醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1539号   白井一道

2020-10-04 13:09:19 | 随筆・小説



 朝鮮戦争が戦後日本の政治体制をつくった



句郎 華女さん、朝鮮戦争を知っているかな。
華女 そんな戦争があったことなど知らないわ。ベトナム戦争だったら、覚えているわよ。
句郎 今からちょうど70年前、1950年6月25日、朝鮮民主主義人民共和国軍の戦車が大韓民国内に38度線を突破して侵入してきたことによって、南北朝鮮の内戦が始まった。この朝鮮の内戦を朝鮮戦争というんだ。
華女 1945年8月15日に日本が終戦した五年後の事ね。
句郎 中国では連合国側に付いていた中華民国軍と中国人民解放軍との内戦が1945年後始まり、連合国側の米軍は中華民国軍側を支援して戦ったが1949年中国人民解放軍は首都北京に入場し、10月1日、中華人民共和国の成立を宣言した。中華民国軍は台湾に逃げ延び、台湾に中華民国を建国した。その結果、アメリカを中心にした国際社会は台湾の中華民国が中国を代表する正式な国家として承認してきた歴史がある。
華女 今や中国はGDP世界第2位の経済大国になっているわね。今の中国が世界的に承認されたのはいつのことなのかしら。
句郎 それは1972年の事であった。その時、西側諸国の中でもっとも大きなショックを受けた国が日本だった。この時点でイギリス・フランス・イタリア・カナダはすでに中華人民共和国を承認しており、西独と日本は未承認で特に日本は中華民国との関係が深く、まさに寝耳に水であった。しかもニクソンは別の理由から日本への事前連絡をしなかった。当時ニクソン大統領は日米繊維問題で全く動かない佐藤首相に怒っていたと言われている。国務省は1日前に前駐日大使だったウラル・アレクシス・ジョンソン国務次官を日本に派遣しようとしたがニクソンは反対して、ジョンソン次官は急遽ワシントンに駐在している駐米大使の牛場信彦に声明発表のわずか3分前に電話連絡で伝えたという。元朝海浩一郎駐米大使が在任中、日本にとって最大の外交的悪夢は何かと聞かれ、それは日本があずかり知らぬ間に米中が頭越しに手を握ることと答えた。このことが1971年夏のニクソンシの中国訪問によって現実のものになった。牛場大使は「〈朝海の悪夢〉が現実になった」として唸ったと言われている。
華女 今の中国が国際社会から認められるようになったのはたった50年近く前からの事だったのね。
句郎 中華人民共和国が成立した翌年の1950年には朝鮮戦争が始まり、この戦争は現在に至るも終わっていない。未だに休戦状態のまま現在に至っている。
華女 ということは、未だに朝鮮半島では南北がにらみ合い、戦争状態は続いているということなのね。
句郎 この朝鮮戦争の強い影響下に現在の日本はあるように思う。この朝鮮戦争なしには日本の戦後、不思議な事件が起こり得なかったと思う。
華女 日本の戦後に起きた不思議な事件とはどんな事件があったのかしら。
句郎 その一つの事件が「帝銀事件」というものだ。帝銀事件は、1948(昭和23)年1月26日に起きた銀行強盗殺人事件である。帝国銀行椎名町支店の行員など12名が毒殺され、現金・小切手が強奪された事件だ。
華女 そんな事件があったのね。
句郎 犯人は、窓口業務終了直後に一人で銀行に現れ、近所の具体的な場所を示して集団赤痢が発生したこと、実在の米軍将校の人名を出してGHQの消毒班がそこまで来ていること、事前に「予防薬」を飲んでもらうと言って、自分もそれを飲んで見せ、用意させた茶碗に手際良く「予防薬」をつぎ分け、行員たちに一斉に毒物を飲ませ、殺害した。
華女 犯人は捕まったのかしら。
句郎 容疑者として画家・平沢貞通が逮捕された。平沢は、逮捕1ヶ月後に犯行を「自白」したものの、裁判では一貫して無実を訴え続けた。1955年には最高裁で平沢の死刑が確定したが、死刑の執行はされずに釈放されることもなく、平沢死刑囚は1987年に95歳で獄死した。この事件と朝鮮戦争とは、深く結びついていると私は考えている。平沢氏は朝鮮戦争の犠牲者だ。