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アーカイブ☆辺見庸の公教育観 - 続・辺見庸は変だよう♪

2006年12月21日 13時45分13秒 | 書評のコーナー


■はじめに
凄まじい文章を読んだ。辺見さんの「反時代のパンセ 歴史と公正(6)」(『サンデー毎日』2002年11月7日号所収)だ。そこには「辺見さんの公教育観」が展開されており、辺見さんは小学校の通知表問題に言及しておられた。例の、福岡市の通知表に盛り込まれた「国を愛する心情」と「日本人としての自覚」という評価項目についてのエッセー。私は辺見さんの文章に違和を感じ憤りを禁じえなかった。論点は「国を愛することを公教育が子供達に強制することは許されるか」である。


<「反時代のパンセ 歴史と公正(6)」引用開始>
新聞報道によると、福岡市内の多くの小学校では六年生の通知表に「国を愛する心情」や「日本人としての自覚」をABCの三段階で評価する項目が本年度から盛り込まれているそうである。(中略)もう少し詳しくいうと、新設されたのは「わが国の歴史や伝統を大切にし国を愛する心情をもつとともに、平和を願う世界の中の日本人としての自覚をもとうとする」という六年生社会科の評価項目で、学期ごとに生徒たちに三段階の判定を下すという。教育現場ではまともな大人が見れば目をむくような不可思議な儀式や所行がしばしばなされているのだが、これもそのひとつであろう。(後略)

まずもってこの評価項目には納得のいく「定義」がない。いったいなにをもって「国を愛する心情」といい「日本人としての自覚」というのか。かりにそれなりの定義がなされたにせよ、それらは憲法第十九条にいう「思想および良心の自由」の領域に属するものであり、三段階評価はこれを侵す行為である。(中略)

「この国でものを書くとは、そう意識しようとするまいと、戦前、戦中の表現者らの途方もない背理と、どこか深いところで関係することを意味するのだ」(「新しい『ペン部隊』について」『新 私たちはどのような時代に生きているのか』所載 岩波書店)。「ものを書く」を「教育する」に、「表現者」を「教育者」に置きかえれば、私のいいたいことは足りる。忌むべき過去は終了していないのである。(中略)「国を愛する心情」や「日本人としての自覚」をあたかもこの国の新しい「公共的合意」でもあるかのように語り、あまつさえそれを人々に押しつけるのはとんでもないまちがいである。

当然のことながら、通知表の新設項目については在日コリアンの団体などから抗議の声があがり、訂正・削除を求める主張もなされた。(中略)この国には「日本人」だけが生きているわけではなく、コリアン、中国人、東南アジアの人々、ブラジル人らたくさんのの人種が住み、その子どもたちが教育を受けているのだから、主張には道理がある。ところが、小学校長会は訂正・削除には応じないことを決めたばかりか、それを求めた在日コリアンの団体には嫌がらせの電話やメールが殺到したという。(後略)

あまりにも情緒的な拉致報道がここでも排外主義の風を煽っている。一方では、中央教育審議会が教育基本法改定案に「愛国心」を盛りこむ中間報告を行い、自民党は来年の通常国会にこの改定案を上程することを検討しているという。在日外国人だけではない、思想的コスモポリタンにとっても、この国はとても住みにくい空間になりつつある。<以上引用終了>




■教育と愛国心
「愛国心」は教育のタブーであってはならない;公教育は愛国心教育を正面から受けとめるべき時期にきている、そう私は信じている。而して、上に引用した辺見さんの文章を検討する際の主題を私は、先述した如く「国を愛することを公教育が子供達に強制することは許されるか」と設定した。

私は引用文中で取り上げられている福岡市内の小学校の評価項目は、辺見さんに指摘されるまでもなく曖昧で、かつ、辺見さんとは異なり内容的には全然不足だと思っている。「愛国度」なり「日本人としてのアイデンティティー度」なりをもっと直截評価する項目が望ましいのではなか、と。蓋し、現在の「わが国の歴史や伝統を大切にし国を愛する心情を持つともに、平和を願う世界の中の日本人としての自覚」は、中途半端であり、少なくとも、「わが国の歴史と文化的伝統を大切にし、日本国民の一員としてそれらの歴史と文化と運命を共有する日本人としてのアイデンティティーを持ちながら、平和と正義の実現を願う世界の中の日本人として、それらの平和と正義の実現のために自分の得意な技と個性を通じて貢献しようとする姿勢」くらいの評価項目こそあらま欲しきかな、である。

