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日本再生の鍵は公教育からの日本の解放である

2006年02月16日 17時54分18秒 | 教育の話題

 

 


公教育を公立学校が行う初等中等教育およびそれを土台とした高等教育のシステムと捉えた場合、公教育は破綻しており、よって、日本の再生の鍵は教育改革であるという認識に立ってこの記事は書かれています。

而して、日本の公教育はなぜ駄目になったのか:国民の教育を最早公教育には任せられないと多くの国民が考えている理由は何か:逆に、機能不全に陥っている公教育がなぜいまだに続いているのか、すなわち、少なくとも子供達の学力増進の部面では塾・予備校に教育セクターとしての機能も信頼も奪われて久しい公教育がなぜ消滅しないのかを論じたいと思います。

尚、私の主張は戦後の<教育法学の蓄積なるもの>を踏まえてなされたものです。日本の公教育に対する私の基本的考えについては下記拙稿を参照いただければ幸いです(特に、三番目のものは、少し古いけれど も、現在の公教育がいかにその政策目的とも目標とも乖離しているのかを概観したものであり、是非、参照をお願いしたいと思います)。

・民主党政権下に<教育>を論じた記事-なぜかリンク復旧できないので目次にしました♪
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/c2f654273721efc004ac4e2ed519c89b

・防衛省Mag☆MAMOR:特集「英語力を装備する自衛隊」--英語好きにはお薦めだったりする
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/2377f54478cd51ab00abbce530bf67f6

・砂上楼閣のゆとり教育と総合学習の蹉跌
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-244.html

・ゆとり教育路線の前提と誤解
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11182604980.html

・学力低下と教育力の偏低迷(上)~(下)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/a3279f8638253efa3e952ce242e19cb2



◆公教育の機能
日本の公教育はなぜ駄目なのか/なぜ駄目になったのか? しかるに、なぜそれはいまだに消滅しないのか? いささか面倒でも「急がば廻れ」式に、公教育の機能:公教育はどのような能力を子供達に身につけさせることをその使命としているのかについて整理しておくことがこのことを考えるためには有効だと思う。議論を<空中戦>にしないためにも、最初に公教育の機能を整理しておこうということです。では、公教育が社会から期待されている役割は何か? 

それは第一に、子供達をこの社会の中で独立自存せしめること:自らの力で喰っていけるような労働力商品に子供達をすることでしょう。少なくとも、労働力市場で「市場価値」を持つための前提となる知識・スキルを子供達に身につけさせることです。

次に、この社会の秩序を保つべく子供達に社会生活のルール(=礼儀作法と社会のルール)を叩き込むことであり、第三に、日本の文化と歴史と伝統に自己のアイデンティティの基盤を置く、また、そのことを自己のプライドの中核とする日本人や日本市民(=日本に永住する外国人)を再生産することを通して、日本人と日本市民をして近代主権国家日本への統合を維持強化することにあるのではないでしょうか。

●公教育の機能:
・社会権的基本権の保障
・社会の治安の維持強化
・国民国家統合の維持強化


公教育機能の真髄は、この日本社会の一員である日本人や日本市民として堂々と(=自分の好きな領域で自分の得意な技を発揮することで)自活していけるための<生きる力の基礎>を子供達に与えることである。

これに対して、「子どもたちの学ぶ権利」「生き生きと伸び伸びと発達する権利」の保障を公教育の機能と考える論者もおられます。これらの権利が(まして、その具体的な規範意味が)現行憲法から一義的に演繹できないことは自明であるにせよ、公教育の内容を憲法に適合させるための補助線としては必ずしも無意味ではないでしょう。しかし、子供を教育する責務と権限、権利と義務は本来保護者にあるはずであり、その責務を国家が肩代わりする理由、逆に言えば、その権利や権限を国家が保護者から召し上げることに他ならない公教育の制度を想起するとき、公教育制度の根拠は、社会的なものであり国家的なものでなければならないのではないでしょうか。

