メンバーの龍一君脱退を受けて、w-inds.の思い出を振り返る
自己満足大長編エッセイの後半です。
<前回のあらすじ>
夫婦でw-inds.にハマった我が家。
クリスマスイブのw-inds.イベントに行こうというダンナの
誘いを私は容赦なく断った。友人と出かけていったダンナは、会場に
入りきれなくてすごすごと帰ってきたのだが…(つづく)
明けて2003年、大変なことがありました。
クリスマスイブのイベントは、(ダンナを含む)多くのお客さんが
入場できなかったので、1月11日にお詫びとして謎の「イベント」
をやるというアナウンスがありました。
イブのイベントはライブだったので、今回もライブかもしれない…
ということで、私も今回はダンナと一緒に行くことにしました。
現地には長~い行列ができていて、その列の誰もがこの日の「イベント」
の内容を知りません。長~く待たされた後、じりじり列が動きだしたら、
おかしなことが起こりはじめました。
イベントの建物の中から出てくる中高生女子たちが、「ギョワァアー、
ウギョオオー、アギャアー」と謎のすさまじい奇声をあげ、「まじで、
やばい、まじで、やばい、やばすぎる」などと意味不明の言葉を叫んで
バタバタのたうち回っているのです。
「いいいいったい、中では何が!?」
列に並ぶ我々、そして周囲の同類たちは不安にかられました。
いよいよ我々も建物に入ったのですが、そこでダンナが「男性の方は
身体検査を受けてください」と、係員に連行されてしまいました。
待ってー、この男は「怪しい奴」でも「ただの付き添い」でもない、
ガチのファンクラブ会員よ~~!!
幸いダンナは安全な人間だと確認され、戻ってきました。そして、
私を前に並んでその先へと踏み込んだのですが…
途端、凍りつく私。
なんと、イベントは「握手会」だったのです!!!
まずは龍一君(が手前だったと思う)にタッチ程度の握手。
次に涼平君(が真ん中だったと思う)にもタッチ程度の握手。
二人には笑顔で「がんばってくださーい」と言えました。
そして! 最後は! なんと! 慶太君が! ギャー!!
「あのっ、……夫婦で聴いてますっ」
動転しまくって必死でそう言いつつ、これもタッチ程度の握手。
だが私、動揺しすぎてマフラーの片側をべろーんと落としつつ退場。
慌てて振り向くと、慶太君が「あっ」と心配げな様子をしていて、
マフラーの端を後ろに続くダンナが踏んでしまっていて、拾って
手渡してくるのを無言で受け取って、瞳孔が開いたまま退場しました。
私は驚愕の出来事に動揺が冷めやらず、寒空の下で「ギョワァアー、
ウギョオオー、アギャアー」と意味不明の叫びをあげました。
ダンナが出てきた姿を見ると、「まじで、やばい、まじで、やばい、
やばすぎる」と言って袖をつかんでドタバタ暴れました。
その瞬間、女子中高生たちがなんであんな状態だったのかがよ~~く
わかりました。私は当時29歳だけどな!
もう、動転しすぎて慶太君の顔とかほとんど見られなかったよ!
2003年5月、8thシングル「SUPER LOVER」は、
葉山さんプロデュースではないし、(あえて)バカっぽい歌詞だけど、
慶太君の声が綺麗に出ているので大きな不満はありませんでした。
しかし8月発売の9thシングル「Love is message」
あたりでそろそろあきらめはついてきました。
w-inds.は「唯一無二の独自な音楽を刻むアーティスト」で
なく、「そこそこ歌も上手いアイドル」になっていくんだな…って。
それでも、この時はまだ、夫婦揃ってw-inds.のファンでした。
2003年夏のツアーは、我々夫婦のw-inds.ファン活動に
おける最大のクライマックスとなりました。
7月下旬の川口リリアに始まり、8月半ばの長野県民文化会館、
8月下旬の富士急ハイランドコニファーフォレスト、そして8月末の
武道館…と、4公演を追い回したのです。
川口リリアでは、盛り上がってワーッとなる曲の時に、2階席の
最前列でダンナがステージ上の彼らに手を振ったら、龍一君が
「あっ」という顔をして、明らかに手を振り返してくれました。
「男性ファンが来てくれるのはうれしい」って言ってたもんな!
