デビッド・コーエン氏と戸谷由麻氏による共著『東京裁判「神話」の解体 ─パル、レーリンク、ウェブ三判事の相克』に対する読書感想文 その2

2021年03月10日 20時13分35秒 | 1937年 南京攻略...

その2

7 【勝者の裁き】論を否定の失敗
①〜④の人々以後の新しい研究者として粟屋憲太郎(歴史学者)を挙げて、その成熟し到達点にある日暮吉延による『東京裁判の国際関係─国際政治における権力と規範』(2002年)を褒め称えていることは良いのだが、それが【勝者の裁き】論を否定できているかというと全くそんな事はない。
日暮氏の講演会のレジュメを読むとイギリスのチャーチル首相が1941年10月25日に【戦犯処罰】を戦後処理に提案された述べて、その2月前の8月14日に【大西洋憲章】で【ナチドイツを完全に破壊する】【国家改造】のための【手段】としていると述べられいる。
第二次世界大戦が始まったのは、1939年にドイツが【ソ連】と合同でポーランドに【侵略】したことに端を発している。ドイツにしても日本にしても、それ以前に何等かの国際社会での【犯罪】との認識の【合意】が為されておれば、そしてそれに【批准・署名・発行】しておれば、現代の日本人も日本国の行為は国際社会に面と向かって自己都合だけを押し通そうとした【犯罪】であると認識出来た筈である。
しかし、現在でも【条約違反】は【犯罪】という認識もない。例えば、中国共産党軍は1974年以降ベトナムとの国境エリア沿いのスプラトリー諸島での領有を主張し、軍事力を行使し現在も領有地点を拡大し続けている。これは2015年10月に中国軍の領海侵略は【国連海洋法条約】という国際法違反であることをハーグの常設仲裁裁判所が中国共産党の主張を退けている。
しかし、国際社会はそれを【犯罪】と言うだろうか? 犯罪国家と取引して利益を得ているのは、欧米だけではない日本も含めてありとあらゆる国家と企業である。つまり、犯罪者に協力する共犯的役割から、【犯罪ではない】というのはご都合主義だろう。
本来なら、【犯罪】は【公法】であるがゆえに、【法学者】達ならば、【中国共産党】は【犯罪国家指導団体】であり、国際社会はコンプライアンスを守るべきだと主張するべきところはそんな話は一切聞かれない。
フランスのベナール判事が個別意見で、【責任がある】は【犯罪】だと述べている。では、現在の国際社会はその【責任】を無視して居る中国共産党を【犯罪団体】としているだろうか。
しかし、日本は【犯罪国家】などと【犯罪者】扱いである。これではいくら優秀な東京大学の研究者や論旨を讃えても、何者であろうと【勝者の裁き】論を否定することなど容易ではないだろう。
日暮氏は、立憲民主党が開いた2015年8月に衆議院第二会館での講演会(民主党オープンフォラム「近現代史研究会」)で、【勝者の裁き】は、ナチスの行動に関する【文明の裁き】が元になっていて、【文明の裁き】とは、対象人物を選定した後、【裁判無しに即処刑する】というイギリスや米国財務長官だったヘンリー・モーゲンソーの主張であることを言明されている。思い起こすと所謂モーゲンソーの直属の部下がハリー・デクスター・ホワイトというソ連のスパイであったことはヴェノナ文書で有名である。
しかし、陸軍長官のヘンリー・スティムソンが【即決処刑】に反対し、【裁判をつうじて】という【文明の裁き】を主張したようで、理由の原因としては、【即決処刑】によるその後にナチスの残党に政治利用されることを恐れたという政治的な理由らしい。
つまり【勝者の裁き】は【即決処刑】ではない【文明の裁き】であるという【政治的主張】であると考える。
日暮氏の言及では《実際、東京裁判では、検閲もあった占領下で唯一、自由な言論空間が保障された場所だったという評価もあります。確かに法廷で原爆投下を批判しても、それで公職追放さることはありませんでした。これは公開の法廷の長所であろうと考えます。》と誰か不明な人物の評価を提示しているが、
《弁護側関係者の回想などには「日本政府や外務省が守ってくれなかた」といった批判が見られることがあります、実は日本政府は公的には弁護側を支援できる立場にはありませんでした。この点は意外に知られていなと思います。》とも言及している。
そうすると、弁護料や事務員手当など誰が一体負担したのかという疑問も出て来る。東京裁判の日本側の法廷係となって傍聴し概要を報告する任務に就かれた冨士信夫氏によると【海軍復員省】の【大臣官房臨時調査部】に復員後復職されたとあるが、【海軍】は日本政府機関ではなかったのではないだろうか。日本政府が日々、マッカーサー指令に翻弄されたというのならば理解出来るが、【公的に弁護側を支援できる立場にはなかった】というのは変な表現である。陸海軍の資料は復員省が行ったが、その他公文書などの収集における作業の協力も日本政府からの支援は受けていないと言う事だったのだろうか。寧ろ【外務省】が協力を拒否していたのをはぐらかしたいとの意図があるようにもみえる。何故かというと後述するつもりの外務省の東亜局長が【南京暴虐事件】で当時に事実関係の調査もしていない【戦時宣伝】を【事実】かのように【証言】したからでもある。
