醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1212号   白井一道

2019-10-11 12:16:51 | 随筆・小説



    徒然草40段 『因幡国に、何の入道とかやいふ者の娘』



 因幡国に、何の入道とかやいふ者の娘、かたちよしと聞きて、人あまた言ひわたりけれども、この娘、たゞ、栗をのみ食ひて、更に、米の類を食はざりれば、「かゝる異様の者、人に見ゆべきにあらず」とて、親許さざりけり。

 今の鳥取県にあった因幡国(いなばのくに)に何某の入道とかいう者の娘がいた。その娘は大変な美人だという噂だった。その噂を聞き、求婚する者が後を絶たなかった。ただその娘は栗ばかりを食べ、困ったことに米の類のものは食べなかったので「このように変わった娘でございますと、言って人様に嫁がせるわけには参りません」と親は娘を嫁がせることを許しませんでした。

 この章段を読み、昔読んだ野坂昭如の小説『エロ事師たち』を思い出した。
 「男客は一業種から一名で、それもシナリオ・ライター、鉄ブローカー、証券会社重役、税関の役人、京都の大学助教授、尼ヶ崎の銘木屋、BGM制作会社社長、御影の地主と、まずこの場以外では絶対に顔をあわさぬとりあわせ。西宮北口に時刻をずらして集合させ、かりそめにも人眼にたたんようにと、そこから三人ずつ山荘へスブやん自身が案内した」。
『エロ事師たち』より
 男たちを集め、秘密の場所に案内し、怪しげな見世物をするエロ事師たちの生業を表現した生きる哀しみを表現した小説だった。
 この小説にあった話か、どうか、忘れてしまったが、キュウイだけを女の子に食べさせ、緑色の便をさせ、それを見せる生業を読んだ記憶がある。二人の痩せた髪の毛の長い女の子か襖を開け、裸のまま入って来る。女の子にはここしばらくキュウイのみ食べさせております。緑色の便を皆様にご披露させていたただ来ますので、じっくりご覧下さいと、中年の男が話をする。二人の若い女の子はギラギラした男たちの目に曝されることに快感があるのか、胸を張り、男たちの目の前で股を開くと細くて長い緑色の便をする。男たちは目を輝かせて息を飲んで見つめている。
 小説の話か、実話のルポか、忘れてしまったが、妙に脳裏に焼き付いている話だ。今もこのようなエロ事師たちが横浜の黄金町とか、大阪の飛田とかには跋扈していることだろう。


醸楽庵だより   1211号   白井一道

2019-10-10 11:25:27 | 随筆・小説



   徒然草39段  『或人、法然上人に、』



 或人、法然上人(ほうねんしょうにん)に、「念仏の時、睡(ねぶり)にをかされて、行を怠り侍る事、いかゞして、この障(さわ)りを止め侍らん」と申しければ、「目の醒めたらんほど、念仏し給へ」と答へられたりける、いと尊かりけり。

 或る人が法然上人に、「念仏している際に睡魔に襲われ、修行を怠ってしまった時には、どのようにしたら、この障害を乗り越えられましょう」と申し上げると「目が覚めたら、念仏をしたらいい」と答えられたという。大変尊いお言葉だ。

