【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】への反論前の研究ノート その19

2020年04月06日 14時52分31秒 | 1937年 南京攻略...

【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】
この南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】について反論する前に、情報収集として城外に大量の非戦闘員が居たのかという記録が無いかを調べてみる。
初めに、小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』から始めて見る。
因みに、【引用】ではなく、当方の要約である為、個人の印象や判断は異なるので、原文は書籍(*1)を読まれることをお薦めする。

 


【1[斎藤次郎(=偽名)]陣中日記】

P.3
1[斎藤次郎]陣中日記

所属:歩兵第65聯隊>本部通信班>行李・編成
階級:輜重特務兵(1938年1月一等兵に進級)

10月12日 火曜。小晴。蔡寧宅へ移動。軍用路を敷設後の雨で人馬ともに難路。到着後師団司令部まで電話線架設。
     壕の中で宿営。2、3前に出来た腫れ物が痛む、寒さで度々目を覚ます。

10月13日 水曜。晴。壕から出ると小銃弾が飛んでくる。友軍機の空爆が3、4km先に見え、地上からは野砲を撃つ。
     目前に野砲陣地があるので砲撃音が地を揺らす。現在地は連隊本部から2.5kmの第13師団司令部のある
     陳家宅。夕方より敵撃退の為の野砲の猛射。郷里の秋祭りの花火大会のようである。
     砲声が増加するとともに敵小銃弾が雷雨のように降り注ぐ。20、30間(約36〜54m/1間=1.81818m)の
     クリークへ馬の水を汲みに行く。午後8時頃司令部全面の田圃に迫撃砲弾落下する。壕の中で就寝。
     コオロギが無心に鳴いている。

10月14日 木曜。快晴。砲声の中でシャツ、靴下、ゲートルを洗濯。戦友の子供(7歳)からの手紙に胸を打つ。
     昼食後家に手紙を書く。何時差し出せるか判らないが大阪で写した写真を同封する。1町先(約109m)の
     野砲陣地に行き様子を見て威力に感心する。しかし、敵陣地強固な為効果が少ないと言う事らしい。
     司令部の参謀も相当悩んでいるらしいと聞く。前仙台104連隊は敵前20、30mで24時間も停滞している
     らしい。今夜は敵の夜襲の警戒への訓示がある。今夜も狭い壕の中で秋虫の声を聞きながら就寝する。

10月15日 金曜。晴れ。郷里の祭の日。戦友と雑談する。昼食後野戦郵便局へ行き手紙を出す。敵の散在する塹壕を
     見る。野やクリーク内に亭の遺体が散在し腐敗している。軍馬「高瀬の墓」という墓標もある。
     目に見える家屋は砲弾で破壊されている。敵は頑強で戦況膠着。4、5日ぶりに右手の腫れ物も膿みが
     大量に出る。壕の中でローソクをつけてハガキを書く。

10月16日 土曜。晴。腫れ物の経過がよいので安心。夜は敵弾飛来多く危険。支那兵1名の鹵獲がある。
     通訳の前で両手を合わせて命乞いの様子。支那兵らしい態度。馬も滞在で悪路行軍から回復。戦傷者後送。
     午後4時、第65連隊へ三家村の前線への展開命令下る。旅団の司令部へ戻り待機。宿営。寒さで眠れず。

10月17日 日曜。晴。郷里の鎮守の祭の日。稲刈りに忙しいだろうと思う。連隊本部へ器材運搬。
     敵弾盛んに飛来し危険。休息時に敵迫撃砲弾付近に着弾で小屋の屋根から土が落ちる。
     非常に危険で通信班の馬は旅団司令部まで後退。途中愛馬が敵弾の為戦死。聯隊長の愛馬も負傷。
     夕食を作り郷里の神社へ武運長久を祈る。戦友に会う。午後10時敵夜襲の警報で目が醒める。
     敵弾が飛んでくる。現在地は大家橋、連隊本部は櫓網湾。腹の具合が悪い。

10月18日 月曜。晴。下腹の具合がよくない。日中は暑いが夜は寒い。敵軍の一部が退却したらしい。
     敵塹壕に籠もり頑強に抵抗。友軍にも相当犠牲を出す。戦況膠着。支那に来て一番驚くことは
     水質の悪いこと満足な井戸が無く、雨で路面に溜まった水が井戸に入って行く
     不潔を苦にしない国民性と思う。午後1時頃交戦激しく。第104連隊が落とせなかった敵陣地を昨夜の
     攻撃でその一角占拠。午後4時蔡寧宅に戻り大行李の補充へ行く。金沢部隊の戦傷者が続々と後送されて
     来る。帰営後我軍の砲弾で破壊された屋根から14日の月光を受ける。

