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民主主義の意味と限界-脱原発論と原発論の脱構築

2011年07月06日 05時26分09秒 | 日々感じたこととか


◆民主主義の意味と限界
人口に膾炙しているように、「民主主義」とは実に多義的な概念であり、例えば、それは「君主制」に対する「共和制」の意味に取られてきたこともあれば、欧米社会でも第二次世界大戦までは長らく「衆愚政治」や「ポピュリズム」、更には、「人権」や「自由」を蹂躙する「権威主義」や「全体主義」的なニュアンスとして用いられてきました。

而して、後者に関しては、例えば、「共産主義-社会主義」が抑圧的な政治体制でしかあり得ないことを2千万人以上の粛清の犠牲者の墓碑銘でもって歴史的に証明した、レーニンのボリシェビキが「ロシア社会民主労働党:Russian Social Democratic Labour Party」の分派であること、また、あのナチスの正式名称が「国家社会主義ドイツ労働者党:Nationalsozialistische Deutsche Arbei terpartei」であり、「社会主義」を標榜するこの党が1933年の授権法によって合法的かつ世論の過半の支持を得て民主的に政権を奪取した故事を想起すれば思い半ばに過ぎるのではないでしょうか。   

現在でも、それは、(イ)民族の文化・伝統・歴史、あるいは、国民意識としてのナショナリズムと鋭く対立する、均一でアトム的な人間観と親しいリベラル派の政治シンボルであるかと思えば、他方、(ロ)中世的と近代的な「法の支配」を好ましいものと捉える-伝統と慣習を尊重する-保守主義が擁護する、最善なきこの世の次善の政治思想でもある。   

もっとも、リベラリズムにせよ保守主義にせよ、現代の民主主義擁護論は、(a)「立憲主義」の前提、すなわち、国民の多数の意思や国家権力によっても侵害棄損されるべきでない政治哲学的価値(人権や文化・伝統の価値)が存在すること、そして、(b)民主主義が機能するためには国民・有権者に十分な情報が供給されていなければならず、かつ、国民・有権者自身がそれらの情報を理解して解釈できる知性と徳性を磨くことが可能であることをその擁護の前提条件と考えてはいるのでしょうけれども。  

而して、「民主主義」というこの言葉をどのような意味で使うかはかなりの程度その論者の自由に属することでしょう。しかし、少なくとも、近代の「主権国家=国民国家」成立以降の憲法論においてこの言葉が用いられる場合には、

①政治制度論においては(民主主義とは源泉を異にする、国民主権イデオロギーのコロラリーとしての国民代表制と合体した)「代表民主制」とほぼ同義であり、他方、②政治イデオロギー、社会思想としては、自由主義および価値相対主義の政治哲学的の言い換えであることは間違いないと思います。 


畢竟、この②の点を喝破した、ハンス・ケルゼン『デモクラシーの本質と価値』(1920-1929)は、ある意味、それまでのルソー的やボリシェビキ的な全体主義としての民主主義の概念を<脱構築>した、20世紀社会思想の地味だけれど最大の果実の一つと言っても過言ではないと私は考えています。


加之、注意すべきは、民主主義とは、それが、不承不承にせよ自発的な服従を国民から引き出すに足るような政治制度の設計理論であり、かつ、政治支配の正当性を巡る社会統合イデオロギーである限り、民主主義は、論理的、原理的に<暴力>を否定可能なものでも/否定するものでもないということです。

換言すれば、民主主義とは、「そのある一線を権力の行使や政治の状況が越えない限り国家権力も国民も暴力の行使は控えましょうね」という約束、謂わば「暴力行使のプリコミットメント」に他ならない。尚、民主主義に関する私の基本的な考えについては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。  
  
・民主主義とはなんじゃらほい(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/53753364.html

・憲法における「法の支配」の意味と意義
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60444639.html

・中川八洋「国民主権」批判論の検討(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60044583.html



◆脱原発論と原発論の脱構築

繰り返しになりますが、語源的には「民主主義」とは、文字通り、「democracy:名もなき民衆による支配/単なる多数派の支配」でしかありませんでした。而して、democracyでしかなかった民主主義は(「出自の貴賎」の差異を捨象した上で、法的には各自を相互に対等な「国民」と看做す近代の「主権国家=国民国家」の成立以降、就中、第二次世界大戦を連合国側が「民主主義 vs 全体主義」の戦いと位置づけるプロパガンダを流布して以降)、

(α)政治支配の単なる一類型でも、(β)比較的小規模の社会集団における(後に「直接民主制」と呼ばれることになる)あるタイプの政治プロセスや権力の正当性根拠でもなく、(γ)「国民国家=民族国家」規模の政治社会における政治支配の正当性根拠となり、また、(δ)国民代表(≒国会議員)による代表民主制の諸制度として現在に至っています。   


現代の民主主義をこのように理解するとき、前項の復習になりますけれども、蓋し、<民主主義>は、「主権国家=国民国家」からの、よって、国民主権原理からの直接民主制の<脱構築>に他ならず、加之、(「国民国家」の概念から必然的に演繹される事柄として)<民主主義>の政治哲学的な根拠は自由主義と価値相対主義の哲学に収斂すると言えると思います。

而して、<民主主義>をこのようなもとして捉える場合、それがどのようなイシューであれ、政策を「正か邪か」の基準で選択することは価値相対主義を基盤とする現代の民主主義とは相容れないものなのです。この経緯を原子力エネルギー政策に絞って敷衍するならば、

