えてしてこのような「批判」の記述の記載をするのはできのよくない、もっと言えば合否のボーダー上にいると思われていて、1問の正解と不正解が合否の分かれ目にいる人が多い。
でも落ち着いて考えてほしい。
ボーダー上にあるときに、不適切な問題を作った奴がおかしいというのと、ボーダー上にいる程度の結果しか残せなかった自分と、どっちの問題なのか、を。
確か一昨年だったと記憶しているが、とある試験会場になった大学で、サークル活動の「音」がうるさくて試験に集中できなかった、こんなうるさい会場を選んだ都道府県がけしからんし、うるさくしているサービスなどに注意をしないこともけしからん、と噛み付いた輩いた。
毛色は違えどこの両者に共通していることは「甘え」であり「特権意識」なのだろう。
確かに今年度の試験問題は「なにこれ!」っていう問題が少なくない。試験問題としての適切さを欠いている問題だと思う。
しかしその中でボーダーよりもはるか上の正解数を得ている受験者もいる。
どんな問題が出されるかなんてものは運でしかない。
たまたま自分の得意としている問題が出れば「よい問題」で、
不得意の問題ばかりが出れば「悪問」となる。
まるで自分が世の中の中心で、自分に合わせて周りが動くことが当然というような感じが漂ってくる。
そう思っているので張れば、そういうやからは試験に不合格になってもらったほうがいい。絶対に介護支援専門員には向いていないからだ。
介護支援専門人は、クライアントの歩調に合わせ、寄り添い、一緒に考えていくことを必要としている仕事だ。
利用者を中心として仕事が展開していく。
そんな中に「自分中心」という思考をしていると勤まるはずがない。
さて話を試験そのものに移してみたい。
この試験は「実務研修を受講するために必要な知識と能力の有無を確認する」ために行なわれるものである。
そして実務研修は「介護支援専門員の業務に従事するために必要最低限どの理論と実践方法を学習する場」である。
であるならば試験は、法令という重箱の隅を突っつくような問題を作り、「記憶力」だけで「知識と能力」を判断することが妥当な方法なのだろうか?
一方で全国で数万人が受験する試験であるからこそ、「採点」という問題を考慮しないと現実的に不可能な試験になってしまう。その意味で減所運の「選択方式」という試験の形態は適切な方法である。
そこで選択式を取り入れながらも本来の目的である「介護支援専門員として業務に従事するために必要な最低限度の理論と技術を習得できる能力の有無を確認する試験」とするためには、単に記憶力を評価軸にするのではなく、対人援助職者として必要な感受性や感性、洞察力を有しているか、人とかかわるために必要な知識や能力が備わっているかを確認する試験にするべきだと思う。
たとえば、事例問題。ある場面を想定してその中で介護支援専門員はどのようにかかわることが必要なのかを問題にする。
そこには医療や保健に関する知識も法令に関する知識も、対人援助サービスに関する知識も「総合的」に盛り込んだ試験問題とする。
この方法だと単に記憶学習だけでは正答に辿り着けない。理論を実践に応用できる理解をしていないと、そのような実践をしていないと辿り着けなくなる。
ただこの方式にすると問題1問の回答に要する時間は長くならざるを得ない。
現状の1問につき2分を、1問につき3分とか4分、場合によっては5分にする。そうなると試験の途中でのトイレタイムの問題や、会場費の問題、試験スタッフの問題が発生してくる。
このような物理的マイナスがあっても、このような試験から得られるメリットは大きいと思うのだが、いかがなものだろう。
でも落ち着いて考えてほしい。
ボーダー上にあるときに、不適切な問題を作った奴がおかしいというのと、ボーダー上にいる程度の結果しか残せなかった自分と、どっちの問題なのか、を。
確か一昨年だったと記憶しているが、とある試験会場になった大学で、サークル活動の「音」がうるさくて試験に集中できなかった、こんなうるさい会場を選んだ都道府県がけしからんし、うるさくしているサービスなどに注意をしないこともけしからん、と噛み付いた輩いた。
毛色は違えどこの両者に共通していることは「甘え」であり「特権意識」なのだろう。
確かに今年度の試験問題は「なにこれ!」っていう問題が少なくない。試験問題としての適切さを欠いている問題だと思う。
しかしその中でボーダーよりもはるか上の正解数を得ている受験者もいる。
どんな問題が出されるかなんてものは運でしかない。
たまたま自分の得意としている問題が出れば「よい問題」で、
不得意の問題ばかりが出れば「悪問」となる。
まるで自分が世の中の中心で、自分に合わせて周りが動くことが当然というような感じが漂ってくる。
そう思っているので張れば、そういうやからは試験に不合格になってもらったほうがいい。絶対に介護支援専門員には向いていないからだ。
介護支援専門人は、クライアントの歩調に合わせ、寄り添い、一緒に考えていくことを必要としている仕事だ。
利用者を中心として仕事が展開していく。
そんな中に「自分中心」という思考をしていると勤まるはずがない。
さて話を試験そのものに移してみたい。
この試験は「実務研修を受講するために必要な知識と能力の有無を確認する」ために行なわれるものである。
そして実務研修は「介護支援専門員の業務に従事するために必要最低限どの理論と実践方法を学習する場」である。
であるならば試験は、法令という重箱の隅を突っつくような問題を作り、「記憶力」だけで「知識と能力」を判断することが妥当な方法なのだろうか?
一方で全国で数万人が受験する試験であるからこそ、「採点」という問題を考慮しないと現実的に不可能な試験になってしまう。その意味で減所運の「選択方式」という試験の形態は適切な方法である。
そこで選択式を取り入れながらも本来の目的である「介護支援専門員として業務に従事するために必要な最低限度の理論と技術を習得できる能力の有無を確認する試験」とするためには、単に記憶力を評価軸にするのではなく、対人援助職者として必要な感受性や感性、洞察力を有しているか、人とかかわるために必要な知識や能力が備わっているかを確認する試験にするべきだと思う。
たとえば、事例問題。ある場面を想定してその中で介護支援専門員はどのようにかかわることが必要なのかを問題にする。
そこには医療や保健に関する知識も法令に関する知識も、対人援助サービスに関する知識も「総合的」に盛り込んだ試験問題とする。
この方法だと単に記憶学習だけでは正答に辿り着けない。理論を実践に応用できる理解をしていないと、そのような実践をしていないと辿り着けなくなる。
ただこの方式にすると問題1問の回答に要する時間は長くならざるを得ない。
現状の1問につき2分を、1問につき3分とか4分、場合によっては5分にする。そうなると試験の途中でのトイレタイムの問題や、会場費の問題、試験スタッフの問題が発生してくる。
このような物理的マイナスがあっても、このような試験から得られるメリットは大きいと思うのだが、いかがなものだろう。
答えが沢山あるのは、まあ2と3を間違えたんだね(笑)と思いますが、間違えることは(自分も含めて)みんなあるので、そんなに目くじらたてなくてもいいのにな~と思います。
とりあえず知らないことが沢山あるのだな、と実感した試験だったので、また受けようかな~と思っています。
おいらの事業所の人間も何人か受けましたが、結果は聞かず。
おばちゃんたちが喋らんから、聞きません。
(怖あて聞けません)
毎年、どこもかしこも同じ話題ですな
不適切問題、試験作る人何を考えているんだろう?
努力してきた人だけが合格するんですよね。
努力がたらんだけなのに人のせいにするなよな。と言いたいが、おしかりうけますかな
でけんかった人たちも12月まで辛抱しましょう
否がわかったら来年頑張ってくださいなといいたいでっせ