1937年 【南京事件】の一つとされる【66連隊の捕虜処刑】について

2018年04月23日 11時16分45秒 | 1937年 南京攻略...

1937年【南京事件】の一つとされる【第114師団66連体第一大隊の捕虜処刑】について

 

※註:赤字太字は2018年5月14日に変更

1937年に起きたとされる南京事件の【虐殺事件】と云われるケースの一つに第66連隊の第一大隊による【捕虜処刑】がある。
【虐殺】として特に取りあげられるのは、中支那派遣軍>第16師団>歩兵第65連隊(両角部隊)が行ったとされる揚子江沿いの幕府山のケースとこの第十軍>第114師団>第127旅団>歩兵第66連隊(山田部隊)第一大隊の中華門城外南東面のケースである。(【>】は隷下とする)他に馬群での事例もあるが【戦闘詳報】に【処刑命令】の記載があるという極めて稀なケースである。
最初の画像は、その命令文と実行経過を示した【戦闘詳報】に記載された文面である。

このケースの認知度に関して、日本では余り紹介されておらず、幕府山に比べると人数の少なさから認知されていないのではないかと考えられる。しかし、海外では、アイリス・チャンによるその著書『レイプ・オブ・ザ・南京』(1997年)により、日本軍の【虐殺】として広く認識されている。
アイリス・チャン氏を含め、他の研究者による認識はどうであろうか。
秦郁彦氏、笠原十九司氏、偕行社、板倉由明氏などの見解を紹介する。

①アイリス・チャンは、その著書『レイプ・オブ・ザ・南京』で次のように述べている。
引用《日本軍が南京に進攻するころには、全ての中国人捕虜を殺せとの命令は文書化されたのみならず、その指令書は下級指揮官に至るまで配布されていた。1937年12月13日歩兵第66大隊(当方補記:第114師団 歩兵66聯隊 第一大隊のこと)に次のような命令が届いた。
大隊戦闘詳報(当方補:第114師団 歩兵66聯隊 第一大隊の戦闘詳報。その内以下の文章は、歩六六作命甲第八十五号中に存在する連隊命令の【七、午後零時左記聯隊命令ヲ受領ス=>聯隊命令ノ要旨=>次の八】という記述)
二時、連隊長より命令を受け取る:旅団司令部からの命令に従い、 捕虜はすべて処刑すべし。処刑方法は次の通り:捕虜を十数名ごとに分け、順番に射殺する。
午後三時三十分、捕虜処分の方法について意見を交わすため、各中隊長を集め会議を
開く。討議の結果以下の決定に至った。捕虜は各中隊(第一、第二、第四)間で均等に分割され、50人単位のグループで監禁室より連れ出し処刑する。第一中隊は露営地南側の穀物畑にて、第二中隊は露営地南西部の窪地にて、第四中隊は露営地南東部の窪地にて、それぞれ処刑を執行する。
監禁室の周辺は厳重に監視せよ。我々の意図は絶対に捕虜に感知されてはならない。監禁室の周辺は厳重に監視せよ。我々の意図は絶対に捕虜に感知されてはならない。各中隊は五時までに準備を整えよ。処刑は五時に開始し、七時三十分までに完了すべし。》
【欧文】p.41
By the time Japanese troops entered Nanking, an order to eliminate all Chinese captives had been not only committed to paper but distributed to lower-echelon officers. On December 13, 1937, the Japanese 66th Battalion received the following
command:
Battalion battle reporter, at 2:00 received order from the regiment commander: to comply with orders from brigade commanding headquarters, all prisoners of war are to be executed. method of execution: divide the prisoners into groups of a dozen. shoot to kill separately. 3:30 p.m. a meeting is called to gather company commanders to exchange opinions on how to dispose of pows. from the discussion it is decided that the prisoners are to be divided evenly among each company (1st, 2nd and 4th company) and to be brought out from their imprisonment in groups of 50 to be executed. 1st company is to take action in the grain field south of the garrison; 2nd company takes action in the depression southwest of the garrison; and 4th company takes action in the grain field southeast of the garrison. the vicinity of the imprisonment must be heavily guarded. our intentions are absolutely not to be detected by the prisoners. every company is to complete preparation before 5:00. executions are to start by 5:00 and action is to be finished by 7:30.
(http://nagaikazu.la.coocan.jp/nanking/1_2Ja.html&http://nagaikazu.la.coocan.jp/nanking/PART1_2.html より)》

②秦郁彦氏は、「南京事件 『虐殺』の構造」(1986年)p.156から次のように述べている。
引用《[第十軍ー第百十四師団]捕虜は全部殺すべし…〈中略〉…すでに城壁守備の中国兵はほとんど後退していたので、本格的な戦闘はなかったが、敗残兵狩りで相当数の捕虜を得た(歩六六だけで三百余)。掃蕩行動は一三日中にほぼ完了し、師団の各隊は城内東南地区に宿営するが、この間に捕虜の上に苛酷な運命が見舞う。
…〈中略〉…刺殺に参加した一兵士は、この日の日記に次のような鬼気せまる記事を残している。
「午後五時、南京外廊にて敵下士官兵六名を銃剣を以て刺殺す。亡き戦友の(るび:かたき)をとった。
全身返り血を浴びて奴ののど笛辺りつきたるや、がぶ(るび:ママ)血をはいて死ぬ。背中と云わず腰と云わず、指して刺しまくり、死ぬるや今度は火をつけてやる。…」》