そして【自由な言論空間が保障されていたとして評価】しているが、【法廷】は自分の主張や主観を述べる【学術空間や楽しい場所】ではなく、言葉と物による【生死を別ける証明の場所】であるので、論理のすり替えだと考える。正直この東京大学のエライ教授様の思考はかなり歪んでいると思えてならない。すこし本書の話から逸れてしまった。
当時の戦勝国主にアメリカが考えた【勝者の裁き】と日本の戦後に東京裁判を批判する人々がつかう【勝者の裁き】は異なる点は判ったが、今回の著者のコーエン氏と戸谷氏は前者ではなく後者の【勝者の裁き】と考えられる。粟屋氏の研究にしても、日暮氏の研究にしても、後者の【勝者の裁き】について【否定できている】と言う事ではない。お二人の書いている事は【同表記同音異語】を利用して、【否定】しているという単なる悪質な【印象操作】に等しい。

8 日本軍将兵や官憲による戦時下残虐行為を記録した事への功績
東京裁判についての意義の一つとして、このコーエン氏と戸谷氏は《とくに日本軍将兵や官憲による戦時下残虐行為を記録したり、国際法の発展を促したりした点で、東京裁判に歴史的貢献があったと評価できよう。》とのお考えらしいが、こういう法学的な人々は、【証拠分析】は【絶対に行わない主義】の方々であり、【検察側の証拠】は絶対的に【正しい】または【事実】という【認識】だという【何の根拠もない確信】をお持ちのように思える。
戸谷由麻氏の別書籍の『南京暴虐事件』と『泰緬鉄道』にかなりページを割いておられるが、【泰緬鉄道】はよく知らないので何とも言えないが、冨士信夫氏の『私の見た東京裁判〈上〉』には、日本側の弁護人が集まったのは、開廷後2日目ではまだ23人のみで、3日目に残りの5名の選定が出来たという有様で、アメリカ人弁護士も審理が進む中で、順次到着するという状況だと記述されている。(軍隊資料のバックアップは海軍の復員省の職員がおこなった。)
これで公平な審理が求められるのであろうか? むしろコーエン氏や戸谷氏等のような【人権】と【平和】や【公平】を言及される方にはどうもその事実すら【目に見えない】らしい。
1946年5月3日に東京裁判が開廷する。10日後にフィリピンの判事が到着し、判事が11人全員揃う始末。
【南京暴虐事件】の検察側の立証が始まったのは、8月頃ぐらいである。3ヵ月の間で、検察側立証の【口供述証書】が18通、証拠資料(埋葬記録など)も提出されており、8名の証人の【証言】も成されているが、弁護側がそれに対して何か【物証】を伴った反論を用意出来たかというと時間的にも人員的にも予算的にも【無理】であったことは容易に理解出来る。資金力のある検察側は南京にまで遠征し資料を整えている。しかし、戸谷氏は【事実だから反論できなかった】という論旨を展開されているが、【証言】や【口供述証書】の内容が、現代においてはその多くが【証拠】としてあり得ない事は理解されている。これは当方は何度か別の所で書いているので今回は書かない。
戸谷氏御自身が参考にされた冨士信夫氏の文献『「南京大虐殺」はこうして作られた』には、東京裁判の検察側の証拠にかなり反駁されているし、一般人から見ると【事実】として認識出来ない。裁判員であれば【検察側証拠】を【虚偽】と見做すだろう。
それと【南京暴虐事件】の被告になった松井石根大将の【訴因55】のみの判決に関しても、軍事裁判の11人の判事のうち、4名が【無罪】に投票しているらしい。
前川三郎氏の『真説・南京攻防戦』文献の中で、松井大将の弁護人に当たったフロイド・J・マタイス弁護士が、帰国の途上に松井文子夫人へ送った手紙の中で、この人物の感想として、不当判決だったこと、訴因の何一つにも該当しなかったことをつたえている。さらに重要なのは、11人の判事のうち、4人が無罪の投票を入れたことを書いている。
弁護士の身分で、評決の投票数もどうして判ったのか少し疑問はあるが、東京裁判は、多数派(アメリカ、ソ連、イギリス、中国、カナダ、ニュージーランドの6ヶ国)とは別に個別意見をフィリピン、フランス、オランダ、インド、オーストラリアの5人の判事が書いている。
当然、フィリピンの個別意見を見てもアメリカの属国で、アメリカから植民地からの独立5年後に控えていた中を日本とアメリカ戦争によって多数の戦死者や行政システム、街の破壊が行われたことで、日本に対する憎悪感情は強いことは個別に書いた判決文からも容易に察する事が出来る。故に松井大将に無罪投票を入れたとは考えられない。すると、残るは佛、蘭、印、濠になるだが、濠はあのウェブ裁判長。
