イラク医療支援NGOレポート
癌で苦しむイラクの子どもたち
JIM-NET
「限りなき義理の愛大作戦」
まさに容赦のない大作戦になってしまった。限りなき=イラクに平和が来るまで続ける 義理の愛=すべての人々に愛を、という作戦である。
私たちは、イラクの癌で苦しむ子どもたちのために薬を支援してきた。2005年は、一年間で約2000万円の支援が2006年は、5000万円を超えた。われわれの、資金はすべてカンパで成り立っているといってもいい。
現場では次から次へと薬の支援要請が来る。白血病の子どもの場合は2-3年間、キモセラピーといって薬を摂取すれば、80%は直る。白血病の場合、高額治療のイメージが高いが、実際この間に使う薬の金額をすべて足して日数で割ってみると一日400円程度の薬代がかかる。私たちが、一日400円の節約を2-3年やってみると一人の子どもを救える計算になる。意外に、それほど難しいことではないかもしれない。
しかし、問題は、日本の中でもイラクの関心が薄れてしまっているということ。ほとんどニュースにもならなくなってしまった。一方、2月14日が近づいてくると、日本はバレンタインデーで大騒ぎだ。なんと530億円の売り上げがこの時期に集中するらしいのだ。
そこで、募金してくれた人にチョコを差し上げようというのがこの作戦。この作戦のために日本国内は大騒ぎになっていた。
その隙に、私たち3人はこっそりとヨルダンに飛んだ。限りなき義理の愛大作戦の現場編はBMT作戦である。私たちの使命は日本で調達した薬をヨルダンに持ち込み、その後、イラクの病院に届けるという作戦。
まず、一番手のBが失敗した。飛行場の税関で荷物検査をされ、薬を差し押さえられたのである。結局、ヨルダンには持ち込むことができず、数日後に飛行場から、直接DHLでイラクに空輸することに成功し、難なきを得たが。つぎのMとTが持ち込むのは要冷蔵が必要な薬だった。寒い冬といえども保冷剤を入れていても24時間以上たつと温度は上がってしまう。
アンマンに着いたら直ちに冷蔵庫に保管しておき、治安情報をチェックしながら、タイミングをみて再びイラクへ送りだす。 税関で預かりになっただけでも薬の品質に影響する。あらかじめ、ヨルダン大使館にも確認し、薬をヨルダン経由でイラクの病院に送る許可も取っていた。Bが薬を持ち込むという話もヨルダン政府に連絡してあったのだが、現場まで情報が伝わらず、薬を持ち込むことができなかった。
これは、まずいということで、ヨルダン大使館に電話するが、「本国と連絡を取っているが返事がまだ来ない」とのこと。「税関で見せるようにアラビア語でレターを書いてほしい」とお願いした。しかし、ファクスが届かず、Mの出発は、24時間を切ってしまった。あきらめかけていたところ、夜の10時に大使館職員から電話。「レターを作りましたので、すぐ取りに来てください」というのだ。今は、夜の10時。「私は都心から離れているので、ファクスしてください」というと「ファクスではダメです。封印してあるので、決して中を開けずにそのまま、税関の係りに手渡して下さい」というのだ。これから出発しても私の家からだと1時間はかかる。しょうがない。大使館員の自宅の最寄り駅で会う約束をした。
小雨が降る中、私は自転車を飛ばして駅まで行きそこから電車を乗り継ぐ。ほぼ約束どおりの時間に駅につき携帯に電話する。「中央口から出て左に行ってA6の出口を登ってください。」「ハイわかりました」地上に登っていくが、誰もいない。もう一度電話すると、「右です。」ちょうどスクランブル交差点の向こう側に傘をさした大使館員らしき人物が携帯を持っていた。私たちは、横断歩道の中央あたりですれ違いざまに書類をうけとった。
家に帰ると、一時を過ぎていた。昼、薬と保冷剤をパッキングしていざ出発。アンマン国際空港の検査では、X-線検査で引っかかり、質問を受けるが、レターを見せると、愛想よく対応してくれ、問題なく薬をヨルダンの事務所まで持ち込むことができた。家を出てから24時間以上かかったが、薬はまだつめたかった。ほっと一息。
一週間後にアンマンに到着したTもレターのおかげで無事に薬を持ち込むことができた。それらをまとめて今度はクウェートまで持っていき、イラクから出てきたドクターに無事に手渡すことができた。
バスラのイブラヒム