長野公演は、夏の爽やかな長野の風景と、タイアップのCD店の
店頭から流れるw-inds.の音楽が相まって、とても心地よい
旅になりました。
富士急ハイランドでは、スタンディングのライブだったので、あえて
少し後ろに下がって周囲の人たちと距離を取り、飛び上がって舞台を
見やすいように頑張っていました。ダンナいわく、「ヨメがジオング
になってた。ほとんど地面に足がついてなくて、浮いてた」だそうで。
そしてとうとう武道館。彼らも武道館…と感慨もひとしお。
4公演、出来は良かったりいまいちだったりいろいろでしたが、
とにかく可能な範囲内で追っかけ尽くした充実感にひたりました。
その秋には日本工業大学の学祭ライブにも行きました。
駅から大学までの道の途中にあったコンビニ内にw-inds.の
写真を貼った販促掲示が作られていて、慶太君の写真に「半袖だヨ!」
と書いてあったのには笑いました。当時、慶太君はなぜかいつも
長袖を着ていて、慶太君の半袖写真はレアだったのですが、そんな
ことを売り文句にする店員さん、どんだけガチやねん!
会場に到着すると、体育館からめっちゃ歌ウマな美声が聴こえてくる。
ああ、ほんとにw-inds.は、慶太君の歌は素晴らしいなあと、
最後の幸せな気分でいられたこの秋。
この後10月29日に発売された「Long Road」は、
私がw-inds.ファンとして聴いていた最後の作品となりました。
2003年12月17日、3rdアルバム発売。
この「w-inds.~PRIME OF LIFE~」を聴き、
デビューから葉山サウンドを中心として作り上げられてきた
「w-inds.にしかできない音楽」が終わったことを認識して、
私はw-inds.ファンをやめることにしました。
それまでの、「どこかで聴いたような不思議な懐かしさもあり、
けれど決してどこにもないw-inds.だけの透明な世界観」は
もう消滅していました。
「PRIME OF LIFE」は私にとって、「昔どこかで聴いた
アレやコレに似たような、二番煎じ的な音楽」でした。
それでも何度かはちゃんと繰り返し聴いたし、慶太君の歌声的には
綺麗だったから聴ける曲もあるといえばありました。
でも、デビュー当時のあのアーティストじゃ、もうないよね、これ。
それを別物として愛し続けていける人はついていったらいい。
でも、私は「これ」を聴きたくてファンをやっていたわけじゃない。
つまり、私にとって、w-inds.とは「葉山拓亮と橘慶太の
デジタルサウンド&クリアボイスの融合」でしかなかったわけです。
w-inds.がただのアイドルだったら、プロデュースが変わった
としてもファンでいられたと思います。でも、私はw-inds.の
あの音楽が聴きたかったファンなので、これを以て卒業を決めました。
このアルバム発売記念として、ミニライブイベントが横浜赤レンガ
倉庫で開催されるということで、夫婦で出かけていきました。
私は慶太君とのお別れのつもりで、最後の記念として…。
しかしあまりにすごい人出で、ダンナは(体が良くなかったので)
そのまま帰ることにして、私一人で人混みに突入してきました。
ライブの歌声、素晴らしかったなあ…。
慶太君への憧れの気持ちは残っていたので、失恋のようななんとも
いえない切なさと寂しさとともにステージ上の彼らを眺めて、途中で
その場を後にしました。
年が明けて3月くらいだったかな。ダンナはまだファンクラブ会員
だったので、2人でファンクラブ限定イベントに行きました。
(同伴の1人を連れてきていいファンクラブイベントって謎だよね!)