10月19日 火曜。快晴。午前1時少し腹痛で目を覚ます。銃声が途絶えている。満月間近で明るく屋内を照らす。
     たまの銃声が明け方から友軍の激しい銃砲声が始まる。昨日馬に足を踏まれ月浦鎮への予定を休養に変える。
     我軍の銃弾が柱を貫通して僅かに出た所で止まっている。銃弾を記念に。中支の気候で内地を思い出す。
     10月11日発行の朝日新聞を見る。内地の新聞が見られるのは珍しい。

10月20日 水曜。快晴。明け方までに3度も用便に起きる。きりきり痛む。戦友に胃腸薬を貰う。
     戦友たちと愛馬の白玉が往復8里(約32km)の月浦鎮へ行く。

10月21日 木曜。快晴。月浦鎮へ向かった戦友が午前3時に帰営。
     愛馬白玉倒れて倒れたとのことで止む得ず捨ててきたとのこと。見かけによらぬ事で残念。
     食事が僅かしか取れず歩行も苦労する。望郷の念が湧き淋しい。

10月22日 金曜。快晴。三家村の敵陣も攻略に苦戦して膠着。上海群司令官からの訓示有、攻撃を盛んに加える。
     午前9時受診に行く。戦友の話では、工兵隊が爆破坑を掘削中とか、敵迫撃砲の為、3、4名が戦死とか
     戦場らしい話を聞く。飯の副食もない。味噌も昨日でなくなる。故郷を想う。

10月23日 土曜。快晴。昨夜敵空襲有、大きな爆音で目を覚ます。午前2時、用便の際、友軍の小銃音が偶に聞こえる。
     朝戦場の砲弾で折れた木にかわいい雀がさえずっている。廃墟の裏の金木犀の香りがする。戦場での慰め。
     受診。家に白金懐炉、胃散、メンソレータムを送ってくれるよう手紙を出す。

10月24日 快晴。快晴で交戦活発。三家村も仙台第104連隊が占拠。我が第65連隊も苦戦の為多くの戦傷者を出したと
     聞く。通信班からも2名戦死。今日は復調。夜空襲があるが空爆されなかった。

10月25日 快晴。砲声盛ん。診断所の裏でサイダーや角砂糖、森永キャラメル1個を買う。久しぶりの糖分で子供の頃の
     ように美味しく嬉しさを感じる。戦友に分ける。戦友から内地からの便りを受け取る。家族からの言葉に
     感謝で涙で目が曇る。第65連隊全面の敵以外は退却したらしく随分静か。

10月26日 晴。受診。昨日購入のサイダーを薬のように少しずつ飲む。砲声盛ん。体調回復。
10月27日 快晴。午前9時受診。大場鎮が友軍の攻撃で燃えているとのこと。猛煙で想像できるほどの火災。
     身内と友人から手紙を貰う。15日に招集を受けて若松で入隊とのこと。故郷も招集が相当あったらしい。
     補充隊が続々合流。仙台第104連隊の補充隊などは銃から水筒、飯盒までちゅう事か。
     家の愛馬も徴発になったか心配で手紙を出す。グリコに舌鼓。附録のオモチャを故郷の子供へ送る。
     午後8時老陸宅の敵陣へ猛攻撃。後方部隊で安全だが偶に小銃弾が飛来する。腹の具合又良くない。

10月28日 快晴。受診。調子はよいが無理はしない。硝蒼(*3)で夜2、3度小用に起きる。
     毎日受診後ブラブラしている。知人と身内にハガキ出す。不味い飯で閉口
     連隊本部では小銃弾が相当に飛んでくるとのこと。蔡寧宅の酒保で戦友に会い互いの健闘を祈る。

10月29日 曇、小雨。午前9時受診。随分回復。雨の為、屋根の雨漏りの備えをする。敵も大部分が退却したらしい。
     村人が戦死、戦友が負傷とのことで気分が滅入る。第65連隊の眼前の敵陣地は蒋介石直属の軍官学校の
     演習場跡地で相当な堅陣で、聯隊長、副官も戦死覚悟の突撃で戦傷者多数。戦傷者の身内の心情を想う。
     ハガキを書く。

10月30日 晴。受診に行く。連隊副官小畑氏戦死の報に接する。29日の戦闘で相当な戦傷者を出し、1千余名と聞く。
     通信班も1名負傷。獣医から子供等の写真を見せられて「死んではならないよ」と言葉をかけられた際は涙が
     流れる。夜上海方面盛んな砲撃と火災。

10月31日 小雨。戦場の雨は、軍用路が泥濘と化する。軍医部に行くのも苦労する。新鮮な野菜と綺麗な水が飲みたいと
     思う。知人と面会。物品を交換する。間近に停戦になるとか、年内に内地に帰れるとか噂話を聞く。
     身内に葉書を出す。大場鎮も占拠と聞く。

