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書評☆星川淳『日本人はなぜ世界で一番クジラを殺すのか』

2015年05月28日 05時13分35秒 | 書評のコーナー

 

 
星川淳『日本人はなぜ世界で一番クジラを殺すのか』(幻冬舎・2007年3月)を紹介します。著者はグリーンピースの日本支部の現在の事務局長であり、本書は、その日本支部とはいえグリーンピース側の著者が文化帝国主義的な捕鯨反対論からは決別して、反捕鯨の立場から平明に「日本と鯨」を巡る論点を整理したもの。畢竟、「商業捕鯨の再開」に向けて「調査捕鯨」を更に推進して行こうと考えている多くの日本人にとって本書は<次世代の反捕鯨ロジック>を知り、それに備える上で参考になるものです。

本書が上梓された2007年―2008年現在。毎年11月には南氷洋に日本の調査捕鯨船団が出航している。そして、この日本の「調査捕鯨」に対する批判が世界中でヒートアップする。しかもそれは言論的の批判だけではありません。オーストラリア政府が将来の国際裁判所への提訴に向けて証拠収集すべく、その軍を派遣して日本の調査捕鯨船団を監視することを検討すると発表したように、他方、カルト的環境テロリスト集団にして環境利権集団として有名な、シーシェパードとグリーンピースは今回も調査捕鯨を暴力によって妨害すべくその手持ちの艦船の出港準備は万端であると報じられているのですから(★)。

★註:テロリスト集団グリーンピース
グリーンピースがテロリスト集団であることについては下記拙稿を参照ください。以下、本稿ではテロリスト集団グリーンピースはTerrorist Group Greenpeaceとして「TGGP」と表記します。


グリーンピースの人権侵害救済申立書は「グリーンピース=テロリスト集団」の<自白証拠>
 
このグリーンピースによる姑息な暴挙を「テロ行為」と言わずして何を「テロ」と言うのか

このシーシェパードによる暴挙を「テロ行為」と言わずして何を「テロ」と言うのか


しかし、ここで紹介する本書。TGGPの日本支部であるグリーンピース・ジャパーンの現在の事務局長、星川淳氏の著作『日本人はなぜ世界で一番クジラを殺すのか』がいみじくも記している通り、日本では捕鯨の是非を巡る議論は「捕鯨問題は国内ではほぼ決着ずみ」(p.3)の様相を呈していると言ってよいと思います。メディアの報道を見てもブログやネット掲示板を覗いても捕鯨の是非を巡る議論が盛り上がっているとは到底言えないし、実際、「調査捕鯨」の推進支持の姿勢と「鯨は日本の食文化の重要な一部」との認識は自民党から共産党まで全政党が共有していると言っても間違いではないからです(★)。

★註:「鯨は日本の食文化」という認識の共有
星川『日本人はなぜ世界で一番クジラを殺すのか』(p.106ff)で触れられているように、自民党と民主党に捕鯨を推進する議員連盟や協議会があるだけでなく、公明党・社民党・共産党にも多くの捕鯨推進派の議員がおられ、共に「補鯨の伝統と食文化を守る会」等の活動に超党派で取り組んでおられる。



日本では「捕鯨問題はほぼ決着ずみ」となったについては、本書(pp.190-191)の用語を借りれば「反・反捕鯨」論的なメンタリティーによる所が大きいかもしれません。

要は、「鯨を殺すのは可哀想」「鯨は知能が高いから殺すべきではない」「鯨を殺して食べるなんて恥を知れ」等々の欧米における反捕鯨の主張は、「鯨は駄目で、牛や羊は殺してもいいのか」や「知能を基準に殺していい動物とよくない動物を区分けするなどはオーストラリアの白豪主義やナチス・ドイツばりの差別主義以外の何ものでもない」という子供でも思いつく反論に応えることができないばかりか、縄文時代からこの平成の御世に至るまで鯨を食糧として認識し続けてきた日本人にとっては何の説得力もないということです。

そして、これらの赤裸々な「文化帝国主義」的な主張をソフィステイケートした「野生動物としての鯨の保護」「絶滅危惧種としての鯨の保護」「海洋生態系全体の維持」「食の安全の観点から汚染された鯨肉を食卓に上げない」「動物愛護」等々の理由もそれが科学的や倫理学的な根拠を欠いている限り同様でしょう。

蓋し、文化には差異はあっても優劣はない。このことを理解しないでされる「鯨を殺すのは可哀想」の如き反捕鯨論は(日本人である限り、たとえ、その方が食物としての鯨肉が嫌いであったり、捕鯨にあまり関心がないとしても)日本人としては到底容認できないsomethingを感じるのであり、畢竟、そのsomethingとは「文化帝国主義」(Cultural Imperialism)や「ヨーロッパ中心主義」(Eurocentrism)と呼ばれるべきものだと私は考えています。

まして、「日本人は確かに鯨を殺しているが、それは食べるためであり、貴方達の先祖が多くの種をそうして絶滅させたように、鯨油や毛皮を取るためだけに、あるいは、ハンティングを楽しむためだけに、つまり、殺すために殺しているのではない。よって、今後は「日本人は鯨を殺している」と言うのは止めて、(食べるために殺しているのだから)「日本人は捕鯨している」と言ってくれないかね」と反論できる。蓋し、上で再現したような素朴で朝日新聞の論調のように独善的な反捕鯨論に対して日本人の捕鯨賛成論は論理的に優っているだけでなく、道徳的-歴史的にも優位に立っていることは間違いないのです。