ライブ形式のイベントで、歌っている慶太君が人生最驚の近さに来て
(5メートルくらいの距離だったと思う)いい記念になりました。
でも、近くにいる慶太君を、「私の求めているのは、それじゃない」
という、えもいわれぬ顔で見つめてしまいました。
歌はかなり綺麗に歌えてたのに、「違うな」と思うなんて…
私にはもうファンを名乗る資格はなくなったんだな…と実感しました。
(多分ダンナもこの後、ファンクラブを継続しなかったと思う)
ダンナはその後も2004年3月発売「Pieces」や同6月発売
「キレイだ」といったシングルをちゃんと聴いてどうのこうのと批評
したり、2004年7月発売のベスト盤を買ったりしていました。
だから私もそれらを何度も耳にしましたが、興味を持てませんでした。
なんと、2004年10月発売のシングル「四季」は葉山拓亮さんの
プロデュースでした! さすがにそれは断固、買いました。
なんだろう、今でいうと「SMAPが解散してしまってから聴く、
『夜空ノムコウ』」って感じかな。「やっぱりいい曲だし、慶太君は
葉山さんの曲がいいよな、求めていたものはこれなんだよな」という
満足感はあるのですが、なんだか「終わってしまった寂しさと虚しさ」
みたいなものをどうしても伴ってしまって…
「『夜空ノムコウ』やっぱりいいわ」と「でもSMAPはもう…」の
間で行き来するファンの感情、それを想像してみてください。
私にとっての「四季」は、名曲なんだけど…
「君とのseasons ずっとこの先も繰り返すと信じて」
「瞳を閉じればいつもよみがえる 君とのseasons
そのぬくもりと 痛みは消えないまま」
「君がいない四季を渡るよ」………
きっと葉山さんも同じことを思って作ったんだろうな…。
仕方ないこと、なんだけど。
声変わり前の限られたあの時期だからこそ、慶太君の歌声があれだけ
美しかったのかもしれないから。
w-inds.ファンとしての自分の心はこう思って整理しました。
「短い時期にしか存在しなかったあの稀有で貴重な慶太君の歌声を、
最高の音楽に乗せて録音、記録できたことに、感謝」
慶太君のデビューがもっと後だったなら。
葉山さんの曲に出会えなかったなら。
私が耳にする機会がなかったなら。
w-inds.初期のあの名曲がこの世に生まれ得て、私がそれに
出会えた、今でもそれを何度も聴ける…。なんと幸せなことなのか。
別れを嘆くより、出会えた幸せをずっとかみしめていたい。
でも、私のw-inds.への感謝は、そんなちっぽけな個人的感傷
ではないんです。
今、歌もダンスも素晴らしい超一流アーティストとして活躍している
三浦大知。彼はFolderのボーカルとしてデビューした時から
ライジングプロダクション所属です。
彼は2000年から声変わりで休養して2004年に復帰、2005年に
ソロデビューしました。
三浦大知は声変わりで「喉、声をつぶさないため」に休養しています。
でもw-inds.橘慶太は、2002年に声変わりしているのに、
そのまま歌を続けています。
大知くんが実際語っていますが「声変わりの時に歌うと喉をつぶして
しまうので、歌ってはいけないということで、ダンスを勉強して
いました」…そう、橘慶太は2003年、2004年…と、次第に
低音がガマガエル声になっていきます。それでも歌い続けました。
三浦大知が休養して復帰して、自力で採算を取れるようになるまで、
誰が事務所の収入を支えていたのか?
もちろん2015年まで安室奈美恵がいたのでその収入は大きいけど、
w-inds.も収入の一端を支えていたのは間違いないでしょう。
声変わりで三浦大知を休養させているのに、w-inds.橘慶太は
声変わりを考慮することなく働かせているというのは、不公平な話
なのではないでしょうか?
