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憲法の無知が露呈した毎日新聞の「首相の靖国参拝訴訟」紹介記事(上)

2014年01月21日 09時43分40秒 | 日々感じたこととか



些か、旧聞に属しますが毎日新聞のある記事を俎上に載せたいと思います。
それは憲法の「政教分離」原則と「首相の靖国神社参拝」の関わりを論じたもの。
これです。

▽首相靖国参拝:「小泉参拝」は違憲判決・・・過去の司法判断

首相による靖国神社参拝は、国家による宗教的活動を禁じた憲法の「政教分離」原則に違反するとの指摘がある。戦没者遺族らが参拝で精神的苦痛を受けたとして国や首相に損害賠償などを求めた訴訟では、地裁や高裁で「違憲」判断が示されたケースもあり、今回の安倍首相の参拝に対しても提訴を検討しているグループがある。

1985年8月に中曽根康弘首相(当時)が参拝した際には、遺族らが各地で提訴した。賠償請求は棄却されたものの92年2月に福岡高裁が、同7月には大阪高裁が「違憲の疑いがある」と言及した。遺族側は上告せず、判決は確定した。

2001年8月の小泉純一郎首相(同)の参拝でも04年4月に福岡地裁が、05年9月には大阪高裁が「違憲」と断じ、いずれも確定した。最高裁は06年6月、歴代首相の靖国参拝を巡る初の判決を言い渡したが、憲法判断は示さず「参拝で原告の法律上の権利や利益が侵害されたとは認められない」と遺族側の請求を退けている。

小泉氏の参拝で国を訴えた原告団事務局長で僧侶の菱木政晴さん(63)は「参拝が合憲とされた例は一つもないのに首相が参拝に踏み切ったことに強い怒りを覚える。準備が整えば提訴したい」と語った。【川名壮志】


(毎日新聞・2013年12月27日00時48分(最終更新12月27日02時02分)


実は、この記事タイトルはちょうど帰省中の福岡県大牟田市で配達された朝刊では「合憲の司法判断なし」となっていて、つまり、最終更新までの1時間14分の間にこう変わったらしい代物。でもね、この変更、気持ちはわかるけど(笑)、憲法論的には「焼け石に水」もしくは「頭隠して尻隠さず」の類の悪足掻きじゃないかい、鴨です。

首相靖国参拝:合憲の司法判断なし
 ↓  ↓    ↓  ↓
首相靖国参拝:「小泉参拝」は違憲判決・・・過去の司法判断



なぜそう言えるのか。蓋し、(Ⅰ)「合憲の司法判断」は確かにないのだけれど、逆に言えば、「違憲の司法判断」も存在しないということ。より重要なことは、(Ⅱ)「合憲の司法判断」が存在しないということは--「首相の靖国神社参拝」は憲法的には<灰色>のかなりいかがわしいものであり、よって、首相には憲法尊重義務(占領憲法99条)が課せられていることを鑑み、かつ、憲法の精神を尊重しようとするのならば、首相は政治外交的配慮からのみならず憲法論的にも靖国神社には参拝すべきではない、などの憲法論の用語を散りばめた反日リベラルの戯言的の帰結とは真逆に--、「首相の靖国神社参拝」は合憲・違憲の司法審査自体が容喙できない類の事象であり、よって、首相にも信教の自由(占領憲法20条1項)が認められないはずはないことを鑑みれば、首相が政治外交的熟慮を踏まえた上で靖国神社に参拝することは憲法論的には毫も否定されることではないこと。

この2点を毎日新聞の記事は理解できていないのだと思います。本稿の結論を先取りして、比喩を用いて(Ⅰ)(Ⅱ)を敷衍しておけば次の通り。ちなみに、(零)が毎日新聞の論理、而して、「合憲の司法判断」が存在しないことは、実は、(零)ではなく、単に(壱)(弐)の事柄にすぎないことを指摘するのが本稿の考察です。

(零)女性棋士は女流ではないプロ棋士の順位戦で1勝もしたことはない
(壱)大相撲で女性力士は今まで1勝もしていない、逆に、1敗もしていないけれど
(弐)幕下力士で幕の内最高優勝をした力士は存在しない


б(≧◇≦)ノ ・・・プロ棋士まで、四段までもう一息だ!
б(≧◇≦)ノ ・・・頑張れ! 出雲の稲妻、里見香奈三段!


