英語と書評 de 海馬之玄関

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キムヨナを<物象化>する日韓の右翼による社会主義的言説

2010年03月04日 14時35分05秒 | 日々感じたこととか

バンクーバーオリンピックの女子フィギュアスケート、キムヨナ姫の金メダル、浅田真央選手の銀メダルという結果を受けて、日韓のネット上には「キムヨナの勝利は韓国人の日本人に対する優秀さの証明ニダ」とか「キムヨナの勝利は韓国人の姑息さの証明だぁー」等の言説が溢れているようです。また、キムヨナ批判が盛り上がっていた2チャンネルに対して韓国からと思しきサーバー攻撃が行なわれ、実際、2億数千万円の損害が発生したため、当該サーバーがあるアメリカではFBIが捜査に乗り出したとか。蓋し、「見苦しい」の一言です。

而して、「キムヨナ姫の優勝をどう考えるべきか」ということについて、このブログでも幾らか私見を述べた経緯もあり、本記事ではこれら日韓の言説を、社会思想の言葉の正確な意味での<保守主義>から批判することにしました。 尚、キムヨナ姫の勝利に関する私の見解と保守主義を巡る私の基本的な理解については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。特に、この記事で「保守主義」の定義を行う紙幅の余裕はありませんので、「保守主義」の意味については拙稿をご参照いただくようお願いいたします。

●キムヨナ姫の勝利の構図とそれから学び取る教訓
・浅田真央は「ルール」を理解できなかった愚者か(上)(下)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/52ebd16456cd3397453fa66f24f5e9d9

・浅田真央は「ルール」を理解できなかった愚者か-採点基準考(上)~(下)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/57022172c259c2909b4d10c97eb7e9e0


●保守主義の意味と意義
・保守主義の再定義(上)~(下)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11145893374.html

・保守主義-保守主義の憲法観
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65235592.html

・保守主義とは何か(1)~(6)
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-474.html

・覚書★保守主義と資本主義の結節点としての<郷里>(上)~(下)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/bdcdd6661ad82103a6d8d07d93eb7049



キムヨナを物象化する日韓の「キムヨナ言説」
私の批判点は、これら見苦しい日韓の言説はともに「キムヨナ」という記号を<物象化>したものであり、それは、グノーシス主義とも言うべき心性が紡ぎ出した妄想にすぎないということに収束します。而して、それらは、一見、不倶戴天の関係にあるように見えながらも、思考のパターンとしては同型のものであり、そして、それらは我々保守改革派が信奉する、言葉の正確な意味での<保守主義>とは相容れないものである。と、そう私は考えています。




■物象化論の陥穽
キムヨナ姫が勝利したら、なぜ、「韓国人が日本人より優秀」とか「韓国人が日本人より姑息」とか言えるというのでしょうか。このことは、「物象化」(人間と人間の関係があたかも物と物との関係、すなわち、自然現象の如き人間と人間の社会関係から相対的に自立した独自の法則性が支配する関係として現象すること)などというオドロオドロしい用語を持ち出すまでもなく、誰しも疑問に思うことではないでしょうか。簡単に言えば、

キムヨナの勝利→韓国人が日本人より優秀
キムヨナの勝利→韓国人が日本人より姑息


これらの命題が「真」であるためには、少なくとも、「優秀」とか「姑息」という性質に関して「キムヨナとすべての韓国人が同質」「浅田真央とすべての日本人が同質」であることが前提になると思いますが、そのような前提は、所謂「実体概念」を否定する現代哲学、就中、分析哲学から否定されるだけでなく(この経緯については下記拙稿の前段をご参照ください)経験的と数理的とを問わず科学的にも証明は不可能でしょう。

・暇潰しの言語哲学:「プロ市民」vs「ネットウヨ」
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65230336.html




「韓国人と異なる日本人」「日本人と異なる韓国人」は存在しない
まず、比較の前提となる「韓国人と異なる日本人」なるものや「日本人と異なる韓国人」なるものは科学的に成立しません。すなわち、現在の分子人類学。例えば、(A)数次に亘り列島に来た日本人の先祖はすべて北方系であり、弥生期以降のニューカーマーもそう多くはないことを示して、長らく通説の地位を保った、南方系の縄文人古層の上に朝鮮半島から渡ってきた北方系の弥生人が重なることで日本人の原形ができたとする埴原和郎先生の所謂「二重構造モデル」を完全に否定し、(B)返す刀で、日本人と(「女真族=満州族」を源流とする)韓国人の人類学的差も、日本人・韓国人と東南アジアの諸民族との人類学的差もそう大差がないことを証明した、崎谷満『新日本人の起源 神話からDNA科学へ』(勉強出版・2009年9月)等の最先端の人類学の知見からは、少なくともDNA的には「日本人」と「韓国人」に有意の差は見出せない。

よって、日本人と韓国人の優秀さや姑息さの比較は<文化規範>の種差や<文化規範>が育むパーソナリティの行動パターンとパフォーマンスから行なうのでなければ無意味と思います。而して、この文化規範の点では(下記拙稿で述べたように、日本語と韓国語の径庭が極めて大きいように)日韓は異質と言ってよい。けれども、レビストロースが喝破したように、文化間に優劣の差は存在しない。このこともまた、(よって、反捕鯨国の文化人類者には、同胞の捕鯨反対論者によくその理を説諭してもらいたいものですが)現在、大方の賛同を得られる認識であろうと思います。


・日本語と韓国語の距離☆保守主義と生態学的社会構造の連関性
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/b1c5489ebc391c1e9910502fabc69e4f



