エクストリーム四十代のかもめ日記

野球を中心に、体力気力に任せて無茶をしがちな日常を綴る暑苦しい活動記。

想い出が多すぎて ~w-inds.へのエール~ 後編

2020-07-04 13:51:58 | 音楽
メンバーの龍一君脱退を受けて、w-inds.の思い出を振り返る
自己満足大長編エッセイの後半です。

<前回のあらすじ>
夫婦でw-inds.にハマった我が家。
クリスマスイブのw-inds.イベントに行こうというダンナの
誘いを私は容赦なく断った。友人と出かけていったダンナは、会場に
入りきれなくてすごすごと帰ってきたのだが…(つづく)


明けて2003年、大変なことがありました。
クリスマスイブのイベントは、(ダンナを含む)多くのお客さんが
入場できなかったので、1月11日にお詫びとして謎の「イベント」
をやるというアナウンスがありました。
イブのイベントはライブだったので、今回もライブかもしれない…
ということで、私も今回はダンナと一緒に行くことにしました。
現地には長~い行列ができていて、その列の誰もがこの日の「イベント」
の内容を知りません。長~く待たされた後、じりじり列が動きだしたら、
おかしなことが起こりはじめました。
イベントの建物の中から出てくる中高生女子たちが、「ギョワァアー、
ウギョオオー、アギャアー」と謎のすさまじい奇声をあげ、「まじで、
やばい、まじで、やばい、やばすぎる」などと意味不明の言葉を叫んで
バタバタのたうち回っているのです。
「いいいいったい、中では何が!?」
列に並ぶ我々、そして周囲の同類たちは不安にかられました。
いよいよ我々も建物に入ったのですが、そこでダンナが「男性の方は
身体検査を受けてください」と、係員に連行されてしまいました。
待ってー、この男は「怪しい奴」でも「ただの付き添い」でもない、
ガチのファンクラブ会員よ~~!!
幸いダンナは安全な人間だと確認され、戻ってきました。そして、
私を前に並んでその先へと踏み込んだのですが…
途端、凍りつく私。
なんと、イベントは「握手会」だったのです!!!
まずは龍一君(が手前だったと思う)にタッチ程度の握手。
次に涼平君(が真ん中だったと思う)にもタッチ程度の握手。
二人には笑顔で「がんばってくださーい」と言えました。
そして! 最後は! なんと! 慶太君が! ギャー!!
「あのっ、……夫婦で聴いてますっ」
動転しまくって必死でそう言いつつ、これもタッチ程度の握手。
だが私、動揺しすぎてマフラーの片側をべろーんと落としつつ退場。
慌てて振り向くと、慶太君が「あっ」と心配げな様子をしていて、
マフラーの端を後ろに続くダンナが踏んでしまっていて、拾って
手渡してくるのを無言で受け取って、瞳孔が開いたまま退場しました。
私は驚愕の出来事に動揺が冷めやらず、寒空の下で「ギョワァアー、
ウギョオオー、アギャアー」と意味不明の叫びをあげました。
ダンナが出てきた姿を見ると、「まじで、やばい、まじで、やばい、
やばすぎる」と言って袖をつかんでドタバタ暴れました。
その瞬間、女子中高生たちがなんであんな状態だったのかがよ~~く
わかりました。私は当時29歳だけどな!
もう、動転しすぎて慶太君の顔とかほとんど見られなかったよ!

2003年5月、8thシングル「SUPER LOVER」は、
葉山さんプロデュースではないし、(あえて)バカっぽい歌詞だけど、
慶太君の声が綺麗に出ているので大きな不満はありませんでした。
しかし8月発売の9thシングル「Love is message」
あたりでそろそろあきらめはついてきました。
w-inds.は「唯一無二の独自な音楽を刻むアーティスト」で
なく、「そこそこ歌も上手いアイドル」になっていくんだな…って。
それでも、この時はまだ、夫婦揃ってw-inds.のファンでした。