また、2018年に「U.S.A.」で再ブレイクを果たした
DA PUMPも、ライジングプロダクション所属。
DA PUMPの低迷期は2002、3年頃から15年以上の長期に
わたります。2009年12月にKENが脱退した背景の一つには
事務所の金銭的な事情もあるようです。(売り上げの出ないDA
PUMPでISSAとKENの2人を残しておく財力がなかった)
2001年から2年4か月、ライジングプロダクション社長である
名プロデューサー・平哲夫が不在となった時期をドンピシャで
支えたのは実はw-inds.なんです。声変わりを考慮して
もらえなかったのも平さん不在が大きいと思います。
声変わりで影響が出ても変わらず働かされることに不満を述べる
ことなく(そんな声を聞いたことも、そんな態度を見たこともない)、
ジャニーズ事務所の妨害も黙って耐えて、腐ることなく前に進んで
きてくれたw-inds.。
それどころか、ジャニーさんが亡くなった時、慶太君は追悼の
コメントまで出しています。
これこそがw-inds.のこれまでの姿勢そのものなんです。
声変わりしても。ジャニの妨害で国内の活動が難航してアジアでの
活躍を余儀なくされても。事務所の売れない仲間たちのために
金を稼いで回るような役回りに(結果として)なっていても。
ただ自分たちの道を、前を向いて上を向いて、ひたむきに進んで
きた彼らに、感謝し続けて幾年月。
なんとなくブログを始めてみたので、この場を借りて、これまでの
大きな感謝を伝えたいと思います。
三浦大知、DA PUMPが復活できたのは、w-inds.が
支えてくれたお陰です。また、実力派をちゃんと育てる力のある
ライジングプロダクションを守ってくれて本当にありがとう。
さらに、w-inds.という、慶太君が目立ちすぎるユニットの
中で、その両脇を支えてきてくれた涼平君と龍一君の苦労は
並々ならぬものがあったと思うのです。
「両脇の人、いなくても良くない?」と言われることも多々あった
でしょう。(実際は慶太君は一人じゃダメなんだけどね)
あの立ち位置を長く続けるのは、より強い自信と、それを維持
できる精神力が必要でしょう。
今回、龍一君にその精神力が尽きてしまったのは察するに余りある
出来事で、本当に「これまでありがとう」としか言えません…
そんなわけで、龍一君のw-inds.脱退を受けて書きはじめた
本エッセイですが…、w-inds.への思い入れが強すぎて、
書き上げるまでに1か月以上かかってしまいました…。
今でも、そしていつまでも、w-inds.(龍一君も含め)の
活躍を心から願っています。
2007年9月のある日の風景。
ダンナが部屋の大掃除中、w-inds.ファンクラブ会員だった
時の会報とか会員証とか誕生日にもらえるカードとかをいろいろ
発掘してきました。さすがに捨てるようです。
懐かしい写真などを見て、すっかり私は悲しくなりました。
もう戻らない思い出にうちひしがれ、布団に突っ伏してぐったり
していたら、ダンナが「そんなときは潔く、見ちゃえばいいんだよ!」
と、2002年のライブツアー「1st message」の
DVDをかけました…。
東京国際フォーラム…そして鹿児島…(そうまとう)
失われたもののあまりの大きさを再確認し、さらにぐったり悲しく
なる私でした。
2003年冬でファンやめたとか言って、だらだら未練がましく
引きずってて、それでこそ私…としか言いようがない。笑
2008年、会社がひょんなきっかけから社員旅行をすることに
なって、旅の準備の買い物をしていたら、ブティックで「慶太君が
いい声を出せる曲がもらえたら、こんな感じだろうな…涙」と
思わされる曲を耳にしました。曲が終わるまでじっと店内で聴いて、
帰宅してその旨をダンナに話したら「最近w-inds.の新曲が
出たらしいから、ほんとにw-inds.じゃないの?」とのこと。
即座に調べてくれたのですが、ドンピシャ。
25thシングル「Everyday」でした。
聴かなくなって突然街なかで聴いても、慶太君の声がわかる自分に
ホッとしたり可笑しくなったり。
2020年春、あるCMを見ていて「どう見てもこの集団のこの
位置にいる人は慶太君に見える。だが涼平君と龍一君がいないし、
周囲の人が誰だかわからん。こんな謎集団の一員が慶太君のはずは
ないか。でもこれは慶太君にしか見えない」とめっちゃ悩みました。
これまたダンナに訊いたらすぐ調べてくれて、今回もほんとに
慶太君本人でした。「180jacK.」っていうユニットらしい。
私が好きだったころからは見た目も相当変わってしまったのに、
そうとはわからない形で突然視界に入っても目に入って気になる
とは、私の「未練力」ってほんとすごい!!
