【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】への反論前の研究ノート その16

2020年03月31日 11時30分00秒 | 1937年 南京攻略...

【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】
この南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】について反論する前に、情報収集として城外に大量の非戦闘員が居たのかという記録が無いかを調べてみる。
初めに、小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』から始めて見る。
因みに、【引用】ではなく、当方の要約である為、個人の印象や判断は異なるので、原文は書籍(*1)を読まれることをお薦めする。

 


【3[遠藤重太郎(=偽名)]陣中日記】

P.87
3[遠藤重太郎]陣中日記

所属:歩兵第65連隊>第一大隊本部・大行李・編成
階級:輜重特務兵(1938年1月一等兵に進級)

10月03日〜10月18日
虬江碼頭に上陸。上海共同租界日本日東紡績官舎三重県人住宅に宿営。
午後8時発。雨天の中工兵隊の敷設道路を夜間行軍。然し膝まで没するような悪路。
明朝4日帰家宅着。

(日時不明)午前5時発。老家宅の前線へ。到着直後敵攻撃を受け1名戦死、1名負傷。
滞在10日。大行李特務兵65名の内1名戦死。現在64名、駄馬19頭が砲弾で戦死。
2km後退。さらに弾丸が着弾の為、蔡寧宅まで後退。後1ヵ月同地に駐屯。
行李長の馬の看護の為第一兵站病馬廠まで後退。
部隊は馬家宅、老陸宅、新木橋などの前線へ行軍する。65連隊の一番の戦績。
羅店鎭、嘉定城、無錫を通過し江陰鎭の本隊と合流。江陰城一番乗りの栄代を第12中隊の兵士が受ける。
江陰から鎭江までの行軍で足痛の為、戦友が背嚢をかついで貰う。自転車に乗って行軍する。
江陰を出発して5日目、鎭江へ到着。鎭江は電気が付いていて上海のようである。
某所へ行軍。
烏龍山砲台に向かった部隊が早々に第1中隊と仙台騎兵隊で占拠。
他部隊で向かった幕府山砲台で捕虜2万を得た。
戦友が12月17日午後10時に戦死。

12月19日 南京城を見学したのは12月17日。明日揚子江渡河。

12月20日 揚子江渡河し、西北方面へ行軍。



【土下座強要派】の小野賢二氏の資料は、その【真偽】は兎も角、面白い資料である。このサイトや土下座強要派の方々から【幕府山】での【日本軍の犯罪行為】の【根拠】とされる文献だが、日記が本物ならば面白い事が判る資料でもある。

このサイトの方々の【事件】なるものの主張範囲は【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】であるから、12月3日以降を見てみると、
この人物は、まとめ書きのような記述であり、【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】の開始がよく判らないが、当時の第1大隊の行動から、江陰から鎭江まで5日間かかっていることから、鎭江から幕府山まで2〜3日と計算すると江陰城手前ぐらいかであったと考えられる。行李部隊であるので前線へと言うより後続部隊であり、前線よりはゆとりがあったはずにも関わらず、10日滞在以降の記述に混乱が見れる。元々筆まめな方ではなかったのと後で思い出しながら記述した事で曖昧な記述になったと推察する。

この人物の記載の中に【一般人】が【大勢居た】ことも【民間・兵卒】共に【大勢が殺害された】こと等は、一切記述にないのは言う迄もない。

なお、幕府山に関しては、12月17日の殺害当時に【戦死】した戦友が【午後10時】としている事は興味深い点である。

国際社会で流布している【歴史観】で、ジョシュア・A・フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』(*2)という書籍に書かれているようなハーバード学派の歴史学者達の南京に於ける日本兵のイメージとしての次の文面と比較すると、ほぼ間違いなく間違っていると言わざるを得ない。
この遠藤という人物は、楽しんでいる様子を記していないし、【個人】として軍事上不必要な殺害は行っていない

引用 チャールズ・メイヤー(*3)【まえがき】《
個人としての兵士が、銃弾のみならず刀や銃剣を使っておそらくは何万人もの民間人をしばしば陽気な気分で殺害したことを意味するがゆえに、それだけいっそう残虐であるように思われる。
《中略》
退廃や人間性喪失を増幅させることにも一役買った。

日記の記述には、殺害を陽気な気分で行っているとは記述していない。特に人間性を喪失している記述も見られない。
こういう誤った【思い込み】による【歴史認識】が【世界】では【主流】ということは、【近代史】という【学問】【科学検証】への【質】を劣化させている一因になっている事は間違いない。

 

この中野の資料でも、BBCの2019年09月2日の記事【南京大虐殺で、多くの中国人救ったデンマーク人 没後36年目の顕彰】でのベルンハルト・アルプ・シンドバーグ氏のいうセメント工場での話という日本軍がセメント工場から徴発あるいは攻撃した話は爪の先程も出てこない。因みに、記事を読むと日本軍から守ったのであって、セメント工場の中の避難民が殺害された訳ではないことは言うまでもない。

 

【参考文献・参照】


(*1)小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』
    全416頁 大月書店 1996年3月14日 【Amazon】

(*2)ジョシュア・A.フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』 柏書房 2000年5月1日 【Amazon】

(*3)チャールズ・メイヤー wiki 【Link】


【参考サイト・Twitter】


ZF殿サイト及びTwitter
・補記10 幕府山事件(地理編) 【Link】
・ZF殿のTwitter 地理のスレッド 【Link】
・ZF殿のTwitter 収容所の位置 【Link】
・ぎよみどん殿のTwitter 幕府山の画像(7年後の1944年撮影) 【Link】

 



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