この書籍にもこれについては書かれてないし、戸谷由麻『東京裁判─第二次大戦後の法と正義の追及』の方にもウェブがどう判断したか書いてない。一つの【想像】としては、ウェブが東京裁判での【南京暴虐事件】での松井石根大将への訴因54、55への判決に無効又は無罪の投票を入れたのではないかと想像している。もしくは、マタイスが松井文子夫人に慰めのつもりで、【嘘】を書いたかである。
彼らが評価しているウェブ判事の判決草稿で、悪質で重要度が高い筈の【南京暴虐事件】に関するウェブ判事の意見を書かなかったことに疑念を想像してしまう内容となっている。
今のところ、ウェブ判事の判決草稿を見る方法がないので、なんとも言えない。
《東京裁判はしょせん戦勝国である連合国に従属する政治的な見せ場にすぎず、法や法理論の発展あるいは正義の実現という功績はほとんどない、といった見方を助長せざるをえない。》との意見は、何事も失敗は成功の元であり、失敗事例からの見直しからより良い成果を得られたというのならば理解出来るが、東京裁判は【国際正義】の体現だとか【公正な裁判】だった、【手続き上にも全く問題が無い】という素晴らしい成果なら【正義の実現という功績】は【評価】に値するだろうか。ハッキリ言ってこのお二人の御主張は、正に【正義の実現という功績はほとんどない、といった見方を助長せざるをえない】を助長しているだけである。

9 ローマ規定にたいする【東京裁判】の貢献
現在の日本が【東京裁判の遺産の擁護者、またその旗手たる役割を担っている】というのは、1998年の国際刑事裁判所の設置とその規約であるローマ規定にたいして【批准・発行】して、日本人の何名かが国際刑事裁判所の判事も務めているからだと考える。
しかしながら、1998年の国際刑事裁判所とローマ規定は【罪刑法定主義】と【属地主義】を肯定してる(後述する)。寧ろ批准した国家が【罪刑法定主義】をもとに自国の軍法などの法律を制定していることなどからも判る。(林瞬介著 論文『軍の海外任務に関するフランスの刑事法制改革』)
【罪刑法定主義】または、【法の不遡及】の【原則】は、ニュルンベルクの憲章で、戦勝国が決めた事柄を日本政府が認めた以上は、それが正当行為だという主張では、この現代におけるローマ規定の原則的な立場や国際社会の現在の法論理や国際正義も否定・批判すべきではないだろうか。
現行法制について言及しないばかりに、論理の破綻・矛盾そんな印象をあたえている。東京裁判を知れば知る程【法や法理論の発展あるいは正義の実現という功績はほとんどない】という印象しか東京裁判からは理解出来ないだろうし、この二人が批判するのは全く的外れである。
1951年に国際社会で制定されたジェノサイド条約についても、日本は未批准である。いいわけは兎も角【罪刑法定主義】を否定する条約の存在は、アメリカの【日系人強制収容】に触れねばならず、日米関係をおもんばかって出来る筈もない。
東京大学名誉教授の大沼保昭(国際法学)は、講演会【「東京裁判─国際政治と国際法の立場から─」 外交史料館報2018/03】での満洲事変を【侵略戦争】でとし【国際法上違法】だが、その違反行為を以て【個人を裁いた行為】は【国際法上合法とは言い難い】という意見のようである。
また、ニュルンベルク裁判についても大沼氏は《ニュルンベルク裁判の「生みの親」だったジャクソンは、ニュルンベルク裁判が既存の実定法に照らして国際法上合法な裁判であると主張しましたが、この議論には大きな無理があります。非常にすぐれた法律家であったジャクソンといえども、ニュルンベルク裁判を当時の実定国際法上合法であると論証することは困難で、十分な説得力を持つことは難しかったということでしょう。》とも言及しているわけで、現代においても左派(リヴェラル、共産主義、社会主義)陣営に一定の【国際法上合法】という【確立した意見】が在るわけではないとわかる。
《じつのところ日本は、今日における国際社会の現辺で東京裁判の遺産の擁護者、またその旗手たる役割を担っているからだ。》と書いておられるが、2020年の現代では、ロシアのウクライナの部分的な編入や、中国共産党によるスクラプトリー諸島軍での軍事施設構築問題、香港での民主活動家へ弾圧、新疆ウィグル地区でのジェノサイドの噂の真偽、シリアの内戦、アルメニアとアルゼバイジャンでの紛争、ミャンマーのクーデターなど、近年に起こった戦闘行為についてとして日本国や国際社会の【平和の使者たる法の護持者】達の活動は見たこともなく、メディアにもめざましい【国際司法関係者】の【活動】を見たこともない。