 また、「往生は、一定と思へば一定、不定と思へば不定なり」と言はれけり。これも尊し。

 また、「極楽往生はできると思えばできるし、極楽への往生はできないと思えばできない」と法然上人は言われた。このお言葉は尊いものだ。

 また、「疑ひながらも、念仏すれば、往生す」とも言はれけり。これもまた尊し。

また、「極楽往生できるのかなと、疑いながら念仏するなら往生できる」とも法然上人は言われた。この言葉もまた尊いものだ。

法然の教えを兼好法師は述べている。阿弥陀如来を信ずることが大事だという法然上人の言葉を兼好法師は尊重している。阿弥陀如来を信じることが他力本願だということを兼好法師は分かっていた。法然から親鸞へと継承されていく阿弥陀如来信仰は同時に他力本願、他力信仰が14世紀前半の時代の人々の心を捉えていたことを兼好法師は書いている。
絶対他力ということを述べているところが「往生は、一定と思へば一定、不定と思へば不定なり」という言葉である。阿弥陀仏への信仰が極楽往生ということなのだ。阿弥陀仏への信仰の無い人には、極楽への往生はないと法然は述べている。阿弥陀仏への篤い信仰を持つ人のみが極楽への往生を遂げるということなのだ。この思想をさらに徹底させた人が親鸞ということなのであろう。『歎異抄』の中の有名な言葉がある。
「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。
しかるを世の人つねにいわく、
「悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや」。
この条、一旦そのいわれあるに似たれども、本願他力の意趣に背けり。
 そのゆえは、自力作善の人は、ひとえに他力をたのむ心欠けたる間、弥陀の本願にあらず。
しかれども、自力の心をひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生を遂ぐるなり。
 煩悩具足の我らはいずれの行にても生死を離るることあるべからざるを憐れみたまいて願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。
 よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、と仰せ候いき」。
善人でさえもが極楽へ往生するなら、悪人が極楽への往生を遂げないはずがないではないか、と親鸞は言う。悪人こそが極楽への往生を遂げないはずがないと。なぜなら本願他力への信仰は悪人であるからこそ篤いものがあるであろう。他力への信仰は自力作善の善人より悪人であるからこそ強いものがあるに違いない。だから悪人こそが極楽への往生を遂げるのだと親鸞は言う。これをもって「悪人正機説」と言われている。
「しかれども、自力の心をひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生を遂ぐるなり」と親鸞は述べている。他力、阿弥陀仏への信仰が極楽への往生だという。
同じように16世紀前半、ドイツのマルチン・ルターやカルバンは聖書に基づく信仰が人々を救済するということを主張し、キリスト教会の権威を否定した。教会への寄付や教会の教える善行が救済するのではないという主張と共通する教えが法然や親鸞の教えにはあるように思う。ルターやカルバンがローマ・カトリック協会の権威を否定し、聖書に基づく信仰を主張したことと同じようなことを法然や親鸞もしたように考えている。
政治権力と結びついた仏教寺院の権威を否定するような働きをしたのが浄土教の教えに基づいた絶対他力、他力本願の教えにはあるように考えている。親鸞の教えを継承した蓮如が一向宗を組織し、信長軍と戦う中で浄土真宗は日本人の仏教になった。

醸楽庵だより   1210号   白井一道

2019-10-09 11:02:26 | 随筆・小説
   


    徒然草38段   『名利に使はれて、閑かなる暇なく』




 名利に使はれて、閑(しづ)かなる暇(いとま)なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ。

 名誉とお金のために静かな時間を持つことなく、一生苦しむことほど愚かなことはない。
 
 財(たから)多ければ、身を守るにまどし。害(がい)を賈(か)ひ、累(わずらひ)を招く媒(なかだち)なり。身の後(のち)には、金(こがね)をして北斗を 拄(ささ)ふとも、人のためにぞわづらはるべき。愚かなる人の目をよろこばしむる楽しみ、またあぢきなし。大きなる車、肥えたる馬、金玉の飾りも、心あらん人は、うたて、愚かなりとぞ見るべき。金は山に棄て、玉は淵に投ぐべし。利に惑ふは、すぐれて愚かなる人なり。

 財産がたくさんあると身を守ることが疎かになる。被害を受けることがあり、迷惑を被るなかだちをする。亡くなった後には北斗七星を支えるほどのお金があったとしても、残された人のためには厄介なものになろう。愚か者の目を喜ばせる楽しみもまた、つまらないものだ。大きな車や肥えた馬、金や玉(ぎょく)の飾りも、心ある人にとっては誠に愚かなものだと思っていることだろう。金は山に捨て、玉は深い川に投げ捨てることだ。利に惑うことはすぐれて愚か者であろう。
 埋もれぬ名を長き世に残さんこそ、あらまほしかるべけれ、位高く、やんごとなきをしも、すぐれたる人とやはいふべき。愚かにつたなき人も、家に生れ、時に逢へば、高き位に昇り、奢(おごり)を極むるもあり。いみじかりし賢人・聖人、みづから賎しき位に居り、時に逢はずしてやみぬる、また多し。偏(ひとへ)に高き官・位を望むも、次に愚かなり。

 歴史に埋もれることのない名を後の世に残すことほど願いたいことはなかろう。位が高く、貴い身分の人が優れた人と言えるだろうか。愚かで未熟な人であっても名家に生まれ、運が良く、高い位に昇りつめ、豪勢な暮らしをしている人がいる。立派な賢人や聖人らは自ら低い地位に留まり、時運に乗ることなく亡くなる方が多い。ひたすら高位・高官を望むことは愚かなことだ。