本日、2020年7月4日も、CDプレーヤーに入れっぱなしに
しているw-inds.を聴きながらこれを仕上げました。
今でも、あの時期のw-inds.が一番好きな音楽です。
自己満足大長編エッセイの後半です。
<前回のあらすじ>
夫婦でw-inds.にハマった我が家。
クリスマスイブのw-inds.イベントに行こうというダンナの
誘いを私は容赦なく断った。友人と出かけていったダンナは、会場に
入りきれなくてすごすごと帰ってきたのだが…(つづく)
明けて2003年、大変なことがありました。
クリスマスイブのイベントは、(ダンナを含む)多くのお客さんが
入場できなかったので、1月11日にお詫びとして謎の「イベント」
をやるというアナウンスがありました。
イブのイベントはライブだったので、今回もライブかもしれない…
ということで、私も今回はダンナと一緒に行くことにしました。
現地には長~い行列ができていて、その列の誰もがこの日の「イベント」
の内容を知りません。長~く待たされた後、じりじり列が動きだしたら、
おかしなことが起こりはじめました。
イベントの建物の中から出てくる中高生女子たちが、「ギョワァアー、
ウギョオオー、アギャアー」と謎のすさまじい奇声をあげ、「まじで、
やばい、まじで、やばい、やばすぎる」などと意味不明の言葉を叫んで
バタバタのたうち回っているのです。
「いいいいったい、中では何が!?」
列に並ぶ我々、そして周囲の同類たちは不安にかられました。
いよいよ我々も建物に入ったのですが、そこでダンナが「男性の方は
身体検査を受けてください」と、係員に連行されてしまいました。
待ってー、この男は「怪しい奴」でも「ただの付き添い」でもない、
ガチのファンクラブ会員よ~~!!
幸いダンナは安全な人間だと確認され、戻ってきました。そして、
私を前に並んでその先へと踏み込んだのですが…
途端、凍りつく私。
なんと、イベントは「握手会」だったのです!!!
まずは龍一君(が手前だったと思う)にタッチ程度の握手。
次に涼平君(が真ん中だったと思う)にもタッチ程度の握手。
二人には笑顔で「がんばってくださーい」と言えました。
そして! 最後は! なんと! 慶太君が! ギャー!!
「あのっ、……夫婦で聴いてますっ」
動転しまくって必死でそう言いつつ、これもタッチ程度の握手。
だが私、動揺しすぎてマフラーの片側をべろーんと落としつつ退場。
慌てて振り向くと、慶太君が「あっ」と心配げな様子をしていて、
マフラーの端を後ろに続くダンナが踏んでしまっていて、拾って
手渡してくるのを無言で受け取って、瞳孔が開いたまま退場しました。
私は驚愕の出来事に動揺が冷めやらず、寒空の下で「ギョワァアー、
ウギョオオー、アギャアー」と意味不明の叫びをあげました。
ダンナが出てきた姿を見ると、「まじで、やばい、まじで、やばい、
やばすぎる」と言って袖をつかんでドタバタ暴れました。
その瞬間、女子中高生たちがなんであんな状態だったのかがよ~~く
わかりました。私は当時29歳だけどな!
もう、動転しすぎて慶太君の顔とかほとんど見られなかったよ!
2003年5月、8thシングル「SUPER LOVER」は、
葉山さんプロデュースではないし、(あえて)バカっぽい歌詞だけど、
慶太君の声が綺麗に出ているので大きな不満はありませんでした。
しかし8月発売の9thシングル「Love is message」
あたりでそろそろあきらめはついてきました。
w-inds.は「唯一無二の独自な音楽を刻むアーティスト」で
なく、「そこそこ歌も上手いアイドル」になっていくんだな…って。
それでも、この時はまだ、夫婦揃ってw-inds.のファンでした。
2003年夏のツアーは、我々夫婦のw-inds.ファン活動に
おける最大のクライマックスとなりました。
7月下旬の川口リリアに始まり、8月半ばの長野県民文化会館、
8月下旬の富士急ハイランドコニファーフォレスト、そして8月末の
武道館…と、4公演を追い回したのです。
川口リリアでは、盛り上がってワーッとなる曲の時に、2階席の
最前列でダンナがステージ上の彼らに手を振ったら、龍一君が
「あっ」という顔をして、明らかに手を振り返してくれました。
「男性ファンが来てくれるのはうれしい」って言ってたもんな!
