醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  785号  白井一道

2018-07-08 12:39:20 | 随筆・小説


  『おくのほそ道』より「寂しさや須磨にかちたる浜の秋」


  寂しさや須磨にかちたる浜の秋


 寂しいなぁー、種の浜の秋は。寂しさを古歌が詠んだ須磨より種の浜の秋は寂しいなぁー。芭蕉は古今集に馴染んでいた。「わくらばにとふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつわぶとこたへよ」。(たまたまでも私を尋ねる人がいたら、須磨の浦で藻塩にかける潮水を垂らしながら侘びしく暮らしていると言って下さい)。須磨の寂しさと比べて芭蕉はこの句を詠んだ。寂しい印象が強かった。その印象を述べる。寂しさを強調したい。
その気持ちを上五にもってくる。「寂しさや」と思いが流れ出て、「浜の秋」と体言で思いを止める。この俳句の型はオーソドックスな型として現代俳句に定着している。『おくのほそ道』にはこの句の他にも同じ型の句がある。
「あらとうと青葉若葉の日の光」 あぁー貴いなぁー、青葉若葉に朝日が光る日光には厳粛な貴さがあるな。
「閑さや岩にしみ入蝉の声」 蝉の鳴き声が岩に沁み込んでしまうような静かさがあるなぁー。森の中の静かさが何と厳粛なのだろう。厳粛に静かさが表現さ
れている。
「有難や雪をかほらす南谷」。有難いなァー。汗かいた体に吹く風の有難さが表現されている。
「涼しさやほの三か月の羽黒山」。三日月のかかった羽黒山を眺めていると涼しいなぁー。このような解釈の他に羽黒山から眺める三日月の涼しさを詠んだという解釈もある。
「むざんやな甲の下のきりぎりす」。甲の下で鳴くキリギリスの鳴き声を聞いているこの甲を被って戦った実
盛の無惨さが偲ばれ。
芭蕉の俳句は気持ちを詠む。古歌に詠まれた名所で刺激された感情や主観を詠む。歴史的遺物を見て引き起こされた気持ちを詠む。殷賑とした蝉の鳴き声を森の中で聞き、心に起きた変化を詠む。キリギリスの鳴き声を聞き、悲劇の武士の心意気を偲び、句を詠む。
「夏草や兵どもの夢の跡」夏草が繁茂している。ここで義経は戦ったんだ。繁茂している夏草、自然を見て、芭蕉は義経を偲ぶ。
「荒海や佐渡によこたふ天河」。この荒海の向こうに流人の島、佐渡があるんだなぁー。天河を見て島流しにあった人々は本土の事を偲んだにちがいないだろうなぁー。越後路から佐渡を眺めて昔を偲んだことを詠む。
「野を横に馬牽むけよほととぎす」。時鳥が鳴いたぞ、どっちだ。馬の首を時鳥が鳴いた方に牽き向けよう。
鳥の鳴き声に反応したことを詠む。
 このように見てくると芭蕉の句は自然の風景や自然の音、その土地にまつわる歴史、西行が歌を詠んだ場所、そのようなものによって刺激された主観を詠んでいる。ここに特徴があるようだ。しかしそうではない句もある。例えば、「五月雨をあつめて早し最上川」。梅雨の後、水量の増えた最上川の河の流れの速さを詠んでいる。これは客観写生の句のように思う。「蚤虱馬の尿(ばり)する枕もと」。「尿(しと)する」と読む人もいる。
この句も一見、客観写生の句のようだけれども、違う。リアルな表現になっている。リアルと写生は似て非なるものだ。宿った先をリアルに表現している。元禄時代に生きた庶民の生活が目に見えるように表現されている。芭蕉の句には子規を越える近代西洋文学が課題とした問題を先取りしている所がある。

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