・すべての個人や団体のすべての活動は政治性を帯びる
・公務員が一市民として政治にコミットする権利は最大限尊重されるべきだ
・公務員労組を排除する国家意志の形成は歪である
・公務員労組の歪な政治的影響力は排除されるべきである
・公務員労組と公務員の権利は無関係ではないが位相を異にする
上の二つの思考実験は、「公務員労組を排除してする国家意志の形成は歪である」ことと「公務員労組の歪な政治的影響力は排除されるべきである」ことが(トレードオフとまでは言えないけれども)アンビバレントな関係にあることを示唆していると思います。畢竟、公務員と公務員労組の政治的権利の制限を巡る憲法訴訟論において、妥当な審査基準と合憲判断基準が那辺にあるかは、正に、紛争当事者である各プレーヤー各々の人数や利用ニーズ、そして、影響力の占拠の度合という現実具体的な<ボリューム>からしか帰納できない類の事柄であろうと思います。
最後の「公務員労組と公務員の権利は無関係ではないが位相を異にする」ことは、それらに自然人と法人の違いがあるだけでなく、公務員労組が極めて大きな社会的影響力を保持していることから演繹できるのではないでしょうか。
企業の政治活動の権利を認めた八幡製鉄所政治献金事件最高裁大法廷判決(1970年6月24日)、そして、労働組合の政治活動の権利を一定限度で認めた諸判決、例えば、沢の町モータープール事件最高裁判決(1962年5月24日);三井美唄労組事件最高裁大法廷判決(1968年12月4日);中里鉱業所事件最高裁判決(1969年5月2日);国労広島地本事件最高裁判決(1975年11月28日)を勘案すれば、蓋し、
労組が政治活動を行うことは、企業等々の私的な団体一般に認められているのと同様、必ずしも禁止されるわけではないが、さりとて、労組の政治活動を専ら目的とした活動は憲法が保障する「労働組合」の正当な活動の範囲外の事柄である
とする立場に判例はあると言えると思います。更に、同一の構成要件に該当する犯罪事実を惹起したとしても(特に、累犯の場合)組織犯罪を常套する団体(例えば、任侠系団体や神農系団体)の構成員と一般の実行行為者では求刑にも宣告刑にもあからさまな差があること。これと同様、(公務員労組の影響力の過半は、公的な資金とインフラによって可能になっていることを鑑みるならば)公務員労組の政治的影響力によって政治が歪められることを防止することは現行憲法上も可能であるだけでなく、むしろ、国民主権の原則を採用する現行憲法の要請でさえある。と、そう私は考えます。
■憲法における公務員と公務員労組の政治活動の内容
アメリカ連邦最高裁は、2010年1月21日、「企業・団体等が政治広告に資金を支出することを制限した政治資金規制法」を政治的表現の自由を不当に制限するものだとして違憲判決を下しました。ご存知のように、アメリカでは、原則、企業等自体からの政治献金は禁止されていますが、企業等がその分離基金(Separate Segregated Fund:企業等が間接的に寄附を行うための組織)を通して政治献金をすることは許されています。これを形式的な「お芝居」のような方便と感じる向きもあるでしょうが、法的な筋を通すことと、「すべての個人や団体のすべての活動は政治性を帯びる」という実存的な現実とを両立する智恵ではないかと思います。
すなわち、
企業や労組が政治活動にコミットする方途を確保する一方で、企業や労組がその本分(存在理由)を政治にコミットすることで喪失することのないように、また、企業や労組の影響力によって政治が歪められることがないように、企業・労組の活動と政治活動に一線を引かしめて、かつ、「企業・労組⇔政治セクター」の人・物・金の出入りを可視化すること
これが、健全な保守主義が根づくアメリカの智恵なのだと私は考えています。而して、これが「公務員と公務員労組の政治活動の範囲」に関する現行憲法の内容を抽出する導きの糸になるの、鴨。
ならば、繰り返しになりますが、私は「公務員と公務員労組の政治活動の範囲」に関する現行憲法の規範内容を希求するとき、問題は両面性を持っていると考えるのです。
すなわち、
(甲)公務員と公務員労組の政治活動の必然性と不可避性
行政権(というか行政サービス部面)が肥大化した現在の福祉国家の大衆民主主義体制下では、誰のどんな行為も<政治性>を帯びる、他方、地方・国・第三セクターを併せて労働人口の公務員比率が優に10%を超える(また、一般・特別・財投を合わせればGDP比の公的支出が50%近い)日本で、公務員の政治活動を認めないということは抽象的な「国民概念=非公務員概念」で現実には1-2割の国民の政治参加を縛るに等しい。
(乙)公務員労組の影響力制限の必要性と不可欠性
組織犯罪が個人の犯罪とは別枠で処理されているのと同様、極めて巨大な公務員労組に、政治的活動のフリーハンドを与えてよいのか。それは、逆に、「国民の政治活動の自由」を錦の御旗にして、実は、かなり特殊な利害単位が政治を歪めることにならないか。しかも、その団体の影響力が公的サービスに付随する物である以上、そこには線引きがなされなければならない。
蓋し、今回の赤旗配布事件で、1974年の猿払事件最高裁大法廷判決を踏襲して「行政の中立性確保のため、公務員の政治的行為の禁止が合理的で必要やむを得ない限度内で憲法上許される」「被告は特定政党を積極支援し、政治的中立性を著しく損ねた」として有罪を言い渡した一審判決も、他方、(繰り返しになりますが)「表現の自由は民主主義国家の政治的基盤を根元から支えるもので、公務員の政治的中立性を損なう恐れのある政治的行為を禁止することは、範囲や方法が合理的で必要やむを得ない程度にとどまる限り、憲法が許容する。規制目的は国民の信頼確保で、判断で最も重要なのは国民の法意識であり、時代や政治、社会の変動によって変容する。・・・ただし集団的、組織的な場合は別論である」と判示した今次の東京高裁の判決も、その結論は異にしつつも、同じく上記(甲)(乙)を見据えた判断と言えると思います。