2003年夏のツアーは、我々夫婦のw-inds.ファン活動に
おける最大のクライマックスとなりました。
7月下旬の川口リリアに始まり、8月半ばの長野県民文化会館、
8月下旬の富士急ハイランドコニファーフォレスト、そして8月末の
武道館…と、4公演を追い回したのです。
川口リリアでは、盛り上がってワーッとなる曲の時に、2階席の
最前列でダンナがステージ上の彼らに手を振ったら、龍一君が
「あっ」という顔をして、明らかに手を振り返してくれました。
「男性ファンが来てくれるのはうれしい」って言ってたもんな!
長野公演は、夏の爽やかな長野の風景と、タイアップのCD店の
店頭から流れるw-inds.の音楽が相まって、とても心地よい
旅になりました。
富士急ハイランドでは、スタンディングのライブだったので、あえて
少し後ろに下がって周囲の人たちと距離を取り、飛び上がって舞台を
見やすいように頑張っていました。ダンナいわく、「ヨメがジオング
になってた。ほとんど地面に足がついてなくて、浮いてた」だそうで。
そしてとうとう武道館。彼らも武道館…と感慨もひとしお。
4公演、出来は良かったりいまいちだったりいろいろでしたが、
とにかく可能な範囲内で追っかけ尽くした充実感にひたりました。

その秋には日本工業大学の学祭ライブにも行きました。
駅から大学までの道の途中にあったコンビニ内にw-inds.の
写真を貼った販促掲示が作られていて、慶太君の写真に「半袖だヨ!」
と書いてあったのには笑いました。当時、慶太君はなぜかいつも
長袖を着ていて、慶太君の半袖写真はレアだったのですが、そんな
ことを売り文句にする店員さん、どんだけガチやねん!
会場に到着すると、体育館からめっちゃ歌ウマな美声が聴こえてくる。
ああ、ほんとにw-inds.は、慶太君の歌は素晴らしいなあと、
最後の幸せな気分でいられたこの秋。
この後10月29日に発売された「Long Road」は、
私がw-inds.ファンとして聴いていた最後の作品となりました。

2003年12月17日、3rdアルバム発売。
この「w-inds.~PRIME OF LIFE~」を聴き、
デビューから葉山サウンドを中心として作り上げられてきた
「w-inds.にしかできない音楽」が終わったことを認識して、
私はw-inds.ファンをやめることにしました。
それまでの、「どこかで聴いたような不思議な懐かしさもあり、
けれど決してどこにもないw-inds.だけの透明な世界観」は
もう消滅していました。
「PRIME OF LIFE」は私にとって、「昔どこかで聴いた
アレやコレに似たような、二番煎じ的な音楽」でした。
それでも何度かはちゃんと繰り返し聴いたし、慶太君の歌声的には
綺麗だったから聴ける曲もあるといえばありました。
でも、デビュー当時のあのアーティストじゃ、もうないよね、これ。
それを別物として愛し続けていける人はついていったらいい。
でも、私は「これ」を聴きたくてファンをやっていたわけじゃない。
つまり、私にとって、w-inds.とは「葉山拓亮と橘慶太の
デジタルサウンド&クリアボイスの融合」でしかなかったわけです。
w-inds.がただのアイドルだったら、プロデュースが変わった
としてもファンでいられたと思います。でも、私はw-inds.の
あの音楽が聴きたかったファンなので、これを以て卒業を決めました。

このアルバム発売記念として、ミニライブイベントが横浜赤レンガ
倉庫で開催されるということで、夫婦で出かけていきました。
私は慶太君とのお別れのつもりで、最後の記念として…。
しかしあまりにすごい人出で、ダンナは(体が良くなかったので)
そのまま帰ることにして、私一人で人混みに突入してきました。
ライブの歌声、素晴らしかったなあ…。
慶太君への憧れの気持ちは残っていたので、失恋のようななんとも
いえない切なさと寂しさとともにステージ上の彼らを眺めて、途中で
その場を後にしました。

年が明けて3月くらいだったかな。ダンナはまだファンクラブ会員
だったので、2人でファンクラブ限定イベントに行きました。
(同伴の1人を連れてきていいファンクラブイベントって謎だよね!)
ライブ形式のイベントで、歌っている慶太君が人生最驚の近さに来て
(5メートルくらいの距離だったと思う)いい記念になりました。
でも、近くにいる慶太君を、「私の求めているのは、それじゃない」
という、えもいわれぬ顔で見つめてしまいました。
歌はかなり綺麗に歌えてたのに、「違うな」と思うなんて…
私にはもうファンを名乗る資格はなくなったんだな…と実感しました。
(多分ダンナもこの後、ファンクラブを継続しなかったと思う)