③笠原十九司氏は、著書『南京事件』に於いて
引用《P.155 10行目より 第一六師団とは反対側の南京城南側を担当した第一一四師団は、投降勧告をおこなって捕虜にした中国兵を殺害している。同師団の六六連隊第一大隊が、一二月一二日夜、中華門から光華門にかけての城壁南で、一五〇〇余の捕虜をどうして獲得し、どのように処刑したか、同大隊の戦闘詳報によってあとづけてみよう。
…〈中略〉…
P.157 5行目
ハーグ陸戦条約の第二三条の戦闘中の禁止事項として、「敵国または敵軍に属する者を背信の行為をもって殺傷すること」が定められている。右の第六六連隊のように助命すると約束して投降を呼びかけて捕虜にし、収容してのちに刺殺したのであるから、あきらかな背信行為であり、重大な国際法違反である。しかし、戦闘詳報の記録には、犯罪行為をやったという意識はまったくない。》

④『南京戦史』(偕行社)では、次のように記述している。
引用《P.215 捕虜の刺殺について
歩兵第六十六聯隊第一大隊関係者の手記と証言
第三中隊長・西沢弁吉氏著『われらの大陸戦記』によると、「雨花台の敗残兵約三千が域内に遁走するのを阻止する戦果をあげた」と記しているが、捕虜の処分には触れていない。
第四中隊長・手塚清氏著『聖戦の思い出』には、大要次のように記して、捕虜処分の事実を認めている。
「十五日午後、館野軍医中尉が、入院中の一刈第一大隊長を迎えに来た。その話によれば、第四中隊は南門(当方補:中華門)城外で逃げ遅れた敵兵千二百四十名を武装解除して捕虜としたが、捕虜に給する食糧がないので、これらを第一、第三中隊その他に分配、各隊は適宜処置したとのことである。」
この捕虜の刺殺について直接西沢、手塚両氏に質問したものの手記の範囲を出なかったが、第四中隊第四分隊・高松半市氏は次のように述べた。
「数は、それほど多くなく、その半数以下であったと思う。私の中隊だけでは処分しきれないので、他の中隊に手伝ってもらった。私の中隊で処分したのは百名ぐらいと思う。当時中隊で満足に行動できる兵は、七、八十名で、捕虜監視に多くの兵力を割くことは不可能であった。」
P.317 【一 雨花門外における歩六六第一大隊の捕虜処断】12行目より
歩六六第一大隊の戦闘詳報をみると、隣接部隊等の戦況の進捗状況とチグハグの部分や、軍事的慣例と異なる記述などがあり了解し難い部分があるが、十三日午後二時の聯隊命令「旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スベシ。其方法ハ十数名ヲ捕縛シ逐次銃殺シテハ如何」にしたがい全員を処断したと記述されている。全文を通じその表現は極めて異様である。
また歩六六聯隊の戦闘詳報は目下のところ未収で、従って聯隊側の下達命文は不明である。》

⑤板倉由明氏は著書『本当はこうだった南京事件』の中で、次のように述べている。但し、この戦闘詳報の問題点は別に記述されている。
引用《ただし歩六六Ⅰが十三日夜、捕虜を殺害したことは事実である。この捕虜は生命の保証をして投降させたものといわれ、そうだとすれば卑劣な行為である。人数は師団戦闘詳報では一千五百人程度だが、三個中隊二百五十人程度ではとてもそんなには、というのが中隊員の証言(高松半市氏)で、話半分というべきだろうか。》

最後に、⑥松村俊夫氏は、『「南京虐殺」への大疑問―大虐殺外国資料を徹底分析する』(1998)
《P.63 「日本軍による捕虜殺害と釈放」 15行目
南京攻防戦のとき、日本軍として非難されても止むを得ない捕虜殺害があったことは書いておかなくてはならない。それは宇都宮第一一四師団の第六六連隊第一大隊戦闘詳報によって、判明している。このうち捕虜に関する部分は、笠原十九司の『南京事件』が引用している(同書156〜157頁)。
〈笠原氏『南京事件』より引用文、偕行社『南京戦史史料集』678頁にも掲載〉
P.65 3行目
戦闘詳報によると、この捕虜千五百名余は、十二月十二日南京郊外で戦っていた支那軍が味方によって城門を閉ざされ、日本軍は退路を失った彼らを城壁南側のクリークに圧迫して殲滅するばかりだった。彼らは味方にも見捨てられた哀れな兵たちだった。その内訳は、将校十八、下士官千六百三十九だったとある。
このときの旅団命令、聯隊命令の確認はできていないが、執行者の困惑ぶりが伝わってっくるような気がする。これを氷山の一角と考えるか、または特異な例として直視するかは、今後、読者が判断されることである。》

