。教育基本法は、戦前の教育が国家のために奉仕する国民を育てた反省に基づいて生まれた。「不当な支配に服することなく」と、教育の中立性や自由をうたっている。
<改憲への岐路に?>
改正法は教育行政について「この法律及び他の法律の定めるところにより行われる」としている。教育内容への国の関与は、強まると考えねばならない。学校の裁量や自由が狭められる心配が募る。学校も家庭も余裕がない。そんな中で、例えば「いじめや校内暴力を5年で半減」といった目標が掲げられたらどうなるか。現場はより息苦しくなる。子どもたちに徳目を押しつけるだけは解決にならない。そういった生の声をこれからも上げ、法の運用に目を光らせていく必要がある。
教育基本法改正は、憲法改正にもつながる。自民党の新憲法草案は個人の自由と権利の乱用を戒めている。このまま、国の関与が強まる道を選ぶのか。岐路に立っていることを自覚しなくてはいけない。
教育基本法改正・懸念は残されたままだ
琉球新報 2006年12月16日
教育基本法の改正案が参院本会議で与党の賛成多数で可決、成立した。1947年の制定以来、59年目にして初めて改定となった。教育基本法改正案は、衆院特別委員会、本会議でも与党の単独で採決され、参院でも与党単独での力ずくの採決となった。与党側は、審議は十分尽くしたとするが、果たしてそうだろうか。「成立ありき」の感がぬぐえない。国会での論議を聴いていても、高校の社会科未履修問題などに時間が割かれた。そのことは重要だが、なぜ教育基本法改正が必要なのか、改正で教育をどう変えていくのかなど、改正の本体を問う論議は少なかった。政府側の説明も不十分だった。
教育が現在、解決すべき問題を抱えていることは、多くの国民の共通の認識だろう。しかし、その解決が教育基本法改正とどうつながるのか、政府、与党から明確な答えを聞くことはできなかった。教育基本法は、憲法と同じく戦後の日本の進むべき方向性を示してきた重要な法律だ。改正は慎重の上にも慎重を期して当然だ。教育は「国家100年の大計」といわれる。その理念を定めた基本法が国民合意とはほど遠く、数を頼みの成立では、将来に禍根を残すことになる。
改正する理由について政府、与党は「個人重視で低下した公の意識の修正」や「モラル低下に伴う少年犯罪の増加など教育の危機的状況」などを挙げる。しかし、教育を取り巻く問題がすべて現行の教育基本法にあるとするのは、無理がある。安倍晋三首相は、いじめ問題などについて「対応するための理念はすべて政府案に書き込んである」と繰り返した。「公共の精神」や「国を愛する態度」といった精神論を付け加えることで果たして問題が解決できるのか。むしろ、現行法の最も重要な理念である「個の尊重」が、教育現場で本当に生かせるような枠組みづくりが必要なのではないか。
教育と政治の関係も大きく変わる。現行法では「教育は、不当な支配に服することなく」とされているが、改正法では「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり」が付け加えられた。国会で多数をとって法律を制定させれば、教育内容に介入することも容易になる。教育が時の政権の思惑によって変えられることになりはしないか。改正法が成立したことで、政府は教育振興基本計画を定め、関連法案の改正に着手する。しかし、基本法改正への懸念は残されたままだ。政府は、計画策定などの論議の中で国民の懸念に十分に応える必要がある。
国会閉会 将来恥じぬ議論したか
中国新聞 2006年12月20日
安倍内閣が九月に発足後初めての臨時国会が閉会した。85日間の今国会では、「教育の憲法」といわれる教育基本法が制定以来59年ぶりに改正され、防衛庁の「省」昇格関連法もあっけなく成立した。戦後の教育の根幹や防衛政策が大きく転換する、曲がり角の国会になったといえる。しかし、重要法案の白熱した論戦があったか。政府の説明は全く十分でなく、民主党など野党の追及も迫力を欠く体たらくだ。国民に賛否があり、国の行く末を左右する法案に対して、今国会が将来の検証に恥じない丁々発止の議論をしたとはとても思えない。今国会は、安倍新内閣の国づくりの方向性とその実像を国民に示す機会だった。「改革、競争」一辺倒だった小泉前内閣の何を継承し、何を刷新するのか。だが、安倍晋三首相の打ち出す「戦後体制からの脱却」の必然性や真意は、多弁ながら明確ではなかった。
改正教育基本法は、現行法が培った「個」の尊重から「公」重視に基本理念を急旋回させた。教育目標に「愛国心」重視の姿勢を掲げた。では、なぜ戦前回帰なのか、それによっていじめ自殺や各教委の無責任対応など混迷する現場が立て直せるのか。愛国心も個々に価値観が違うものを強要していいはずはない。社会情勢の変化を見据えた教育再生について、説明責任が果たせたとはいえまい。
防衛庁の省昇格関連法にしても、国防権限が強化され、「付随的任務」だった自衛隊の海外派遣が「本来任務」に格上げになる。これまでの「専守防衛」を根本から覆しかねない重大な懸念をはらむ法案である。こうした安倍内閣の「危険ゾーン」への踏み込みをただせなかった民主党の責任は大きい。独自に提出した教基法改正案では、むしろ愛国心は自民党より色濃く盛られた。集団的自衛権でも一昨日まとめた「政権政策」で一部容認に踏み込むなど、自民党との対立軸が明確でない。対案を出しつつ攻め切れない小沢体制の弱さが、重要国会で露呈した形だ。考えてみれば、自民党復党問題に大義があったか。タウンミーティングやらせ問題、税制改正の企業優遇路線。民主党が攻める切り口は多々あった。それを生かせない野党第一党に、来夏の参院選で政権交代をかける力量があるか。
昨秋の衆院選で自民党に圧倒的多数議席を与えた有権者も、今後の国の在り方を見極めたい。