鴨頭の掲示板

日本史学関係の個人的な備忘録として使用します。

【受贈】 下田悠真「慶応三年の坂本龍馬―動向・身分・構想―」『法政史論』第51号(2024年2月)

2024年04月13日 01時40分40秒 | いち研究者としての日記

下田悠真さんより標記論文の抜刷を1冊、私へも贈ってくださりました。ありがとうございます。

先行研究が多数あり一般的な歴史ファンのあいだでも著名な坂本龍馬につき、彼が襲撃されて死去する慶応3年(1867)における動向・身分・構想を検討しています。最先端の議論とそれに対する筆者の見解を、興味深く読ませていただきました。

以下は、論文をひととおり読んでの個人的な感想です。

1.論文の構成を整理しなおす余地があるのでは、と思います。「はじめに」を読めば、

筆者が挙げる論点の1点目は……「第三章で論じる」

2点目は……「第二章で論じる」

3点目は……「第四章で論じる」

その他として「上海渡航説について再検討」を……「第一章で」(掲載誌2頁)

と、パッと見で錯綜しているように感じます。論文は、時系列、設定する論点、章立ていずれもが整列され、専門外の人間でも水流のごとくスムースに頭のなかへ入るよう設計するのが好ましいでしょう。

2.第4章で述べる「大政奉還宣言後の坂本は土佐藩士として不戦論での新政府樹立を目指した行動をとっていたが、内心では確実に朝廷と幕府による戦争が勃発することを予見していた」(掲載誌18頁下段)について。予備知識のない立場で史料を読めば、何となく違和感が残ります。幕府方へつく越前藩に属するものの坂本龍馬の旧友である由利公正と会談したことを記す史料には、坂本自身が「不戦ナリ」と回答するのに対し、由利いわく「戦ヒヨリ為ザルハ既ニ解セリ、若戦ヲ起サバ之ニ応ズルノ策何レニ在ルヤ」。坂本いわく「之最至難事ナリ」…とあります(掲載誌17頁)。会話の流れからすれば「我」は坂本側、新政府軍というか朝廷軍を(現代人が会話で使う「自分」みたいなものヵ)、対して「彼」が幕府軍を、それぞれ指すでしょう。ならば、坂本自身がいっているのは、あくまで新政府軍のほうから戦闘を仕掛けない(直後の文言より、弱いから仕掛けられない)までであり、由利との会談においても、戦争が勃発するであろうことを内心にしまっていたといえないのではないでしょうか。

すなわち、史料にある「不戦ナリ」は「不戦論での新政府樹立を目指した」まで意味するものでなく、素直に自分たちから戦闘を仕掛ける状況にない、というレベルに訳される可能性もありましょう。むろん、論文で挙げた部分以外も読めば筆者の解釈が適当と、証明される可能性はあります。

まっ、いずれにせよ、今さら検証の困難な人間の内心を最終章にもって来るならば、筆者のいう「不戦論での新政府樹立」が、戦争は可能だけど犠牲者を出さずして新政府を樹立したい意味なのか、それとも、本心で戦争に勝てぬと思っているから戦争以外の方法で何とか新政府を樹立したい意味なのかを、別の史料で説明できるようにしておきたいところですね。

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