と肯定派・中間派ともに表現の差や人数は違いがあるが、概ねこの【史料】による日本軍の行為は、【事実】と認識されている。
①でチャン氏は、捕虜殺害(処刑)の命令と指令書が下級指揮官にまで配布いたと記し、②の秦氏は、情報の氏名を伏せられた兵士の日記を紹介し、その残酷さを伝えているが、但し、元の【史料】を公開してない為、印象操作としか言えない。③笠原氏は、助命の約束した投降捕虜を処刑は、重大な国際法違反あると、そして【罪の意識が無い】という感想つきである。④偕行社は【全文を通じその表現は極めて異様である】とはしながらも、⑤の板倉氏の見解も、③の笠原氏同様の卑劣な行為と断罪されている。⑥の松村俊夫氏は、その著書で肯定派や支那人の被害証言者の矛盾を鋭くついておられるが、この事件に関しては非難されても止むを得ないとされている。ただ、⑥の松村氏は戦闘詳報などの解析は著作にも論文にも言及されたことがない為、得意分野ではないとの感は歪めない。又少しずれるが、③笠原氏の主観と⑥松村氏の主観が、全くずれていることは、研究者が客観的な要素だけではなく主観にも影響されていることが窺える。
このように、この66連隊第一大隊の【戦闘詳報】に記述された【文章】から、【在ったこと】と認識されている。極めて【否定】するのは一般的には困難な状況である。
では、この【戦闘詳報】は、【記載がある以上】間違いがないのか、実際の記述通りに行われた事が記載されたことかを確認したい。

 

第66連隊の行動と他の隣接部隊の行動を戦闘詳報・陣中日誌等から検証

この第114師団>第127旅団>歩兵66連隊>第一大隊が行ったとされる【捕虜の虐殺】について考察する際に於いて、検証された板倉由明氏は次の四つの重要史料を挙げている。(詳しくは、板倉由明著『本当はこうだった南京事件』を御参照頂きたい。)

①丁集団(第十軍)命令
②第114師団戦闘詳報其他綴 磯田参謀長
③南京附近戦闘詳報(歩128旅団命令を含む)歩兵第150連隊
④歩兵第66連隊第二大隊 陣中日誌

これら①から④の重要箇所は、偕行社『南京戦史』や『南京戦史史料集Ⅰ・Ⅱ』に掲載してある。
そしてその問題の【処刑】の有無については、偕行社『南京戦史』(P.215)での第四中隊長・手塚清氏著『聖戦の思い出』に掲載された15日午後入院中の一刈第一大隊長に館野軍医中尉が語ったとされる食糧補給不足が理由で1,240名という具体的な人数の支那兵を【処断】したという伝聞と、同じく第四中隊第四分隊の高松半市氏によると【処刑】を【手伝ってもらっ】て第四分隊では100名程度で(他中隊は第二分隊は当時本部付であった為不在で第一、第三を合わせると300名程と推測される)あるとする【証言】を【肯定の裏付け根拠】とされている。

先ずは、【処刑】の【有る・無し】を少し脇に置いて、第66聯隊の史料による行動について、他の部隊の史料も含めて検討することにする。
中華門(南門)を含む南側城壁への攻略は1937年12月12日〜13日で直接の参加部隊は、城壁西側から第6師団(23連隊、47連隊、13連隊)、中華門を挟んで、第114師団(第127旅団[66連隊、102連隊]、第128旅団[115連隊、150連隊])、第9師団19連隊と合計、8部隊が関わっている。

問題の66連隊は第114師団>第127旅団隷下であり、本来なら中華門及び右城壁を担当しているはずである。
史料として必要なのは、本来114師団・第127旅団・66連隊・102連隊の戦闘詳報か陣中日誌等である。
しかし次のように、この期間の史料について、アジ歴では公表されていないか又は存在しない。


第114師団:第114師団、第127旅団、第128旅団、第66連隊、第102連隊
第6師団:第6師団、13連隊
第9師団:第9師団、19連隊
(アジ歴=国立公文書館 アジア歴史資料センター

偕行社『南京戦史』や『南京戦史史料集Ⅰ・Ⅱ』には、114師団・128旅団・第66連隊の部分、第6師団・13連隊、第9師団・19連隊について、重要部分が掲載されている。
アジ歴で確認することが出来る【戦闘詳報・陣中日誌】は、第6師団>23連隊、47連隊、第114師団>115連隊・150連隊である。

 

この歩兵第66聯隊の戦闘詳報は、信用できる【史料】かどうか。

板倉氏の説とは別に、第66聯隊戦闘詳報には、【信用】を疑う重要な記載がある。
12月12日の様子から、
《(十三)第四中隊は驀進し来たれる115i配属の軽装甲車中隊(小倉五大隊)と協力し擲弾筒手榴弾を以て頑強に家屋に拠り抵抗する敵を制圧しっゝ進入す》
《(十八)我友軍砲兵(重砲)又終夜城内ヲ砲撃シ頭上ヲ越エテ敵砲兵ヲ制圧シタリ我カ砲兵射撃ヲ開始セハ敵砲兵沈黙シ我レ射撃ヲ中止セハ彼レ又射撃ヲ開始セリ》
と二つの状況であるが、この二つの内(十三)に歩兵第115聯隊との連繋が記されているので、その当時と考えられる並行戦を行っている115聯隊の戦闘経過図を次に示す。


[115聯隊第11分隊12月12日午後兵工廠戦闘]