()「原子力発電は絶対に安全」などということは絶対にないということ、()低線量・中線量の放射線被曝の危険性は証明されていないこと、()原発にかわる安定的な代替エネルギーの実用化は今のところ困難ということ。    


これらの<常識>を踏まえて、「脱構築」という意味での(すなわち、「脱原発」と呼ばれる、実体概念としての<生命>の絶対的な価値を前提にしてする、<アプリオリに邪悪な原発>なるものの否定ではなく、)原発問題を、人間と国家、安全と幸福の概念に遡行して再構築する思考様式が現代の民主主義とも現在の保守主義とも整合的であろうと思います。 


◆<ナチズム>としての脱原発論

保守主義の立場から民主主義を条件付で容認するハイエクは、『隷従への道』の中で、民主主義の危険性を警告してこう述べています。

民主主義はむしろ本質的には一つの手段であり、国内平和と個人的自由を保障する功利主義的な一つの道具である。民主主義はかかるものとして決して疑いのないものでもなく、たしかなものでもない。(中略)そしてきわめて同質的で教条主義的な多数派からなる政府のもとでは民主政治が最悪の独裁政治と同様に圧迫的でありうるということは、少なくとも考えられる。(中略)

主要な価値がおびやかされているときに、民主主義に注意を集中する現代の流行は危険である。そのような流行は、権力の本源が多数の意志にあるかぎり、権力は恣意的ではありえないという誤った信念、根拠のない信念に主として基づいているのである。(中略)権力が恣意的となることを阻止するのは、その源泉ではなくて、その限界である。(後略、引用終了)   


而して、脱原発論は反捕鯨論とパラレルな現代のナチズムともいうべき暴論ではないでしょうか。すなわち、それは、

(甲)権力と国家の万能感/人間中心主義の世界観
(乙)科学的言説を纏った非科学性
(丙)独善的な教条主義
(丁)異論に対する非合法的、かつ、<実力>を用いた攻撃の傾向 


のすべて備えており、反捕鯨論と脱原発論のプロミネントフィギュアーが国際的なカルト的環境団体、テロリスト集団グリーンピースであることは偶然ではないと思います。蓋し、反捕鯨論と同様に脱原発論もまた文化帝国主義に彩られた欧米の傲岸不遜であり、それは、実体概念としての「人間の生命や健康」に絶対の価値を置く、成立不可能な社会科学方法論を基盤とする謬論にすぎないのではないでしょうか。

ここで、(乙)「科学的言説を纏った非科学性」について敷衍しておけば、脱原発論者の持ち出す低線量放射線被曝の危険性の主張、例えば、京都大学の研究チームが発表した『チェルノブイリ原発事故の実相解明への多角的アプローチ~20年を機会とする事故被害のまとめ~』(2007年)に収録されているマーチン・トンデル「北スウェーデン地域でのガン発生率増加はチェルノブイリ事故が原因か?」(スウェーデン)は低線量放射線被曝の危険性を肯定(?)した極めて稀少な研究なのですが、このレポートは、

http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/tyt2004/tondel.pdf

①喫煙や社会経済的要因といった特定の発癌要因以外での癌発生を放射線被曝によるものと仮定していること、よって、②放射線被曝と食生活や食材の変化等々の他の有力な発癌要因との間の重回帰分析は施されていないこと、なにより、③被曝線量の多少と癌発生件数との間に相関関係が見られないこと、そして、④この研究によっても、甲状腺癌・白血病といった放射線被曝との因果関係が想定される健康障害と放射線被曝との間に有意の相関関係は認められなかったと報告されていること等々を鑑みれば、

タイトルとは裏腹に、「北スウェーデン地域でのガン発生率増加はチェルノブイリ事故が原因ではない」と言っているに等しい論稿なのです。

このような論稿を低線量放射線被曝の危険性の根拠とする脱原発の主張は、正に、(乙)「科学的言説を纏った非科学性」以外の何ものでもないでしょう。畢竟、ありとあらゆる科学的言説を動員して「アーリア民族の優秀性」という非科学的で反証不可能な<神話>を飾り立てたナチズムとこの論稿の間にはウィトゲンシュタインの言う「家族的類似性」ならぬ「シャム双生児的類似性」が存在していると言っても過言ではないと思います。

而して、このような荒唐無稽かつ噴飯ものの論稿を自説の根拠に掲げるような脱原発論が、「民主主義」の原初的な語意に(すなわち、「素人たる民衆の支配/単なる多数による支配」の語義に)先祖返りしつつも、他方、傍目には、(立憲主義と法の支配の原理によってより抑制された)現代の民主主義の外套を羽織るとき、ハイエクの言う意味での民主主義の危険性、すなわち、全体主義による恣意的な権力行使の危険性は現実的のものになるのではないでしょうか。

加之、脱原発論は擬似科学を用いてその称揚する政治哲学的価値の普遍性を詐称する。その点でナチズムとパラレルである。蓋し、脱原発論は<民主主義>の否定である。と、そう私は考えます。尚、脱原発を巡る私の哲学的な視座に関しては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・社会現象として現れるであろうすべての将来の原発問題への序説
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60454892.html

・ドイツの大腸菌騒動
 -脱原発の<夢物語>は足元の安心安全を確保してからにしたらどうだ
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60533639.html



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