長野公演は、夏の爽やかな長野の風景と、タイアップのCD店の
店頭から流れるw-inds.の音楽が相まって、とても心地よい
旅になりました。
富士急ハイランドでは、スタンディングのライブだったので、あえて
少し後ろに下がって周囲の人たちと距離を取り、飛び上がって舞台を
見やすいように頑張っていました。ダンナいわく、「ヨメがジオング
になってた。ほとんど地面に足がついてなくて、浮いてた」だそうで。
そしてとうとう武道館。彼らも武道館…と感慨もひとしお。
4公演、出来は良かったりいまいちだったりいろいろでしたが、
とにかく可能な範囲内で追っかけ尽くした充実感にひたりました。
その秋には日本工業大学の学祭ライブにも行きました。
駅から大学までの道の途中にあったコンビニ内にw-inds.の
写真を貼った販促掲示が作られていて、慶太君の写真に「半袖だヨ!」
と書いてあったのには笑いました。当時、慶太君はなぜかいつも
長袖を着ていて、慶太君の半袖写真はレアだったのですが、そんな
ことを売り文句にする店員さん、どんだけガチやねん!
会場に到着すると、体育館からめっちゃ歌ウマな美声が聴こえてくる。
ああ、ほんとにw-inds.は、慶太君の歌は素晴らしいなあと、
最後の幸せな気分でいられたこの秋。
この後10月29日に発売された「Long Road」は、
私がw-inds.ファンとして聴いていた最後の作品となりました。
2003年12月17日、3rdアルバム発売。
この「w-inds.~PRIME OF LIFE~」を聴き、
デビューから葉山サウンドを中心として作り上げられてきた
「w-inds.にしかできない音楽」が終わったことを認識して、
私はw-inds.ファンをやめることにしました。
それまでの、「どこかで聴いたような不思議な懐かしさもあり、
けれど決してどこにもないw-inds.だけの透明な世界観」は
もう消滅していました。
「PRIME OF LIFE」は私にとって、「昔どこかで聴いた
アレやコレに似たような、二番煎じ的な音楽」でした。
それでも何度かはちゃんと繰り返し聴いたし、慶太君の歌声的には
綺麗だったから聴ける曲もあるといえばありました。
でも、デビュー当時のあのアーティストじゃ、もうないよね、これ。
それを別物として愛し続けていける人はついていったらいい。
でも、私は「これ」を聴きたくてファンをやっていたわけじゃない。
つまり、私にとって、w-inds.とは「葉山拓亮と橘慶太の
デジタルサウンド&クリアボイスの融合」でしかなかったわけです。
w-inds.がただのアイドルだったら、プロデュースが変わった
としてもファンでいられたと思います。でも、私はw-inds.の
あの音楽が聴きたかったファンなので、これを以て卒業を決めました。
このアルバム発売記念として、ミニライブイベントが横浜赤レンガ
倉庫で開催されるということで、夫婦で出かけていきました。
私は慶太君とのお別れのつもりで、最後の記念として…。
しかしあまりにすごい人出で、ダンナは(体が良くなかったので)
そのまま帰ることにして、私一人で人混みに突入してきました。
ライブの歌声、素晴らしかったなあ…。
慶太君への憧れの気持ちは残っていたので、失恋のようななんとも
いえない切なさと寂しさとともにステージ上の彼らを眺めて、途中で
その場を後にしました。
年が明けて3月くらいだったかな。ダンナはまだファンクラブ会員
だったので、2人でファンクラブ限定イベントに行きました。
(同伴の1人を連れてきていいファンクラブイベントって謎だよね!)