そしてその状況を第115聯隊の戦闘詳報では、次のように記載されている。
《五、第十一中隊は所命の城壁東南角に向ひ前進中折柄前進し来る戦車隊(戦車第二聯隊長細見中佐指揮〈当方補:戦車第五大隊=軍神・西住戦車部隊〉)と協力し午後一時三十分図上A点に進出し東南門に通する橋梁破壊せられあるを知るや左折して南門に向ふ目的を以て前進し途中城壁上より猛烈なる集中火を受くるも之に制圧射撃を加へつゝ戦車と共に強行約四百米の距離を突破し午後二時兵工廠前貯油庫を占領す然るに北方城壁及「クリーク」両岸よりの小銃、軽機、迫撃砲の猛烈なる集中火に加ふる兵工廠階上より手榴弾の攻撃を受け一時苦境に立つに至り此の間率先勇猛能く部下の士気を鼓舞し奮戦しありし小隊長小林曹長胸部に敵弾を受け壮烈なる戦死を遂けたる外死傷者六名を生せるも屈することなく奮戦一時間城壁上下の敵を制圧沈黙せしめ而して工廠の兵力侮る可からさるものあり南門に向ひ通過困難なると且つ兵工廠の重要性に鑑み之を占領するに決し優先力闘午後二時二十分工兵隊の学はに依り門扉を破壊し廠内に突入するや敵は遺棄死体七十五を残し西南方に潰走せし遂に完全に之を占領して同工廠の警備確保に任せり》
と東南門(恐らく雨花門こと)へ向かわず、中華門(南門)へ向かうがその手前の兵工廠で近辺で支那側から猛反撃を受け、その後兵工廠を攻略占領したとある。然しながら、何処にも66聯隊との【協力】の記述の存在は無い。経過図の方も見事なぐらいクリアである。
又この要図をみれば兵工廠の前は城壁から遮蔽する建物が無く、城壁に支那軍が残存兵力が残っていれば、当然双方《終夜城内ヲ砲撃シ》と成るのは確かである。この12日夜の66聯隊の(十八)に書かれたような【撃てば止み止めれば撃たれる】という状況は第115連隊の戦闘詳報にはどう記されているかというと、
《午後十時頃に至り敵は更に東側城壁上下より逆襲し来れるも機先を制し之を撃退し爾後概ね要図態勢にありて夜を徹す而して敵は夜更るに及ひ逐次退却せるものゝ如く銃声漸次衰ふるに到る(第115聯隊戦闘詳報)》
のように12日夜深けてから13日の朝に掛けて支那軍の攻撃はフェードアウトしている記述で、第66聯隊と第115聯隊の戦闘詳報の記述の大きく雰囲気が違っている。読む方によっては受け取り方はかなり印象が違うのでは無かろうか。
[115聯隊第11分隊12月12日午後兵工廠戦闘]をみると歩兵第115聯隊の第11中隊と戦車第五大隊(細見中佐率いる戦車第二聯隊[補記:細見中佐が率いていたのは戦車第五大隊で、戦車第二連隊は南京戦には史料が無い])が、中華門よりの兵工廠を制圧占領している(図参照)。第11中隊は中華門(南門)への道が閉ざされていて、そのまま兵工廠を警備して14日迄滞在しているし、戦車第五大隊もその後の記載が無い。
翌13日中の第66連隊や第102聯隊の動きに対しても115聯隊の戦闘詳報では協力のような報告も成されていない。尚、余談であるが、この兵工廠には第6師団第13聯隊(中華門攻略部隊)も宿営地にこの兵工廠(ただし、?マークが附させている)を用いた記述があるが、その事についても115連隊の戦闘詳報には何も記述されていないのも確かである(但し戦闘協力ではないので記載されなかったのか)。

尚(十三)の《第四中隊ハ驀進シ来タレル115i配属ノ軽装甲車中隊(小倉五大隊)》の小倉五大隊とは【戦車第五大隊】と考えられている。サンケイ栃木の『郷土部隊奮戦記』でも、《歩兵第百十五連隊に配属された九州小倉の装甲車第五大隊の一個中隊と協力》と戦闘詳報と同じであり、戦闘詳報記載者の認識は、【戦車第五大隊】ということになる。しかし前述通り115連隊の戦闘詳報から中華門(南門)への道が閉ざされている以上中華門(南門)攻略参加の可能性は【戦車第五大隊】の史料の発見がないと確実には分からない状態である。115の戦闘詳報に於いても《細見中佐率いる戦車第二聯隊》とあるのは、記載間違いが存在する。同じく中華門(南門)を攻略していた第6師団の第13聯隊はどうかというと、偕行社(『南京戦史』P.135)では戦車第五大隊独立軽装甲車第2中隊・第6中隊との共闘の記載がある。

又、KKnanking氏の指摘があり、偕行社のP.211の4行目に《第四中隊ハ幕進シ来タレル配属ノ軽装甲車中隊〔注・戦車第五大隊の品川大尉指揮の集成軽装甲車中隊〕ト協力シ、》とのこと。


偕行社『南京戦史』P.211より

問題の(十三)の115連隊配属の第五大隊の軽装甲車中隊といつ協力行動をとったかは定かでは無いが、【兵工廠】と【城壁】の記述もなく、偕行社に66連隊の(附図一〇)も(要図)が掲載されていない為、その行動不明である。
ただ、午後2時30分発の66連隊第1大隊中華門城外を午後3時に占領するようにとの命令があり、第4中隊は東側地区、第1中隊は中央地区、第3中隊は中華門に通じる本道東側地区より侵入掃討を開始する命令が発せられている。



しかしながら、同時刻には115連隊11中隊が戦車第五大隊との協力の下に【兵工廠】を制圧中であり、(十三)の戦車大隊と合同した第四中隊の記述には、【兵工廠】の記述や城壁についての記述もなく、本来、66連隊が担当するエリアである、中華門【東側城壁】と【兵工廠】をめぐる戦いには参加していないことになる。
当方の左記の主張の、【66聯隊の戦闘詳報に中華門(南門)攻略に参加していない115聯隊と戦車第五大隊の部隊の中華門参戦部隊かどうか不明な部隊を入れるという過ちを犯しており、【信用性】に疑い生じたことになる。については、戦車第五大隊が【兵工廠】攻略後、【兵工廠】の西側道を南に進路をとって、中華門方面へ行ったとすると、66連隊の第4連隊と合流するやも知れず、記載違いとまでは言えずこの主張の取り下げる。