イブラヒムは、クウェートの国境近くの町、ズベイルに住んでいて、朝の9時には、バスラ市内にある産科小児科病院に行く。子どもたちはイブラヒムが大好きで、彼が寝坊したり、イギリス軍のチェックポイントで時間をとられて、遅れたりすれば、子どもたちは、「イブラヒム先生はどこにいるの」と不満そうに騒ぎ出す。
「子どもたちは、闘病生活が長く、読み書きもろくにできない。数字の書き方を教えたり、文字の読み書きとか子どもたちに合わせて臨機応変に授業をしている。」先生と言いながらも、ちょっとおっちょこちょいな性格が子どもたちをひきつけるようだ。親が注射を嫌がる子どもをつれてきて、「イブラヒム先生、子どもが注射をきちんと受け入れるように諭してください」と言われることも多い。
バスラの子供たち
バスラには、貧しくて病院にいく交通費すら払えない家族が多い。イブラヒムは、そんな子どもたちを車で迎えに行ったり、生活補助金を配ったりしている。今回、限りなき義理の愛大作戦で絵を描いてくれたのは、こういった、貧しいがんの子どもたちである。
サブリーン(12歳)は、目のがんを患い、右目を摘出した。落ち込んでいた彼女は、イブラヒムの教室で絵を教えてもらい、とっても素敵な絵を描きだした。
彼女が生まれてすぐに、父親は、徴兵を拒否したために捕まって殺される。お母さんは再婚して新しいお父さんができたが、今のイラクでは仕事がなく生活していくのがやっとである。ちょっとしたお金があれば、サブリーンは放射線治療を受けることができる。がんが左目に転移したらもう絵はかけなくなってしまう。
「サブリーンに絵を描き続けてあげあせたい。少しでもいいから支援してあげて欲しい」イブラヒムの呼びかけで、お金が集まり、サブリーンがモスルまで放射線治療を受けに行くことができた。
しかし、イブラヒムの生徒たちの多くは死んでいった。
ドゥア・ハッサンは9歳の女の子。いつもお花の絵を描いていた。「お花がいっぱい」で絵を提供してくれた。4歳の時からがんの治療を受けていたが、2006年に再発。父親はイランイラク戦争に従軍し、腕を怪我したので仕事につけず、街道の脇の掘っ立て小屋を借りて生活していた。「私はドゥアが大好きだった。私の娘のファートマをよく病院に連れてくのだけど、2人は親友だった。いつも一緒にいたよ。
イブラヒム、たすけてくれと家族はいつも言っていた。でも私は医者じゃないから、洋服を買ってあげたりするくらいしかできなかった。胃や肺もだめになっていた。そして、出血、出血、出血だ。いつも血小板が必要だったんだけど、もう輸血もできずに死んでいった。
彼女は、学校が好きだと言っていた。でも、もう学校には行けなかったよ。病院に時々紙を持っていってやったら、ベッドで絵を描いていたなぁ…。彼女は花が好きだったな。ミッキーマウスも描いていた。いつも彼女はイブラヒムおじさん! と言ってキスしてくれた。食事などを差し入れしてあげるとうれしそうだった。」
イブラヒムは、お悔やみを言いに家族を尋ねた。遺族の相談相手になるのもイブラヒムの大切な仕事だ。彼自身が、妻を白血病で亡くしているから、この役割は彼ほどふさわしいものはいない。
薬の不足
バスラの病院では、小児がんに必要な、医薬品が、病院に政府から供給されることはほとんどない。JIM-NETとオーストラリアのNGOが、何とか必要な薬を届けている。
朝、イブラヒムは、いつもドクターに呼ばれる。「もう、抗がん剤が底を付きそう。イブラヒムさん買ってきて!」イブラヒムは、隣国ヨルダンのJIM-NET事務所に電話して、薬を手配したり、街中の薬局を駆けずり回って薬を調達する。すっかり、薬には詳しくなった。「私は医者になれるよね」と冗談をいう。
「昨年暮れに、薬がたくさんバスラの飛行場に届きました。しかし、病院のすべての人間が怖がって受け取りに行かないんだ。病院を警護している警官ですらいやだと言った。抗がん剤だけじゃない。その中には、輸血に必要な血液バッグもむくまれていた。 患者は薬がないと死んでしまうし、輸血も受けられない。それで、私の友人の警察官に連絡をしたら警護をしてくれるというので、GMCをチャーターして、朝8時にパトカーと一緒に、飛行場に行ったけど、4時間待たされた。私の車は入り口でイギリス軍に止められた。それで、飛行場の車で43個のダンボールを運んできて、GMCに積み替えた。
私の横には、警官がついて銃を構えながら薬を守ってくれていた。なぜなら、飛行場から病院間での道のりは危なくてしょうがないからだ。盗賊や武装勢力、テロリスト、だれかれかまわず、何にでも撃ってくるから…。