畢竟、現在の福祉国家=積極国家体制における公教育とは、一方では、社会権的基本権の顕現であり、他方、主権国家の体制秩序を維持するためのイデオロギー注入の営為に他ならない。後者の経緯は事実であるだけでなく、何ら恥ずかしいことでも隠すべきことでもない。而して、この社会権的基本権の実現と「国民」イデオロギーの再生産は、終局的に、国家の国際競争力を維持発展させつつ世界の中で尊敬されるような明確かつ公正な行動パターンと規範を持つ国家と国民を再生産するに収斂する。実に、この経緯こそ教育をして一国の大業たらしめ、かつ、国家の重要な政策たらしめる所以である。

この政策目的のために所謂父母保護者の教育に関する自由権的基本権は一定程度制限され、国家が教育の大綱の決定とその実現の監督につき憲法的にも権限と責務とを保持するのである。尚、所謂教師の「教育の権利」や「教育の自由」なるものは大東亜戦争後の戦後民主主義が撒き散らかした贋金的な権利であり、それは、一般的な自由権を越える何らの具体的内容もまして特権をも教師に保障するものではない。

辺見さんはこう記す。「この評価項目には納得のいく「定義」がない。いったいなにをもって「国を愛する心情」といい「日本人としての自覚」というのか」、と。

上にも述べたように、この評価項目が曖昧であるとの指摘は正しい。その通りである。而して、私はこの評価項目の具体的な内容とは、日本人としてのアイデンティティーであり、それは、この固有の歴史と文化を形成する(否、特有の歴史と文化というピースによって構成されるジグソーパズルたる、)日本国の一員としての帰属意識でありプライドである。それはまた、そのような日本と日本人たる<私が>運命を共有しているという自覚であると思う。

これは私の主観的=我田引水的な定義の域を大きく出るものではなかろう。しかし、国家と国民の関係を論理的に考えた場合に私見はそれほど特異なものでもないと信ずる。さて、こう評価項目を捉えた場合に、教育的な評価として「国を愛する心情」や「日本人としての自覚」のレーティングが例えば、図画や工作、あるいは音楽や感想文のレーティングよりも特に難しいとは私には思えない。

辺見さんはまたこう記す。「かりにそれなりの定義がなされたにせよ、それらは憲法第十九条にいう「思想および良心の自由」の領域に属するものであり、三段階評価はこれを侵す行為である」、と。おいおいおいおい、辺見庸さん、あんさん本気(マジ)でっか? いいですか、自由権的基本権を憲法上の人権と位置づけている国家は、その国家や社会を否定する思想を諸個人が持つことを禁止することはできません。まして、個々人の内面に踏み込んでその思想を探知したり、探知した結果に基づいてある個人を不利益に扱うことは許されません。でもね、国家や社会を否定する思想や国家や社会を敵視する思想が行動に移された場合には、その行為の規制やその行為に基づく行為者への不利益な扱いは人権の制限要因(というか、人権の内容決定要因)となり得ます。これが憲法第19条(思想良心の自由)なり第21条(表現の自由)の意味するところである。

さて、国家権力が国民の統合をその重要な責務としているとするならば、教育において将来、国家や社会を否定したり敵視しない国民を再生産することはその責務の重要な内容であり、その責務の遂行に必要な範囲において国民=子供達の「愛国度」と「日本人としての自覚度」を把握し、教育=国民再生産営為の資料にすることはなんら憲法が禁止する所ではないと思う。

所詮、自由権的基本権としての教育権(父母や地域や教会や親族集団が元来保有していた教育権、)を諸個人から剥奪したのが近代国家の教育権なのだ。だから、進化論を否定する家庭や米国を帝国主義の悪の権化と見る家庭にとっては、今でも、理科や英語の評価自体、思想信条の自由の侵害なのだ。また、地域に根ざした方言を宝物のように感じる地域コミュニティティーにとっては、または、麗しい夫婦愛や温かい家族の紐帯に何ものにもまして高い価値を置く親族集団にとっては、国語や男女共同参画型社会化の提灯持ちを演ずる生活科の評価は公権力が行う思想抑圧以外の何ものでもないのである。辺見さん。国語や英語、理科や生活科の評価項目は憲法違犯なんですか? 