 智恵と心とこそ、世にすぐれたる誉(ほまれ)も残さまほしきを、つらつら思へば、誉(ほまれ)を愛するは、人の聞きをよろこぶなり、誉むる人、毀(そし)る人、共に世に止まらず。伝へ聞かん人、またまたすみやかに去るべし。誰をか恥ぢ、誰にか知られん事を願はん。誉(ほまれ)はまた毀(そし)りの本なり。身の後の名、残りて、さらに益なし。これを願ふも、次に愚かなり。

 知恵と品性こそが大事だ。世間的名声を残したいと思うことをつくづく考えて見ると世間的名声を大事にする人は評判を気にしている人だ。世間には誉める人がいれば、謗る人がいる。噂を聞いて噂を広める人がいる。そのようなことを気にする必要はない。恥じるべき人が誰であるのかを知りたい。評判が良いということは同時に評判が悪いということでもある。世間の評判が良かったということが知られたところで特にいいことなんてありませんよ。こんなことを願うなんてことは愚かなことだ。

 但し、強ひて智を求め、賢を願ふ人のために言はば、智恵出でては偽りあり。才能は煩悩の増長せるなり。伝へて聞き、学びて知るは、まことの智にあらず。いかなるをか智といふべき。可・不可は一条なり。いかなるをか善といふ。まことの人は、智もなく、徳もなく、功もなく、名もなし。誰か知り、誰か伝へん。これ、徳を隠し、愚を守るにはあらず。本より、賢愚・得失の境にをらざればなり。

 ただし、強いて知恵を求め、賢い人でありたいと願う人に言うならば、知恵が出過ぎると偽りになると言うことだ。才能というものは、煩悩が増長したものだ
他人から聞いて知ったことや学んで知ったことは、誠の知恵ではない。いかなるものを知恵というべきか。良い、悪いは、ものの一面である。いかなるものを善というべきか。まことの人は、知恵もなく、徳もなく、功績もなく、名もない。誰か知る人がいて、誰かに伝えている。これ、徳があるということを隠して、愚かなことを一切しない。本より、賢いとか、愚かだとか、上手くいったとか、失敗したとかの世界にいるわけではない。

迷ひの心をもちて名利の要を求むるに、かくの如し。万事は皆非なり。言ふに足らず、願ふに足らず。

心に迷いを持ちながら名利の要を求めると、このようなことになる。この世のすべてのことは、すべて虚しいものだ。云うに足らず。願うに足らずだ。

兼好法師は大乗仏教の教えを信じていた。この章段は『般若心経』の世界を説いたもののようだ。『般若心経』の初めは次のような文章である。
観自在菩薩・行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。
舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識・亦復如是。
舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。
書下し文は次のようなものだ。
観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行じし時、五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまえり。
舎利子、色は空に異ならず、空は色に異ならず。
色はすなわちこれ空なり、空はこれすなわち色なり。
受想行識もまたまたかくのごとし。
舎利子、この諸法の空相は、不生にして不滅、不垢にして不浄、不増にして不減なり。
この文章を兼好法師は14世紀後半の日本の現状の中で表現したものが『第38段』の章段ではないかと私は理解した。


醸楽庵だより   1209号   白井一道

2019-10-08 12:53:24 | 随筆・小説



    徒然草37段 『朝夕、隔てなく馴れたる人の』



 朝夕、隔(へだ)てなく馴(な)れたる人の、ともある時、我に心おき、ひきつくろへるさまに見ゆるこそ、「今更、かくやは」など言ふ人もありぬべけれど、なほ、げにげにしく、よき人かなとぞ覚ゆる。

 朝晩、分け隔てなく親しくしている女(ひと)が、何かの折に私に改まって気配りをしている様子が見えることほど「今更、こんなことまでしなくても」などと言う人もいるだろうけれども、それでもなお実に実に誠実な良い女(ひと)だと思われる。