11月01日 曇。夜小雨。夜から南(上海方面)で砲声音が絶え間なく続く。今朝方母上と○○の夢を見る。
     何かあったのではないかと感傷的になる。連隊本部は他部隊と交代し劉家行へ移動。
     戦死者の収容など戦場整理を行う。戦友の話は涙が出る。塹壕中は腰まで泥水につかり、
     敵から機銃の猛射を受け、夜間突撃は戦友の亡きがらに躓き、戦友の遺体は腐敗臭と真っ黒に蠅がたかって
     いる。激戦に次ぐ激戦で戦友の遺体を収容できず、そのまま攻撃し、なんとか堅固な敵陣を落とし、
     亡き戦友に手向けの弔いになったと男泣きしながら語っていた。通信班が櫓網湾から通信機材を運搬の名が
     来たが、受診の為戦友が代わりに行く。故郷からの手紙には相当の動員があったと知らせがあった。
     愛馬を心配する。蔡寧宅に後退して初めて夜馬番に付く。

11月02日 小晴。午後雨。受診に行くが、軍医部移動で、代わりに獣医殿から人工カルルス泉塩(*4)を貰う。
     体も復調し、明日の移動に間に合ったことを神仏に感謝する。戦友の激戦中にも関わらず休ませてくれた
     上司の芳情に感謝。午後雨。明日の移動を思いやられる。知人にハガキを書く。

11月03日 曇。時折小雨。今日は明治節。皇運の繁栄、家内安全、武運長久を祈る。幕舎に日の丸と国歌が流れる。
     通信機材を運搬し、劉家行へ着。戦友と会い、前線の話を聞く、第65連隊でも、500余名の戦死者が出て、
     千名程の戦傷者、行方不明者が出たという。主に馬家宅攻略が苦戦だったとのこと。
     故郷では大騒ぎなるだろう。午後4時頃朱家宅着。戦友に乾パンとビール半分を貰う。
     水代わりに呑んだ為眼が回る。戦友の健在を祈る。帰営は薄暮の頃。途中の店で羊羹1本30銭、
     林檎1個15銭で、皆呆れて買うものは居なかった。酒保でサイダーとお汁粉を買い、サイダーを戦友と分ける。

11月04日 曇。休養。昼食は久し振りの新鮮な大根の味噌汁。昼は蠅、夜は蚊に悩まされる。
     或部隊にコレラ発生と聞く。本部近くで迫撃砲が落下。

11月05日 馬家宅方面には敵堅陣がありでは昨夜から明朝に掛け盛んに交戦。休養。親類に手紙を出す。
     上陸後初めて風呂に入る。夜雨足が強い。寝台で寝たが小用に3度も起きる。

11月06日 曇。食糧を積載し第1大隊と聯隊本部へ届ける。内地よりの手紙を沢山受け取る。
     帰営途中に嬉しくて涙を流しながら読む。内地では変わりないとのこと。身内の写真を送ってくれた。
     北支に集成している戦友からの手紙では、何年ぶりかの雨で洪水とのこと。支那の情報として経済不信と
     弾薬などの補給物資も不足で、蒋介石の南京脱出を伝えてきた。今晩馬番。

11月07日 雨。戦場の雨は辛い。歩哨の交代から就寝中に、破れた屋根から雨が降り注ぐ。戦友がその中で眠っている。
     今日の勤務で腰から下が泥まみれ。しかし前線で腰まで泥濘に浸かって交戦している友軍兵を思えば我慢。
     
雨が酷くなり家の中に入れる。

11月08日 晴。予備兵編入となり羅店鎭の東北1里(約4km)の地点より木炭を往復6里(約24km)の聯隊本部へ届け
     る。途上泥道で難航。大きな街の羅店鎭も戦闘で破壊されている。橋は落ち、電柱・自動車は焼け、
     壁には至る所で小銃弾の後があり、砲弾で大穴が空いている。激戦の後と判る道端、田畑、クリーク内にも
     多数の敵兵の屍体が散乱。所々に偵察楼があり、日章旗が掲げられている。今日は交戦は無い。

11月09日 快晴。昨夜から冷え込み厳しく、破れた屋根から星が見える。余りの寒さに午前3時頃焚き火をしている兵も
     居る。天気が回復すると元気も出る。大砲音も少なく友軍機が空を飛ぶ。戦友が早く凱旋がしたいと
     口グセになる。

11月10日 快晴。10月28日の朝日新聞を読む。戦死者が発表されている。本日も休養。炉を作る。
     新聞の報道では上海戦局は勝利し、戦闘は南西に移る様相を知らせている。27日の陸軍省発表として
     日支事変の両国の戦死者数が明示されている。【参照】 午後酒保平気、戦友に会う。知人が戦傷し、
     見舞いに行く。

 

11月11日 晴。聯隊本部の連絡兵に任じられる。直からの便りが来る。郷里の細々とした様子が書かれている。
     知人や身内の様子に涙が出る。東京の知人から郷里に千人針が届いた。