ダンナはその後も2004年3月発売「Pieces」や同6月発売
「キレイだ」といったシングルをちゃんと聴いてどうのこうのと批評
したり、2004年7月発売のベスト盤を買ったりしていました。
だから私もそれらを何度も耳にしましたが、興味を持てませんでした。

なんと、2004年10月発売のシングル「四季」は葉山拓亮さんの
プロデュースでした! さすがにそれは断固、買いました。
なんだろう、今でいうと「SMAPが解散してしまってから聴く、
『夜空ノムコウ』」って感じかな。「やっぱりいい曲だし、慶太君は
葉山さんの曲がいいよな、求めていたものはこれなんだよな」という
満足感はあるのですが、なんだか「終わってしまった寂しさと虚しさ」
みたいなものをどうしても伴ってしまって…
「『夜空ノムコウ』やっぱりいいわ」と「でもSMAPはもう…」の
間で行き来するファンの感情、それを想像してみてください。
私にとっての「四季」は、名曲なんだけど…
「君とのseasons ずっとこの先も繰り返すと信じて」
「瞳を閉じればいつもよみがえる 君とのseasons
 そのぬくもりと 痛みは消えないまま」
「君がいない四季を渡るよ」………
きっと葉山さんも同じことを思って作ったんだろうな…。
仕方ないこと、なんだけど。
声変わり前の限られたあの時期だからこそ、慶太君の歌声があれだけ
美しかったのかもしれないから。

w-inds.ファンとしての自分の心はこう思って整理しました。
「短い時期にしか存在しなかったあの稀有で貴重な慶太君の歌声を、
 最高の音楽に乗せて録音、記録できたことに、感謝」
慶太君のデビューがもっと後だったなら。
葉山さんの曲に出会えなかったなら。
私が耳にする機会がなかったなら。
w-inds.初期のあの名曲がこの世に生まれ得て、私がそれに
出会えた、今でもそれを何度も聴ける…。なんと幸せなことなのか。
別れを嘆くより、出会えた幸せをずっとかみしめていたい。

でも、私のw-inds.への感謝は、そんなちっぽけな個人的感傷
ではないんです。
今、歌もダンスも素晴らしい超一流アーティストとして活躍している
三浦大知。彼はFolderのボーカルとしてデビューした時から
ライジングプロダクション所属です。
彼は2000年から声変わりで休養して2004年に復帰、2005年に
ソロデビューしました。
三浦大知は声変わりで「喉、声をつぶさないため」に休養しています。
でもw-inds.橘慶太は、2002年に声変わりしているのに、
そのまま歌を続けています。
大知くんが実際語っていますが「声変わりの時に歌うと喉をつぶして
しまうので、歌ってはいけないということで、ダンスを勉強して
いました」…そう、橘慶太は2003年、2004年…と、次第に
低音がガマガエル声になっていきます。それでも歌い続けました。

三浦大知が休養して復帰して、自力で採算を取れるようになるまで、
誰が事務所の収入を支えていたのか?
もちろん2015年まで安室奈美恵がいたのでその収入は大きいけど、
w-inds.も収入の一端を支えていたのは間違いないでしょう。
声変わりで三浦大知を休養させているのに、w-inds.橘慶太は
声変わりを考慮することなく働かせているというのは、不公平な話
なのではないでしょうか?
また、2018年に「U.S.A.」で再ブレイクを果たした
DA PUMPも、ライジングプロダクション所属。
DA PUMPの低迷期は2002、3年頃から15年以上の長期に
わたります。2009年12月にKENが脱退した背景の一つには
事務所の金銭的な事情もあるようです。(売り上げの出ないDA 
PUMPでISSAとKENの2人を残しておく財力がなかった)
2001年から2年4か月、ライジングプロダクション社長である
名プロデューサー・平哲夫が不在となった時期をドンピシャで
支えたのは実はw-inds.なんです。声変わりを考慮して
もらえなかったのも平さん不在が大きいと思います。