畢竟、日本国内で(私は動物愛護の観点から捕鯨には反対だが/私は鯨の肉は堅くて野趣が強く嫌いだけれど、水産庁や日本鯨類研究所が商業捕鯨を期して「調査捕鯨」を行うことに反対はしないという、消極的賛成論を超えて)捕鯨に積極的に反対する議論がほぼ消滅したのも頷けるというものです(★)。

★註:「鯨と日本人」および文化帝国主義
この論点に関しては次の拙稿を参照していただければ嬉しいです。


鯨と日本の再生
 
海外報道紹介☆日本はなぜ捕鯨を継続しなければならないのか?
 
菜食主義と反捕鯨論と戦後民主主義は優雅で傲慢な欺瞞である
 
海外報道紹介☆捕鯨反対論は文化帝国主義である
 
海外報道紹介☆文化帝国主義としての捕鯨反対論
 

日本では「捕鯨問題はほぼ決着ずみ」。しかし、それがいかに「文化帝国主義」的あろうとも欧米では日本の調査捕鯨に対して強い批判が渦巻いていることは事実なのです。この事実は日本として無視できるものではない。更に、本書(pp.191-194, pp.205-206)が述べているように、安くて美味しい鯨を日本人がいつでも食べられるようになるためには、すなわち、商業捕鯨を再開するためには課題山積というのが偽らざる所でしょう。

更に、鯨は鯨だけの問題に非ず、たかが鯨されど鯨です。鯨問題は、食糧安保・国家主権・日本の文化の確保を日本人が自分で守れるかどうかの問題。いみじくも、本書の著者が、鯨問題は最早「海の靖国論争」(p.5)になってきていると述べているように、アメリカ政府もフランス政府もEUも公式に日本の「調査捕鯨」を批判しその中止を要請しており、上述の如くオーストラリア政府に至っては日本の「調査捕鯨」を監視するために軍の派遣さえ検討している。これらのことが象徴しているように、鯨の問題は単なる文化人類学的な異文化の接触という高尚かつトリヴィアルな事柄では最早なくなってきている。

畢竟、鯨は鯨だけの問題に非ず、たかが鯨されど鯨なのです。而して、それがこの国の食糧安保、他方、すべての日本人の日々の食生活に直接かかわっている分、捕鯨を巡る問題は「陸の(本当の)靖国問題」や「空(中楼閣)の靖国問題たる南京や所謂「従軍慰安婦」および沖縄集団自決の問題」に優るとも劣らぬ重要性を持つと私は考えています。

ならば、日本と日本人は今後、鯨の問題をどう捉えどう捕鯨を進めていけばよいのでしょうか。これを考える上で、本書、星川淳『日本人はなぜ世界で一番クジラを殺すのか』は参考になる一書だと思いました。尚、「捕鯨-反捕鯨論議」を巡る私の基本的な考えについては下記拙稿を参照していただければ嬉しいと思います。

反捕鯨論の文化帝国主義的で傲慢な謬論を逐条撃破する

 
http://blog-imgs-12.fc2.com/k/a/b/kabu2kaiba/0619-04.jpg

 
 

◆資料
本書、もしくは、この記事を読んで「よし、日本人なら鯨を食べよう!」と思われた方は、是非、行動に移しましょう。そして、もっと安い鯨を安定供給するように各自の地元選出国会議員(なんと、政党は問いません!)、水産庁捕鯨班、日本捕鯨協会に働きかけましょう。以下、オンライン通販もできるクジラポータルサイト、および、捕鯨に関する情報を発信しているサイトのURLを記しておきます。とにかく、鯨のステーキは格別です♪ 


・日本捕鯨協会
 http://www.whaling.jp/

・クジラポータルサイト ←鯨の通販ならこちら♪
 http://www.e-kujira.or.jp/

・日本鯨類研究所
 http://www.icrwhale.org/

・水産庁遠洋課
 http://www.jfa.maff.go.jp/j/whale/index.html

・テロリスト集団グリーンピース・ジャパーンの主張
 http://www.greenpeace.or.jp/campaign/oceans/factsheet/index_html

http://blog-imgs-12.fc2.com/k/a/b/kabu2kaiba/tggp2.jpg






◆『日本人はなぜ世界で一番クジラを殺すのか』の新味
本書『日本人はなぜ世界で一番クジラを殺すのか』はセンセーショナルな一書です。なぜならば、捕鯨反対運動の主要なプレーヤーであるテロリスト集団グリーンピース(以下、「TGGP」)の日本支部事務局長が「捕鯨問題は国内ではほぼ決着ずみ」(p.3)、「グリーンピースも、そろそろ捕鯨問題を卒業したほうがよさそうだ」(p.7)、反捕鯨の活動のやり方として、TGGPが得意とする相手の生命身体に対する攻撃を行わない違法行為、所謂「非暴力直接行動」について「グリーンピース側にも配慮の余地はある。「非暴力」に対する欧米社会と非欧米社会の認識が微妙にずれることを、もっと真剣に見つめたい」(p.136)等々、捕鯨反対運動からの「離脱」ともとれる認識を記しておられるから。