再度、点検と確認を行った結果、次の不思議な点を発見した。
66連隊の捕虜鹵獲場所と鹵獲後の線路上に集結せしめた後、洋館に収容したとあるが、一旦中華門に通じる本道東側地区で鹵獲した支那兵を雨花台へ登った所にある線路上に集結させてそして場所は不明だが洋館に収容せしめるなど果たしてこのような事が可能であったのか非常に疑問である。サンケイの郷土部隊奮戦史では凹地となって居るため、66連隊の表現と異なっている。地図上にはない軍事物資輸送などの敷説線路があった場合かは不明であるが、史料は存在していない。秦郁彦氏の捕虜の画像(ブログ後半に有)でも、線路が明確ではなく線路よりも凹地や壕の様にも見えなくも無い。仮に66連隊の捕虜の仮集成地が線路上だとすると前述通り不思議な行動であり、この事は地図を見ればおかしな記述であるというのは一目瞭然である。


 

更に次の要図を見ると、



[115聯隊12月12日午後6時戦闘経過]


[47聯隊12月12日18時戦闘経過]

12日の午後には既に、城壁南側の城内も含めて左右は日本軍に押さえられている。これでは支那軍は撤退せざるを得無い状況が見てとれる。つまり、支那軍は体制が崩れ撤退を開始していると考える方が普通である。
12日から翌13日明け方について、南京に残留していた欧米人・欧米人記者の記した記事・日記類の【史料】には、ニューヨーク・タイムズのF.T.ダーディン記者の12月18日の記事やジョン・ラーベ(ナチスドイツ党員、国際安全委員会委員長)の日記、『Eyewitnesses to Massacre: American Missionaries Bear Witness to Japanese Atrocities in Nanjing』に収載されている当時南京に残留していた欧米人うち、ルイス・S・C・スマイス(南京金陵大学の社会学教授、南京安全区国際委員会秘書)、ジョン・ギレスピー・マギー(米国聖公会牧師)の日記や回想録を確認してみると、13日の明け方には支那軍は北の揚子江沿いの脱出口である下関へ逃走していることが判る。この事から13日の午前6時頃には支那軍は中華門周辺にはほぼ存在しなかったと考えられる。
これを踏まえて、翌12月13日の第66聯隊戦闘詳報の様子はどう記されているか確認すると、
《五、午前七時〇分予定ノ如ク行動ヲ起シ機関銃ヲ斉射シテ聯隊主力ノ城門進入ヲ援護スルト同時ニ当面ノ掃蕩ヲ開始ス
   午前七時四十分頃日ノ出ヲ見ルヤ全軍一斉ニ立チ上リ万歳ヲ唱へ遥カニ皇居ヲ遥拝シ感激ニヒタル
   掃蕩愈々進捗スルニ伴ヒ投降スルモノ続出シ
   午前九時頃迄ニ三百余名ヲ得 友軍砲弾ハ盛ニ域内ニ命中スルヲ見ル》
とある。
前述の欧米人の記録と[115聯隊12月12日午後6時戦闘経過]と[47聯隊12月12日18時戦闘経過]と、次の[150聯隊12月13日戦闘経過]図を見れば、この66聯隊の戦闘詳報の(五)の内容の《午前七時〇分予定ノ如ク行動ヲ起シ機関銃ヲ斉射シテ聯隊主力ノ城門進入ヲ援護スル》はあり得ない話になる。


[150聯隊12月13日戦闘経過]