 疎(うと)き人の、うちとけたる事など言ひたる、また、よしと思ひつきぬべし
 
 普段それほど親しくしていない女(ひと)がうちとけて話してくることも、また良いことだなと思いついたことがある。
 
 この兼好法師の文章を読み、「親しき仲にも礼儀あり」という諺を思った。人間関係は礼儀によって保たれているということを改めて思う。英語では同じようなことを「A hedge between keeps friendship green.」(間に垣根があると友情は生き生きと保たれる)、Love your neighbor, yet pull not down your hedge.(あなたの隣人を愛せよ。しかも生垣を取り払うな)というようだ。人間関係は間に垣根を設けることが生き生きした人間関係が持続するという教えのようだ。
 親子の関係も友人関係、職場の同僚関係、また職場の上下関係にあっても礼儀と言う垣根があることによって生き生き人間関係が持続するという事のようだ。
 礼儀とは垣根であり、独立した人間と人間との間の隔たりということのようだ。礼儀とは挨拶に始まる。挨拶することが人間関係の始まりである。
 新しく職場に入って来る若者は挨拶ができないという話を聞く。今に始まったことではない。今から50年前の若者も満足な挨拶ができないと言われていたように思う。社会に出たての若者は挨拶に恥ずかしさのようなものを感じるからのようだ。挨拶することは自分をさらけ出すような気分になるが故にきちんとした挨拶ができないようだ。ある意味、挨拶とは自分の存在を相手に曝す営みのような側面が確かにある。ちっぽけなつまらない人間ですと相手に申し述べる営みが挨拶のようにも思う。子供が大人になる関門が挨拶にある。挨拶できる人間になって初めて大人の社会に入ることができる。
 大人の社会の人間関係は一人一人が自立した人間関係として成立している。自立した人間が他者との関係を取り結ぶ営みが挨拶から始まる。挨拶が礼儀の始まりだった。古代日本の首長たちは荒れ狂う玄界灘を乗り越えて中国の王朝に土産を持って挨拶に行き、倭の国の王として認めて貰おうとした。こうした冊封関係を取り結ぶことによって倭国の王たちは自分の権威を中国漢王朝の皇帝に認めて貰うことよって権威を獲得しようとした。
 挨拶できる人間になることが自立した人間になる第一歩のようだ。挨拶とは自分と他者との間には垣根があるということを自覚することでもある。相手の存在を受け入れることによって自分の存在をも相手にうけいれていただくことが挨拶のようだ。挨拶が人間関係を築いていく土台になっている。人間関係の土台を表現した言葉が「親しき仲にも礼儀あり」のようだ。

醸楽庵だより   1208号   白井一道

2019-10-07 11:34:21 | 随筆・小説



    徒然草36段  『久しくおとづれぬ比』



 「久しくおとづれぬ比、いかばかり恨むらんと、我が怠り思ひ知られて、言葉なき心地するに、女の方より、『仕丁やある。ひとり』など言ひおこせたるこそ、ありがたく、うれしけれ。さる心ざましたる人ぞよき」と人の申し侍りし、さもあるべき事なり。

 「しばらくの間、女の家を訪ねることをしなかった時分、どんなにか恨んでいることかと、怠けたことを悔やみ、弁解する言葉もないような気持ちでいると、女の方から『下僕がおりましたら、一人貸してくれませんか』と言い出してくれたことほど有難く、うれしかったことはない。このような心根の女ほど良いものはないと話しているのを聞いた。確かに、こうあってほしいものだ。

 男の身勝手を受け入れてくれる女を男は良い女だという。男尊女卑の身分制社会に生きた男の身勝手さを受け入れざるを得なかった女の哀しみへの思いは何もない。兼好法師はあっけらかんと男の身勝手さを身勝手だとも考えていない。身分制社会に生きる男にとって、男の身勝手を身勝手だと自覚することはなかった。女から男は身勝手だと糾弾されることなしには男は自分が身勝手だと意識できないのかもしれない。『徒然草36段』を読み、このように感じた。
 身分制社会における男女関係は男の身勝手を女は受け入れることが当たり前であり、当然のことであった。やきもちを焼いたり、嫉妬をしたり、恨んだりする女は良い女ではなく、悪い女であった。しかし、支配階級であった公家や武家社会における男女関係がこのようなものであり、被支配階級に生きる男女関係はまた別の在り方があった。被支配階級に生きる人々の大半は農民であった。この農民たちの中の男女関係は支配階級の男女関係とはまた別の在り方だった。働く女性の力なしには農作業ができない以上、農民の男女関係は支配階級における男女関係よりはるかに対等、平等であったのではないかと想像される。農民の社会にあっても男女差別はあったろうが支配階級社会の男女差別とは質的違いがあった。
 兼好法師が生きた14世紀前半、鎌倉時代の末期の時代にあっては、嫁入り婚が普及し始めるころである。『徒然草36段』を読むとまだ妻問婚であったことが窺える。妻問婚であったが故に暫くの間、妻の家を訪ねることをしない男の話を兼好法師は書いている。武家社会で嫁入り婚が普及することによって被支配階級の農民へも普及していった。嫁入り婚が普及することによって男尊女卑の風潮は更に強化されていった。男が女の家に通う婚姻形態の母系制社会の方がはるかに男女差別は少なかった。