ただ、本書が読者に新鮮な印象を与えるとすれば、その理由はこの「離脱宣言」だけではないでしょう。蓋し、「離脱宣言」を含む次の3点において本書は捕鯨反対論から書かれた他の「捕鯨論」を超えていると私は思います。

・『日本人はなぜ世界で一番クジラを殺すのか』のセールスポイント
(A)TGGPによる捕鯨卒業宣言
(B)商業捕鯨は(技術的にも)不可能という認識の提示
(C)沿岸捕鯨を中心に据えた次世代の日本の捕鯨のスタイルの提案


繰り返しになりますが、その日本支部事務局長の「離脱宣言」にかかわらず世界的には反捕鯨の直接行動を常套する団体として現在も認識されているTGGPが、たかだか一つの支部の事務局長の見解にすぎないとはいえ、TGGPが現在進行形で敢行している非暴力ではあるが違法な直接行動を反省して捕鯨問題からの卒業を宣言したことは注目に値する。

また、TGGP日本支部の言動を継続的にウォッチしている人にとっては、特に、目新しいことではないのですが、本書ではTGGP日本支部が鯨を食べることに必ずしも反対しているわけではないことも改めて示唆されており(pp.205-206, pp.212-213)、このことも読者には新鮮な印象を与えるかもしれません。
 
 



◆『日本人はなぜ世界で一番クジラを殺すのか』は便利なパンフレット
ある種の新鮮さに加えて本書は「捕鯨」に関心のある読者には便利な一冊です。具体的には、鯨の種類と生態の紹介(第1章)、日本の捕鯨の歴史の紹介(第2章)、乱獲により鯨が絶滅に瀕した経緯の素描(第3章)、現在日本側で捕鯨を推進している陣容の紹介(水産庁捕鯨班・日本鯨類研究所・共同船舶・日本捕鯨協会・捕鯨推進の国会議員連盟の紹介:第4章)、鯨肉消費の現状分析(第6章)、および捕鯨を巡る世論の動向分析(第7章)は、捕鯨反対派のバイアスを意識して読むなら、一刻も早い商業捕鯨の再開を期す大多数の日本国民と日本市民にとっても有益な情報だろうと思います。

ただ、便利ではあるが、そして、所詮、反商業捕鯨の立場に立つTGGP側の著書のことでもあり無理な注文かもしれませんが、商業捕鯨の再開の是非を分かつ「鯨はまだ絶滅の危機にあるのか」それとも「鯨は持続可能な食糧資源として回復しつつあるのか」、あるいは、どのような商業捕鯨なら持続可能な捕鯨を具現しうるのかを規定する「RMP(商業捕鯨再開時に捕獲枠を割り出す改訂管理方式)」の妥当性等々に関して、数理統計学や生物統計学を踏まえた説明は本書には皆無であり、結局、反捕鯨陣営のパンフレットの域を本書は出ていないことは残念です。

この点、同じ鯨問題の入門書であり、捕鯨賛成派の重鎮にして現在日本鯨類研究所理事長である大隅清治氏の『クジラと日本人』(岩波新書・2003年4月)と比べて本書はかなり見劣りがする。星川氏と大隅氏の両著に関するこの評価は必ずしも私が捕鯨賛成派だからというだけではないと思う。捕鯨に賛成反対にかかわらず「捕鯨と日本」というテーマに関心のある向きにはこの両書の併読をお薦めします。
 



◆『日本人はなぜ世界で一番クジラを殺すのか』はアジビラである
本書は新鮮な印象を与える一書であり便利なパンフレットです。けれども、それは商業捕鯨再開に反対する立場から書かれた「捕鯨反対のプロパガンダ」、就中、現在日本で捕鯨を推進している「政治家-水産官僚-日本鯨類研究所や共同船舶等の調査捕鯨の実働部隊」を攻撃する「調査捕鯨反対のアジビラ」にすぎない。蓋し、本書は、日本国内での「反・反捕鯨」(p.170ff, p.190ff)の意識が広がる中で「文化帝国主義」的な捕鯨反対論が全面的に敗北しつつある状況を見据えた上で繰り出された<次世代の反捕鯨論>である。本書は私にはそうとしか読み取れませんでした。

而して、<次世代の反捕鯨論>はどのような論理によって編み上げられているのか。私はそれを次のようなものと理解しています。

<次世代の反捕鯨論>
(甲)南極水域・西太平洋水域での遠洋捕鯨
対応:全面反対
根拠:野生動物保護(鯨は水産資源ではなく保護すべき野生動物)
   鯨は絶滅が危惧されている
   ノールウェー式捕鯨は外来かつ近代の産物であり日本の伝統ではない

(乙)日本近海の日帰り沿岸捕鯨
対応:総頭数を決めて容認する一方、消費者には鯨肉の危険性を告知
根拠:海の食物連鎖の最上位ある鯨は水銀やPCB等で汚染されている

(丙)総合戦略
対応:遠洋捕鯨を全面的禁止に追い込み、捕獲頭数と捕鯨拠点数の双方で沿岸捕鯨をミニマムに封じ込める。而して、鯨肉の需要を先細りさせ、古式捕鯨以来の伝統芸能としての捕鯨、郷土料理的な鯨食を残し、日本全体における「捕鯨と鯨を食べる食文化の自然死」を待つ! 
根拠:鯨食の文化は極一部の地域を除けば終戦後の徒花的現象にすぎない
   商業捕鯨再開などビジネス環境的に不可能