■外国人と愛国心教育
外国人を国内法秩序に統合することと外国人にその独自の文化の継承および母国へのアイデンティティーを保障することをいかに両立させるか。これが洋の東西を問わずまた時代を問わず外国人政策の要諦であった。この点、辺見さんはこう書かれる。「中央教育審議会が教育基本法改定案に「愛国心」を盛りこむ中間報告を行い、自民党は来年の通常国会にこの改定案を上程することを検討しているという。在日外国人だけではない、思想的コスモポリタンにとっても、この国はとても住みにくい空間になりつつある」、と。

現行憲法は国籍を問わず日本国憲法の効力範囲内にいる総ての人間に認められる権利と日本国民の権利を区別している。一般には、権利主体について「何人も」と書かれている条規が前者のタイプの人権を規定し、「すべて国民は/国民は」と記す条規は後者を規定すると説かれることもあったけれど、現在では、権利個々の内容によりヨリ緻密な分類が行われている。その分類の詳細については割愛するけれど、日本国憲法下の人権は日本国の主権の及ぶ範囲で効力を持つのであり、社会権的基本権や経済的自由権のみならず、多くの基本的人権の具体的内容は日本国の国力と日本国民の憲法意識および権利意識に定礎されて初めて確定することを忘れてはならないだろう。所謂天賦人権説は人権の根拠ではあるかもしれないが、人権の具体的内容や権利性(具体的な権利実現の蓋然性)の度合いを明らかにするようなタイプの根拠ではない。

さて、日本国民たる要件は法律で定められ(憲法第10条)、国家の主権や国家権力のあり方はその日本国民の意思によって定まる(憲法第1条および第15条)。而して、教育において日本国民としての権利と義務と責務を覚えさせ、片や、日本国民としてのアイデンティティーを教育を通して涵養することは、日本国を統合するために肝要な権力作用である。それは、日本国憲法が寧ろ要求しているものとさえ私は考える。

ならば、「中央教育審議会が教育基本法改定案に「愛国心」を盛りこむ中間報告を行い、自民党は来年の通常国会にこの改定案を上程することを検討しているという」、ことは憲法擁護の立場からは当然のことであり、寧ろ、遅きに失したとさえ言うべきであろう。

そして、「この国には「日本人」だけが生きているわけではなく、コリアン、中国人、東南アジアの人々、ブラジル人らたくさんの民族と人種が住み、その子どもたちが教育を受けているのだから、主張には道理がある」、との主張には何の道理もない。多くの外国人が住んでいることと当該国が国家としての一体性を具現すべく「国民イデオロギー」を教育を通じて子供達に注入することに何の矛盾があると言うのか? アメリカを見よ。ドイツを見よ。イギリスを見よ。フランスを見よ。そして、中国を見よ。世界の総ての国々で国家と国民の統合政策は不断の努力をもって油断なく推進されているではないか。アメリカの公立学校では外国人といえども<星条旗>に忠誠を誓いながら<星条旗よ永遠なれ>を唄っている♪

外国人を国内法秩序に統合することと外国人にその独自の文化の継承および母国へのアイデンティティーを保障することをいかに両立させるかが外国人政策の要諦である。私は教育における外国人政策とは、一方では外国籍の子供達にも日本社会への忠誠を誓う心性を育むことで彼等の日本社会への統合を進めつつ、同時に、当該出身/帰属国独自の文化の継承と当該国民としてのアイデンティティーの確保を保障することに尽きると考える。そして、これらは豪も矛盾することではない。

蓋し、在日外国人は一定程度の条件下で社会権的基本権としての教育を受ける権利を持ち(これはある意味、教育を受け産業予備軍となる義務であり、日本社会に統合される義務でもある。)、日本社会のメンバーとしてのプライドと帰属意識を育みながらも、外国人個々の自国の文化の継承と当該国国民としてのアイデンティティーを公教育においても可能な限り保障されるべきである。要は、外国人にも日本社会に忠誠を誓う義務があり、日本という国家と文化と歴史と運命を共有する意識を持つ日本人がその国家のあり方を決める権限がある社会に生きているという認識を持つ義務がある。日本人に、外国人に対して「日本を好きになれ」という権利がないのと同様に、外国人にも日本人が日本人としてのアイデンティティーや一体性を涵養することを邪魔するような権利は全くない。