声変わりで影響が出ても変わらず働かされることに不満を述べる
ことなく(そんな声を聞いたことも、そんな態度を見たこともない)、
ジャニーズ事務所の妨害も黙って耐えて、腐ることなく前に進んで
きてくれたw-inds.。
それどころか、ジャニーさんが亡くなった時、慶太君は追悼の
コメントまで出しています。
これこそがw-inds.のこれまでの姿勢そのものなんです。
声変わりしても。ジャニの妨害で国内の活動が難航してアジアでの
活躍を余儀なくされても。事務所の売れない仲間たちのために
金を稼いで回るような役回りに(結果として)なっていても。
ただ自分たちの道を、前を向いて上を向いて、ひたむきに進んで
きた彼らに、感謝し続けて幾年月。
なんとなくブログを始めてみたので、この場を借りて、これまでの
大きな感謝を伝えたいと思います。
三浦大知、DA PUMPが復活できたのは、w-inds.が
支えてくれたお陰です。また、実力派をちゃんと育てる力のある
ライジングプロダクションを守ってくれて本当にありがとう。

さらに、w-inds.という、慶太君が目立ちすぎるユニットの
中で、その両脇を支えてきてくれた涼平君と龍一君の苦労は
並々ならぬものがあったと思うのです。
「両脇の人、いなくても良くない?」と言われることも多々あった
でしょう。(実際は慶太君は一人じゃダメなんだけどね)
あの立ち位置を長く続けるのは、より強い自信と、それを維持
できる精神力が必要でしょう。
今回、龍一君にその精神力が尽きてしまったのは察するに余りある
出来事で、本当に「これまでありがとう」としか言えません…

そんなわけで、龍一君のw-inds.脱退を受けて書きはじめた
本エッセイですが…、w-inds.への思い入れが強すぎて、
書き上げるまでに1か月以上かかってしまいました…。
今でも、そしていつまでも、w-inds.(龍一君も含め)の
活躍を心から願っています。

2007年9月のある日の風景。
ダンナが部屋の大掃除中、w-inds.ファンクラブ会員だった
時の会報とか会員証とか誕生日にもらえるカードとかをいろいろ
発掘してきました。さすがに捨てるようです。
懐かしい写真などを見て、すっかり私は悲しくなりました。
もう戻らない思い出にうちひしがれ、布団に突っ伏してぐったり
していたら、ダンナが「そんなときは潔く、見ちゃえばいいんだよ!」
と、2002年のライブツアー「1st message」の
DVDをかけました…。
東京国際フォーラム…そして鹿児島…(そうまとう)
失われたもののあまりの大きさを再確認し、さらにぐったり悲しく
なる私でした。
2003年冬でファンやめたとか言って、だらだら未練がましく
引きずってて、それでこそ私…としか言いようがない。笑

2008年、会社がひょんなきっかけから社員旅行をすることに
なって、旅の準備の買い物をしていたら、ブティックで「慶太君が
いい声を出せる曲がもらえたら、こんな感じだろうな…涙」と
思わされる曲を耳にしました。曲が終わるまでじっと店内で聴いて、
帰宅してその旨をダンナに話したら「最近w-inds.の新曲が
出たらしいから、ほんとにw-inds.じゃないの?」とのこと。
即座に調べてくれたのですが、ドンピシャ。
25thシングル「Everyday」でした。
聴かなくなって突然街なかで聴いても、慶太君の声がわかる自分に
ホッとしたり可笑しくなったり。

2020年春、あるCMを見ていて「どう見てもこの集団のこの
位置にいる人は慶太君に見える。だが涼平君と龍一君がいないし、
周囲の人が誰だかわからん。こんな謎集団の一員が慶太君のはずは
ないか。でもこれは慶太君にしか見えない」とめっちゃ悩みました。
これまたダンナに訊いたらすぐ調べてくれて、今回もほんとに
慶太君本人でした。「180jacK.」っていうユニットらしい。
私が好きだったころからは見た目も相当変わってしまったのに、
そうとはわからない形で突然視界に入っても目に入って気になる
とは、私の「未練力」ってほんとすごい!!

本日、2020年7月4日も、CDプレーヤーに入れっぱなしに
しているw-inds.を聴きながらこれを仕上げました。
今でも、あの時期のw-inds.が一番好きな音楽です。

想い出が多すぎて ~w-inds.へのエール~ 前編

2020-07-04 13:50:58 | 音楽
2001年~2003年、実質3年という短い間でしたが、この時期は
私の人生において、音楽から得られる幸福や快さが一番充実していた
ことを、今しみじみと思い出します。