本書ではこの反捕鯨戦略をサポートするためにもう一つ巧妙なロジックを通底低音として流している。それは、日本の調査捕鯨、まして、商業捕鯨の再開は「国際社会が永久的な保護区と定めた場所では捕鯨を控えるマナー」(p.21)に反する「国際社会の一般的モラルも踏みにじる」(p.194)ものという主張です。而して、私は、自身が<次世代の反捕鯨論>と名づけたこの反捕鯨の論理は破綻しており、よって、本書は反捕鯨論からする新手のアジビアにすぎないと考えます。

尚、上でも述べたように、本書では上記(甲)の根拠の一つとして、鯨の数は持続可能な捕鯨を再開するに充分なほど回復しているかどうかは不明であると主張していながら(p.75ff, pp.81-82)、数理統計学(特に、少標本を対象とした多変数の統計推理理論を生物の個体数変化予測に応用した生物統計学)からの説明は皆無です。要は、「鯨はいまだに絶滅に瀕している」あるいは「鯨の個体数(鯨種または個体群毎の個体数)は不明」という本書の基盤となる認識はまったく科学的・論理的な根拠を欠いている。

このことは、著者が根拠もなく水産庁-日本鯨類研究所のデータを信用ならないとばかりに斬り捨てる一方(p.75, p.79, pp.80-81, p.141)、同じく無根拠に「世界の専門家」やIWC科学委員会(pp.80-81, p.141)、あるいは、その科学的根拠を開示しないことで悪名高いCITES(Convention on International Trade in Endangered Species of wild Fauna and Flora:所謂ワシントン条約)の付属議定書(pp.70-71)の主張を採用していることと相まって本書の説得力を著しく下げている。

例えば、IWC科学委員会は「繰り返し「改訂管理方式(RMP)にとって日本の調査データは不要」と明言している」(p.141)と著者は記しているけれど、同委員会の報告書原文には「RMPによる管理には必要ではないが、以下の点でRMPを改善する可能性を秘めていることが指摘された・・・」と日本の調査捕鯨がもたらしたデータがRMPに影響を与える内容であることを認めているのですから。これらの点を鑑み、以下、本書で展開されている<次世代の反捕鯨論>の諸根拠につき検討してみます。

[1] 鯨は水産資源ではなく保護すべき野生動物
[2] ノールウェー式捕鯨は外来かつ近代の産物であり日本の伝統ではない
[3] 鯨食の文化は極一部の地域を除けば終戦後の徒花的現象にすぎない
[4] 日本の南極水域での(調査)捕鯨は国際的なマナー違反
[5] 沿岸捕鯨で捕獲される鯨の肉は汚染されている
[6] 商業捕鯨再開などビジネス環境的に不可能



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◆『日本人はなぜ世界で一番クジラを殺すのか』は反捕鯨論からの詐術である
[1] 鯨は水産資源ではなく保護すべき野生動物
本書の第1章「クジラは魚か」にはこう書かれています。「くじらを水産資源としてのみ扱い続けるか、地球に残された野生動物のシンボルとしてとらえるかが、捕鯨論争の分かれ目になり、決定的な議論のすれちがいを生んでいる」(p.17)、と。この認識は正しいと思います。逆に言えば、欧米の反捕鯨論の多くは、鯨の個体数が増えているかどうかにかかわりなく、日本人が鯨を食べていること、食べるために殺していること自体に憤慨しているということでしょう。

もちろん、輪廻転生に親しい日本人の世界観からは、「魚類」なら水産資源で「哺乳類」は野生動物とする欧米流の二元論は全く根拠のないものでしょうが、いずれにせよ、本稿の冒頭近くで述べましたように、その国民や民族がどの動物を(水産)食糧資源と認識するかは、その民族が歴史的に形成してきた文化に規定される事柄であって、それと異なる文化を呼吸して生きている外国人に「何をたべてよいか」、つまり、「何が野生動物であり、なにが(水産)食糧資源であるか」の線引きを指図される筋合いは毫もないことは自明だと思います。

重要なことは「野生動物」と「水産資源」の二項対立は一個の文化圏においても時代と共に変化する、更に、TPOによってさえ変わりうる、つまり、固定したものではないということです。畢竟、「認識が対象を決定する」という新カント派の認識論を持ち出すまでもなく、例えば、食糧安保政策の中では鯨は水産資源であり、観光事業計画の中では鯨は野生動物として認識される。すなわち、鯨を水産資源であると同時に野生動物と認識することはなんら矛盾ではない。而して、鯨が野生動物でもあることを根拠に、日本が水産資源としての鯨に対して調査捕鯨を継続し、商業捕鯨を再開しようとしていることを批判される筋合いは全くないのです。


[2] ノールウェー式捕鯨は外来かつ近代の産物であり伝統文化ではない
[3] 鯨を食べる文化は一部の地域を除けば終戦後の徒花的現象にすぎない

捕鯨反対論者からは、「近海沿岸で行われていた古式捕鯨ならともかく、捕鯨母船とキャッチボート、さらには、母船内で加工冷凍された鯨肉を日本に運搬する輸送船からなる捕鯨船団で遠洋に繰り出すノールウェー式の捕鯨スタイルは日本の伝統文化などではない」といった主張を時々聞きます。