■辺見庸的な「平和」と「愛国」と「コスモポリタン」の理解
辺見さんにおける「歴史」と「愛国心」には淫靡な関係がありはしないか。引用した記事の近辺で、柄谷さんの文章を引用した後、辺見さんはこう書いている。「忌むべき過去は終了していないのである。(中略)「国を愛する心情」や「日本人としての自覚」をあたかもこの国の新しい「公共的合意」でもあるかのように語り、あまつさえそれを人々に押しつけるのはとんでもないまちがいである」、と。この文章はおそらく辺見さんと同じような歴史や世界認識をされる方々にしか(例えば、高橋哲哉さんや梁石日さんにしか、)理解できない構造を持っている。

確かに、人類が生存し続ける限り、あるいは、ヘーゲルの言うような意味で歴史の終焉が訪れない限り、柄谷さんが言われるように「過去は少しも完了していない」のだろう。それは、E.・H・カーが語ったように「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との尽きることを知らぬ対話」であろうからである。

しかし、辺見さんの場合、「終了しない過去」は「忌むべき過去」に限定されている。それは、従軍慰安婦にされ強制連行された朝鮮人であり、南京で虐殺された中国人市民である。辺見さんの「終了しない過去」に何故に北朝鮮に拉致され殺害された日本人被害者は入らないのか。また、大東亜戦争前の半世紀、朝鮮の国土開発に貢献した日本人技術者は何故入らないのか。あるいは、日本海海戦で彼のバルチック艦隊を壊滅せしめた日本海軍の将兵や明治維新において回天の大業を成し遂げ、実質的に西欧列強の支配に組み込まれなかったアジアで唯一の<独立国日本>を現出せしめた維新期の日本人は何故辺見さんの「終了しない過去」の射程には入らないのか。その理由を柄谷さんの文章やオーソドックスな歴史哲学/歴史学方法論からは見出すことは私にはできない。

日本と日本人の豊潤豊穣な歴史から「忌むべき過去」を切り出し、自分の現状認識と未来予想、即ち、現状批判と自分がそうあって欲しいと願う未来のイメージを紡ぎ出す手法は恣意的である。それは淫靡でさえある。

何故ならば、それは目の前にどこまでも広がる草原の中の矮小なる窪地で自分と価値観と世界像を共有する者同士で執り行われる戯れの秘め事に過ぎないからである。こう書けば、「貴方は戦前の日本がやったことは悪いことばかりじゃなかったと言いたいのですね。そう思うことで、少しでも日本の戦争責任や戦後責任を軽減しようとしているんですね」というコメントを投げ返すのが、それら思想的な淫靡な秘め事で戯れたがる輩の常套手段である。敢えて言おう。「私がどのような意図でこのようなコメントを出すか否かなぞ貴殿にトヤカク言われる筋合いはない。ただ、事実として、過去の大部分は忌むべき過去ではないし、忌むべき過去が過去の中で最重要なものであるなどと言える根拠は全くないだけなのだ」、と。


本稿の最後に辺見さんの「コスモポリタン」の理解を吟味しておく。私は、コスモポリタンの心性とは獲得されるべきものであっても、制度的にお上から与えられるものではないと考える。辺見さんが使う「コスモポリタン」の用例に接するたびに私は素朴な疑問を感じた。辺見さん。一体、何処の国に自国民のコスモポリタン化を推進し奨励し応援する国があるんですか、と。

辺見さんが個人的に所謂コスモポリタン的な人物に興味を持たれるのは勝手だ。また、辺見さんのコメントが、嘘か真かなんか他人の私には知るすべもない。また、「コスモポリタンと居住地の移動はさほどに関係はない。むしろどれほどダイナミックに精神の旅をしているかが大事なのだ」というコメントには同意できる。ゆえに以下の吟味作業においては、取りあえず、「コスモポリタン」の定義として、柄谷さんの「あらゆる共同体に背立する単独者」を使うことにする。

辺見さんは柄谷さんのコスモポリタンの定義を受けてコスモポリタンにつきこう規定された。即ち、そのようなコスモポリタンは「どこまでも自由であろうとするからあらゆる共同体から「背立」するのである。真に人間的に自由であろうとするならば、国家による国民統合的な謳い文句のすべてを疑り、最後にはそれに多少なりとも背馳せざるをえないものだ」、と。