5月末、ライジングプロダクション所属のダンス&ボーカルユニット、
w-inds.から、メンバーの1人・緒方龍一が脱退することが
発表されました。
今後は千葉涼平、橘慶太の2人でw-inds.を続けていくとのこと。
これからの彼らの変わらぬ活躍を祈りつつ、またいつか、龍一君が
w-inds.の一員として笑顔でファンの前に立ってくれたら…と
(当人の迷惑を顧みなくて恐縮ですが)思わずにはいられません。

2001年3月、w-inds.デビュー。
2003年12月、w-inds.3rdアルバム発売。
この間の3年ほどが私の人生における「音楽視聴的ピーク」でした。
実質、3rdアルバムの出来で私は彼らを見限ってしまったわけですが、
その後も心の中にはずっとずっと、彼らへの感謝がありました。
今回は、3人ユニットとしてのw-inds.に対するリスペクトと
感謝のために、自分勝手なことを書き散らしたいと思います。
「我がw-inds.歴を全部書く」って感じで読者の9割9分9厘に
とって意味不明の長文、しかも前後編になるけど、かつての思いの
たけをここに全部ぶつけることにします。(いつもそんな感じだけど)
順にアップすると、後半が上に来ちゃうんだよな。まいっか。

2000~2001年は「ポストSPEED」激戦時代でした。
2000年3月31日にSPEEDが解散して、その後を継ぐべしと、
少女グループが次々に売り出されていたけれど、あのハイレベルな
ライジングプロダクションの肝煎りであるSPEEDに匹敵する、
あるいは肉薄できる女の子たちなんて、そういるはずがないんです。
(唯一、実力だけなら対抗し得たであろう「earth」がまるっきり
日の目を見なかったのは惜しまれる。パワーが足りなすぎた…)
SPEEDは「好きだけど、ファンではない」くらいなのですが、
次々出てくる少女ユニットに、私は冷ややかな目を向けていました。
「いつまでSPEEDの幻影を追ってんだよ、二番煎じが勝てるもんか」

そこに流れ星のように現れたオレンジ色の美少女…
それがw-inds.との出会いでした。

TBSの音楽ランキング番組「COUNT DOWN TV」(以下、
CDTV)で何度も見かける、「Forever Memories」
というレトロな曲を歌っている中性的で地味めの美少女。これは誰?
映像の背景が、私の好きな色・オレンジ色だったのも印象に残った理由
だと思いますが、とにかく顔と声、そしてランキングでちょっとだけ
耳にする歌詞が私のハートをつかみました。

当時の私は「シングルは割高だから、買うならアルバムのみ」という
ポリシーというか貧乏根性から、そのシングル曲は買いませんでしたが、
次の曲が出るのを楽しみにしていました。
すると、2ndシングルで衝撃の事実が…。
ボーカルの子、ランキングの数秒しか見たことなかったけど、男の子やん。
「w-inds.」の3人とも男の子で、少年ユニットやん。
そんなのは無関係に、2ndシングル「Feel The Fate」は
音楽性もますます高く、しかも歌がめっちゃ上手いのがよくわかる!!
さらにその数か月後、3rdシングル「Paradox」をCDTVの
ゲストライブで聴いてしまい、その美しく澄んだハイトーンボイスに
完全に打ちのめされました。
曲もすごい好きだし声も好きだし歌も上手い!!!
この時点で私は完全に陥落して「w-inds.のファン」になりました。

1stアルバム発売の報を受け、駅前のCDショップにソッコー予約を
入れました。
2001年12月7日、浮足立ってCDショップに行ったら、店員さんは
言いました。「発売は18日ですね。17日には入荷しますので」
浮足立ちすぎて、日付10日間違える超~フライングでした。アホすぎる。

この1stアルバム「w-inds.~1st Message~」を
聴いて、1曲目で呆然として、2曲目で笑いが止まらなくなりました。
「曲もだいぶいいけど、何より、なんだこの慶太君の歌の上手さは」
アルバムを聴きながらずっと、ほんとにゲラゲラ笑ってました。
3人でラップやってる1曲だけは“微笑ましい出来”でしたが、
他はすべて素晴らしすぎました。「アルバムのクオリティが高すぎて、
笑いが止まらない」なんてことがあるんですね。
また、アルバムを買って初めて、彼らの魅力を際立たせている曲が
すべて「Hiroaki Hayama」という人の作詞作曲だという
ことにも気がつきました。
葉山拓亮という、派手ではないけど美しく印象深いキラキラした音を
作るプロデューサーがいてこそのw-inds.なのだと知りました。