このような主張に対しては、では「野球」は日本の文化か? 女子学生のセーラー服姿は? いや、「仏教」だって紛うことなき外来思想であり、まして、電気炊飯器で炊いたご飯などは極最近の産物にしかすぎないがそれらは日本の伝統文化の構成要素ではないのかと聞き返したくなる。蓋し、伝統文化論議など「玉葱の皮を剥いていくうちに結局なにもなくなる」類の議論でしょう。

流石に、本書の著者はこのような「玉葱伝統文化論」には予防線を張っておられる。本書第2章「捕鯨は日本の伝統文化か」の冒頭。「「伝統」とか「文化」というのは、ある意味で空想に近いとことがある。なぜなら、私たちが確実にわかるのは自分が実際に経験したことだけで、それより前のことは聞いたり読んだりする知識にすぎないからだ」(p.38)、と。

而して、著者は捕鯨と鯨を食べる習慣についてこう書かれる。「給食のクジラは地方によってかなりバラつきがあるようだが、一般に日本人が捕鯨と鯨肉を「文化」や「伝統」と結びつけるのは、どうもこの戦後体験が強いようだ。ただ、それだけで捕鯨が日本の伝統文化と呼べるかどうかはいささか怪しい」(p.39)、と。その後、「伝統文化」に関するこれらの認識を前提に、捕鯨は伝統文化か否かについてかなり消極的な見解を述べるておられるのですが(pp39-40, p.49, p.54, p.156ff, p.169, p.170)、その中でも著者の伝統と文化に関する理解として目についたものがあります。

それは、「ぐるり海に囲まれた日本列島では、縄文時代からクジラやイルカを利用した形跡がある。(中略)こうした素朴な鯨類の利用は、(中略)北はベーリング海域からインドネシアまで現在も続く土着的な捕鯨が示す通り、海に接する世界各地の民族が行っていたはずなので、日本固有の伝統文化と主張するのは無理がある」(pp.39-40)、「IWCでは日本の沿岸捕鯨は近代捕鯨そのものだとして(沿岸小型捕鯨業者に特別許可を与える)議案を否決してきた」(pp.157-158)、「戦後、多くの日本人がクジラの肉に親しんだのと同じころ、やはり学校給食に出た脱脂粉乳を、日本固有の食文化だと主張する人はいないだろう」(p.170)の三箇所。

私はこれらの著者の理解には疑問を感じます。なぜならば、他の民族と共通点があまりないその民族特有のものでなければ伝統文化ではないのか(もし、そうであれば、音楽や楽器なども伝統文化の構成要素にはならないでしょう)、また、何が民族固有の伝統であり文化であるかは外国や国際機関が決めるものなのか、そして、文化や伝統はある民族が今に至るまで恒常的に選び続けてきたものの集積ではないのかという疑問が拭い去れないから。

簡単な話です。伝統や文化は現在生きてある人間にとっての「価値」であり「規範」として作用するものだろうということ。畢竟、伝統や文化のすべてのアイテムは、極言すれば現在の存在でしかなく、そして、何が伝統で何が文化であるかを決めるものは現在生きてある個々人が形成する民族意識以外にはありえない。そう私は思うのです。

ならば、(自分が「日本人」なるものの源流の一つになることなど想像だにしなかっただろう)縄文の人々が鯨を食べていた習慣は、縄文人をも我々の祖先と考える現在の日本人の意識からみれば間違いなく「日本の伝統文化」の一部であり、他方、現在それを飲もうと思えば誰もが飲めるはずなのに、トライする日本人が少ない脱脂粉乳は学校給食を思い出すツールではありえても「日本文化」とは呼べない。そして、捕鯨が日本文化の一部かどうかなどはIWC(国際捕鯨委員会)に決められる筋合いなど全くないことは言うまでもありません。而して、この観点からは歌舞伎や文楽が伝統文化であるのと同様、野球もセーラー服も伝統文化である。

ことほど作用に、米食が日本の文化であることは、それを炊く器具や米の品種が変わろうとも不変であるのと同様、鯨を食べる文化が日本文化であることは、その鯨が近代的な捕鯨船団によって捕れたことによってはなんら影響を受けることはない。まして、「この年(1947年)に日本人が口にした肉類の40%が南極海産の鯨肉だった」「他の肉類が持ち直すににつれ、1950年代には20%台に落ち着いていく」(p.53)という本書が紹介する事実を反芻するとき、鯨を食べる習慣は十分に日本の伝統文化と言えると思います。


[4] 日本の南極水域での(調査)捕鯨は国際的なマナー違反
本書の特徴は、日本側が提示している科学的データや主張は歯牙にもかけず、他方、IWCや外国の反捕鯨派の主張は無条件に肯定する姿勢です。例えば、「もっともらしく科学的な体裁をつけた調査計画や報告を見ても、いかに捕獲頭数を上げ、商業捕鯨再開を正当化するかという意図が透けていて、国際的な科学界からはほとんど相手にされないのがうなずける。国策で商業捕鯨をめざす政府の御用研究が、客観性をもちうると考えるほうがおかしい」(p.79)などはその代表的なものでしょう。