ならば、(1)教育の権利と義務を定める現行憲法26条が、社会権的基本権を記した一群の条規(25条・生存権、27条・勤労の権利と義務、28条・労働基本権)の中に配置されていること。(2)教育の機会均等を憲法14条(=平等条項)から導き出すことはそれほど難しくないこと、(3)更には、1976年の旭川学力テスト事件最高裁判決(★)は国家の教育権を確認しており、同判決がこの争点に関するリーディングケースとして現在に至っていることを鑑みれば、公教育の機能に関する私の主張も満更根拠のないものではないと思います。

★註:旭川学力テスト事件最高裁判所大法廷判決
「一般に社会公共的な問題について国民全体の意思を組織的に決定、実現すべき立場にある国は、国政の一部として広く適切な教育政策を樹立、実施すべく、また、しうる者として、憲法上は、あるいは子ども自身の利益の擁護のため、あるいは子どもの成長に対する社会公共の利益と関心にこたえるため、必要かつ相当と認められる範囲において、教育内容についてもこれを決定する権能を有するものと解さざるをえ」ない。(昭和51年5月21日)


◆公教育崩壊の構図
明治5年(1872年)学制公布。同19年(1886年)保護者の就学義務を謳う小学校令公布、そして、地方自治体の学校設置義務が導入され強制力が数段強化された第2小学校令が公布されたのが明治23年(1890年)。ここに至って義務教育制度は法学的にも社会学的にも確立しました。すなわち、家庭にとって貴重な労働力でもある子供達を学校に囲い込むという、見方によっては、家庭の生計への介入も持さない公教育制度がわが国で始まって116年。以来、富国強兵の時代も高度成長期も公教育はわが国の独立と繁栄の生命線でした。

江戸期以来の<寺子屋制度>の蓄積もあり、20世紀初頭の段階においてわが国の初等教育の就学率はほぼ100%(明治42年=1909年の義務教育就学率は98%)、そして中等教育の進学率も日本は12%に達し英国の4%を遥かに上回ったのです(明治45年=1912年)。畢竟、大正期直前の段階で既に日本の公教育はアジア・アフリカ諸国はもとより欧米諸国を遥かに凌駕していた。正に、公教育は日本の国際的競争力の源泉であり、それは日本の制度インフラに他ならなかった。

では、その虎の子の公教育はなぜに破綻したのか? どのようにして公教育は現下の日本の<不良資産>に堕したのか? その原因は、大東亜戦争後の戦後民主主義が撒き散らした害毒ではないでしょうか。しかし、戦後民主主義がその毒素を日本社会に行き渡らせるには幾つかの条件が作用したと思われる。その条件とは下記の3個。

・公教育が提供する知識・スキル・思想のすべての面で、サービス供給側よりも需要側が優位になったこと

・公教育が提供する知識・スキル・思想のすべての面で、社会で独立自存していくために必要な水準が上昇し公教育程度では「焼け石に水」状態になったこと

・戦前の立派な教育を受けられた世代が、年齢的にバブル期前後に社会の第一線から退場されたこと:それにともない、公教育の学校現場で提供される戦後民主主義的な情報を家庭内や地域内で相対化することが困難になったこと


昨年10月に内閣府が発表した「学校制度に関する保護者アンケート」では約7割の保護者が子供の学力向上のためには「塾・予備校の方が優れている」と回答したというけれど、1979年1月の共通一次試験導入を分水嶺とする予備校の活況、また、臨時教育審議会路線が定着する1980年代後半から学校現場に<ゆとり教育>が正式導入される2002年の15年余りの間に定着した学習塾の準制度化は、教育のほとんど唯一の供給者としての公教育を市場の単なる1プレーヤーに変えてしまいました。

簡単な話しです。『三丁目の夕日』の世界。昭和30年代の日本の大多数の家庭では、カレーライスに入っている肉は鶏肉だった。鳥インフルエンザが当時はなかったからか? そんなことはないです。牛や豚という四足の動物を食べる習慣がまだ日本にはなかったからか? 馬鹿な! それは、日本がまだ貧しかったからであり、同じことですけれども、廉価なビーフやポークは一般消費者がアクセスできる流通経路にはまだまだ乗らなかったからです。だから、自分の家で飼っている鶏やご近所からいただいた鶏をつぶしてカレーに入れたのであり、他方、デパートの食堂で食べる牛肉入りのカレーはご馳走。まして、久しぶりに家族全員で鍋をつつくすき焼きは子供達の最高の記憶の一部になったのです。