病院に戻って来たときは、お医者さんも患者さんも、みんなが「ありがとう」って言ってくれたので、とってもうれしかった。
怖かったかって? 神が守ってくれるから…。それより、子どもたちに助かって欲しいからね。」
しかし、バスラの状況は悪化している。
イブラヒムの最近のメールでは、サブリーンの様態が悪くなったことを伝えてきた。目の検査をしたところ、再発していることがわかったのだ。サブリーンはもう自分は死んでしまうと思い込んだ。「もう薬はいや。死ぬんだったら、家に帰りたい」泣き叫ぶサブリーンを説得するイブラヒム。
イブラヒムは、サブリーンの絵が使われている「義理チョコ」をサブリーンに手渡した。「日本のみんなが君の絵を楽しみにしているんだよ。この甘いチョコレートが、薬に変わるんだ。」サブリーンは、ちょっと元気になって、また絵を描きだした。そして、注射を我慢した。
3月24日、イブラヒムから連絡が入る。
「今日、私は、バスラで大きな事故に巻き込まれました。私は、命を失っていたかもしれません。マハディ軍と政府軍が衝突したのです。銃撃戦がはじまり、ちょうどそのとき私は薬を買いに来ていました。ドクターがどうしても足らない薬があるので飼ってきて欲しいというのです。私は、3時間、薬局に身を潜めていましたが、周りには血を流して倒れている人や死体が転がっていました。しかし、その後、何とか、薬は病院に届けることができました。子どもたちが薬を待っていたからです。」
私たちの作戦に終わりはない。
JIM-NETはJapan Iraq Medical Networkの略
1991年の湾岸戦争以降、イラクではガンや白血病の子どもたちの数が増え、JVC(日本国際ボランティアセンター)が2004年、イラクで医療支援を行っている他のNGOとともにこの「日本イラク医療支援ネットワーク(JIM-NET)」を立ち上げた。現地のニーズに合わせた、医療支援活動を厳しい内戦状態の中、今も活動している。
事務局 : 〒390-0303 長野県松本市浅間温泉2-12-12
電話:0263-46-4218 FAX:0263-46-6229
http://www.jim-net.net/
募金先 郵便振替口座:00540-2-94945 口座名:日本イラク医療ネット
癌で苦しむイラクの子どもたち
JIM-NET
「限りなき義理の愛大作戦」
まさに容赦のない大作戦になってしまった。限りなき=イラクに平和が来るまで続ける 義理の愛=すべての人々に愛を、という作戦である。
私たちは、イラクの癌で苦しむ子どもたちのために薬を支援してきた。2005年は、一年間で約2000万円の支援が2006年は、5000万円を超えた。われわれの、資金はすべてカンパで成り立っているといってもいい。
現場では次から次へと薬の支援要請が来る。白血病の子どもの場合は2-3年間、キモセラピーといって薬を摂取すれば、80%は直る。白血病の場合、高額治療のイメージが高いが、実際この間に使う薬の金額をすべて足して日数で割ってみると一日400円程度の薬代がかかる。私たちが、一日400円の節約を2-3年やってみると一人の子どもを救える計算になる。意外に、それほど難しいことではないかもしれない。
しかし、問題は、日本の中でもイラクの関心が薄れてしまっているということ。ほとんどニュースにもならなくなってしまった。一方、2月14日が近づいてくると、日本はバレンタインデーで大騒ぎだ。なんと530億円の売り上げがこの時期に集中するらしいのだ。
そこで、募金してくれた人にチョコを差し上げようというのがこの作戦。この作戦のために日本国内は大騒ぎになっていた。
その隙に、私たち3人はこっそりとヨルダンに飛んだ。限りなき義理の愛大作戦の現場編はBMT作戦である。私たちの使命は日本で調達した薬をヨルダンに持ち込み、その後、イラクの病院に届けるという作戦。
まず、一番手のBが失敗した。飛行場の税関で荷物検査をされ、薬を差し押さえられたのである。結局、ヨルダンには持ち込むことができず、数日後に飛行場から、直接DHLでイラクに空輸することに成功し、難なきを得たが。つぎのMとTが持ち込むのは要冷蔵が必要な薬だった。寒い冬といえども保冷剤を入れていても24時間以上たつと温度は上がってしまう。
アンマンに着いたら直ちに冷蔵庫に保管しておき、治安情報をチェックしながら、タイミングをみて再びイラクへ送りだす。 税関で預かりになっただけでも薬の品質に影響する。あらかじめ、ヨルダン大使館にも確認し、薬をヨルダン経由でイラクの病院に送る許可も取っていた。Bが薬を持ち込むという話もヨルダン政府に連絡してあったのだが、現場まで情報が伝わらず、薬を持ち込むことができなかった。