醸楽庵だより   1207号   白井一道

2019-10-06 10:59:31 | 随筆・小説



    徒然草35段  『手のわろき人の、はばからず』



 「手のわろき人の、はばからず、文書き散らすは、よし。見ぐるしとて、人に書かするは、うるさし」。

 筆で書く文字の下手な人が、遠慮なく手紙をどんどん書くことは良いことだ。みっともないと思って代筆させることは嫌味なものだ。


 38文字で立派な文章を兼好法師は書いている。兼好法師自身は能筆だったのか、それとも悪筆だったのだろうか。能筆な者は字が下手だということなど取るに足りないことだと言うことはたやすいことだろう。悪筆な者が悪筆だということを全く気にすることなく、正々堂々と悪筆な手紙を出すことには笑いを禁じ得ない。
 悪筆な文章の読解に苦しんだ話をyou tube で聞いた。日本共産党中央委員会社会科学研究所は新日本出版社から『新版 資本論』を出版した。このことを記念して不破哲三氏が記念講演をした。この講演の中でマルクスは大変な悪筆だったことを不破氏は述べていた。自分で書いた文字をマルクスは読むことに苦労していた。マルクスの書いた文字を読むことができたのはマルクス夫人と友人のエンゲルスのみだったと不破氏は話していた。マルクスの文字が悪筆だったため、『資本論』第三巻「恐慌論」を編集したエンゲルスは草稿を十二分に検討することなく、まとめてしまったのではないかということを不破氏は述べていた。マルクスの「恐慌論」をまとめた草稿を丹念に調べ直して新しい「恐慌論」を『新版資本論』として出版することができたと不破氏は話していた。 悪筆、マルクスの話は面白かった。