ライブ形式のイベントで、歌っている慶太君が人生最驚の近さに来て
(5メートルくらいの距離だったと思う)いい記念になりました。
でも、近くにいる慶太君を、「私の求めているのは、それじゃない」
という、えもいわれぬ顔で見つめてしまいました。
歌はかなり綺麗に歌えてたのに、「違うな」と思うなんて…
私にはもうファンを名乗る資格はなくなったんだな…と実感しました。
(多分ダンナもこの後、ファンクラブを継続しなかったと思う)
ダンナはその後も2004年3月発売「Pieces」や同6月発売
「キレイだ」といったシングルをちゃんと聴いてどうのこうのと批評
したり、2004年7月発売のベスト盤を買ったりしていました。
だから私もそれらを何度も耳にしましたが、興味を持てませんでした。
なんと、2004年10月発売のシングル「四季」は葉山拓亮さんの
プロデュースでした! さすがにそれは断固、買いました。
なんだろう、今でいうと「SMAPが解散してしまってから聴く、
『夜空ノムコウ』」って感じかな。「やっぱりいい曲だし、慶太君は
葉山さんの曲がいいよな、求めていたものはこれなんだよな」という
満足感はあるのですが、なんだか「終わってしまった寂しさと虚しさ」
みたいなものをどうしても伴ってしまって…
「『夜空ノムコウ』やっぱりいいわ」と「でもSMAPはもう…」の
間で行き来するファンの感情、それを想像してみてください。
私にとっての「四季」は、名曲なんだけど…
「君とのseasons ずっとこの先も繰り返すと信じて」
「瞳を閉じればいつもよみがえる 君とのseasons
そのぬくもりと 痛みは消えないまま」
「君がいない四季を渡るよ」………
きっと葉山さんも同じことを思って作ったんだろうな…。
仕方ないこと、なんだけど。
声変わり前の限られたあの時期だからこそ、慶太君の歌声があれだけ
美しかったのかもしれないから。
w-inds.ファンとしての自分の心はこう思って整理しました。
「短い時期にしか存在しなかったあの稀有で貴重な慶太君の歌声を、
最高の音楽に乗せて録音、記録できたことに、感謝」
慶太君のデビューがもっと後だったなら。
葉山さんの曲に出会えなかったなら。
私が耳にする機会がなかったなら。
w-inds.初期のあの名曲がこの世に生まれ得て、私がそれに
出会えた、今でもそれを何度も聴ける…。なんと幸せなことなのか。
別れを嘆くより、出会えた幸せをずっとかみしめていたい。
でも、私のw-inds.への感謝は、そんなちっぽけな個人的感傷
ではないんです。
今、歌もダンスも素晴らしい超一流アーティストとして活躍している
三浦大知。彼はFolderのボーカルとしてデビューした時から
ライジングプロダクション所属です。
彼は2000年から声変わりで休養して2004年に復帰、2005年に
ソロデビューしました。
三浦大知は声変わりで「喉、声をつぶさないため」に休養しています。
でもw-inds.橘慶太は、2002年に声変わりしているのに、
そのまま歌を続けています。
大知くんが実際語っていますが「声変わりの時に歌うと喉をつぶして
しまうので、歌ってはいけないということで、ダンスを勉強して
いました」…そう、橘慶太は2003年、2004年…と、次第に
低音がガマガエル声になっていきます。それでも歌い続けました。
三浦大知が休養して復帰して、自力で採算を取れるようになるまで、
誰が事務所の収入を支えていたのか?
もちろん2015年まで安室奈美恵がいたのでその収入は大きいけど、
w-inds.も収入の一端を支えていたのは間違いないでしょう。
声変わりで三浦大知を休養させているのに、w-inds.橘慶太は
声変わりを考慮することなく働かせているというのは、不公平な話
なのではないでしょうか?