そもそも【罪刑法定主義】の成り立ちがどういう認識で作られたかが重要であることはいうまでもない。島田征夫著 論文『東京裁判と罪刑法定主義』に《「刑罰が法規により定まれる場合と雛も法的安全は一向保障されてはいなかった。蓋し当時は上述したように新法が旧法を廃止するということはないのだから裁判官はとっくに忘れられたような古い法規を探し出してきて適用することが出来る。そこでは『どんな裁判官のどんな気随な思い付きでも,それを権威づけ正当化する形式的法律の見出されぬものはない』のである(パストール)」「…裁判官の裁量に委ねられた刑罰の場合になると裁判官の権限は殆んど全能的なものになる。前の刑罰が法規または慣習法により定まれる場合にも広大な裁量の余地が残されてはいたが,とにかく一応犯罪の類型と刑罰の標準とがあって,裁判官は事実をこの類型に当てはめこの標準に照して刑を量定する努力を必要とした。しかるにここではこの法規もなく慣習法すら存しないのであるから裁判官はある行為が犯罪となるや,またいかに処罰すべきゃに付て,唯自己の良心によって決する外はないのである。(佐伯千偲「啓蒙時代と犯罪類型』『法学論叢』)》(島田征夫著 論文『東京裁判と罪刑法定主義』)と書かれている。
裁判官による【裁判官の裁量に委ねられた刑罰の場合になると裁判官の権限は殆んど全能的なものになる。】を防ぐためのに生じたものである。
イタリア人法学者のチェーザレ・ベッカリーア(Cesare Bonesana Beccaria)という『犯罪と刑罰』も次のように書かれている。
《法律が成文としてはっきり規定されており,司法官の役目は,ただ国民の行為を審査し,その行為が違法であるか適法であるかを法律の条文に照らして判断することだけになれば,そしてまた,無知な者であろうと,有識者であろうとそのすべての行動を指導する正と不正の規範が,議論の余地のないものであり,単純な事実問題でしかないことになれば,そのときは国民が無数の小圧制者のクビキのために苦しむことはもう見られなくなるだろう。》(島田征夫著 同論文)
さて、【革命者】による【裁判行為】は【国際正義】とか【合法行為】と呼ぶことはありえないだろう。【ニュルンベルク諸原則】が国際連合で全会一致で採択されたのは1950年の事である。時系列から言うと見事な【事後法】である。
このお二人曰く《今年二〇一八年は、ローマ規定が調印されてちょうど二〇年経つが、日本は二〇〇七年にローマ規定に加入した。その結果、日本はニュルンベルク・東京裁判の主要な遺産─すなわち、平和に対する罪、戦争犯罪、人道に対する罪、ジェノサイド罪を置かしたものに対する免責に終止符を打つという遺産─を前進させるための、積極的な役割を担う立場をとったのである。》というのは、あくまでも【国際法の発展】であって、実行動としての【積極的な役割】とは全く事実とは異なっている。国際社会は相変わらずアナーキー(不政府状態)に変わりはない。
こういうリヴェラル(共産主義・社会主義者)達は、前述したように【証拠】をふり返ることもしなければ、【現実】を見ることを【拒絶】するかのように【現実を見ない】。
無政府状態で、法律だけがあっても、誰が一体その【警察】のような【法の施行】を行うかという点をすっかり忘れている。
どの国家も並立的に国力による影響力は別として【主権国家】は【平等】である。他国が国際法をもとに訴えたとしても、例え国際刑事裁判所で勝利を収めても、【刑罰】を執行するための【逮捕】を行うことは出来ないし、【疑惑】があっても【主権国家】を【他国】が【調査】し、【逮捕】する事も出来ない。
国際社会における【国際法】の【刑罰】というものは、実質的には【法在って執行無し】状態である。
ルワンダやユーゴスラビア紛争において、貢献があったとされているが、実質的にはルワンダではカンボジアのポルポト政権がやったような自国民の殺害及び虐待を傍観していただけであったし、ユーゴは不当介入の揚げ句国際社会が一方的に罪をユーゴ紛争の関係団体に押しつけただけで、何か実質的な【証拠】による【立証】をもとにした【法の審判】であると言うことでは無い。(多谷千香子『戦争犯罪と法』)
ルワンダやユーゴスラビアを経て【保護する責任(Responsibility to Protect)】という考え方が国際社会で生まれたが、不要な軍事介入や他国の揉め事に国家予算や国民の生命を犠牲にする価値があるかどうかはそれぞれの主権国家の判断に委ねられるため、議論の途中である。
ただし、イスラム国を名乗るイスラム過激派団代によるシリアやヨーロッパ、米国などでのテロ活動について、それぞれの国家と他国との連繋をもとに取締りやシリアに対する軍事行動を行ったのは、自国に危害が加わったことからであり、基本的に自国に危害が加わらなければ関わらないのがそれぞれの国家及び国民の認識だと考えられる。
中国が自国と主張する新疆ウィグル地区でのジェノサイドの疑惑、香港の民主化運動家への弾圧疑惑、やミャンマーでのロヒンギャの問題を国際社会が介入する様子はない。当然で、中国共産党とことを構えるのは国際連合の拒否権を持つ常任理事事である中華人民共和国に【主権】を越えて【調査】及び【関係者の事情聴取】ができるのかというと、どの国の誰が一体行うのかすら【国際社会】には存在しないことが露呈している。つまり、なんら実行性が皆無の【法システム】と呼べる。