次に、「キムヨナとすべての韓国人」「浅田真央とすべての日本人」の同質性にもそれを肯定する何の根拠も存在しない。否、このナイーブな想定は、例えば、大学入試の偏差値、中学校の体育測定、あるいは、3歳から始めたグループ内でも小学校高学年にもなればピアノやバイオリンの技量で残酷なほどの差異やバラツキが生じる現実を想起するとき、誰しも否定せざるを得ない事柄ではないかと思います。確かに、短距離走であればアメリカやカリブ海諸国のアフロ系の人々や欧州人は我々日本人に比べれば優れているでしょうが、その同じ欧州やアフロ系の人々の内部ではこれまた目も眩まんばかりの能力差とバラツキがあるのですから。

ラッセルの「記述理論」を借用して敷衍するならば、「2010年3月3日現在のフランス国王(king)は男性である」という命題は、文法的に正しく、また、命題の内部に論理矛盾は含まれていないとしても、経験的事実に反するという意味では「偽」であるのと同様、「韓国人が日本人より優秀だからキムヨナは浅田真央に勝利した」という命題も、文法的には正しく、また、(例えば、「韓国人が日本人より優秀だからキムヨナは浅田真央に負けた」は内部に矛盾を抱えているのに対して)命題の内部に論理矛盾は含まれていないけれども、それは経験的事実に反する。而して、それは論理的にも間違いなのです。

すなわち、


「2010年3月3日現在のフランス国王(king)は男性である」という命題は、実は、

「2010年3月3日現在フランス国王(king)が少なくとも一人存在する」
「その国王(king)は男性である」
という二つの命題の結合であり、前者の命題が経験的事実と反するがゆえに、この命題は論理的にも「偽」であるのと同様、

「韓国人が日本人より優秀だからキムヨナは浅田真央に勝利した」という命題も、

「単一な属性を分有する韓国人なるものが存在する」
「単一の属性を分有する日本人なるものが存在する」
「韓国人として単一の属性を分有するキムヨナが日本人としての単一の属性を分有する浅田真央に勝利した」
「韓国人は日本人より優秀である」
という4個の命題の結合であり、而して、第1~第3の命題は経験的事実に反しており、よって、「韓国人が日本人より優秀だからキムヨナは浅田真央に勝利した」および「韓国人が日本人により姑息だからキムヨナは浅田真央に勝利した」という命題は論理的にも「偽」なのです。
   
 





■グノーシス主義の呪縛
蓋し、「キムヨナの勝利は韓国人の日本人に対する優秀さの証明ニダ」とか「キムヨナの勝利は韓国人の姑息さの証明だぁー」という日韓の言説は、論理的にも科学的にも実体のない「日本人」や「韓国人」を<キムヨナ>という記号で物象化する誤謬を犯している。それは、<鳩>が「平和」の象徴として使用されるにすぎないことを看過して、目の前の一羽の鳩を誰かが駆除すれば平和が脅かされる、あるいは、卒業式の日の丸掲揚を容認すれば軍靴の音が聞こえてくるという類の妄想とパラレルなのです。

而して、これら日韓の言説は、一種のグノーシス主義の色調を帯びた社会主義であり、それは(「give and take」ではない無条件の献身に価値を置く美意識)「愛国心」と親しい、①伝統に価値を置き、②伝統の恒常的な再構築を求めて、③漸進の前進を重ねる、④非教条主義たる、英米流の言葉の正確な意味での<保守主義>とは相容れないものであろうと思います。

この点で、カトリックの信仰を持ち、自国に対する燃えるような愛国心を抱き、他方、差別排外主義丸出しで他国の選手に対して下品な振る舞いを繰り返す自国ファンに対して厳しい姿勢を取るキムヨナ姫は、正真正銘の保守主義者であると私は考えています。ならば、グローバル化という名の資本主義が昂進する中で、人間の万能感に基盤を置く「左翼=リベラル派」が跋扈する現下の情勢を睨むとき、万国の保守主義者の連帯が不可避であるとすれば、私は迷わずキムヨナ姫を同志として歓迎したいと考えます。

グノーシス主義とは何か
グノーシス主義は、キリスト教内部のグノーシス主義としては所謂「三位一体」の教義形成の触媒の役割を果たし、他方、世界観としては中世の錬金術の基盤とされていますが、1966年にイタリアで開催された「グノーシス主義の起源に関する国際学会」で集約された定義によれば、それは以下の通り、

●グノーシス主義
・反宇宙論からの二元論的「宇宙観-世界観」
・人間存在の内部に「至高神」に起因する「本来的自己」が存在するという確信
・人間に自己の本質を認識させる救済啓示者の存在の確信
    

つまり、この世は邪悪な(能力不足の)創造主が作った不出来な世界であるが、この世界の究極には全知全能の「至高神」があり、結局、人間存在を含む宇宙と世界のすべては遍くその「至高神」の力が及んでいる。そして、人間の内部にも僅かながら「至高神」に起因する「本来的自己」が存在しており、而して、人間はその「本来的自己」を認知(グノーシス)することで「至高神」と一体になることができるのだけれども、「至高神」は、その認知を促し導くために「救済啓示者」をこの世に使わす、と。

畢竟、この構図に、「日本/韓国」との不愉快な関係の存在、「韓国人/日本人」の本来的優秀さ、そして、「キムヨナ/浅田真央」の存在を当てはめるならば、日韓の「キムヨナ言説」は、正に、グノーシス主義とパラレルであることは自明でしょう。而して、それが「不愉快な現下の歴史段階」「人間の万能性」「マルクス」を三点セットする社会主義とも極めて近いことも。ならば、保守主義を信奉する我々は、このような日韓の妄説を厳しく批判すべきである。と、そう私は考えています。



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