昭和40年代後半までの公教育の希少性やその価値はこれと同様に高かった。そして、現在の公教育の陳腐さは、「僕は牛はもういいからお肉は盛らないでね」「ダイエットしてるんだから牛じゃなく鳥か豚にしてよ、お母さん」という現在の家庭で話される会話とパラレルでしょう。

また、労働力商品に求められる教育水準の向上。蓋し、グローバル化の進行にともない、企業が労働力に求める学力は現在では国際水準にリンクせざるを得ず、10年前や15年前のように、高校や大学の入学試験が象徴していた潜在的な頭のよさや努力を継続できる資質などの(これはこれで極めて大切ではありますが)曖昧な<能力>だけでは企業は人員の採用ができなくなりつつある。

実際、英語ができることを自分のアセットにしたい大学新卒求職者は、(スコアに限っても)現在では最低でもTOEIC900点台が必要と思います。これは10年前や15年前に比べて150点とは言わないけれどハードルが100点近く上がったことになる。そして、普通の生徒が大学3年次にTOEIC900点を取得できる英語の基礎力を公教育が養成することが難しいことはいうまでもないでしょう。

最後の点に関しては、各自、大東亜戦争の終結時に20歳だった青年が1990年には何歳になっていたのかを計算していただければ十分だと思います。正に、ルーズソックスの蔓延(1993年)は、バブル崩壊を画する現象であったと同時に、この社会を支えてきた公教育葬送のパレードだったのです。


◆公教育崩壊の様相
塾・予備校と公立学校は何が違うのか? 「日本の<不良資産>に堕した公教育がなぜいまだに消滅しないか」とこの問いは実は同じものです。

公教育の本当のパフォーマンスがどうであれ(=実際には、公教育が塾や予備校よりも高い教育効果を達成しているとしても)、保護者の7割が「子供の学力向上のためには塾・予備校の方が優れている」と回答する現状でなぜ公教育は<市場>から退場させられないのか? 簡単な話しです。それは公教育は<市場>ではないからだ、と。

公教育は、価格もそのサーヴィス提供の仕組み、サーヴィスの品揃えや品質も政策的に決定される制度なのです。あるいは、(公教育を塾・予備校と同じ市場に属するプレーヤーと考えれば)公教育は補助金や統制価格に守られた特権的なプレーヤーです。

もちろん、市場は万能ではありません。経済学の復習になりますが、社会全体が必要とするサーヴィスの水準を確保するためにも、また、公共サーヴィスへのタダ乗り(Free Rider)を禁ずるためにも、国防や消防・警察のように公共性の高いサーヴィスを市場原理に任せることが社会全体の利益にはならないことは自明です。

実際、裕福な家庭の子女や都会の子供達には比較的手厚い教育がなされ、手のかかる低所得層の子女やコストがかさむ郡部の子供達には教育サーヴィスの供給者が不足するという事態は、国民の一体感を弛緩させこの国の近代国民国家としての統合を危うくするでしょう。また、不条理な不公平感が社会に内在化することが、社会の治安秩序の劣化に直結することも容易に想像できます。

更に、教育の機会均等を求める現行憲法の規範意味(さしあたり、憲法14条と26条)からも公教育を完全なる市場原理の元に置くことは許されません。畢竟、公教育の消滅は政策的・社会学的な観点からも法学的な観点からも日本が取るべき道ではないのです。

ならば、現下の破綻した公教育改革を実行するための土台は、「公教育は必須ではあるが現行の公教育の仕組みは必然ではない」という認識ではないでしょうか。例えば、国・地方自治体から受注した民間の教育機関が公教育サーヴィスの提供に当たるということ。そしてこのことは豪も憲法には違反しないことです。

国や県の道路工事、海上自衛隊の護衛艦や消防署の救急車の製造を想起してください。それらが公共的なものだからといって、では国や県の土木工事専門の部署が、あるいは、防衛庁や消防署の専門部隊が道路工事や艦船と車輌の製造を行っているでしょうか、と。「否」ですよね。