醸楽庵だより   1206号   白井一道

2019-10-05 11:49:56 | 随筆・小説



  徒然草34段  『甲香(かひこう)は、ほら貝のやうなるが』



 「甲香(かひこう)は、ほら貝のやうなるが、小さくて、口のほどの細長にさし出でたる貝の蓋なり」。

 甲香(かひこう)[煉香(ねりこう)の材料]は、ほら貝のようであるが、形が小さく、口のところが細長くつき出ている貝の蓋である。

 「武蔵国金沢といふ浦にありしを、所の者は、『へなだりと申し侍る』とぞ言ひし」。

 横浜金沢という海岸で捕れたものを、現地の者は「へだなりと申します」と言っている。


 「日本書紀によると、香木は推古天皇3年(595年)に淡路島に漂着したといわれる。日本香文化の源流は古代インドから中国をへて、仏教と共に入り、香木が焚かれるようになることに始まる。平安時代になると、宗教儀礼を離れて、香りを聞いて鑑賞するようになり、薫物合せ(たきものあわせ)などの宮廷遊戯が行われた。この宗教の香・貴族の香に鎌倉時代以降の武士の香、そして禅の教えが加わり、茶道・華道・能などとともに室町時代に誕生、婆沙羅大名はじめ一部上流階級の贅を極めた芸道として発展する。なかでも香道は、それら中世芸道のエッセンスを凝縮した文化として洗練度を高め、当時としては非常に稀少な東南アジア産の天然香木を研ぎ澄まされた感性で判別するという、独自の世界を構築するにいたる。この頃、それぞれに異なる香りを有する香木の分類法である「六国五味」(りっこくごみ、後述)なども体系化された。
 香道においては、線香等のように直接点火する香は用いない。聞香炉に灰と、おこした炭団を入れ、灰を形作り、その上に銀葉という雲母の板をのせ、数ミリ角に薄く切った香木を熱し、香りを発散させる方式がとられる。銀葉を灰の上で押すことにより、銀葉と炭団の位置を調節する。これにより伝わる熱を調節し、香りの発散の度合いを決める。香道具の種類、形状及び作法は流派によって異なる。
 御家流と志野流の二つの流派が存在するが、室町時代から一度も途切れることなく香道を現在まで継承し続けてきたのは志野流のみとなっている。
御家流(おいえりゅう)三条西実隆を流祖とし、室町時代以来大臣家である三条西家によって継承されたが、後に亜流は地下(武士・町人)にも流れる。戦後、一般市民(民間)の香道家・一色梨郷や山本霞月などにより、堂上御家流香道を継承していた三条西尭山が正式に近代御家流宗家として推戴され、三条西家の当主が御家流家元を継承している。なお、御家流の香人は自身の流派を「当流」と称する。現・宗家は三条西尭水。なお、一般には御家流とは各芸道ごとに、特定の流派を指す言葉である。志野流(しのりゅう)東山文化のリーダー八代将軍足利義政の近臣だった志野宗信(1443年 - 1523年 室町時代)を流祖とし、3代志野省巴 ( - 1571年 室町時代)が隠棲する際、流儀の一切を高弟であった蜂谷宗悟(のちの4世)( - 1584年 安土桃山時代)に譲り、初代宗信からの志野流の精神を一度も途切れることなく現・家元蜂谷幽光斎宗玄まで継承してきている。途中、幕末の戦乱に巻き込まれ、特に禁門の変では家屋を消失してしまい、家元存続の危機があったが、尾張徳川家を中心に、尾張地方の名士たちがパトロンとなり家元を守る。これ故に2017年現在、志野流の家元は愛知県尾張(名古屋城近く)に居を構えている。
 香道に関する十の徳。
1.感格鬼神 感は鬼神に格(いた)る - 感覚が鬼や神のように研ぎ澄まされる
2.清浄心身 心身を清浄にす - 心身を清く浄化する
3.能除汚穢 よく汚穢(おわい)を除く - 穢(けが)れをとりのぞく
4.能覚睡眠 よく睡眠を覚ます - 眠気を覚ます
5.静中成友 静中に友と成る - 孤独感を拭う
6.塵裏偸閑 塵裏に閑(ひま)をぬすむ - 忙しいときも和ませる
7.多而不厭 多くして厭(いと)わず - 多くあっても邪魔にならない
8.寡而為足 少なくて足れりと為す - 少なくても十分香りを放つ
9.久蔵不朽 久しく蔵(たくわ)えて朽ちず - 長い間保存しても朽ちない
10.常用無障 常に用いて障(さわり)無し - 常用」
  Wikipediaより

醸楽庵だより   1205号   白井一道

2019-10-04 11:09:38 | 随筆・小説



   徒然草33段 『今の内裏(だいり)作り出されて』



 「今の内裏(だいり)作り出されて、有職(いうしょう)の人々に見せられけるに、いづくも難なしとて、既に遷幸(せんこう)の日近く成りけるに、玄輝門院(げんきもんゐん)の御覧じて、「閑院殿(かんゐんどの)の櫛形(くしがた)の穴は、丸く、縁(ふち)もなくてぞありし」と仰せられける、いみじかりけり」。

 今の皇居をお造りになって、儀式・作法・法令・服装など手本とすべき先例に通じた人々に見ていただいたところ、どこにも問題はないということで、すでに御移りになる日が近づいて来たところ、後深草天皇の妃が皇居をご覧になられて、「閑院殿(かんゐんどの)[平安京内に臨時に設けられた里内裏と呼ばれた皇居のこと]の櫛形(くしがた)の窓は丸く、縁もありはしませんでした」とおっしゃられたことには、恐れ入りました。