これは、まずいということで、ヨルダン大使館に電話するが、「本国と連絡を取っているが返事がまだ来ない」とのこと。「税関で見せるようにアラビア語でレターを書いてほしい」とお願いした。しかし、ファクスが届かず、Mの出発は、24時間を切ってしまった。あきらめかけていたところ、夜の10時に大使館職員から電話。「レターを作りましたので、すぐ取りに来てください」というのだ。今は、夜の10時。「私は都心から離れているので、ファクスしてください」というと「ファクスではダメです。封印してあるので、決して中を開けずにそのまま、税関の係りに手渡して下さい」というのだ。これから出発しても私の家からだと1時間はかかる。しょうがない。大使館員の自宅の最寄り駅で会う約束をした。
小雨が降る中、私は自転車を飛ばして駅まで行きそこから電車を乗り継ぐ。ほぼ約束どおりの時間に駅につき携帯に電話する。「中央口から出て左に行ってA6の出口を登ってください。」「ハイわかりました」地上に登っていくが、誰もいない。もう一度電話すると、「右です。」ちょうどスクランブル交差点の向こう側に傘をさした大使館員らしき人物が携帯を持っていた。私たちは、横断歩道の中央あたりですれ違いざまに書類をうけとった。
家に帰ると、一時を過ぎていた。昼、薬と保冷剤をパッキングしていざ出発。アンマン国際空港の検査では、X-線検査で引っかかり、質問を受けるが、レターを見せると、愛想よく対応してくれ、問題なく薬をヨルダンの事務所まで持ち込むことができた。家を出てから24時間以上かかったが、薬はまだつめたかった。ほっと一息。
一週間後にアンマンに到着したTもレターのおかげで無事に薬を持ち込むことができた。それらをまとめて今度はクウェートまで持っていき、イラクから出てきたドクターに無事に手渡すことができた。
バスラのイブラヒム
イブラヒムは、クウェートの国境近くの町、ズベイルに住んでいて、朝の9時には、バスラ市内にある産科小児科病院に行く。子どもたちはイブラヒムが大好きで、彼が寝坊したり、イギリス軍のチェックポイントで時間をとられて、遅れたりすれば、子どもたちは、「イブラヒム先生はどこにいるの」と不満そうに騒ぎ出す。
「子どもたちは、闘病生活が長く、読み書きもろくにできない。数字の書き方を教えたり、文字の読み書きとか子どもたちに合わせて臨機応変に授業をしている。」先生と言いながらも、ちょっとおっちょこちょいな性格が子どもたちをひきつけるようだ。親が注射を嫌がる子どもをつれてきて、「イブラヒム先生、子どもが注射をきちんと受け入れるように諭してください」と言われることも多い。
バスラの子供たち
バスラには、貧しくて病院にいく交通費すら払えない家族が多い。イブラヒムは、そんな子どもたちを車で迎えに行ったり、生活補助金を配ったりしている。今回、限りなき義理の愛大作戦で絵を描いてくれたのは、こういった、貧しいがんの子どもたちである。
サブリーン(12歳)は、目のがんを患い、右目を摘出した。落ち込んでいた彼女は、イブラヒムの教室で絵を教えてもらい、とっても素敵な絵を描きだした。
彼女が生まれてすぐに、父親は、徴兵を拒否したために捕まって殺される。お母さんは再婚して新しいお父さんができたが、今のイラクでは仕事がなく生活していくのがやっとである。ちょっとしたお金があれば、サブリーンは放射線治療を受けることができる。がんが左目に転移したらもう絵はかけなくなってしまう。
「サブリーンに絵を描き続けてあげあせたい。少しでもいいから支援してあげて欲しい」イブラヒムの呼びかけで、お金が集まり、サブリーンがモスルまで放射線治療を受けに行くことができた。
しかし、イブラヒムの生徒たちの多くは死んでいった。
ドゥア・ハッサンは9歳の女の子。いつもお花の絵を描いていた。「お花がいっぱい」で絵を提供してくれた。4歳の時からがんの治療を受けていたが、2006年に再発。父親はイランイラク戦争に従軍し、腕を怪我したので仕事につけず、街道の脇の掘っ立て小屋を借りて生活していた。「私はドゥアが大好きだった。私の娘のファートマをよく病院に連れてくのだけど、2人は親友だった。いつも一緒にいたよ。