これを【積極的な役割を担う立場をとった】と2007年にローマ規定を批准した日本国について記述しても、絵に描いた餅で、何の【積極的な役割】を果たせる立場にはない。
2020年は、中国の海洋巡視の警察隊が、中国海軍の下に入ったことで、実質上【海軍の艦船】になって、尖閣諸島での領有権に危機的状況がある中で、【積極的な役割】をもとめられても、憲法第9条による【交戦権】の破棄を明記した日本国は、自国を守ることすらままならない日本国に何ができるのだろうか。
日本にすれば、国際協調と国際社会における法の支配による国際関係の構築というスローガンいう政治で参加しているだけに留まらざるを得ない立場で、何か【ローマ規定】による【警察権】を行使して【積極的に役割を担う立場】とは異なる。他の政治的な枠組み(TPP・クワッドなど)を構築して防衛しているだけである。
現在の国際社会は、自国の権益に触れない限り【国際刑法】を基準とした【警察行動】を国内世論を無視して行えるという事では全く無いし、行うつもりもない。実質的に守られるべき人々は守られない。
その事について、この二人コーエン氏と戸谷氏は【理解】が全く無い。【法】さえあれば全てが【万事解決】するという考えにも見える。
カンボジア特別法廷(ECCC)にも触れているが、カンボジアと国連で裁判の手続きなどに関しての協議が難航したのも事実。そして審議後汚職なども発見されているというお粗末さ。54,677,005ドルで一番拠出金が多かった日本が裁判自体にどのような貢献があったか不明だが、多額の費用がかかることとだけは理解が出来る結果になっている。内戦を恐れて実行犯などには触れられなかったことなども考慮すべきだと考える。もう一つ不思議なことは、この裁判の【捜査】を捜査判事が行ったことである。フランス法の影響と言う事らしい。
この裁判は誰が言い出したのかは不明だが、おそらくはカンボジア政府自体が望んだことには違いがない。だから国内での他国の判事による共同捜査が許されたわけで、その当事国が望まないような、ソ連のウクライナ飢饉、シベリア抑留や中国共産党による文化大革命や文化大革命などの犠牲者はほぼ永遠に浮かばれないだろう。
《国際刑事裁判の歴史的発展にニュルンベルク・東京裁判が基盤となしている、というコンセンサスが今だに日本に育っていないという状況は、むしろ奇妙である。》という記述は、さまざまな国際社会の歴史的事例を無視しているので、コンセンサスを日本に求めると言うこと自体が不思議でならない。やはりこういった共産主義・社会主義者の【現実認知力】は理解到底出来ない。
《東京裁判では、ニュルンベルク裁判と同じ原則に立脚し、同様の犯罪が訴追されたのであるから、「勝者の裁き」を批判を展開するとすれば、それはニュルンベルク裁判に対しても展開されなければならない。しかし、日本における裁判論議ではニュルンベルク裁判はたいて等閑視されている。》という主張にも理解に苦しむ。日本の研究者が行っている論文を読んでいないだけであって、自分達がそういう研究に対する知識が足りないことを披露しているに過ぎない。
日本では、罪刑法定主義の原則を始め、共同謀議、ニュルンベルク裁判についての論理構築などにも批判的な論文でているの読めばよいだろう。自分達の瑕疵を【等閑視】などというのは、呆れた見識だろう。
ニュルンベルク裁判が「勝者の裁き」批判を展開し、批判の焦点が主に法律上の技術的な問題であって、必ずしもヨーロッパ戦線におけるドイツの戦争を特徴付けた侵略や戦争犯罪の事実関係であろうとなかろうと、ドイツの問題であり日本がとやかく言う必要はないが、東京裁判に関しては、手続き・運営上の問題、証拠に対する事実立証に関する問題がある。それを全く見ようとしないのはいくらドイツが2014年に【ニュルンベルク・アカデミー】を設立して、ドイツの【悪業】を宣伝しようとどうでも良いし、【国際犯罪に対する免責に終止符をうつという普遍的な願いを】を表明するのは何にも問題ではない。
どうぞご自由にということであるが、現在の中国共産党のように【権義】のある場合に対する【捜査権限】が誰に付託されているか明確でもないし、事実上中国のような【強大な軍事力】を行使できるような【国家】が行う【犯罪】に対して、何か出来るかというと【現実的に不可能】である。そこに【経済利益】が加味されると【全く不可能】と言う事になる。
原理原則的に【中華人民共和国】や【ロシア】のような【軍事敵対国】かつ【拒否権を持つ国際連合の常任理事国】がこのような【国際犯罪】を置かした場合は、【捜査及び逮捕】が出来ない以上は【何人も】という【原則】は適用されないことになる。