11月12日 曇、雨。明け方通信班に情報が頻繁に入る。全戦の敵退却を開始、第11師団が南翔から嘉定方面へ前進。
     第65連隊は追撃開始。正午12時30分出発。本部は雨が降り出す中午後3時発。羅店鎭の2里半(約10km)
     北上。途中敵空襲にあい馬3頭、10余名の戦傷者を出す。本部は楊家橋に移動。宿営。
     衣服が濡れて気持ち悪い。

11月13日 晴。明け方800m先の呉家宅に本部移動。昨日の空襲は友軍機の羅店鎮を嘉定と間違えた為による誤爆で
     あり、死者が4名、重慶商者多数、馬4頭が死亡した。面白い話をするのが得意な戦友が戦死した。
     残念な事である。間食にかぼちゃの塩炊きを食べる。銃声が直ぐ北側でする。

11月14日 快晴。銃声も多くなく静か。第65連隊も前進を重ね拠点が判然としないので、大行李の部隊が行方不明と
     なる。糧秣受領に戦友が出る。戦車部隊が朝食休憩している。その十数台を見学する。北支の状況が収まり、
     補充兵が上海方面へ回ってくるとのこと。嘉定も陥落と噂を聞き、上海も間近と聞く。午後2時頃、
     25、26歳の支那人のスパイらしき人物の銃殺されるのを見る。聯隊本部が何処に移動したのか調べて
     いたらしい。嘉定方面に火災がある。支那の農夫が呉家宅に順々にもどってきた。

11月15日 小晴。午後曇。午前中洗濯。この附近の家屋は殆ど焼け壊れている。支那の農民夫婦が戦闘が終わったと
     みて、戻って来た所、壊れた家を見て茫然としているその様子が余りにも哀れで、敗戦国民の悲惨さを
     憐れんで、昼食の残飯と白米を施す。此の頃になると給養も良く物資が豊富になる。
     白菜汁や南瓜汁も作れる。獣医を訪ねに本部へ行くが行方不明。本部の大行李部隊も帰隊せず。
     給養は他部隊から分けて貰ったり、本部に輸送しているらしい。葉書を書く。

11月16日 曇。雨。朝方から雨。現在地は劉家行に滞在儘。本部は塗淞鎭に。大行李は未だ行方知れず。
     牛肉と白菜汁を食す。上海方面の気候は暖かで、日中は蠅が黒山のようになっている。明日塗淞鎭へ向かう。

11月17日 小雨。通信班は支那人4名を荷役に使う。雨で泥濘になり行軍難航。戦友の愛馬がクリークの危険な橋で
     踏み外し死亡する。
無惨な様子で涙が出る。戦友も橋からクリークに落ちる。銭家宅から約3里(約12km)
     の所に宿営。夕食後付近に支那人が居るので歩哨に立ち警戒する

11月18日 小雨。小晴。午前5時起床、午前8時半出発。今朝方支那人が煙草を吸いながら人前で用を足している
     
そう言う所は支那人らしい呑気さか。
前日ほど難路ではない。午前中友軍の姿を見ずに敵国の中を部隊より
     離れて行軍は心細い。午後2時頃道路に出る。東京第101連隊の兵が南下しているのに遭遇。陸渡橋を通過。
     見る陰もない程焼き払われて、日本軍に抵抗したと思われる支那人の遺体が途中沢山ある。
     差程に激戦地帯ではなかったのか、荷物を担いだ農民達が戻って来た。敗戦国の国民は惨め。
     更に行軍して軍用道路に沢山の戦車隊や砲兵隊に遭遇。途中、戦車がクリークに落ちたようで泥だらけに
     なっている。見知らぬ土地に言葉が通じないのは不便この上ない。陸渡橋より約1里(約4km)北方の
     無名に宿営。午後10時〜11時迄歩哨。

11月19日 雨。午前5時起床。出発準備中、獣医の命令で、先日の困難を思いホットする。ただ、馬の糧秣不足が心配と
     なる。部隊とも連絡が取れず所在もわからに日が続き不安。【大日本帝国軍人歓迎】と書いた布片を胸につけ
     ているが敵国なので不慮のことを警戒する。兵・馬の糧秣の徴発が優先。昼食は甘藷(サツマイモ)で腹の
     足しにする。紅葉で晩秋を知る。糧秣不足の為、午後戦友と徴発に行く。酒を徴発してきたので、
     盛り上がる。桶狭間を思い出し、敵国にて油断出来ないので午後11時より12時迄歩哨。

11月20日 雨。塗淞鎭へ行軍。途中のは白旗を家ごとに高く掲げている。本道に出るが泥濘化しているので旧道を
     行く。クリークの橋で馬が落ちたが、怪我無く無事で安心する。騎兵の機関銃隊が30、40騎ほど追い抜いて
     いく。残敵情報があり掃蕩へ向かうとのこと。午後4時塗淞鎭へ着。本隊は不在で失望する。
     糧秣不足の為、制限して無駄の無いように、そして徴発するなどの訓示がある。病人が3名も居るので、
     明日1日休養し、1班を割いて部隊の所在を探索へ向かわせる。馬糞の上に藁を敷いて就寝。