この比喩によって、実は、この(Ⅰ)(Ⅱ)の両者が論理的には、首相の靖国神社参拝が占領憲法においてもなんら問題のないことを帰結する上での--繰り返しになりますが、より、厳密に言えば、首相の靖国神社参拝は占領憲法においても司法審査権限の<射程外>の事柄であることを帰結する上での--(Ⅰ)十分条件と(Ⅱ)必要条件の関係にあることが了解いただける、鴨。畢竟、毎日新聞の記者にとって憲法論など「猫に小判」とまでは言わないけれど「ネコに風船」くらいのものではある、鴨とも。

(十分条件)前田敦子さんはチームAに所属していた
(必要条件)チームAはAKB48を構成するチームの一つである
(帰結論証)前田敦子さんはAKB48の卒業生である

(十分条件)首相の靖国神社参拝に関しては合憲判決は--違憲判決も--ない
(必要条件)首相の靖国神社参拝は司法審査権限の<射程外>の事象である
(帰結論証)首相の靖国神社参拝は占領憲法においてもなんら問題はない



毎日新聞の記事中の表現、「国家による宗教的活動を禁じた」という「政教分離」原則に関する理解は間違いです。なぜならば、同原則とは、(α)国教樹立の禁止、および、宗教・宗派に関わらず<教会組織>と国家権力の分離を中核的内容とする、(β)社会的儀礼または習俗的行為の範囲を超える、かつ、その超えることに「目的・効果・過度の関わり合い」が認められるような国家権力の行為は許されないという原則にすぎないから。しかし、「政教分離」自体については下記拙稿をご参照いただくとして、本稿は上記(Ⅰ)(Ⅱ)について些か詳しく検討したいと思います。


・国家神道は政教分離原則に言う<宗教>ではない
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11637953341.html


・首相の靖国神社参拝を巡る憲法解釈論と憲法基礎論(1)~(5)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11144005619.html

・憲法訴訟を巡る日米の貧困と豊饒
 ☆「忠誠の誓い」合憲判決-リベラル派の妄想に常識の鉄槌(1)~(6)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/ec85f638d02c32311e83d3bcb3b6e714





◆合憲判決-判決理由と傍論-

私の主張、(Ⅰ)「「合憲の司法判断」は存在しない、逆に言えば、「違憲の司法判断」も存在しない」という主張を一読された方の中にはそれこそ、毎日新聞の記事にも「1985年8月に中曽根康弘首相(当時)が参拝した際には、92年2月に福岡高裁が、同7月には大阪高裁が「違憲の疑いがある」と言及した。判決は確定した。2001年8月の小泉純一郎首相(同)の参拝でも04年4月に福岡地裁が、05年9月には大阪高裁が「違憲」と断じ、いずれも確定した」と書かれているんですけどぉー、と思われた向きもあるかもしれません。

けれど、これら4件の判決はすべて原告敗訴、参拝した首相側の勝訴の判断が下されたもの。畢竟、判決の主文を導き出す「判決理由」に影響しない「傍論」でいかに「違憲の疑いがある」と言及しようが「違憲」と断じようがそれは、法的には判決文のインクの紙魚、もしくは、判決文に混入したアジビラにすぎないのです。

畢竟、--確かに、漸次それが緩やかになってきているとはいえ、厳格な「先例拘束性の原理」(doctrine of stare decisis)が支配する英米法と、必ずしもそうではない日本の法(民事訴訟法312条、但し、刑事訴訟法405条2号及び3号)とは異なるにせよ--ある判決で将来の判決にとっての<先例>となりうるのは、よって、ある判決の中で法的ルールとなりうるのは独り判決の主文を導き出す「判決理由」(ratio decidendi)だけであり、判決文のそれ以外の部分は「傍論」(obiter dictum)であり、それは先例でもなく法的ルールでもない単なるインクの紙魚にすぎないと言うべきなのです。