けれども、「国際社会」なるものはそれほど客観的なものでしょうか。鯨の個体数にかかわらず商業捕鯨の再開は認められないという立場を公言している欧米の研究など(逆に、鯨資源が増えていなければ商業捕鯨を再開したとして捕鯨産業の将来性は暗いのですから、ある意味、日本の研究以上に)怪しいと考えるのが合理的でしょう。「水産庁は捕れる、捕れないの観点からのみ(商業捕鯨再開を認めようとしない議論に)異議を唱えているけれど、世界の大勢はクジラを水産資源とみなさなくなったのだから、捕れるかどうかなどじつはあまり関心がない」(p.20)とまで著者に言われればなおさら国際社会やIWC科学委員会なるものは信用できないと感じるのが自然ででしょう。

更に、持続可能な捕鯨が可能とするならば、商業捕鯨の再開について日本が特に国際社会なるものの許可を必要とするかどうかさえ疑問です。畢竟、その設立規約からもIWCは「持続可能な商業捕鯨のための国際的なルール」を形成すべき会議体であり、その目的にそれが沿っている限りにおいてのみ日本はIWCに加盟し続ける意味がある。ところが、IWCが日本の提出するデータなど「相手にすることなく」商業捕鯨の再開に向けて具体的なルール形成ができないのならば、日本がIWCにとどまる意味は全くないからです。而して、IWCを脱退した非加盟国に対してIWCの規範が何の効力も持たないことは言うまでもありません。

この点で本書の国際社会への信頼は過剰と言わざるをえない。例えば、「国際社会が永久的な保護区と定めた場所では(中略)捕鯨を控えるマナーが必要」(p.21)、「本当に科学と客観性を重視するのなら、いま日本が南極海で行っているような調査は、計画から実施までIWCを主体にしなくてはおかしい。また、国際捕鯨取締条約第8条を見直して、“調査捕鯨”の条件を厳しくするとともに、少なくとも公海での調査に関するかぎり、国家より上位の国際機関が許可と実施を監督できる形を検討すべき」(pp.142-143)等の記述は国際法に関する無知によるものか、国際法上このようなことは言えないことを承知の上で書かれた詐欺的言辞のいずれかでしょう。

国益の対立と文化間の摩擦が常態の国際社会において、マナーとはすなわち国際法と確立した国際政治の慣習でしかありません。その国際法と国際関係のマナーを徹底的に遵守してきたのは日本の方であり、本来、持続可能な商業捕鯨を図るための機関であるIWCが反捕鯨国による商業捕鯨妨害のツールとなっている現状こそ国際社会のマナー違反以外の何ものでもない。而して、国連憲章を紐解くまでもなく、ある主権国家が自発的に自国の権限を制限するのでない限り、国際機関はいかなる意味でも主権国家の上位に来ることはないのです。ならば、国際社会と国際機関に対する過剰な著者の信頼と期待は、所謂「地球市民」や「世界市民」を夢想する著者の願望の結果なのかもしれませんが、それは実定国際法とは無縁なものであることは確かだと思います。


[5] 沿岸捕鯨で捕獲される鯨の肉は汚染されている
これは徹頭徹尾「事実認識」の問題です。ある鯨種の鯨肉に厚生労働省が定める基準以上の有害物質が含まれているのならば、問題の鯨種や部位を食べるべきではない。それだけのことです。

けれども、遠洋捕鯨で捕獲されたマッコウクジラ、沿岸捕鯨で捕獲されたイルカや鯨のある部位から、グリンピース等が宣伝するように許容値の数十倍のPCBや水銀が検出されたという事実は「再現性」に乏しく極めて例外的な事例と考えるのが自然だと思います。

而して、南氷洋や西太平洋で捕獲される毎年1000頭規模の鯨から収集される数値からは許容値の10分の一以下の汚染物質しか検出されていない。これを見るに、鯨はむしろ、他の魚(←鯨は哺乳類ですよ!)よりも安全。ただ、鯨肉が汚染されている危惧は残念ながら沿岸捕鯨の本格再開に関しては無視できないファクターであることは間違いないでしょう。

いずれにせよ、危惧はどこまで行っても危惧にすぎない。かつ、危惧を事実と論理によって完全に払拭することは神ならぬ身の人間にとって、これまた論理的に不可能。近代民法の原則の一つに過失責任主義が掲げられるのはこの事情によりますし、個別、鯨肉の生産者に(歩行者に比して利益を一方的に享受する)自動車運行者、(一般の市民との間に圧倒的な情報の非対称性を持つ巨大な)原子力事業者のように無過失責任を課すことは衡平の原則に反するでしょう。実際、市民はその鯨肉の汚染が心配なら検査機関に検査を依頼することはそう簡単ではないが不可能ではないのですから。

畢竟、 許容値を超える事例が続出するのでもない限り、この項の冒頭にも書きましたが、沿岸捕鯨再開と鯨肉の汚染度合いの関係は事実認定によって決っせられるべきことだと思います。


[6] 商業捕鯨再開は不可能か?
著者は日本による商業捕鯨再開は不可能と述べる。「結局、水産庁捕鯨班が音頭をとる商業捕鯨再開は建前にすぎず、けっして本気ではない」「もし、心の底から商業捕鯨が再開できると信じているとしたら、それは狂信に近い」(p.192)、と。こう著者が断定される根拠は、しかし、そう明確なものではありません。私の理解した限りそれは次の4点でしょうか。