11月21日 雨。徴発。発見を恐れ土がかぶせてある敵の隠蔽されたトーチカを見る。午後は塗淞鎭の町内を見学。
     「日本軍歓迎」「大日本万歳」など書かれた紙や日の丸などが各家の戸口に貼ってある
     支那の営業している店で、支那饅頭を4、5買って食べる。記念に法幣の銀・白銅貨を5、6枚と両替する。
     
正午みぞれになる。今までにない程寒い。何度も目を覚ます。

11月22日 晴。午前4時から5時迄、戦友と二人で馬番。午前8時出発。目当てと目的地が不明で不安な行軍となる。
     塗淞鎭より上海から南京を結ぶ道路に出る。道沿いの行軍途中支那兵の遺体が散在している。
     道路側の民家は大部分が焼かれている。午後3時支塘鎮を通過し白苑鎭に着。宿営。主要道路に沿ってから
     他部隊の車輌や砲兵部隊などが居るので安心する。途中移動の酒保で、羊羹1本10銭2本を買って食べる。
     明日の行軍の協議がある。一日でも早く合流の為この主要道路を前進することになる。

11月23日 曇。午前8時30分発。支塘鎮より右に逸れる軍用路があり、一旦戻る。支塘鎮で本隊追求できるとのことで
     8里(約32km)の行軍で中止し、宿営する。明日、連絡兵を出し本隊の所在を確認することになる。
     味噌はなくなり醤油・塩も僅か。
     愛馬の泰容まで倒れる。涙が出る。けなげに体を起こそうとするが起こせない。

11月24日 連絡兵が出発。シャツと国旗を洗濯。馬が起きていたので体を水洗いする。連絡兵が戻ってきて支塘鎮に
     師団が、更に15、16里(約60km、約64km)先に連隊が居るとのこと。軍行路を他部隊が泥濘で難航し
     塞がれて戻れず滞在。鴨・豚などを徴発。第13師団は支塘鎮より南京に進軍するとのことで、部隊もこの
     主要線を南京へ向かう。上海よりの主要線に沿う民家は殆ど焼き払われ、白苑鎭でも民家は燃やされ破壊
     され、風に乗り延焼している。戦禍の悲惨さは実際に参戦したもにしか分からないだろうと思う。

11月25日 晴。霜。午前出発し、支塘鎮で補給部隊と徴発部隊に別れる。昼食後入浴。夕食は赤飯。
     毎日牛肉と豚肉の汁物だが葱も有ればと思う。味噌・食塩を10日分余りを調達。少し滞在。
     午後9時より10時迄馬番。

11月26日 晴。霜。北面は薄氷張る。連絡兵が出る。自分は馬糧秣を徴発。支那人4名を使役し、午後休養。
     第13師団の位置が判り、明日4里(約16km)先の常熟へ行軍。

11月27日 午前1時より2時迄馬番。午前8時30分発。第13師団の輜重隊に合流。郷里の戦友に会う。古里村通過時に、
     激戦の後の塹壕や敵トーチカなどを見る。17、18位の学生風の武装した青年の遺体を見る敵兵遺体が散乱
     橋は落ち、家屋は焼却され酷い有様。午後4時に常熟着。大きな街だが日本軍しか居無い。大量の砂糖の徴発
     が出来る。行軍に疲労した馬の心配をしたが滞在なので安心する。

11月28日 晴。休養。常熟の街中を見学。相当に戦禍を受け、破壊されている。2、3箇所で燃え続けている場所がある。
     各所に抗日の宣伝文が書かれている。九重の塔がある。毛布を2、3枚徴発する。夕刻瓜や人参、梅の
     美味しい漬け物を徴発。

11月29日 晴。小霜。午前8時発。西進。途中敵遺体が数多く散乱。自動車などに轢かれて損壊が激しく惨憺たる有様。
     行軍は妨げが入らないのでスムーズに進む。午後3時30分、無名に宿営。馬糧を徴発。
     午後10時より馬番。

11月30日 晴。霜。馬の疲労が激しいの暗示ながら出発。寒さに故郷の身内思いやる。途中の田畑は全て耕起して
     麦蒔きがして有る。安鎭站を過ぎ、東亭站では、敵との交戦が激しさで家屋や橋が破壊、焼却された橋を
     工兵隊による修復がしてある。道端や田圃の中に敵遺体が無惨にある。午後3時、無錫着。人口30万の街との
     こと。桑園や松の木などがあり懐かしい感じがする。町外れの民間で宿営。火事の延長が近くなり歩哨に立
     つ。連絡班が帰営。

12月01日 晴。曇。午前0時より1時迄歩哨。五時起床。本体合流の為出発。無錫市内には敵兵の遺体が散乱
     合流できずに予定地までも達せずに宿営。砲撃音が近くに聞こえ出す。