2002年2月の4thシングル「try your emotion」
も大満足な出来。ずっとずっとこのまま、葉山さんと慶太君の音楽は
私を幸せにしてくれるのだろう、と思っていました。

しかし、幸せはあまりにも短く終わりを告げました。
2002年5月、5thシングル「Another Days」を、
うっきうきのわっくわくで買ってきました。(つまり私が「シングルを
買う人」に変わっているわけ!)
再生した私は、ひたすら自分の耳を疑い続けました。
慶太君の声が違う。「曲のキーが下げてあるせいかな」「歌いづらい
曲なのかも」といろんな思いが駆け巡ったのち、曲が終わると同時に
私はダンナに電話をかけていました。
「慶太君の声が違う!!!」
当時結婚2年目だった我々夫婦、お互いに音楽の趣味の押し付け合いは
しないのですが、ダンナは私の聴くアーティストの中で、w-inds.
だけは気に入って一緒に聴いていたので、話が通じるのです。
実際、ここで慶太君は声変わりに入りました。
しゃべる時の声は低いから、もう歌声は変わらないんだと思ってた…。
でも、私の弟も声変わりは2段階あったっけな…。

この「Another Days」の歌詞は、葉山拓亮さんの、
慶太君の声変わりへの気持ちを吐露したものだと思っています。
「果てしないこの道を二人で 行きつく場所は決まっていなくても
 ただ声を聞くだけで側にいるだけで 歩いていけると信じてた」
「夢をちりばめた未来図は 君と見上げてた空へと消えて
 これからは別々の地平線から 毎日を迎えていくよ」
私も「もう、これまでの音楽は作れないんだ…」と実感する、悲しみの
ニューシングルとなってしまいました。

この夏くらいに長野・斑尾高原に夫婦で旅行して、車で立ち寄った
CD屋さんでw-inds.のCDシングルを全部買いました。
「Another Days」の前の4曲のシングルはまだ買って
いなかったので、「これからはあの慶太君の声が聴けない、ならば
あとはこれまでのカップリングを手に入れるしかない」と思っていて、
レンタカーのカーステレオで流すために購入しました。
そしたら、それまでのシングルのカップリングも超絶いい曲揃いでした。
「まだこんなにいい曲が残ってた!」という喜びと、「もう、この声は
出ないんだな」という悲しみを同時に味わいましたが、やっぱり
葉山さんと慶太君のコンボは超ドすげえ、と感動しました。

失意の私ではありましたが、それでもダンナに引っ張られて、夏の
ライブツアーに行くことになりました。
8月、東京国際フォーラムホールA。
慶太君の音程は若干散らかっていましたが、生で聴く歌声は心地よく
素晴らしく、行ってよかった…と思いました。
そのライブで発表された新曲、6thシングル「Because 
of you」はこれまでと違って“悪い意味でレトロ”なうえに
ラップが入って泥臭くダークなテイストで、有り体に言うと「ダサい」
と感じました。(案の定、葉山さんプロデュースではなかった)
やっぱり、慶太君の声が変わってしまったから、方向転換しないと
いけないんだな…。
これまでと違う日々――“Another Days”が始まった
ことを突きつけられた6thシングルでした。

それから、私はコミケと日程がかぶっていて行けなかったのですが、
ダンナはツインリンクもてぎのライブにも単身、出かけていきました。
三十男が一人っきりで、十代男子三人のライブに行くかね~。
案の定、会場に向かうバスの中は中高生の女子ばかりだったそうで、
ダンナは時々「逮捕されなくて本当によかった」と回想します。
バスの中で女子中学生とw-inds.について会話したらしいし。

