ソウルの空の下

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129年前の民族解放戦争

2023-05-15 22:00:36 | 日記

初夏を彩るマーガレットが清楚に咲きそろっています。この日は28度まで気温が上がって夏の陽気となりました。子どもたちは会場のメイン舞台とは別のサブ舞台でずっと続けられていた「ダンス競演大会」で幼稚園児と思われる小さい子から、高校生まで思い思いのダンスを披露して汗を流していました。メイン舞台では記念式典に続いて、1895年農民軍の指導者たち(5名)が逮捕され、当時のソウルに連行され裁判を受ける場面を再現した寸劇や、パンソリなどのステージ、太鼓のセレモニーなどこちらも多彩なプログラムが続きました。ところで「甲午農民戦争」と呼ばれるようにこの農民たちの戦いは文字通り官軍(+日本軍)と農民たちの血で血を洗う戦争でした。実際は竹槍、旧式の火縄銃の他には斧や鎌など農機具くらいが武器のせいぜいだった農民軍に対して、特に日本軍は連発式機関銃であるガトリング銃などを活用して大殺戮を行うというむごたらしい場面もあったと言われています。農民軍の死者は全国で20万人から30万人といわれるくらいおびただしい犠牲を伴いました。写真には竹を編んで作った銃弾除けのチャンテと呼ばれる道具やそれが登場するレリーフも見えます。農民が信じていた東学という宗教では銃弾に倒れても天の国に行けるから恐れることはないという信念を持たせたといいますが、特に日本に対しては豊臣秀吉の侵略以来の再侵略と映っただけに、絶対に引き下がれないという思いの強さが想像できます。行事の終りのほうで5月11日にちなんで511人のパフォーマンスという行進が行われました。当時の農民軍の行進を思わせる行列に感動しました。あの時も農楽隊が戦いの戦闘に立って皆を鼓舞していたと言います。日本でもかつて歌舞伎役者などは卑賎な身分と考えられていましたが、朝鮮でも芸能に携わる人は賤民に区分されていたそうです。そのような身分の人たちが戦いの最前列で自分たちの身分解放を唱えて戦ったという面もこの戦争で見逃せない面です。かつて日本でも「一向一揆」というのがあって信長や家康を手こずらせ、100年近く北陸地方などを自治支配したと聞きました。同じく宗教を背景に持つ農民の戦いを比べてみるのもおもしろいかもしれません。

井邑の旅(日帰り)

2023-05-14 19:14:46 | 日記

先週の木曜日、有休をとって向かったのは全羅北道の井邑(ジョンウプ)という地方都市でした。KTXで1時間40分ですから、そんなに遠くはありません。この小さな町で今年で59回目を迎える「東学農民革命記念祭」が行われたので、それを見に行くという旅でした。何だか小さな地方都市に出かけるというのは、それだけでロマンがありますね。普通朝鮮半島の西側に下っていくのは湖南線といって、ソウル駅ではなくとなりの龍山駅から出るものですが、7時39分発の407号という列車はソウル駅から出たのでした。駅には美味しそうな弁当屋が並んでいました。駅弁というのは停車駅では特に売っていないので、出発するときにソウル駅などで買うことになりますが、でもやっぱり韓国では「列車の中で食べる弁当」というのはどうしても食事する時間がないという人しか買っていかないようで、そんなに行列はできていませんでした。私も向こうについてから美味しそうな料理を見つけて食べようと買いませんでした。到着は9時30分頃になって、会場へのシャトルバスが10時13分ということだったので、近い所で済ませました。朝のメニューは味噌チゲしかないのでそれを注文。急いで停留所に行きましたが、これがまた時間通りに来ない…。記念祭の開会式は11時からなので10時20分まで待ってバスを諦め、タクシーで。これが親切そうな女性ドライバーでした。ソウルでもバスの女性ドライバーは何度か見かけましたが、タクシーはいなかったような。20分くらいで着いたので余裕がありました。運転手さんから名刺をもらい、何かの時にはまた来てもらうことにしました。日本ではそうそうタクシーを呼んできてもらうなんてことはできませんが、やはり交通費の安い韓国では時間の節約のためには大いに利用価値があるというものです。実際午後からどうじても行きたいところができて、また来てもらい往復1時間ほどのタクシー旅行をすることになりました。ところでこの祭りは、日本の教科書などでは「甲午農民戦争」などと呼ばれる日本で言えば「農民一揆」のような事件がありましたが、「事件」というには大がかりで、地方自治の先駆けのようなこともしたり、おりしも清国と朝鮮半島の覇権争いをした日本がこの反乱を大弾圧するという、国際的規模の大きな闘争でした。韓国では現在「農民革命」と呼ばれ、農民軍が(数万人規模)最初の大勝利を挙げた日が5月11日だったので、この日を国家指定の記念日(休日ではありませんが)になっています。日清戦争の導火線にもなったことで知られていますね。

4日葬の日々

2023-05-01 19:27:04 | 日記

先月24日、入院中の義母が危篤状態だという連絡を受けて早速病院に駆けつけましたが、もう意識はなく5人が交替でベッドについて見守っていました。コロナ以降、病院での面会は2人まで(30分)となっていて、交替で病室に入るしかありませんでした。バーコードのついた小さな紙をエレベータに乗る時も、病棟に入るときもセンサーにあてなければ中に入ることもできません。25日の夜中の11時半ころに、上がっていったところモニター画面にうつる脈拍数を表す数字が動き始めました。
それまでは比較的安定していて、医師が25日の午後まで持つかどうか、長くても夜までは無理だろうといわれていたので、これはもしかしたら乗り越えられるかと話していた矢先でした。脈拍数が70代だったのがすぐに60代をいったりきたりしていましたが、60を切ってから急降下、あっというまに50,40、30代と下がっていったので看護師さんを呼びに行きました。義母はそのまま帰らぬ人となりましたが、外からは穏やかに見えた体の激変を思いがけずモニターに表された数字で見せつけられたというのは何とも言えない経験でした。大きな病院には葬儀場が付設されているのが一般的ですが、亡くなった病院でそのまま葬儀を進めると「高くつく」とかでソウル市内の別の病院の葬儀場に移されました。遺影の横に表示されているのは直系家族のうち息子と娘、その婿、そして孫たちの順に並んでいます。4文字のハングルがむらやまです。病院自体も大きく(中にフードコートがあるくらい)駅に直結していてとても便利な立地です。今回は「互助会」のような会社が取り仕切ってくれたので、葬儀の手順も着る服や弔問客に出す食事関係の手配もすべてそこがやってくれました。28日が告別式でしたが前日にお別れの儀式として遺体を棺に納める「入棺式」がありました。花を埋めた棺に家族が遺体を持ち上げて移したり、故人の胸に手を当てて、一人ひとり別れの言葉を言うなどというのは(私もしました)今まで経験のないことでした。終わってから祭壇の前に行って、家族全員が序列順(長男、長女夫妻、次女夫妻…という順番に2礼半という儀礼を行って盃を祭壇に捧げたり、死者が最期に食事をするのだという演出をしたり、なかなか経験できないことも見ることができました。火葬場から帰るとぐったりでしたが、東京から駆け付けた息子を仁川空港に見送るためにそのまま空港へ。ところがここでもハプニングが。出国前にPCR検査を受けなくてはならないというので、急遽空港内の検査場に駆けつけ、ぎりぎりまで検査結果を待ちました。もうコロナは終わっていたはずだと思っていたのが、日本の「水際対策」がまたも変更になっていたようです。それでも何とか間に合って安心しました。日本は大型連休の真っ最中ですね。どうぞゆっくり休んでください。