醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1400号   白井一道

2020-05-05 10:07:55 | 随筆・小説




   
 徒然草第224段 陰陽師有宗入道、



原文
 陰陽師(おんやうじ)有宗入道(ありむらにふだう)、鎌倉より上りて、尋ねまうで来(きた)りしが、先(ま)づさし入りて、「この庭のいたづらに広きこと、あさましく、あるべからぬ事なり。道を知る者は、植うる事を努む。細道一つ残して、皆、畠に作り給へ」と諌(いさ)め侍りき。
 まことに、少しの地をもいたづらに置かんことは、益なき事なり。食ふ物・薬種など植ゑ置くべし。

現代語訳
陰陽師(おんやうじ)の有宗入道(ありむらにふだう)は鎌倉から都に上り、尋ね下さった折、まず門から入って来て「この庭がやたら無駄に広いことに驚きあきれ、このようなことはあってはならない事だ。もののわきまえを知るものは何かを植えることに努めることだろう。細い道一つを残して、後は皆、畑にしなさい」と諫められた。
本当に少しの土地でも遊ばしておく事は無駄なことだ。食べるものや薬草を植えておくべきだ。

 陰陽師と武家政権      白井一道
 平安時代末期(12世紀後半)には、院政に際して重用された北面武士に由来する平家の興隆や、それを倒した源氏などによる武家社会が台頭し、建久3年(1192年)には武家政権である鎌倉幕府が正式に成立した。源平の戦いの頃から、源平両氏とも行動規範を定めるにおいて陰陽師の存在は欠かせないものであったことから、新幕府においても陰陽道は重用される傾向にあった。幕府開祖である源頼朝が、政権奪取への転戦の過程から幕府開設初期の諸施策における行動にあたって陰陽師の占じた吉日を用い、2代将軍源頼家もこの例にならい京から陰陽師を招くなどしたが、私生活まで影響されるようなことはなく、公的行事の形式補完的な目的に限って陰陽師を活用した。
建保7年(1219年)に3代将軍源実朝が暗殺されると、北条氏による執権政治が展開されるようになり、鎌倉将軍は執権北条氏の傀儡将軍として代々摂関家や皇族から招かれるようになり、招かれた将軍たちは出自柄当然ながら陰陽師を重用した。4代将軍藤原頼経は、武蔵国(現在の東京都および埼玉県)の湿地開発が一段落したのを受けて、公共事業として多摩川水系から灌漑用水を引き飲料水確保や水田開発に利用しようとする政所の方針を上申された際、その開発対象地域が府都鎌倉の真北に位置するために、陰陽師によって大犯土(だいぼんど、おおつち)(大凶の方位)であると判じられたため、将軍の居宅をわざわざ鎌倉から吉方であるとされた秋田城介義景の別屋敷(現在の神奈川県横浜市鶴見区)にまで移転(陰陽道で言う「方違え」)してから工事の開始を命じたほか、その後代々、いちいち京から陰陽師を招聘することなく、身辺に「権門陰陽道」と称されるようになった陰陽師集団を確保するようになり、後の承久の乱の際には朝廷は陰陽寮の陰陽師たちに、将軍は権門陰陽師たちにそれぞれ祈祷を行わせるなど、特に中後期鎌倉将軍にとって陰陽師は欠かせない存在であった。
ただ、皇族・公家出身の将軍近辺のみ陰陽道に熱心なのであって、実権を持っていた執権の北条一族は必ずしも陰陽道にこだわりを持っておらず、配下の東国武士から全国の地域地盤に由来する後に国人と呼ばれるようになった武士層に至るまで、朝廷代々の格式を意識し、陰陽師に行動規範を諮る習慣はなかったため、総じて陰陽師は武家社会全般を蹂躙するような精神的影響力を持つことはなく、もっぱら傀儡である皇族・公家出身将軍と、実権を失った朝廷や公卿・公家世界においてのみ、その存在感を示すにとどまった。鎌倉時代初期においては、国衙領や荘園に守護人奉行(のちの守護)や地頭の影響力はそれほど及んでいなかったが、鎌倉中期以降、国衙領・荘園の税収入効率または領地そのものがこれらに急激に侵食されはじめると、陰陽師の保護基盤である朝廷・公家勢力は経済的にも苦境を迎えるようになっていった。
後醍醐天皇の勅令によって鎌倉幕府が倒され、足利尊氏が後醍醐天皇から離反して室町幕府を開いて南北朝時代が到来すると、京に幕府を開いて北朝を支持する足利将軍家は次第に公家風の志向をもつようになり、3代将軍足利義満のころからは陰陽師が再び重用されるようになった(義満は、天皇家の権威を私せんと画策しており、彼の陰陽師重用は宮廷における祭祀権を奪取するためのものでもあった。ウィキペディア参照

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