ならば、郵便局に勤める全逓組合員が社会党(当時)候補の選挙運動を行った行為が国家公務員法違反に当たるとして有罪判決を言い渡した1974年の猿払事件最高裁大法廷判決以降、最高裁・下級審を問わず、公務員の政治活動を巡ってはこの猿払事件判決における判断が踏襲されてきたこと。
更に、産経新聞が指摘する通り、国家公務員法・人事院規則の法の趣旨が「公務員の地位や職種」に関わらず一律の規制を妥当とするものである以上(尚、地方公務員法や教育公務員法においては、「地方公務員≒自治労組合員」や「地方の公立学校教師≒日教組・全教組合員」の違法な政治活動に対する罰則規定はないにしても、それらの違法行為に対しては石原東京都知事が綱紀粛正の範を示された如く(北教組を除けばほぼ)行政処分が科されているのだから)、正に、産経新聞社説が述べている「今回の判決が公務員全体の職場規律などに与える影響が懸念される。上告審での適正な判断を待ちたい」という主張も根拠がないわけではないのです。
実際、「公務員の地位や職種」に着目した多様な規制が法技術的には「言うは易く行なうは難い」類の事柄であることを鑑みれば(再々になりますが、公務員の政治活動が無制限に認められて良いはずもない以上)、他方、労使双方にとって(何をどれくらい激しく政治活動を行なえば違法とされるかが予め社会的に認識されている状態としての)「法的安定性=予見可能性」の確保という法価値が、満更、現実の「学校経営=労働運動圏」においても枝葉抹消のものなどではないだろうこと。否、理想と現実が常にせめぎ合う現場でこそ法的安定性はかなり大事な価値であることを前提にすれば、赤旗配布事件の(もちろん、憲法理論としては高裁判決が優れていることは大方の同意を得られるにせよ)第一審と高裁のいずれが憲法訴訟に対する<具体的ソリューション>としては中庸を得たものであるかは微妙である。と、そう私は考えています。
而して、これらを前提にすれば、(その影響力が公的インフラと法的権限に起因する)公務員労組の活動は政党に対する資金提供と政策提言にほぼ限定されるべきであり、まして、公務員たる組合員を統制して、その職場に政治活動を持ち込ませることは原則禁止されるべきだ。畢竟、公務員労組はその政治参加は厳しく制限されるべきである。蓋し、労働組合は労働運動にその本分がある。しかし、このことは公務員が個人の資格で勤務時間外に(off duty)、職務遂行中の政治的中立性を「一般市民=非公務員」から疑われない限度で政治にコミットする権利が保障されるべきこととは位相を異にしている。
ならば、公務員労組の政治活動を制限する立法に対する憲法訴訟は、社会的規制と同様、審査基準において合憲性の推定を受けるタイプの事例であり、その合憲性判断基準もまた、国民主権の原則を鑑みるならば、明白性の原則(合理性の基準)が適用されてしかるべきだ。と、そう私は考えています。
蓋し、かなり悩ましいケースではあるけれど、(α)公務員の政治活動の規制の是非が問われた赤旗配布事件に関しては一審被告人の無罪が、そして、(β)公務員労組の政治活動の規制の是非が問われるであろう小林代議士に絡んだ北教組違法献金事件に関しては、それを厳罰に処する判断が、おそらく、現行憲法の規範意味に適うものではなかろうか。と、私はそう考えます。
■参考記事
●憲法訴訟
・外国人地方選挙権を巡る憲法基礎論覚書(壱)~(九)
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11142944811.html
・憲法訴訟を巡る日米の貧困と豊饒☆「忠誠の誓い」合憲判決
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/ec85f638d02c32311e83d3bcb3b6e714
●憲法総論-憲法の概念
・憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)~(下)
・憲法と常識(上)(下)
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/d99fdb3e448ba7c20746511002d14171
●憲法総論-憲法の価値
・戦後民主主義的国家論の打破
☆国民国家と民族国家の二項対立的図式を嗤う(上)~(下)
http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65344522.html
そして、
-憲法学の再構築と占領憲法の破棄・改正を求めて
要は、プラス作用に伴うマイナス作用の同時存在のように、権利の保障は同時に権利を行使する者、国民間における相互の行為責任のあることを指摘しておかないといけない時代になったと思います。
日教組教育が児童の正確な知識の習得の権利を政治思想によって侵害しているのは正にその一例に思えます。
また、労組裁判の限界は、労組の定義、行為責任の範疇などを見直さない限り、解決されない様な気がします。
労組そのものが前時代的な定義で理解されているが故の問題であり、労組のロビイスト能力を考えると、いわゆる法人組織に相応する規制、例えば資金管理に対する公的監査等があってしかるべきでしょう。
法律家や司法関係者が、法学の世界に閉じこもっているが故に、地方参政権許容説が出てきたように、法が法学の範疇内でのみ取り扱われる限り、法律が国を滅ぼすことにもなりかねないと危惧するものです。