 「これは、葉の入りて、木にて縁をしたりければ、あやまりにて、なほされにけり」

 新しい皇居の櫛形(くしがた)の窓は、上に切り込みがあり、その切り込みに木の枠をはめていたので、これでは間違いだとして造り直されたという。


 日本中世社会にあっては、儀式、作法、様式の先例が大事な社会であったということを学んだ。窓の造り、形までが踏襲されていく社会であった。新しい造り、形が排除される社会であった。こうして支配の体制が形つくられていたということを知ることができる。
 完成した形には美しさがある。その美しさはどこからくるのかというと、無駄がないということだ。完成した形には無駄がない。無駄がない故に崩しようがない。形を整えることは無駄を省いていくことだからだ。
 兼好法師の文章を読み、感じることは無駄のない文章だということだ。無駄のない文章だから美しい名文ということになるのだろう。兼好法師の文章を現代語に置き換えるにあたって一文が長いにもかかわらず無駄がないことに苦労している。当時の社会にあっては、省略したとしても十分通じ合える土台があったのであろう。
 無駄がないということは、美しさを創り出す一つの重要な要素の一つであることは間違いない。屋根瓦や鬼瓦の形にしても無駄のない形だからこそ、美しい。屋根の上に鬼瓦を乗せる建物が存続する限り、形の同じ鬼瓦が造り続けられてきている。時代が変わり、鬼瓦を屋根の上に葺く様式が途絶え始めることによって鬼瓦の形も変わり、鬼瓦そのものもなくなっていく。
 承久の乱によって天皇支配の体制は崩れているにもかかわらず、北条政権は天皇制そのものの息の音を断つことはしなかった。以後、支配の権威を持つ天皇と支配の実権を持つ武家政権による体制が整えられていく。天皇は昔の栄華を夢見て生きるようになる。その時代に兼好法師は生きている。廃れいく天皇支配体制を兼好法師は『徒然草』に書いている。その一つの現れが第33段のないようではないかと私は考えている。
 新しい内裏、皇居が造られた時、皇后が窓の形、造り方が従来のものと違うことを指摘したという話だ。このような事態が生ずること自体が偶然のちょっとした間違いではなく、廃れいく皇居の姿として私は理解した。天皇制全盛の時代であったならば、このような事態は生じない。間違ったことをしたら厳しく罰せられる恐怖が建築現場を支配していたに違いない。そのような気の緩みがこのよう間違いを生んだのであろう。
 兼好法師は意識して天皇支配体制の廃れいく事態を表現しようと思って書いているわけではないが、現実に起きていることを書くとそのことは天皇制が廃れていく姿を書くことになったということだ。天皇に纏わることを書いていくと必然的にその内容は天皇制が崩壊していく過程になったと言うことだ。本当に短い文章で兼好法師は14世紀前半の京の支配層の人々の社会を活写した一コマが第33段の話のように思う。

醸楽庵だより   1204号   白井一道

2019-10-03 12:53:36 | 随筆・小説



  徒然草32段 『九月廿日の比、ある人に誘はれたてまつりて』



 「九月廿日の比、ある人に誘はれたてまつりて、明くるまで月見ありく事侍りしに、思し出づる所ありて、案内せさせて、入り給ひぬ。荒れたる庭の露しげきに、わざとならぬ匂ひ、しめやかにうち薫りて、忍びたるけはひ、いとものあはれなり」。

 九月廿日ころ、ある人に誘われ、お供をして夜の明けるまで月を見て歩いた折に、思い出した家があるとかで、案内させてお入りになってしまわれた。荒れたる庭のしたたる露に、わざわざ焚いたものではないような匂い、しっとりとした薫りが充満し、世俗から離れ、ひっそりとしている気配に深い情緒が感じられた。
 
 「よきほどにて出で給ひぬれど、なほ、事ざまの優に覚えて、物の隠れよりしばし見ゐたるに、妻戸をいま少し押し開けて、月見るけしきなり。やがてかけこもらましかば、口をしからまし。跡まで見る人ありとは、いかでか知らん。かやうの事は、ただ、朝夕の心づかひによるべし。」。

 頃合いを見て出ておいでなられたけれど、それでもなお、この家に住む女性の人柄が優雅に思われて、物陰からしばらく見ていたところ、家の出入り口にある板戸を少し開けて見ると、お月見をしている様子だ。やがて家の中に入られてしまったら残念なことであったろう。客が帰られた後まで見ている人がいようとは思いもしなかったのだろう。このようなことをしているのは、普段道理のことなのであろう。