この二人のように東京裁判やニュルンベルク裁判を【高く好評価】するような人々は、あらゆる点で【現実】から目を背け、形式ばかりを追っている方達だと判る。
【主権国家】という枠組みが容認されているのは【国際連合】という組織からも理解出来るし、【国際社会】で確立している概念である以上、単純に国際刑事裁判所やローマ規定があるからといって、【法】が有るからと言って大丈夫というわけではない。
《さにニュルンベルク・アカデミーは、ニュルンベルク裁判と東京裁判が現代の国際刑法の生誕地という共通の遺産を持っていることを認識し、二〇一八年五月、東京判決七〇周年を記念する国際会議を第六〇〇号法廷にて三日間にわたり主催した。》と、勝手にドイツで日本の東京裁判判決の記念行事をやるのは迷惑この上ない。法律的問題も事実関係でも問題がある東京裁判を日本国という【民主制度】の国家で、一定以上の国民の中で反論者が居る以上は、是認される問題ではない。
《なぜ日本の首都東京には、日本政府や東京都のイニシアティブによる「国際ニュルンベルク・東京原則アカデミー」の設立や、東京裁判判決七〇周年の記念行事の主催がないのか問われよう。》という言及も、もしこのような政府関係団体がこのような馬鹿げた記念行事を行えば、民意に背く行為であろう。
国家の【象徴】である天皇陛下を【罪人】にするような東京裁判など右翼でなくても日本人ならば容認出来る問題ではない。それができるのはこの二人のような日本ではマイノリティーの共産主義・社会主義者たち【革命主義者】だけだろう。
日本は、【法の支配】を掲げている以上、【罪刑法定主義】を否定しているわけではないし、【ローマ規定】も否定しているわけではない。東京裁判という【罪刑法定主義】という【法の原則】のみならず多数の【原則】を無視した【東京裁判】を容認するわけが無かろう。
その証拠にジェノサイド条約には批准・署名・発行を行っていない。
1992年に、湾岸戦争後に佐藤和男氏(国際法学者)による外務省開催の国際法研究会(月例)での質問と外務省側の応答を【神社本庁研修ブックレット『国際法と日本』】から引用されている。


「イラクのサダム・フセインがしたことは、世界中から侵攻戦争だと見られている。イラク軍はクウェートの領土を自分の国に併合してしまった。これは侵攻であり、侵略である。侵攻戦争は、一九四五年十月の国連憲章によって、正式に違法化されている。東京裁判の論法でゆくなら、フセインは侵攻戦争の責任を負ってA級戦犯にされ、国際裁判で裁かれなくてはいけない。言に私がヨーロッパにいた一九九〇年九月から一九九一年三月までの間に、サッチャー首相など西側の一部の政治家は、フセインをつかまえて戦犯裁判にかけようと言っていました。昨年(一九九一年)二月、湾岸戦争はイラクの敗北に終わった。もし東条元首相などを裁いた東京裁判が正しいのなら、同じような裁判をサダム・フセインに対してもしなくてもいけないのに、実際にはしていない。これはどういうことなのか。」
この質問に、外務省条約局法規課長の伊藤哲雄氏がおおよそ次のように答えたという。
《東京裁判で個人に戦争責任を追及したが、こういうことは国際法では許されてゐない、東京裁判は間違ってゐたといふ認識が(いまや世界中の諸国に定着したので、サダム・フセインに悪い戦争をした責任を個人的に追及しようなどというふ動きは全くありません)》(『国際法と日本』P.68)
この定例会はあくまで内部の研究会ではあるが、東京裁判が実定国際法を蹂躙した不当な裁判であるという認識が世界中の諸国に定着していることを、外務省ははっちりと認めたわけである。官僚は政府に従う。政府が断固として東京裁判の不当性を訴えるならば、その訴えを裏づける論理を用意する準備は官僚サイドには既にできているのである。》(終戦五〇周年国民委員会編『世界がさばく東京裁判』 P.214 10行目 日本の外務省も認めている「東京裁判の不当性」)


【東京裁判は間違ってゐたといふ認識】が国際社会で既に認識されているというと外務省側は主張してる。

イラクの元フセンイン大統領が、アメリ各軍の特殊部隊に逮捕されて、裁判の上【処刑】されたと言う情報は広く知れ渡っていると思うが、これが【東京裁判】と同じく、【人道に対する罪】【共同謀議罪】【通常の戦争犯罪】で【裁判】が行われたのかというと、全く違う。
イラク高等法廷(正式名称 Supreme Iraqi Criminal Tribunal イラク高等刑事裁判所)は占領機関である連合国暫定当局(CPA)が2003年12月10日にイラク特別法廷規程を公布。しかし、フセイン元大統領らを裁いたイラク特別法廷は米軍占領下の暫定統治機関、イラク統治評議会が2003年にバグダッドに設置した国内法廷である。
その起訴理由は、【1982年に自らに対する暗殺未遂事件への報復としてドゥジャイル村のシーア派住民148人を虐殺した件で責任を問われた。】である。
