NHKの連続ドラマ「アンと花子」。複雑です。
東洋英和は大好きだし、村岡さんも好きだけど、
村岡訳の(部分訳というか妙訳の)『赤毛のアン』は訳書としては、
当時としても到底お話にならないレベルではないかと思うから。
これは、『あしながおじさん』の訳者として知られる、松本恵子(1891-1976)と、
村岡花子(1893-1968)の同時代性と両訳書の出来栄えの差を見ても歴然。
でですね、
ここでね、
例えばね、
訳者の経済的理由とか、戦時下の状況とか・・・。
そういうのは、エクスキューズとしてだけでなく、
ドラマ「アンと花子」のエピソードとしてはよいと思う。
けど、そのエピソードやエクスキューズは訳書の品質については無意味。
例えば、杉田玄白らが『解體新書』を翻訳したこと自体はドラマだけれど、
いまどき、『解體新書』の翻訳の出来栄えをうんぬんする人は少ないのと
これは同じなの、鴨。そう、作品と作者と制作行為は別なのです。多分。
けれど、翻訳の水準としてはその訳は当時としてもお粗末であったことを直視して、
しかし、村岡花子の思い入れと彼女が生きてあったことの結晶として<村岡アン>を捉える。
而して、村岡花子の思い入れと生きてあったことのリアリティーがあればこそ、
戦後、多くの読者を村岡『赤毛のアン』はこの国で獲得したの、鴨。
そういう、冷徹な訳書評価の上で、なおさら、トータルに<花子>を肯定的に評価する。
もし、このドラマがそう進むのであれば、感涙もの、鴨。
と、そう私は思います。