ならば、民間教育機関はいうに及ばず、ネットでも書籍でも公教育が提供している程度の知識は巷に溢れている現在(=教育の需要側が供給側より優位に立っている現在)、幾つかの教育法規の改正を行った上で、公教育の理念と機能を損なうことなく公教育の民営化が不可能ではないこともまた明らかではないでしょうか。


而して、本節のテーマ:「日本の<不良資産>に堕した公教育がいまだに消滅しない理由」は、こうパラフレーズできると思います。すなわち、国民の財産であり貴重な制度インフラである公教育が破綻しているのに、なぜに、公教育サーヴィス提供の仕組みが変えられないままなのか、と。私はその理由を次の3点と考えています。

・公教育の必須性と公教育制度の可変性は矛盾しないという認識の欠如
・公教育制度の制度的権能
・教育法学に顕著な戦後民主主義的教育観の蔓延


便宜上、第3点への言及は次節で行います。そして、第1点の内容はおおよそ上で説明した通りです。公教育とは機能であり作用であるにも係わらず、校舎や教師、学区や学齢のルール、教科書や制服、あるいは、教育関連の諸法規や文教予算等々のパーツの束にすぎない公教育制度を公教育そのものと混同する傾向がこの社会に残存していると思うのです。蓋し、この社会における公教育の致命的重要性からダイレクトに(実は、そう確たる根拠もなく)現行の公教育制度の優位性を演繹する傾向がいまだにこの社会を覆っているのではないでしょうか。

本節冒頭で掲げた「塾・予備校と公立学校は何が違うのか」の問いの解答が第2点です。煎じ詰めれば、それは「原則すべての子供達を受け入れるか/学費を払える・すでに学力が一定水準に達している・躾ができていてスクール運営の邪魔にならない子供達だけを受け入れるのかの差」であり、そして、このことの帰結でもありますが「卒業証書を発行できるかどうかの差」に収束する、と。

公教育の機能(社会権的基本権の保障:社会の治安の維持強化:国民国家統合の維持強化)から見て、例えば、灘・武蔵・麻布・筑波大学付属駒場・ラサール等の進学校と全国区の進学予備校の成績上位者クラス、地域の普通の公立学校とこれまた全国展開している個別指導塾の差異はほとんど<個体差>の範囲です。こう断言します。

そう私が断言した所で次のような反論が寄せられるかもしれません。「公立学校は子供達の学力養成だけでなく共同生活を送るためのルールなりの社会性を子供達に身につけさせる役割を果たしている。また、それは地域の情報センターであり、さらには、子供達の家庭に問題がある場合には(実質的にせよ)カウンセラーの機能も果たしているのではないか。ならば、公教育と塾・予備校を学力養成や進路相談の機能だけで同一視することは勇み足である」、と。

このような反論に対して私はこう回答しています。そもそも社会性の基盤を子供達に与えるのは第一義的には家庭や地域社会の役割である。その基盤ができあがっているのなら、塾・予備校で獲得される社会性も学校で身につくものと差はないのではないか。否、塾・予備校では子供といえども彼/彼女は一人前の顧客や顧客からの預かりものとして処遇もされ、また、その契約内容を子供といえども守る義務があるのだから社会性の獲得のための環境という点では塾・予備校の方がむしろ優れている、と。

実際、常にコンペティターとの競争下にある民間教育業界では、少なくない塾・予備校が他社との差別化&少子化対策として<躾の商品化>にとっくに着手しています。民間教育セクターのこの軽快なフットワークを見ても、最早、社会性の獲得の面でも現行の公教育制度は塾・予備校に敗北することは必至でしょう。

尚、地域の情報センターという点では塾・予備校や街の喫茶店やカルチャーセンターと公立学校の差異は程度の差にしかすぎないでしょうし、逆に、この点で公立学校を上回るパフォーマンスを発揮している塾・予備校は数え切れないと思います。また、カウンセラーに関しては、皮肉でも冗談でもなく、「ご苦労様です」としか言いようがありません。けれど、それは公教育の機能から見て公教育改革とは少し異なるイシューではないでしょうか。

而して、公教育の民営化によって公的な文教予算が、公教育を受注した民間教育機関に支払われるのならば、「すべての子供達を受け入れるかどうか」という塾・予備校と学校の差異は自動的に消滅してしまい、結局、両者の差は「卒業証書を発行できるかどうかの違い」に収束するでしょう。