今までの検討から此の12日〜13日の午前7時迄の第66聯隊の戦闘経過の状態は、偕行社や板倉由明氏等も指摘されている通り戦闘状況が著しく他部隊と食い違いがあり、115聯隊の第11分隊兵工廠に於ける戦闘経過図(12月12日 午後4時頃)(図参照)や150聯隊の戦闘経過図(12月13日 午後3時頃)(図参照)を検討しても、中華門(南門)横の城壁上の支那軍の残留部隊が残存して居たとは考えにくい。つまり、南京中華門(南門)及び雨花門(雨巷門)の城門占拠・城壁突破の攻撃には【第66聯隊】は参加していないにも関わらず創作された文章ではなかったのかという疑いが出て来た。
尚、この戦闘詳報が作成されたのは、小宅伊三郎曹長(第4中隊第1小隊長代理)によると戦闘詳報記載に詳しくない大根田副官が記載したとのこと(「城塁・兵士たちの南京事件」第19回(『丸』1980年7月号、P213))で、又、西澤辨吉(第3中隊長)『われらの大陸戦記(1972年)』P.92によると12月《三十一日晴れ、…<中略>…軍は戦斗詳報作成の為め昨日より暮れも正月も返上して戦いの結果を総まとめにかかる。》と西澤氏も関わっていたことが判る。19日も経ってからの戦闘詳報作製の為には第4中隊長・手塚清氏(又は平澤銀次郎少尉)も情報の不明点等の確認の為に作成に参加していないというのはおかしな話になる。その辺の不明点は特に追求されている史料はない。又、時間が経ってからの作成には記憶違いなどによる混乱も記載に影響し得なかったとは当然言えず(前述)、記載に不参加部隊の参加や別部隊の参加と誤認したりする問題が発生してもおかしくはない。そうすると此の戦闘詳報の【史料価値】は更に【低下】となる。
サンケイ栃木版の『郷土奮戦記』という参戦者の回想記録があるが、この戦闘詳報を戦後発表するまで保持されていたのは第3中隊の藤沢藤一郎氏(丸MARU 1990年7月号 通算528号 連載第19回)であり、この史料を中心に実戦に参加した旧聯隊兵卒の資料を合わせてまとめたものとされているので内容は戦闘詳報に準じているので比較対象にはならない。
その藤沢氏への入手経緯であるが、昭和14年8月聯隊解散で、日本国へ戻る際に戦闘詳報は《同じものか二部か何部かある内の一部(第一大隊戦闘詳報)》を藤沢氏は記念に貰ったということである。実際その様な【重要資料】を【記念】として、個人がもらうことが出来たのであろうか。そしてその現物は現在台風による災害で現物は破損し破棄されている。実際の所、この戦闘詳報が【当時を示す一次史料】として認識するには藤沢氏を信用するしかないのだが、このような重要書類が何部かあり、何故一個人が保持し得たのかが不明であり、前述の通り戦闘状況に疑問点がある為、氏の戦闘詳報に沿った証言にも疑いを抱かざるを得ない。結果、この【戦闘詳報】の【史料価値】は益々【低下】している。
結局、第66聯隊の当時の【戦闘状況】が実際はどうであったかが判る【史料」や【証言】は存在していない。もし、第四中隊第四分隊の高松半市氏がその【処刑】の真相を知るのであれば、【戦闘詳報】とは違う第66聯隊の動きを【証言】したはずであるが、その話は聞こえてこない。この事から単なる推測にしかならないが、高松氏もこの戦闘詳報を参照にした記憶にしか過ぎないのではなかろうか。高松氏への推測は兎も角この【戦闘詳報】の【信用性】は疑わざるを得ない。

 