12月02日 晴。午前9時出発。午前中本部に追求予定。荻洲第13師団は江陰城攻撃とのこと。南京主要道路を右に北進、
     南閘鎭に向かう。途中敵遺体は見えないが、○○位の子供が田圃の中で餓死したのかの遺体があった。
     別の場所には母と乳児の遺体があった。敵国の者であっても、子供など罪無い者の哀れな姿に涙が出る。
     途中の民家も大部分が焼き払われている。途中第13師団の爆薬集積所や糧秣受領所があり、本隊に近づいた
     様である。午後0時30分、南閘鎭着。大行李に合流、戦友に久しぶりに会う。行軍中の苦労話で華を咲かせ
     る。午後4時頃友軍の加農砲が4、5間先(約7m、約9m)で砲撃を開始し、地面が揺れ馬が驚き騒ぐ。

【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】

12月03日 晴。午前2時馬番。早めの朝食後の仮眠。午前7時発。江陰城へ向かう。既に両角部隊が一番乗りをし、
     陥落している。江陰城入城、昼食後、金山に登り揚子江と支那の軍艦二隻が撃沈されて後を眺める。
     江陰の街から近郊が一望でき、戦禍のあとが見え、悲惨さを思う。戦勝祝賀に下給品があり各所で
     万歳三唱が上がる。馬も無事到着し、長い行軍が無事であったことを神仏に感謝する。

12月04日 晴。安心した為、ぐっすり眠る。休養。徴発。洗濯。この頃は風土にも慣れ隊長良く肉付きも良くなった
     午後は馬糧の徴発に出る。

12月05日 晴。朝氷張る。午前中入浴。又金山に登る。昨日より火災が増え、無数に白煙や黒煙が上がっている。
     揚子江の北岸を海軍機が盛んに空爆をしている。夕食は小豆のあんかけ。郷里でおはぎの味を思い出す。
     馬の鞍傷が気になるが戦場なので仕方がない。第65連隊の補充兵430名が来るらしい。

12月06日 晴。氷張る。金山麓にて聯隊長の御令旨伝達、補充兵員への訓示が有った。江陰要塞を見学に行く。
     かなりの砲門をすて退却した敵兵のふがいなさを思う。補充兵の中に知人と会う。午後は愛馬の装蹄を代えて
     もらう。煙草3個、菓子2袋、その他缶詰などの配給がある。家へ手紙を書く。午後10時、福島市長の佐藤卓氏
     より祝電がある。

12月07日 晴。霜。午前4時起床。鎭江に向かって7里半(約21km)の行軍。通信機材が重いので馬の苦労を思うが
     無事宿営地の芯密鎭に着。糧秣不足。汚水での炊事などこなす。

12月08日 本部と別れ通信班は機材等で幹線路で行軍する事となる。午前4時出発。宿営地着後の足が疲労で中の炊事は
     辛い。無事行軍終了。馬も何とか無事。毎朝神仏への祈願のお蔭と感謝する。戦友に会い砂糖をもらう。
     知人の消息を聞く。鎭江方面から砲声が聞こえる。

12月09日 晴。午前4時起床。いつもの朝のお祈りをする。昨日の行軍での疲労が残る中午前8時出発。
     通過したの焼け落ちた某家の前に年端のいかぬ幼女が2名立っている。哀れに思い僅かな菓子を遣る。
     嬉々としする姿に更に哀れを誘う。わが子を想い目頭が熱くなる。橋が焼かれて破損している為、挽馬が
     難航。夕食は味噌も醤油もない塩と砂糖の汁物。小麦粉を徴発し、砂糖団子にする。民家の土間に宿営。

12月10日 曇。午前5時起床。今日もお祈りをする。午前7時発。馬が疲れて思うように進まない。鎭江の手前3里程
     (約12km)で馬が後ろ足を痛めて倒れる。鞍、機材を外しても立ち枯れず。第1有線班9名全員で、
     何とか馬を起こして橋を不発弾が転がっている中渡る。鎭江附近の招呼站には敵塹壕があり友軍が盛んに
     砲撃している。夕刻鎭江着。城内は電灯がある。知人の戦友に出逢い少し言葉を交わす。9月の動員から
     3ヵ月が流れた。内地も寒くなったと思う。郷里の父親や家族のことを思い涙する。

12月11日 晴。午前9時出発命令。本道をそれ右へ行くが、危険な部分が多く冷や汗が出る。1里(約4km)で休憩中食。
     挽馬の予備兵となる。路面を掘削し、行軍を妨害している数ヶ所あり、難航。連隊の最後部まで落ちる。
     別部隊の知人と一瞥する。午後7時、大規模な永泰第一蚕種製造所宿営。3、4にち滞在とのこと。