実際、バブル期直前の1980年代後半までは、IVYリーグやUCLA, University of Michiganなどの名門大学なら話しは別ですが、アメリカの普通の大学を卒業しても(まして、Community College:地域が経営管理する公立の短期大学、誤解を恐れずに言えば、一部の例外を除きアメリカ社会での位置づけは「高校4年生-5年生」に近い)、日本での就職は容易ではありませんでした。なぜか、その卒業資格は「正式な大学卒業資格」とは考えられていなかったからです。4年後、2年後の彼等の就職のことを考えると、当時、私はアメリカに旅たつ教え子の笑顔を見るのが辛いこともしばしばでした。

それから幾星霜。2006年の現在、アメリカの大学の「卒業証書」を認めない企業は日本にはほとんどなくなりました。全くないとまでは言いませんが、上場企業を中心に私が知っている3,000社ほどの企業はすべてアメリカの大学・短大を卒業した者を「大卒」「短大卒」と看做しています。

何が言いたいのか? 昔話がしたいのか? 自慢話がしたいのか? それはただ一つ。「卒業証書」を発行する公教育制度の権能は、実は、既に現在でも収縮しているということ。ならば、公教育の民営化によって公的な「卒業証書」を発行する権限が公教育を受注した民間教育機関にも配分されるのならば、塾・予備校と学校の差異は消滅するでしょう、と。


◆結語☆「死せる公教育、日本をして呻吟せしめる」背景
公教育が破綻して久しいのになぜに公教育制度の改革は進まないのか? 私はこの理由の一つとして「戦後民主主義的な教育観の蔓延」を考えています。蓋し、それは教育を放棄した教育論であり子供達の現実の姿を見ようとしない無責任な教育論です。

戦後民主主義的な教育観は、教育法学の影響下に国家の教育権を否定し「学校の主人公は子供達」「教育内容を決めるのは子供達の味方であり教育の専門家である教師自身」と唱えてきました。而して、子供達は「誰もがどの分野でも100点を取れる力がある」「教育法学が指し示す学校現場の体制で、平和と民主主義を信奉する教師が教えるのなら子供達はちゃんと教育されるに決まっている」という前提を豪も疑いません。その帰結として、彼等は「生徒の学力調査」にも「他校との比較」にも激しく抵抗してきました。「子どもの人権を守れ」「教育の管理強化反対」のスローガンの下に!

日本の教育法学界は、空理空論と妄想願望が飛び交う憲法研究者のコミュニティーからさえ「法律論と運動論をごちゃまぜにしている」(奥平康弘・内野正幸)と批判されています。教師の「教える自由」を争点する数多の裁判で怒涛の連敗記録を達成中の不思議な学界です。

樋口陽一さんが指摘する通り、しかし、日本の教育法学は中央集権主義的なものでもある。私なりの言葉で説明すれば、蓋し、欧米では教育の自由は「国家に召し上がられた、自分達の子供を教育する権利の奪還運動であり、国は金を出さなくともよいから口も出すな」という主張です。しかるに、日本の教育法学では、教育の自由の争点は「誰が国家の教育権を行使するか」であり、国や裁判所がそれを「国家権力」とするのに対して「子供達の代理であり教育の専門家である教師」と考える。畢竟、これは「国は金を出して口は出すな」という主張にすぎないのではないでしょうか。

現実を自己の願望とすりかえるこのような勢力が教育現場を牛耳っている限り、公教育の破綻の姿が世間に認知されるのが遅れたのは当然でしょう。皮肉なことではありませんか。彼等は、彼等が批判してやまない国家権力から認められた「卒業証書」という免罪符を世間に販売することで公教育(制度)批判をしのいできたのですから。

大切なのは彼等の特異な理想や願望ではなく、現実の子供達の将来であり、日本の将来です。ならば、戦後民主主義の影響を学校現場から払拭して、労働力商品として国際競争力のある、また、この日本社会の一員たる堂々とした日本人と日本市民を育成するためには、公教育制度の改革が不可避でしょう。日本の再生は公教育の改革に懸かっている。それは、戦後民主主義の呪縛から公教育制度を解放することによって実現する。そう私は考えます。

 

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