66連隊の戦闘詳報における【処刑】が在ったのか無かったのか。

先ずここでこの事件が何故【虐殺】とされるのかは、【虐殺】の定義が【捕虜の処刑を不法不当行為】とされているからである。それ故に、この命令が実際に出され実行されたものかどうかが重要な事になる。その根拠はハーグに於ける【陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約】の同附属書【陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則】における第23条の【3、兵器を捨て、または自衛手段が尽きて降伏を乞う敵兵を殺傷すること。】に抵触する行為であり、理由無く【捕虜】を【処刑】すれば【違法・不法行為】となる。(ただし、状況に依るが全ての【捕虜処刑】が違法ではない。国際法の解釈でもグレーゾーンや適法される場合が存在する。詳しい事を知りたい場合は、【国際法】【信夫淳夫】【オッペンハイム】【戦数理論(*現在は当方も戦前の国際法学者の認識を受け、無理があると考えている。)】で検索をお願いしたい。)
さて【処刑】についての【史料】は、歩兵66連隊第一大隊の戦闘詳報の12月13日午前4時30分にに受領した聯隊命令【歩六六作命甲第85号】中とされる午後2時0分に受領した【八、午後二時零分聯隊長ヨリ左ノ命令ヲ受ク=>左記=>イ、旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スヘシ】から始まる文章である。
この命令に沿って66連隊第一大隊の第一・三・四の中隊が、捕虜約1500名を収容施設から50名毎に密かに連れ出して各分隊等分で【処刑】を実行したというものである。午後5時に準備を終了し午後7時30分に処刑を終了したとある。凡そ2時間半。
この【戦闘詳報】に書かれてあることから、紛れもない動かぬ【証拠】のある以上、定義上【戦時国際法違反】に該当する【虐殺】のケースとされている。【戦闘詳報】が戦闘時に於ける軍隊の【記録・公文書】として存在するので、【戦時法違反】としての【捕虜殺害】にあたる【虐殺】を命令した【明確な記録】ということになっているからである。
しかしながら、前述ようにこの【第66聯隊第一大隊の戦闘詳報】については、該当部分の記載に於いては【信用性】はかなり【低く】、又板倉由明氏及び偕行社『南京戦史』でも、並行作戦を行っていた他の部隊との食い違う戦況や命令としての時間的なズレの存在から、何者かによって改竄されたという疑惑を提示されている。(但し板倉氏・偕行社共に【捕虜殺害】に関しては肯定している。)
ただ、この板倉氏の時間的なズレは、【歩六六作命甲第85号】の2つ後の【歩六六作命甲第87号】における山田連隊長指示の【下達法 先ツ要旨ヲ各別ニ下達シ次テ命令受領者ヲ集メ口達筆記セシム】と言う文言がある為に、時間的だけについて言えば、一見は矛盾はなくなる。
然し乍ら、其の内容と其の内容での【其の時間】には考えにくいという大きな問題がある。命令の内容ゆえに【聯隊命令ノ要旨】が正式な【作命甲第86号】若しくは【作命甲第87号】適当と考えられるからである。その辺の事情が全く解明されていないし、歴史学会やアカデミックな近代史専攻の学術界の人々はその事に特に関心と注意を何故か示されていない。
何故【午後零時(13日正午)】に出された命令では無く、13日夜遅く11時40分に発令された【作命甲第87号】ではないかという推測は、【要旨】の内容をみると、
(1)戦闘中にもかかわらず【14日払暁の宿営地(希望街)の指示】が一番に為されていること
(2)【参謀注意事項】として【イ、十五日頃入城式十六日頃慰霊祭ヲ実施セラル、予定之カ参加部隊ハ一部ニシテ主力ハ可成速ニ長興宜輿間ニ集結】という【慰霊祭・入場式】についての命令があること。
城内担当区域の掃討命令ではなく、城内掃蕩終了が確認もされていない状況で(1)の命令は考えにくく、(2)の主力の速やかな長興と宜輿間に集結を命じるなど以ての外である。そして歩150聯隊の【戦闘詳報】と【陣中日誌】には、13日での【入場式命令】の記述は無く。その後の歩150【陣中日誌】では15日午後4時には杭州転進が書かれて居るのみで、第66聯隊の様な15・16日の入場式の命令もない。歩150聯隊と同旅団の歩115聯隊には、【14日の午後10時】に【15日入場式・16日慰霊祭】の命令が出て来るが、重要な事は第66聯隊とは命令に【丸一日以上のズレ】があるということである。
実際の入場式が17日・慰霊祭は18日であり、松井石根大将の日記に於いても、12月16日に17日決行の記載(偕行社『南京戦史 史料集Ⅰ』P.18)があり、飯沼日記には12月14日に参謀部からの17日決行希望として記載がある(偕行社『南京戦史 史料集Ⅰ』P.214)ので、参謀本部が南京近郊ではなく、蘇州に有り、陥落が早期のことと誤認され、このような命令が成されたと考えれない訳ではないが(新聞等々はこの【12日】が【南京陥落】と報道している)、然しながら、この【参謀注意事項】の【イ、十五日頃入城式十六日頃慰霊祭ヲ実施セラル】命令が、参謀部から何時発せられたのか不明ではあり、時間的状況的には【掃討も終了】してないのにも関わらずこの命令はどう考えても不自然である。そして何より【歩六六作命甲第85号】より遅い13日の午後10時受領の【歩六六作命甲第86号】では、未だに【城内掃蕩】を指示している。
第150聯隊右翼側の第115聯隊では、14日に於いて午後10時に【聯隊命令ノ要旨】として【一、入場式ハ十五日午後一時ノ予定 一、慰霊祭ハ十六日(入場式一日延期ノ場合ハソノ翌日)場所其他ハ別紙ノ通リ】とある。重要な事は13日では無く、14日の遅く午後10時に受領されたという点である。
又、【聯隊命令ノ要旨】には宿営地のついて【希望街】という【地名】が出て来るがそれは【歩六六作命甲第87号】だけである。このタイミングの方がまだ自然な流れと考えられる。
これ等の点を考慮しても、【歩六六作命甲第85号】における【正午という時間】での【聯隊命令ノ要旨】の存在はおかしいことと考えられる。
肯定派のサイトでも、板倉氏の説に反論しておられる【南京大虐殺 論点と検証 南京大虐殺に関する論争の解説と検証】サイトでは、引用《「聯隊命令の要旨」は、戦闘詳報に記述された「午後零時」ではなく、「一一四師作命第六三号」が発令された20:00から、「歩六六作命第八七号」が発令された23:00の間に発令されたのである。これが戦闘詳報に「午後零時」に受領したと記述されたのは、戦闘詳報を作成する段階において、混乱が生じていたことによる単純な誤解が原因だったと考えるのが妥当であろう。》
と、当方の考えと同様の事を指摘をされている。興味有る方は読まれることをお薦めする。ただし、このサイトの御主張では何時【処刑】があったかについても次に記すように問題が発生することは注意を促しておく。
この13日正午に発令された【聯隊命令ノ要旨】が【歩六六作命甲第85号】以後のものでは無く、【歩六六作命甲第86か87号】であった場合は、【八、イ、旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スヘシ】が宙に浮くことになる。実際にあったというのなら、問題は【いつ】であったのかということになる。14日であるなら66聯隊は【作命甲第87号】の聯隊命令から背き中華門外にのこのこ出ていき、収容していた【支那人捕虜】を【処刑】し後に戦闘詳報に【虚偽の記述】をしたということになる。ほぼ第一大隊の全てが掛からないと処置できない人数であり、移動の際には、他の部隊からも秘匿した動きが出来たとは考えにくい。それとも【聯隊命令ノ要旨】とは別の【旅団からの命令】であって13日に実行されたのであったのか。結局、上位の旅団の第127旅団の命令を記した戦闘詳報や陣中日誌等が無いとハッキリしたことが判らなくない状態である。
そしてこの【殺害命令】が誰が出したかと考えると、【イ、旅団命令ニヨリ】とあり当時の第127旅団長は、秋山充三郎少将が責任者で、出した命令と成る。第66聯隊連隊長は一刈勇策大隊長であるが、負傷の為代理として渋谷仁太大尉大隊長付が指揮を執り行っている。しかし、旅団の戦闘詳報や陣中日誌は無く、渋谷大隊長代理の名前も命令に書かれていない。
この【処刑命令】にある《午後三時三十分各中隊長ヲ集メ捕虜ノ処分ニ附意見ノ交換ヲナシタル結果》での第一中隊長 増井清七氏、第三中隊長 西澤辨吉氏、第四中隊長 手塚清氏(手塚清氏は当時受傷の為不参加で平澤銀次郎少尉が代理している)等が、協議をして決めたという回想なども伝わっていない。丸MARU 1990年6月号では、手塚清氏のみは阿羅氏にはその存在を知らなかったようにインタビューを受けておられるが、手塚氏自身の『聖戦の思い出』という回想録では、前述したように館野軍医中尉が語ったとされる食糧補給不足が理由で1,240名という具体的な人数の支那兵を【処断】したという伝聞を掲載されてる。西澤氏は『われらの大陸戦記 歩兵第66連隊第3中隊のあゆみ』という回想録を書かれて居られるが、丸MARU 1990年6月号の阿羅氏によると【捕虜処刑】についての記述がないとのこと。平澤氏も阿羅氏の調査時には鬼籍には入っておられ証言は取れなかった模様である。
【処刑】が記載通り、この1,240名や約1,500名が行われていてたとするなら、時間的に不可能でな矛盾点を[【オイラの!】 2chネラーなりに一生懸命調べた南京事件 【完全否定論】]サイトが考察されているおられる。一読されると大凡不可能に近いと言う事が判る筈である。
又13日の午後9時0分に受けた【歩六六作命甲第86】には、《十一、大隊ハ聯隊命令ニ依リ大小行李及之レカ監視ノタメ一部ヲシ雨花台露営地ヲ徹シ》という一文があり、【之レカ監視ノタメ】という板倉氏も指摘によると【之】が何を差すかは不明ではあるが、【捕虜】ではないかと窺わせるものがある。すると、捕虜の【一部】か【全て】かの存在の可能性を示している。ならば、14日の【処刑】であるというのなら、【杭州転進】の命令を無視して行ったのであれば、実際の軍の行動と整合性がとれなくなる。一体、何時・何処・誰の【処刑】を行ったのか全く不明な事ということになる。
この【聯隊命令ノ要旨】と【処刑】の命令の時間的な考察を行ったが、実際の【処刑】時間が、宙に浮いてしまった状態になり、そもそも【処刑】自体すら在ったのかどうかも疑わしいと考えられる。