(a)持続可能な捕鯨によって捕れる鯨の量の少なさ(p.193)
(b)燃料費等のコストから見て日本の捕鯨は競争力に劣ること(ibid.)
(c)鯨肉市場規模の小ささ(第6章)
(d)企業イメージ低下から商業捕鯨に参入する企業は限られること(p.193)


確かに、商業捕鯨最末期の1987年に1捕鯨船団による捕鯨ミッションの損益分岐点がミンククジラ2,000頭であったこと。また、現在の所、改訂管理方式(RMP)の算定から年間に捕獲可能な鯨が同じくミンククジラ2,000頭であり(p.193)、そして、商業捕鯨解禁になった暁には(密漁を除けば)世界中の捕鯨国がこの2,000頭の枠を分け合うことにならざるをえない。こう考えれば、少なくとも、1社の独占が保証されるのでなければ捕鯨はビジネス的になりたたないように思えます。

また、商業捕鯨が解禁されたとして、もし、オーストラリアやニュージーランドといった地理的に南氷洋に近い国々が商業捕鯨に参画した場合、燃料費と人件費を考えただけでも我が日の丸捕鯨船団はコスト的にかなり苦しい競争を強いられることも火を見るより明らか。加えて、現在、年間1,400頭足らずの調査捕鯨が持ち帰る鯨肉でさえ売れ残っている。而して、日本による商業捕鯨再開は不可能と著者が考えるのは満更根拠がないわけでもないのです。

けれども、この「商業捕鯨不可能論」には反捕鯨論からする特異な条件が前提として組み込まれてはいないか。私にはそう思えてなりません。捕鯨がインダストリーとして再構築されるためには、一般のビジネスと同様、(イ)商品の安定供給、(ロ)当該産業を養うに足りる市場の存在と規模、(ハ)商品を供給するプレーヤーの存在が不可欠でしょう。而して、著者のネガティブな予想とは異なり、これら(イ)~(ハ)の三者は商業捕鯨において十分に成立する余地がある。蓋し、商業捕鯨再生の鍵は<コストとプライス>であり、畢竟、古典的な需要と供給の関係、あるいは、ミクロ経済学的な市場分析を著者は故意か過失か見落とされているように思います。

(イ)商品の安定供給
今後、鯨が増えることによって持続可能な捕鯨が可能な鯨の捕獲総数が増えることは否定されないでしょう。また、適正な年間捕獲量が今後もミンククジラ2,000頭で変わらず、実際に捕鯨に従事するのは1捕鯨船団が適正規模の状態が続くとしても、その船団を多国籍の複数企業がコンソーシアムを作り運営するスキームなど容易に作ることができる。

ならば、商業捕鯨再開のポイントはその捕鯨によりいかほどの収益が見込めるかに収束するはず。つまり、著者が掲げられる(a)持続可能な捕鯨によって捕れる鯨の量の少なさと、(b)燃料費等のコストから見て日本の捕鯨は競争力に劣るという指摘は見せかけのネガティブファクターにすぎないことになります。

(ロ)市場の存在と規模
確かに、現在、調査捕鯨の副産物である鯨肉は売れ残っている。著者は「世論調査を見比べてみると、「捕鯨賛成」と明確に答える人が50%前後はいる。(中略)しかし、それならなぜ鯨肉は余るのだろう」(p.185)と自問自答されているけれど、これこそ需要と供給の関係が解決する問題であり、かつ、多様な価格の鯨肉がいつでも容易に買える環境になれば状況は一変すると考えます。簡単に言えば、現在、西太平洋・南氷洋を併せて最大1,400頭の鯨しか捕れないものが、沿岸捕鯨も併せて3,000頭の規模に増え、かつ、価格も安くなるのであれば需要が喚起されることは十分ありうるのではないでしょうか。而して、その適正な価格の値は最終的にはマーケットが決めることなのです。

いずれにせよ、著者が掲げられる(c)鯨肉市場規模の小ささは、1987年から続くモラトリアム体制下の高価格と不安定供給、ならびに、鯨を食べたことのない若い世代の増加という条件下の現状であり、その条件は商業捕鯨再開事態によって一変する性質のものだと私は考えます。もちろん、「供給が需要を作る」という所謂セイの法則は一般的には成り立たない。しかし、現在の鯨肉マーケット自体が統制経済的な歪さを抱えていること、人口の過半を大きく越える日本人が鯨肉に対してポジティブイメージを持つことを鑑みるならば、鯨肉に関しては「適正な価格をともなった安定供給が需要を作る」可能性は低くはないと考えます。

(ハ)民間捕鯨会社の再登場
市場が投資に比べて魅力的であるならば、当然、その市場に参入するプレーヤーが登場することは必然です。よって、経営経済学的には(ハ)民間捕鯨会社の再登場のハードルは実は上記(イ)(ロ)の裏面にすぎず、著者が述べておられる、経営リスクとしての「捕鯨企業になることにともなう当該企業のイメージダウン」というファクターがこの項目プロパーの主な論点になることは間違いない。けれども、日本国内でビジネスを展開する限り、商業捕鯨の再開に参画したことは、国民多数から感謝され拍手をもって迎えられることではあっても、それが企業イメージの低下という経営リスクに結びつく恐れはないと私は考えます。