 「その人、ほどなく失せにけりと聞き侍りし」。
 
  その方は間もなく亡くなられたと聞いた。


 定年退職後、南アルプスの麓の村に移り住んだ知人がいる。若かった頃、山登りを趣味にしていた人だった。現役の頃も年に一度くらい夫婦で山に行っていたようだ。人里まだ車で一時間ほどの距離だと手紙にあった。
 現役の頃は出張で一緒になった折には帰りにビールなどを軽く楽しむ仲であった。退職後、山里に転居したというハガキが来た。それ以来、年賀状のやり取りだけの間柄になった。そんな関係が数年続いたがある年、私の出した年賀状が差し戻されてきた。宛先不明という印が押されていた。元気だという風の噂はあったがどうしたのかなと思っていたら、子供の住む街場に住まいを移し、病院通いをしているという話を聞いた。
 六〇代の後半だったように思う。空気の美味しい山里の景色は素晴らしい。アルプスの山々を毎朝眺める老後の生活はきっと気持ちよいものであったろう。しかし病を得ると大変なことになる。病院のある町まで行く時間が長い。日常生活の買い物も不便である。世俗の街場を離れ、山里などに住まいを移すことも健康な内はいいだろう。他人の手を借りることなしには生活できない状況になったら、山里では生活できない。
 街場の生活に慣れ切った人間が自給自足の生活に憧れて山里に生活の場を移すことは難しいのではないかと私は考えている。山登りのテント生活に馴れた人であっても、それが毎日となるといかがなものであろう。無理があるのではないかと思う。農業の経験が少しでもあり、野菜の栽培方法が分かり、地元の方々との友好関係を結ぶことができなければ、山里では孤立化を深めることになろう。
 私は定年退職後、見ず知らずの山里に移り住むことはできないと考えていた。自分の生まれ育った山里に帰り住むというのなら、話は別だ。故郷には子供だった頃の友人・知人たちがいる。それらの人々に囲まれて楽しい老後ということもあり得よう。だが都会に生まれ育ち、見ず知らずの山里に移り住むのはいかがなものであろう。
 老人は住み慣れた街場に住むのがベストだと考えている。まず市役所に自転車に乗っていくことができる。郵便局、病院、商店が身近にある。知人がいる。老人は誰でもが他人様のご厄介にならざるを得ない状況になる可能性が高い。特に病院が近くにあるということは決定的に大事なことではないかと思う。体が健康なうちはあまり実感することがないが、少しでも体に異常が起きるとたちまち困ってしまう。
 老人は生活の便利な場所に住む。誰か、他人様の援助が得られやすい場所に住む。これが一番だと私は思っている。

醸楽庵だより   1203号   白井一道

2019-10-02 10:59:26 | 随筆・小説



    徒然草31段  『雪のおもしろう降りたりし朝』



 「雪のおもしろう降りたりし朝、人のがり言ふべき事ありて、文をやるとて、雪のこと何とも言はざりし返事に、「この雪いかゞ見ると一筆のたまはせぬほどの、ひがひがしからん人の仰せらるゝ事、聞き入るべきかは。返す返す口をしき御心なり」と言ひたりしこそ、をかしかりしか」。

 雪の降るさまを面白く感じた朝、ある人に言うべきことがあって、手紙を書いてやると、雪のことを何とも書いていない手紙に、「この雪をどのように感じているかと一筆書くほどの風流を持ち合わせない人のおっしゃること、聞き入れるべきか。返す返すも残念なことだ」と返事に書いて寄こしたことこそ、興味深いではないか。
 
 「今は亡き人なれば、かばかりのことも忘れがたし」。

 こんな手紙をくれた人も今はもういない。こんなことも忘れがたいことだ。

 
 「初雪や水仙の葉のたはむまで」。貞享3年(1686)、芭蕉43歳の時の句だ。江戸深川の芭蕉庵にて詠まれた句だと言われている。初雪が降った日、庭の水仙の葉が雪の重みで撓んでいる姿を見て芭蕉は句を詠んだ。雪が降ると降った雪を見て楽しむ。これが俳諧だった。俳諧が誕生する精神風土が兼好法師の時代から徐々に築かれ始めていたのかなと思わせられるような文章がこの『徒然草第31段』ではないかと私は感じた。
 「今日の雪は何か趣きがあるじゃないか。それを何もあなたは感じないのか」と兼好法師の知人が手紙に書いて言ってきた。このようなことに関心を持つことに兼好法師は興味を持ったということなのかなと私は理解した。
 日本人は天気に関心がある。今では天気予報氏がお出かけの服装までアドバイスしている。大きなお世話だとは思うが、便利に利用している人がいるに違いない。
 日本人の挨拶の言葉には天候がある。隣近所の人と挨拶する言葉が「今日は寒いね」と言ったりする。出勤の時、雪が降りだすと「今日は積もかね」と挨拶代わりに言う。天気の具合を言うことが日本では挨拶の言葉になる。
 天候を表す言葉と違う言葉を取り合わせることによって人間までも表現した句を芭蕉は詠んでいる。
「初雪や聖小僧の笈の色」