また、2018年に「U.S.A.」で再ブレイクを果たした
DA PUMPも、ライジングプロダクション所属。
DA PUMPの低迷期は2002、3年頃から15年以上の長期に
わたります。2009年12月にKENが脱退した背景の一つには
事務所の金銭的な事情もあるようです。(売り上げの出ないDA
PUMPでISSAとKENの2人を残しておく財力がなかった)
2001年から2年4か月、ライジングプロダクション社長である
名プロデューサー・平哲夫が不在となった時期をドンピシャで
支えたのは実はw-inds.なんです。声変わりを考慮して
もらえなかったのも平さん不在が大きいと思います。
声変わりで影響が出ても変わらず働かされることに不満を述べる
ことなく(そんな声を聞いたことも、そんな態度を見たこともない)、
ジャニーズ事務所の妨害も黙って耐えて、腐ることなく前に進んで
きてくれたw-inds.。
それどころか、ジャニーさんが亡くなった時、慶太君は追悼の
コメントまで出しています。
これこそがw-inds.のこれまでの姿勢そのものなんです。
声変わりしても。ジャニの妨害で国内の活動が難航してアジアでの
活躍を余儀なくされても。事務所の売れない仲間たちのために
金を稼いで回るような役回りに(結果として)なっていても。
ただ自分たちの道を、前を向いて上を向いて、ひたむきに進んで
きた彼らに、感謝し続けて幾年月。
なんとなくブログを始めてみたので、この場を借りて、これまでの
大きな感謝を伝えたいと思います。
三浦大知、DA PUMPが復活できたのは、w-inds.が
支えてくれたお陰です。また、実力派をちゃんと育てる力のある
ライジングプロダクションを守ってくれて本当にありがとう。
さらに、w-inds.という、慶太君が目立ちすぎるユニットの
中で、その両脇を支えてきてくれた涼平君と龍一君の苦労は
並々ならぬものがあったと思うのです。
「両脇の人、いなくても良くない?」と言われることも多々あった
でしょう。(実際は慶太君は一人じゃダメなんだけどね)
あの立ち位置を長く続けるのは、より強い自信と、それを維持
できる精神力が必要でしょう。
今回、龍一君にその精神力が尽きてしまったのは察するに余りある
出来事で、本当に「これまでありがとう」としか言えません…
そんなわけで、龍一君のw-inds.脱退を受けて書きはじめた
本エッセイですが…、w-inds.への思い入れが強すぎて、
書き上げるまでに1か月以上かかってしまいました…。
今でも、そしていつまでも、w-inds.(龍一君も含め)の
活躍を心から願っています。
2007年9月のある日の風景。
ダンナが部屋の大掃除中、w-inds.ファンクラブ会員だった
時の会報とか会員証とか誕生日にもらえるカードとかをいろいろ
発掘してきました。さすがに捨てるようです。
懐かしい写真などを見て、すっかり私は悲しくなりました。
もう戻らない思い出にうちひしがれ、布団に突っ伏してぐったり
していたら、ダンナが「そんなときは潔く、見ちゃえばいいんだよ!」
と、2002年のライブツアー「1st message」の
DVDをかけました…。
東京国際フォーラム…そして鹿児島…(そうまとう)
失われたもののあまりの大きさを再確認し、さらにぐったり悲しく
なる私でした。
2003年冬でファンやめたとか言って、だらだら未練がましく
引きずってて、それでこそ私…としか言いようがない。笑
2008年、会社がひょんなきっかけから社員旅行をすることに
なって、旅の準備の買い物をしていたら、ブティックで「慶太君が
いい声を出せる曲がもらえたら、こんな感じだろうな…涙」と
思わされる曲を耳にしました。曲が終わるまでじっと店内で聴いて、
帰宅してその旨をダンナに話したら「最近w-inds.の新曲が
出たらしいから、ほんとにw-inds.じゃないの?」とのこと。
即座に調べてくれたのですが、ドンピシャ。
25thシングル「Everyday」でした。
聴かなくなって突然街なかで聴いても、慶太君の声がわかる自分に
ホッとしたり可笑しくなったり。
2020年春、あるCMを見ていて「どう見てもこの集団のこの
位置にいる人は慶太君に見える。だが涼平君と龍一君がいないし、
周囲の人が誰だかわからん。こんな謎集団の一員が慶太君のはずは
ないか。でもこれは慶太君にしか見えない」とめっちゃ悩みました。
これまたダンナに訊いたらすぐ調べてくれて、今回もほんとに
慶太君本人でした。「180jacK.」っていうユニットらしい。
私が好きだったころからは見た目も相当変わってしまったのに、
そうとはわからない形で突然視界に入っても目に入って気になる
とは、私の「未練力」ってほんとすごい!!
本日、2020年7月4日も、CDプレーヤーに入れっぱなしに
しているw-inds.を聴きながらこれを仕上げました。
今でも、あの時期のw-inds.が一番好きな音楽です。