12月12日 晴。出征して3ヵ月になる。暫く故郷からのも通信がない。家内安全と武運長久を神仏に祈る。
     戦友2名が糧秣の補給に鎭江へ向かう。徴発へ向かう。滞在予定が、明日出発の命令が出る。
     愛馬を疲れを思いやる。洗濯。突然午後5時出発。食準備で作りかけの夕食をそのままに、準備。
     夜間行軍約3里(約12km)は馬が転倒するような細道。橋頭鎭の一に宿営。

12月13日 晴。午前5時起床。朝の礼拝。行程10里(約40km)程度で、途中山岳地帯では、トーチカや塹壕があり
     敵が抵抗線の準備途中で放棄している。日本軍追撃が早く放棄した模様。友軍機による通信筒で南京の敵は、
     後退を始めると、混乱しているとの情報。夕刻南京東、約4里(約16km)の一に宿営。
     夜7時頃大行李第2大隊の2名が敗残兵1名を捕虜にしてくる。一人の将校が軍刀で処刑を試みようとした際、
     逃走を図り、追いすがって銃剣を突き立てる。昏倒した逃走捕虜を先ほどの将校が切りつけて斬殺する
     首をはねるつもりが頭を切りつけたようだ。初めて人に刃を向けた。敵兵は26歳ぐらいで、痛快と思う半面
     同じく妻子もあろうし国難に当たった者として同情と憐憫の情が湧く。早朝出発予定で、午前0時就寝。

12月14日 晴。午前4時起床。朝の礼拝。午前5時出発。行軍約半里(約2km)で前方で、手榴弾らしき爆発音がする。
     左側の斜面から敵が投下か路面の罠かで、機関銃隊5名が戦傷。夜間行軍は危険が伴う。小銃音も聞こえる。
     
明けて、第1大隊が敗残兵を捕虜に、その数5、6百名位。前進するに伴い数が増える。午後5時頃までには、
     数千名にのぼり広い場所が人だかりとなる。若くて12才位から年長者は50才を越えた位。服装も雑多で、
     兵士とは思われないよう。
山田旅団調べでは1万4千余名。入隊以来の痛快時。この辺一体は幕府山要塞地帯で
     鉄条網・塹壕などがある最後の抵抗線の模様。夕刻宿営地に向かう。自部隊の小行李一団は十字路で右を左に
     間違えてようやく南京城より約1里半(約6km)の支那海軍の海兵団宿舎に着く。夜に南京上空が真っ赤で
     沢山の地点で火災があるように見える

12月15日 晴。午前7時起床。朝の礼拝。本日滞在。歩兵は敗残兵掃討の為、午前9時要塞地帯へ出発。
     自分と3名で馬糧を徴発。馬の治療。本日も5、6百名を捕虜にしたと聞く。

12月16日 晴。霜。徴発と幕府山要塞へ昇り砲台見学。午後休養。東京日日新聞記者からの托便で身内からの便り3通
     もらう。故郷の消息を知る。南京陥落の報に接し、戦勝で部隊の部屋のあちこちで、歓声・歌が等が
     上がっている。場所は、南京郊外海軍水雷学校校舎。

12月17日 晴。本日南京入城式。各班勤務者以外は参加。小行李班では自分外2名が勤務で、他の班員が参加。
     午前中馬糧の徴発。今日は旧の油締め15日(*5)で砂糖小豆を食べながら焚き火を囲んで雑談する。
     揚子江渡河と対岸守備という噂が出る。避難民の有様を見たが実に哀れな状態で、どんな事をしても敗戦国に
     はなりたくないと思う。夕刻補充部隊150名着。郷里の戦友に会い消息を聞く。

12月18日 曇。寒。午前0時敗残兵の死体の片付けに出動命令が出る。小行李部隊全員出動。
     途中、数えられない程の遺体が累々とある。揚子江岸で捕虜○○○名銃殺する。昨日の月光は雲で薄暗い。
     捕虜銃殺を行った12中隊(第3大隊)の戦友が腹部を貫通されうめき声が聞こえる。午前3時帰営。
     午前中、南京見学へ戦友3名と行く。城壁の大きさに驚く。南京市内は焼け、破壊されて悲惨。
     敵兵の遺体や武装解除後の武器が多数路端に。夕刻帰営、午後9時就寝。銃殺捕虜の死体処理(18日○時)。

12月19日 小晴。霜。氷張る。朝食後に南京碼頭の野戦郵便局に、郷里の身内、知人等へ南京陥落記念のスタンプを
     押した葉書を出す。今日は砲声も銃声もなく就寝。初雪が南京近くの山に見える。10月21日に倒れて別れた
     愛馬の白玉が戻ってくる。未だ足は良くなってない様子。

12月20日 晴。午前5時起床。朝の礼拝。愛馬の白玉・泰容とも行軍は無理と判断して置いていく。辛苦を共にした
     愛馬に申し訳なく感謝する。午前8時宿営地発。午後1時渡河。浦口も戦禍の後。一旦宿営地の浦口鎮につく
     が、大行李部隊と共に浦口へ戻り、午後11時宿営地に帰営。