しかし、ダンナはさらに衝撃の暴挙に出ます。
「w-inds.の鹿児島ライブに行こう。チケット買っちゃった」
意味わかんないよ。鹿児島ってなんだよ。
「台風で中止になった公演の代替ライブが決まって、チケットがまだ
買えたから。行けるときに行かないと後悔するから」
ダンナは、かつて人生で一番好きなアーティストが「いつかライブに
行こう」と思っていたら解散しちゃったので、「後悔しないために、
行けるときに行くべき」という考えだそうです。
でも鹿児島って…。
結局旅行で行ってライブを見てきたのですが、9月の連休の時期
だったせいで、旅費は2人でトータル20万円ほどかかりました…
ただ、この金額、ちっとも惜しくなかった。
w-inds.の1stアルバム収録作品で圧倒的人気を誇る、
「Winter Story」という名曲が、なぜかライブの封印曲
なのですが、鹿児島では「台風で開催が遅れちゃったお詫び」として、
その名曲を歌ってくれました!!!
もうこの1曲だけでお金なんてどうでもいい。行ってよかった…
リハーサルの時に会場をうかがってたら、わりと露出多め(苦笑)の
慶太君が出てきて、見上げてる我々ファンどもに手を振ってくれたり、
前座のLeadのリハを背中でスルーしていたら、あまりの音痴さに
背中を物理的に殴られるような衝撃を受け「リアル『コエカタマリン』
だ!」と思ったり、いろいろ、楽しい鹿児島ライブ旅行でした。

こうして過ごす間もずっと、「次のシングルは葉山さんプロデュース
だったらいいのにね…」と夫婦で言い合っていました。

11月、w-inds.ニューシングル発売のニュースをCDTVで
知りました。私とダンナがパッと顔を上げると、新曲のイントロが流れ、
その瞬間に二人で奇声をあげて手を取り合いました。
お互いにさわりの音1秒で「葉山さんプロデュースだ!」と確信して、
「この曲ならオッケェェェ!!」という歓喜に包まれたうえに、
相手も同じものを感じ取ったはずだと迷いなく思った瞬間でした。
あの一瞬は、普段精神的に通じ合うことのまったくない我々夫婦の
奇跡的な名場面です。葉山曲のアイデンティティすげえな!
葉山拓亮が作るとラップ曲でもこんなに透明感があってカッコいい!
という一曲「NEW PARADISE」は、PVの慶太君もたいへん
カッコいい(笑)、盛り返しのシングルとなりました。

12月には2ndアルバム「w-inds.~THE SYSTEM 
OF ALIVE~」が発売されました。これ、ものすごく暗喩の
効いたアルバムタイトルだな…と思いました。「(慶太君のあの声が
なくなっても、芸能界で)生き抜いていく体制」だよな。
1曲目、葉山拓亮作の「Break Down,Build Up」
という曲の歌詞も、そう思って聴くと非常に思わせぶりです。
慶太君の声変わりで、これまでに築いたものを壊して(Break 
Down)、新たに作り上げ(Build Up)なくてはならなく
なったw-inds.の音楽を歌っているように聞こえます。
しかし、このアルバムは新たなw-inds.を納得させてくれました。
澄んだ金管楽器の声ではなくなったけれど、木管楽器の響きにも似た
温かくやわらかい、不透明で少し高めの慶太君の声が聴けました。
ファーストアルバムに比べると凡庸というか陳腐な曲もあるけど、
実際このアルバムも「擦り切れるほど」(笑!)聴き続けました。

葉山拓亮がいればまだまだw-inds.はイケる!
ベストオブベストではなく、セカンドベストにはなってしまったけど、
橘慶太の歌声は(生だと正直、ムラはあるけど)素晴らしい!

ダンナは2002年途中からファンクラブに入るほどw-inds.に
ハマっていました。彼いわく「ライブのチケットをとってあげるために
入った」んだそうだけど。
その年のクリスマスイブ、ダンナは国立代々木競技場オリンピック
プラザのw-inds.イベントに行こうと言ってきたのですが、
私が「ライブ以外の、イベント的なものには興味ない」と一蹴したので
(硬派だな、私)、彼は仕方なく親友を連れて出かけていきました。
クリスマスイブに、妻でなく男の友人を連れて、w-inds.の
イベントに行く三十男。さすがファンクラブ会員やんか。
しかし「人数が多すぎて入れなかった」とうなだれて帰ってきました。
なお、このイベントはミニライブだった模様。
「ライブだったら行ったのに! いや、行っても入れなかったのか」
行かなかった自分を危なく呪うところでした。

年末にはw-inds.が記念すべき紅白歌合戦に初出場。
でも、選曲が「NEW PARADISE」で、ラップ曲に慣れてない
紅白の中高年客はポカーンになってしまったし、音響レベル(質でなく
出力音量)の問題で慶太君の歌の上手さが伝わらなかったという、
痛恨の出来でした。ここでファンを増やせなかったのは痛かった…

長くなるので、ここで一旦「前編」として区切ります。
この年明けには、奇声を上げて暴れるような大事件が…!?