結局、ハーグ陸戦条約違反やケロッグ・ブリアン条約違反ですらなく、【戦争犯罪】ですら問われていない。つまり、【東京裁判】は誤りだったという証左である。
コーエン氏・戸谷両氏が主張するような、東京裁判憲章が【何か功績がある】というわけではない。むしろ【何の功績もない】と言う証左である。

10 公平な裁判
このお二人は、《ニュルンベルク裁判でも東京裁判でも、裁判所が公平な裁判の原則を保障したことだ。》という御主張だが、弁護士をつければ、弁護側の証人を呼べれば、【公正な裁判】だとおっしゃる。
【公正な裁判】とはなんであろうか。通常【冤罪】を防ぐために、【三審制】または【二審制】がとられ、【休廷】や【調査期間の保護】、【推定無罪の原則】や【偽証罪】の個人責任も問われる。これは【被告人】に対する【基本的人権の保護】からなるものである。
当時、【南京暴虐事件】に関する証人、口供述証書の数の多さに、アメリカ人弁護士は反論は時間的に無理と吐露している。現在ならば、検察側の証人の証言、口供証書の内容が【虚偽】であると分析できているが、当時の日本国内で行われ中国へ行き、検察側挙証事実に矛盾がないかどうか調査する期間が必要であるが、その様な時間も予算も弁護側を支援する日本政府(第二復員省)に予算があるはずもない。これで【公平】と呼べるものなのだろうか。
また、ウェブ裁判長が、弁護側に言い放った言及にも、弁護側の証拠は採用しないと言っているようなものであることが判る。
提出証拠に関する裁判所の見解で、東京裁判での裁判所見解の部分を引用すると

《弁護側の最終弁論の大部分は、弁護のために提出された証拠を裁判所が信頼できるものとして取りあげるだろうという仮定に基づいたものであった。これはやむを得ないことであった。なぜなら、弁護側としては、裁判所がどの証人を信用できる証人として認めるつもりであるか、どの証人を拒否しようとするかを予見することが出来なかったからである。これらの弁論は大部分失敗に終わっている。というのは、証人として率直さを欠くために、裁判所では信頼できるものと認めるつもりのない人々の証言に、かれらの議論の基礎が置かれていたからである。》(冨士信夫著『「南京大虐殺」はこうして作られた』)

又、【公平な裁判】と言う事に関して岡村治信著 論文『公平な裁判の保障』に次のような一文が掲載されている。
《裁判所の仕事は、裁判所は法による社会秩序の維持と基本的人権の擁護の最後の砦である。日本国憲法は右の理想を実現するため、七六条三項で「すべて裁判官はその良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」と規定し、また、とくに刑事裁判に関しては三七条一項で「すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する」と規定している。右のように、とくに刑事被告人に対して公平な裁判所の迅速な裁判が行われるべぎことをその基本的権利として保障した理由は、刑事裁判が国家刑罰権の発動をめざすものであり、刑罰が被告人の基本的人権を公権力によって剥奪・制限するものである以上、民事裁判に比していっそう厳正公平でなければならないこと、また、刑事裁判においては、その性格上、政治的圧力や社会的・経済的・思想的勢力その他特殊の情実が作用しやすいので、これらの外圧を遮断して法的正義と当事者の権利利益を不当な侵害から守ろうとするにあることは明白である。この場合、とくに法的に重要な理念として裁判の公平性と迅速性が強調されるが、本稿においては、迅速性の点はさておぎ、もっぱら公平性の点について裁判官忌避を中心としてやや体系的な考察をこころみたい。なお、裁判の迅速性・公平性は民事裁判と刑事裁判に共通の理念であるが、ここでは一応刑事裁判における問題に限定し、民事裁判のそれについてはとくに必要と認めたときに言及するに止めたいと思う。》
ここに書かれているように、政治や国際社会、経済、思想勢力に影響されやすいのでこれらの外圧を遮断してとある。事実はどうかと言えば、東京裁判では判決に関してアメリカ、イギリス、ソ連、中国、カナダ、ニュージーランが多数派を組み、フィリピンがさらに苛烈な判断を要求して多数派に加わっている。
そこに、なにか【法の正義】が存在するわけではなく、【政治】オンリーであり、多数派ではないオランダのレーリンク判事が後の文献に書いているが、オランダ政府から判事自己の法的判断よりもオランダ政府の介入があり、仕方が無く従ったと言うことが書かれている。(終戦五〇周年国民委員会編の『世界がさばく東京裁判』)
前述論文には《最高裁判所の判例は、「公平な裁判所とは、偏頗や不公平のおそれのない組織と構成をもつ裁判所を意味する」と解している。》とあり、組織と構成による運営上の意味として【公平性】は担保されると言う事である。
