『おくのほそ道』から「山中や菊はたおらぬ湯の匂」 芭蕉
菊水は不老長生の霊薬なり
山中や菊はたおらぬ湯の匂
俳句は省略の文芸だ。「山中」という言葉が「山の中」という意味ではなく、「山中温泉」という意味であることが分からなければこの句を味わうことができない。さらに「其功有明に次と云」という芭蕉の言葉が「山中や」という言葉の意味を豊かにしている。「有明」という言葉が「有馬温泉」の間違いだという注釈があってなるほどと合点がいく。芭蕉の言葉とその言葉の間違いを正す注釈があって初め
て「山中や」という言葉が表現している内容が明らかになる。すなわち「枕草子」の三名泉にも数えられ、江戸時代の温泉番付では当時の最高位である西大関に格付けされた有馬温泉の効能に山中温泉の効能は次ぐ。山中温泉はこのような名湯なのだ。「山中や」という言葉についてこのような理解があって初めてこの句を味わうことができる。実に厄介なことだ。
「菊はたおらぬ」。この言葉もまた厄介である。「菊はたおらぬ」という言葉は「菊を温泉にたおらぬ。菊を手折って温泉に入れない」と
いう意味である。この言葉は菊を温泉にいれなくとも温泉の霊効はある。このようなことを意味している。菊を温泉に入れると効能が増す。このような言い伝えが当時あったということを知って初めてこの句の理解ができる。
菊の花に滴り落ちた水を飲むと不老長生の薬になったという逸話が広く江戸庶民の中に広がっていた。その逸話を広めたのが謡曲「菊慈童」である。その内容は中国、春秋時代、周の穆王が寵愛していた童が誤って王の枕を跨いでしまった。この行為は死罪に値するものであったが、罪一等減じられて、深山幽谷の山の中に捨てられた。慈童は菊の花・葉にしたたり落ちた水を飲んでいると何百年間もの間、美少年のままだったという。慈童の若さと美しさを寿ぐ舞が謡曲「菊慈童」のクライマックスである。この物語が菊水には不老不死の霊能があるという逸話を広めた。
この逸話にあやかって現在にあっても「菊水」という銘柄の酒がある。しかしこの酒を飲むと不老不死だという逸話は生まれなかった。
以上のような予備知識を持って「山中や菊はたおらぬ湯の匂」を読むとこの句を味わうことができる。芭蕉は山中温泉の湯につかり、好いお湯だと手ぬぐいでも頭に乗せて手足を伸ばしただけの句だとわかる。川のせせらぎが聞こえる山の中の温泉につかり、立ち上る湯気の香りに疲れが癒される。深い安らぎを覚えたその気持ちが表現されているのだなぁーと納得する。
芭蕉は山中温泉に十日間、滞在している。本当に気に入った温泉だったようだ。およそ百八十日間に及ぶ旅がいよいよ終わろうとしている。その精神的な疲れが山中温泉につかることによって癒されたことだろう。
どうにか死ぬこともなく旅を終えることができそうだという安心感のようものを表現した句のなのかもしれない。俳句という文芸は読者にいろいろなことを想像させる力がある。これが俳句の魅力だ。
山中温泉はいい湯だった。これだけのことを言ったに過ぎない。散文では読者に想像力働かせる力がない。
五七五で表現された短さが大きな大きな意味に膨らむ。ここに韻文が持つ力があるのだろう。
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