そうでなければ、--社会の諸問題を政治的かつ一般的に将来に向けて解決するのではなく--社会に生起した具体的な紛争案件を法的に事後的に解決することが「司法の事物の本性」であることを鑑みるとき、傍論に法的権威を認めることは司法に立法および行政の権限も一部委ねるがごとき事態になりかねないでしょう。

そうでなければ、例えば、民事訴訟における判決の既判力--ある判決が解決する紛争案件の輪郭を曖昧にすることになり、逆に、確定判決の帯びる社会的権威と効果--の法的根拠自体が崩壊するだろうし、他方、訴因--検察官が起訴状に記した犯罪行為の内容--を訴訟対象とする現行のより当事者主義的な刑事訴訟の構造に反して、「神のみぞ知る犯罪事件の真実」なるものと地続きの公訴事実を--現行の訴訟対象論では、二重の危険の防波堤であり、かつ、訴因変更の限界確定のための道具的概念にすぎない公訴事実を--甦らせてより職権主義的な旧刑事訴訟法下の訴訟構造を復活させる事態にもなりかねない。大袈裟ではなく、傍論を根拠に首相の靖国神社参拝の「違憲判決」なるものを認める議論は、三権分立の原則に反する、かつ、司法の権威を掘り崩しかねない暴論。傍論の暴論化の主張である。と、私はそう考えます。



この点に関しては、しばしば、アメリカの司法審査においても「偉大なる反対者」(Great Dissenter)と称賛されるホームズ裁判官(連邦最高裁裁判官在任:1902-1932)の如く--判決の主文を導き出したのではない点では「傍論」とパラレルな「反対意見」を数多書いたのだけれども--後にその「反対意見」の線で連邦最高裁の少なくない憲法解釈が変更された例があるではないかとかの反論が寄せらる。しかし、

(甲)連邦最高裁のみならずすべからくアメリカの判決には、制度上かつ慣習上、判決の主文を導き出す法廷意見(opinion of the court)の他に、法廷意見が導き出した判決の主文とは異なる結論や異なる理路を提示する反対意見(dissenting opinion)も記載されることになっているのに対して、日本では、最高裁の判決を除きそのようなことは許されないこと(裁判所法75条1項及び2項、同11条)、つまり、日本の下級審の傍論は法廷意見が導き出した判決の主文とは無関係な内容を法廷の多数派自身が恣意的かつ趣味的、あるいは、政治的に展開したものにすぎないこと。

加之、(乙)社会学的あるいは憲法解釈史的に見れば、ホームズの偉大なる反対意見はその死後5年を待たずして連邦最高裁の憲法解釈を席捲したことは事実。けれども、逆に言えば、契約自由の原則の制限や所有権の制約、あるいは、州に対する連邦権限の蚕食拡大という「近代法から現代法」へ転換する方向で連邦最高裁がその憲法解釈を変更するまでは偉大なるホームズ裁判官の反対意見と雖も法的には膨大な単なるインクの紙魚にすぎなかったこと。

これらを想起すれば、社会学的あるいは憲法解釈史的に見ても最高裁の司法審査に毫も影響を与えなかった、92年2月の福岡高裁、同7月の大阪高裁、04年4月の福岡地裁、そして、05年9月の大阪高裁の判決の傍論はインクの紙魚である。また、それが原告敗訴の判決であり、現行法上「訴えの利益」が認められず、その傍論の荒唐無稽さを上級審、就中、最高裁で被告の首相側が争う道を閉ざす姑息な判決なのだから、それらの傍論の<インクの紙魚>の度合いや<アジビラの混入>の度合いは、最早、立法による傍論制約が必要な域に達しているの、鴨。

いずれにせよ、少なくとも、首相の靖国神社参拝に関して「合憲の司法判断」は確かに存在しないけれど、逆に言えば、「違憲の司法判断」も存在していないということは間違いないだろう。而して、毎日新聞の記事は、判決理由と傍論の逆立ちした認識の上に立って書かれた憲法判例紹介である。と、そう私は考えます。





<続く>





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