結 論

この第66聯隊 第一大隊の【戦闘詳報】の【信用性】を考えると、
①物証と成る【支那兵の処刑映像や写真(撮影者・時期・場所が明確なもの)】や、その発掘遺体が無い状態。
②【処刑】命令出したとされる第127旅団の記した重要な【戦闘詳報】【陣中日誌】などが不明。
③66聯隊の戦闘詳報の記述で、12日、13日の【戦闘状況】が他の部隊との作戦の時間的整合性がとれない事実。捕虜の集積地での不合理な記述などが存在すること。
④戦闘詳報の記述の内、【聯隊命令ノ要旨】が時間的に朝の午前4時30分以降の【作命甲85号】中ではなく、其の【内容】から夜遅くの午後11時40分の【作命甲87号】の方がより可能性があること。
⑤戦闘詳報による鹵獲した【捕虜】の約1,500名程や戦後の第四中隊長の手塚氏回想による伝聞での1,240名を実質的に処刑することは不可能な数値であること。【処刑の実行】を証言した高松氏との人数第4中隊担当100名程で齟齬があること。
⑥第4中隊の高松氏の【処刑行為の証言】は、この第66連隊第一大隊戦闘詳報の影響を受けておられる可能性があると推測できること。
⑦【歩六六作命甲第85号】に、《十一、大隊ハ聯隊命令ニ依リ大小行李及之レカ監視ノタメ一部ヲシ雨花台露営地ヲ徹シ》にある《及之レカ監視ノタメ》という、【捕虜】と窺わせる文字が見られること。処刑は全員ではなく処刑を免れた【捕虜】の存在があるとしたのなら、その生死を分けたものが何か不明であること。

という7つの点から、特に①②が無い状態、かつ③④による【戦闘行為】の【不明の記述】在る中では、⑤の回想と⑥の証言のみでは到底【信用】出来るものでは無い。
そして⑦の【之レカ】の記述により【捕虜生存】を窺わせていることも合わせて考えれば、例え【処刑命令】の【記載】があるとしても、この【戦闘詳報】自体の信頼性が極めて無い状態では、【捕虜の処刑】が【確実に在った】と断言できる理由はどこにも無い。

 


 

秦郁彦著『南京事件』P.157 掲載

カウントを試みたが、極めて不鮮明な画像の為に不可能であった。

 

【参考史料】
国立公文書館 アジア歴史資料センター
第6師団23連隊
第6師団47連隊
第114師団115連隊
第114師団150連隊
New York Times 1937.12.18、1938.1.9 F.T.ダーディン
『中支を征く』
『支那事変と無敵皇軍』

【参考文献】
偕行社『南京戦史』
偕行社『南京戦史 史料集Ⅰ』
丸MARU 1989年1月号 通算510号 〜 1990年12月号 通算533号『城壘17
板倉由明『本当はこうだった南京事件』
松村俊夫『「南京虐殺」への大疑問』
Zhang Kaiyuan『Eyewitnesses to Massacre: American Missionaries Bear Witness to Japanese Atrocities in Nanjing』
冨澤繁信『「南京安全地帯の記録」完訳と研究』
秦郁彦『南京事件』
アイリス・チャン『レイプ・オブ・ザ・南京』(http://nagaikazu.la.coocan.jp/nanking/1_2Ja.html より)
松村俊夫 論文『アメリカ人の「南京虐殺の目撃証人」は一人もいなかった』(http://hassin.org/01/wp-content/uploads/NO-AMERICAN-J.pdf)

 

*2020年1月11日:【戦数】について少し補記。


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