【土下座強要派】の小野賢二氏の資料は、その【真偽】は兎も角、面白い資料である。このサイトや土下座強要派の方々から【幕府山】での【日本軍の犯罪行為】の【根拠】とされる文献だが、日記が本物ならば面白い事が判る資料でもある。

このサイトの方々の【事件】なるものの主張範囲は【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】であるから、12月3日以降を見てみると、
この人物は、当初からの参戦組で、電話架設部隊であり司令部に出入りし、情報に接し安かった人物と言う事も判るが、後半は部隊と別れてしまい、ほぼ連絡が取れない状況と、前半は体調が悪く後方待機になっていたので戦闘や作戦に参加していない。兎に角筆まめなのか、やたら書いている人物で、疑問になる程である。
ただ、情の深い方のようで愛馬のことや敵兵・敵国民の状況に対する憐憫を良く書いている。12月9日の鎭江手前での破壊された家屋の前に茫然と立つ子供達に菓子を与えていることと、哀れさに涙を流している様子は人間らしい姿ではある。戦闘員と言うよりも後方部隊員ならではの殺意の無さかも知れない。良く郷里のことなども思い出している様子で、他の前線部隊の兵士と違い心に余裕がある生徒も考えられる。12月13日の鹵獲した敵兵への処分に関しては、斬首が適切行為かどうかは疑問だが、戦闘中であることを踏まえると非合法とまでは言えないと考える。
結論的には、この人物の記載の中には、【一般人】が【大勢居た】ことも【民間・兵卒】共に【大勢が殺害された】こと等は、一切記述にないのは言う迄もない。
なお、幕府山に関しては、兵卒とは思われないような雑多な服装や、12歳位〜50を越えた様に【見える】敵兵の様子は、重要な記述考えられる。この人物は、支那海軍水雷学校校舎に宿舎とあるが、魚雷営近辺ならば16日の火災とその後の捕虜の処刑について書いていないことは、17日の遺体についての事は書いているのに全く奇妙なことである。17日は避難民の有様を見たが実に哀れな状態を記しているが、何処で目撃したのかも書かれていない。

国際社会で流布している【歴史観】で、ジョシュア・A・フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』(*6)という書籍に書かれているようなハーバード学派の歴史学者達の南京に於ける日本兵のイメージとしての次の文面と比較すると、ほぼ間違いなく間違っていると言わざるを得ない。
この堀越という人物は、楽しんでいる様子を記していないし、【個人】として軍事上不必要な殺害は行っていない

引用 チャールズ・メイヤー(*7)【まえがき】《
個人としての兵士が、銃弾のみならず刀や銃剣を使っておそらくは何万人もの民間人をしばしば陽気な気分で殺害したことを意味するがゆえに、それだけいっそう残虐であるように思われる。
《中略》
退廃や人間性喪失を増幅させることにも一役買った。

日記の記述には、殺害を陽気な気分で行っているとは記述していない。特に人間性を喪失している記述も見られない。むしろ、敵や敵国民に対する憐憫の情などが見られるように、ハーバード学派などの様な【思い込み】による【歴史認識】とは、全く異なっている。
このような【誤った認識】が【世界】では【主流】ということは、【近代史】という【学問】又は【科学検証】への【質】を劣化させている一因になっている事は間違いない。

 

この日記では、棲霞山近辺での記述がない。BBCの2019年09月2日の記事【南京大虐殺で、多くの中国人救ったデンマーク人 没後36年目の顕彰】でのベルンハルト・アルプ・シンドバーグ氏のいうセメント工場での話という日本軍がセメント工場から徴発あるいは攻撃した話は爪の先程も出てこない。因みに、記事を読むと日本軍から守ったのであって、セメント工場の中の避難民が殺害された訳ではないことは言うまでもない。

 

 

 

【参考文献・参照】


(*1)小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』
    全416頁 大月書店 1996年3月14日 【Amazon】

(*2)大行李 第一線の部隊に緊急には必要としない糧食、衣服などを補給するための部隊 【Link】
(*3)次硝酸ビスマス 下痢、潰瘍などに用いる収斂薬 【Link】
(*4)人工カルルス泉塩 緩下薬・消化薬として用いられる。【Link】
(*5)油締め 冬支度をはじめる11月から12月にかけて油ものを食べる風習 【Link】
(*6)ジョシュア・A.フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』 柏書房 2000年5月1日 【Amazon】

(*7)チャールズ・メイヤー wiki 【Link】


【参考サイト・Twitter】


ZF殿サイト及びTwitter
・補記10 幕府山事件(地理編) 【Link】
・ZF殿のTwitter 地理のスレッド 【Link】
・ZF殿のTwitter 収容所の位置 【Link】
・ぎよみどん殿のTwitter 幕府山の画像(7年後の1944年撮影) 【Link】

 



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