私はこの定義&規定と辺見さんの次の記述、「あまりにも情緒的な拉致報道がここでも排外主義の風を煽っている。一方では、中央教育審議会が教育基本法改定案に「愛国心」を盛りこむ中間報告を行い、自民党は来年の通常国会にこの改定案を上程することを検討しているという。在日外国人だけではない、思想的コスモポリタンにとっても、この国はとても住みにくい空間になりつつある」との関係がよく理解できない。総ての共同体から「背立」し「背馳」しようとする人物は、その思想的な覚悟と行動のパタンを自ら選び取るのではないのか。それは、自己責任をまっとうする覚悟であり、自己の内奥にある共同体の残滓を切り捨てる思想的営為を自ら引き受けることを意味しているのではないか。ならば、教育基本法が改定され「愛国心」が同法に盛り込まれようが盛り込まれまいが、そんなことはコスモポリタンには本来的に何の関係もない浮世の偶さかの風景なのではないか? この点に関する私の主張はシンプルである。蓋し、

(1)コスモポリタンとはコスモポリタン的の心性を持つ者のことである
(2)コスモポリタン的の心性は獲得されるべきものであって共同体から与えられるものではない
(3)どの国家も自国民をコスモポリタンに養成しようとすることはない
(4)コスモポリタンたる個人の居心地の良さや悪さはそれ単体では憲法上の権利にはならない
(5)「思想的コスモポリタンにとっても、この国はとても住みにくい空間になりつつある」との辺見さんのコメントは教育政策的には完全に無内容なものである、と。



コスモポリタンは「あらゆる共同体に背立する単独者」であるとしても、この定義から、「真に人間的に自由であろうとするならば、国家による国民統合的な謳い文句のすべてを疑り、最後にはそれに多少なりとも背馳せざるをえないものだ」という規定性が導き出されることはない。もちろん、コスモポリタンに関するこれらの定義と規定は私が勝手に結びつけた向きもあり、別にそれは辺見さんの論旨が可笑しいわけではない。でもね、そうなればコスモポリタンの規定性自体の説得力は雲散霧消してしまわないかい。アリストテレスが語ったように、人間が「社会的な(ポリス的な)動物」であるとするならば、総ての共同体に「背立」し「背馳」する生き方は少なくともナチュラルな生き方ではなかろうと私は思う。では、そのような特殊な生き方を「真に人間的に自由」なる状態と規定する根拠は何だろうか(私はそれは辺見さんの願望であり思い込みに過ぎないと理解しているのだけれど)? 

私は、コスモポリタン的な生き方とは、消費財も交換財も、簡単に言えば、衣食住にもお金にも取りあえず不自由していない、<えー、身分の人間>だけに許された特権的な生き方であると思う。よって、辺見さんの言葉「コスモポリタンと居住地の移動はさほどに関係はない。むしろどれほどダイナミックに精神の旅をしているかが大事なのだ」は私には極めて貴族主義的言辞に聞こえる。要は、政治難民が何カ国を移動しようとも彼等の多くはコスモポリタンさまにはなれない。政治難民の圧倒的多数は「ダイナミックな精神の旅」なんかしていられないだろうからである。それ所ではない。彼等は、寧ろ、非難先で自己解体に陥る潜在的恐怖からか自己のアイデンティティーの核心たる民族性を意識的に鼓舞する傾向さえあるのだ。蓋し、彼等政治難民とコスモポリタンさまの境界には黒くて深い淵がある。では、そのようなコスモポリタンさまとはそも何者か? 

私は、コスモポリタンを先進国の都市生活をするホワイトカラー(WUDC:White-collar of Urban area in Developed countries)の抱く自己幻想の一種に過ぎぬと思う。畢竟、コスモポリタンが辺見さんの願望であれWUDCの自己幻想の一種であれ、それが国家の統合を実現し国家の国際競争力を維持向上し、更に、尊敬される国としての尊厳を具現するための政策コングロマリットの一環としての愛国心教育を否定する思想的な根拠も射程をも持ちえないことは確実であろう。私はそう考える。


<出典=完全稿>平成14年11月09日, http://www31.ocn.ne.jp/~matsuo2000/E/E41.htm

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