イブラヒム、たすけてくれと家族はいつも言っていた。でも私は医者じゃないから、洋服を買ってあげたりするくらいしかできなかった。胃や肺もだめになっていた。そして、出血、出血、出血だ。いつも血小板が必要だったんだけど、もう輸血もできずに死んでいった。
彼女は、学校が好きだと言っていた。でも、もう学校には行けなかったよ。病院に時々紙を持っていってやったら、ベッドで絵を描いていたなぁ…。彼女は花が好きだったな。ミッキーマウスも描いていた。いつも彼女はイブラヒムおじさん! と言ってキスしてくれた。食事などを差し入れしてあげるとうれしそうだった。」
イブラヒムは、お悔やみを言いに家族を尋ねた。遺族の相談相手になるのもイブラヒムの大切な仕事だ。彼自身が、妻を白血病で亡くしているから、この役割は彼ほどふさわしいものはいない。
薬の不足
バスラの病院では、小児がんに必要な、医薬品が、病院に政府から供給されることはほとんどない。JIM-NETとオーストラリアのNGOが、何とか必要な薬を届けている。
朝、イブラヒムは、いつもドクターに呼ばれる。「もう、抗がん剤が底を付きそう。イブラヒムさん買ってきて!」イブラヒムは、隣国ヨルダンのJIM-NET事務所に電話して、薬を手配したり、街中の薬局を駆けずり回って薬を調達する。すっかり、薬には詳しくなった。「私は医者になれるよね」と冗談をいう。
「昨年暮れに、薬がたくさんバスラの飛行場に届きました。しかし、病院のすべての人間が怖がって受け取りに行かないんだ。病院を警護している警官ですらいやだと言った。抗がん剤だけじゃない。その中には、輸血に必要な血液バッグもむくまれていた。 患者は薬がないと死んでしまうし、輸血も受けられない。それで、私の友人の警察官に連絡をしたら警護をしてくれるというので、GMCをチャーターして、朝8時にパトカーと一緒に、飛行場に行ったけど、4時間待たされた。私の車は入り口でイギリス軍に止められた。それで、飛行場の車で43個のダンボールを運んできて、GMCに積み替えた。
私の横には、警官がついて銃を構えながら薬を守ってくれていた。なぜなら、飛行場から病院間での道のりは危なくてしょうがないからだ。盗賊や武装勢力、テロリスト、だれかれかまわず、何にでも撃ってくるから…。
病院に戻って来たときは、お医者さんも患者さんも、みんなが「ありがとう」って言ってくれたので、とってもうれしかった。
怖かったかって? 神が守ってくれるから…。それより、子どもたちに助かって欲しいからね。」
しかし、バスラの状況は悪化している。
イブラヒムの最近のメールでは、サブリーンの様態が悪くなったことを伝えてきた。目の検査をしたところ、再発していることがわかったのだ。サブリーンはもう自分は死んでしまうと思い込んだ。「もう薬はいや。死ぬんだったら、家に帰りたい」泣き叫ぶサブリーンを説得するイブラヒム。
イブラヒムは、サブリーンの絵が使われている「義理チョコ」をサブリーンに手渡した。「日本のみんなが君の絵を楽しみにしているんだよ。この甘いチョコレートが、薬に変わるんだ。」サブリーンは、ちょっと元気になって、また絵を描きだした。そして、注射を我慢した。
3月24日、イブラヒムから連絡が入る。
「今日、私は、バスラで大きな事故に巻き込まれました。私は、命を失っていたかもしれません。マハディ軍と政府軍が衝突したのです。銃撃戦がはじまり、ちょうどそのとき私は薬を買いに来ていました。ドクターがどうしても足らない薬があるので飼ってきて欲しいというのです。私は、3時間、薬局に身を潜めていましたが、周りには血を流して倒れている人や死体が転がっていました。しかし、その後、何とか、薬は病院に届けることができました。子どもたちが薬を待っていたからです。」
私たちの作戦に終わりはない。
JIM-NETはJapan Iraq Medical Networkの略
1991年の湾岸戦争以降、イラクではガンや白血病の子どもたちの数が増え、JVC(日本国際ボランティアセンター)が2004年、イラクで医療支援を行っている他のNGOとともにこの「日本イラク医療支援ネットワーク(JIM-NET)」を立ち上げた。現地のニーズに合わせた、医療支援活動を厳しい内戦状態の中、今も活動している。
事務局 : 〒390-0303 長野県松本市浅間温泉2-12-12
電話:0263-46-4218 FAX:0263-46-6229
http://www.jim-net.net/
募金先 郵便振替口座:00540-2-94945 口座名:日本イラク医療ネット