問題はその勇気ある企業が海外に販路を求める場合、海外の機関投資家から出資を仰ぐ、あるいは、海外の企業を買収する場合等々の国際業務関連において顕在化するでしょうが、国営企業として設立し、その株式を漸次個人投資家に販売すれば何の問題も生じないはずです。しかも、鯨が安定供給されるのであれば、極論すればその供給者が外国企業になったとしても「鯨の食文化の伝統」を守るという点に関してはなんら問題ではないのです。

いずれにせよ、公的な株式市場の回路とは別に不買運動等を通して企業経営にプレッシャーを加えるTGGP等のやり方は会社経営の本質的弱点をついた運動形態。而して、それはある経営領域(例えば、汚染された支那製商品のボイコット等)では有効かつ有意義なマヌーバーだと思います。しかし、こと争点が、捕鯨の是非のような異文化間の世界観・価値観の齟齬にかかわる領域ではその効果はそう大きくはないと私は考えます。

蓋し、著者の「商業捕鯨の再開は不可能」という立論は著者の願望に起因する特殊な条件を密輸した空想にすぎない。尚、この点に関して、著者は、「だぶついた、“調査捕鯨”の“副産物”を学校や自衛隊の給食にまわそうとする」(p.172)と揶揄しておられますが、ここ数年の「調査捕鯨」の水揚げ増により学校給食に鯨が増えている等、商業捕鯨再開の見通しは明るい。私はそう考えます。

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◆結語
商業捕鯨再開は不可能であるする著者は、南氷洋での「調査捕鯨」の断念、および、IWCで先住民族に認められている「原住民生存捕鯨」とパラレルな沿岸捕鯨を再開する捕鯨問題解決の代案を本書で提案される。「的外れな南極海の“調査捕鯨”をやめ、IWCの「原住民生存捕鯨」と整合性のある形で、つまり捕鯨の伝統が根づいた地域のみ限定して、流通も一定の枠をはめた形で国内の沿岸捕鯨を認めさせる方向に、あらためて議論を向けることをすすめる。これなら長年、捕鯨に反対してきた国々やNGOをはじめ、反捕鯨の国際世論も説得できそうだ」(p.205)、と。

しかし、前節で述べた通り商業捕鯨再開不可能との認識は唯一絶対のものではない。そして、「原住民生存捕鯨」にパラレルな沿岸捕鯨だけでは日本人の多くが鯨を食べる習慣を再生産し、日本が捕鯨の伝統と文化を保つことは難しい。このことを鑑みれば、著者の主張は、「捕鯨文化の自然死」を狙う狡猾かつ姑息な提案であり、捕鯨文化の保守を目指す者にとってはとって到底容認できるものではない。

著者は、捕鯨が孕む食糧安保・国家主権・日本の文化の確保の意義を看過された上で、「欧米諸国はさっさと身を引いて、自分たちもこのあいだまで手を血に染めていたクジラ殺しを激しく非難し、日本を悪の権化に祭り上げたすえ、かろうじて乱獲をまぬがれた鯨種を慎ましく捕って商業捕鯨を存続させたいという希望さえ、捕鯨モラトリアムやサンクチャリーで打ち砕いた。この恨みは深い。(中略)心情的には、ほとんど真珠湾前夜なのだ」(p.109)と、あたかも『渡る世間は鬼ばかり』的な愛憎物語として日本の商業捕鯨再開に対する取り組みを矮小化されている。

そして、「あいかわらず海外の反捕鯨熱は高いし、はるばる南極海へ出かけて日本の捕鯨船団に抗議するキャンペーンも続いている。かたや日本政府は、捕鯨反対の国やNGO(非政府組織)に対する激しい敵意を隠さない。その知られざるヒートアップぶりは、さながら「海の靖国論争」である。日本が世界を相手に、これほど強気に出るのは珍しい。傷ついたプライドの手ごろなはけ口を、靖国の場合は韓国や中国に、捕鯨の場合はグリーンピースをはじめとする反捕鯨国際世論に見つけたかのようだ」(p.5)という傍観者的な立ち位置から書かれたとしか思えない記述を読むとき、私はこのの著者は一体どこの国の人だろうかという素朴な疑問を抱いてしまう。

支那や韓国からの言い掛かりに端を発したことが自明な陸の「靖国問題」を「傷ついたプライドの手ごろなはけ口を、靖国の場合は韓国や中国に見つけた」と断言する著者の政治的な姿勢は捕鯨問題とは無関係とするとして、また、捕鯨が日本の伝統文化であるかどうかの認識の差は置いておくとしても、捕鯨問題が間違いなく食糧安保と国家主権の問題にダイレクトに連なっていることは捕鯨賛成派も反対派も否定できないだろうからです。

畢竟、捕鯨が文化と主権の問題でもある限り、その立場が捕鯨に反対でも賛成でも日本人としての当事者意識を欠く捕鯨論は捕鯨を巡る問題の解決において日本社会にそう大きな影響を及ぼすことはないだろう。よって、本書を読み終えた今、読まなくともよい本を読んでしまったのかなと、些か後悔しています。これが偽らざる読後感。ただ、反捕鯨論の<次世代のロジック>を知る上では本書は便利な一冊であり、その意味では一読をお薦めします。





(2007年12月16日-18日:yahoo版にアップロードした記事を加筆修正)
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