松井石根大将は、【通常の戦争犯罪:訴因55】での【不作為】の罪を適用されて【処刑】された。【犯罪的責任】で殺害された。
イギリスのハンキー卿(Maurice Pascal Alers Hankey:元内閣官房長官、元枢密院書記官長)は、「世界人権宣言」を引き合いに出して、次のように批判している。

《…例えば、国際連合の裁判所は、一九四八年一二月十日に総会によって承認された世界人権宣言、特につぎの箇条を無視し得ない。
(第十条)
何人も、その権利および義務ならびに自己に対する刑事上の告訴についての決定に当たって、独立の公平な裁判所による公正な公開の審理を完全に平等に受ける権利を有する。
(第十一条)
一、何人も刑事犯罪の告訴を受けたものは、自己の弁護に必要なすべての保障を与えられた公開の裁判において、法律に従って有罪と立証されるまで、無罪と推定される権利を有する。
二、何人も行われた時には国内法によっても国際法によっても刑事犯罪を構成しなかった行為又は不作為のために、刑事犯罪について有罪と判決されることはない。
また当該刑事犯罪が行われた時に適用されるものであった刑罰よりも思い刑罰を科してはならない。
》(『戦争裁判の錯誤』P.225)


特に、第10条の【独立の公平な裁判所による公正な公開の審理】や第11条の【刑事犯罪を構成しなかった行為又は不作為のために、刑事犯罪について有罪と判決されることはない。】を読めば明らかで、東京裁判の結審の後直ぐさま【東京裁判】を否定している。
この【世界人権宣言】をよむと、コーエン氏と戸谷氏が述る【公平性】とは、異なる事は容易に理解出来ると考える。
コーエン氏は、その略歴を読むと、《スタンフォード大学の人権と国際正義のためのWSD半田センター所長及び教授。人権、国際法、移行期の正義の分野における国際的権威。》とある。【人権・国際法に詳しい】が聞いて呆れるとはこの事だろう。
この二人は、【みせかけ公平による運営】が、【公平】といっているだけで、【事実上】【公平】とは掛け離れた【裁判】であることが判る。
では、争点として反論できなかった検察側挙証は【事実】なのかというと、このお二人が書いているように《争われなかった検察側の弁論や証拠は、判事らがそれらの事柄を証明されたとみなせるため、これは弁護側の弁論や証拠は、判事らがそれらの事柄を証明されたとみなせるため、これは弁護側の重大な欠点をなしている。》であり、裁判はあくまでも【勝敗】訴を決する場所であり、ある係争事案が【事実】であるかどうかとは【別】の問題である。
日本の国内でも南京事件に関する【家永教科書裁判】でも、【事実】が争われたわけではなく、【表現の自由】が争われただけで、【南京事件】というものが【東京裁判】で判決を受けた20万人や【南京軍事法廷】および【中国共産党(侵華日軍南京大遭難同胞紀念館など)】の主張する30万にや秦郁彦氏が主張する4万人という数字が【事実】であると【立証】された言うことでは無い。
《いずれにせよ、二年間にわたる公判審理中、検察側と弁護側は証拠を提出し、それらの証拠は反対尋問できびしく審査された。》についても、口供述証書類について、【反対尋問】など不可能であり、反駁のための【資料】も弁護側の不条理立場での理由で出来なかった。恐らく日本語を理解しないであろうコーエン氏は別として戸谷由麻氏は自身の著作で、冨士信夫氏の文献を参考図書に掲載している。その中では弁護側の不利な状況が事実として記載されているのになぜ【有利な状況】であるかのように理解し、なぜ【厳しく審査された】になるのだろうか? ローマ規定にも書かれている人権の保障について、この二人は【基本的人権】についてどう思っているのだろうか?
《というのは判決書で東京裁判所が下したひとつとしての決定の是非を評価するには、まず法廷でどのような証拠が受理されたのか、私たち自身が適切に把握する必要があるからだ。》と【言うは易く行うは難し】で、東京裁判所が【南京暴虐事件】で【受理した証拠】が【適切】だったかどうかを【適切】に評価してない人物が戸谷由麻氏自身であるからである。彼女が自身の著作の中で【南京暴虐事件】での【証言】と【口供述証書】の内容を詳細に分析しておらず、裁判の検察側証人及び証拠を【事実】としているだけだからである。
《多数派は、二年にわたる公判審理で個々の被告人に対する膨大な証拠を受理していたにもかかわらず、それをくわしく分析しないまま被告人二五名の有罪を決定している。》については、その通りで、証拠を分析も何も全く行っていないことは【南京暴虐事件】でも明らかであり、検察側の証拠・証人の証言を【事実】や【在ったもの】として【裁く】ことに夢中になっていたのは多数派だと言う事は判る。これは【事実】の【立証】や【解明】ではなく、如何に【被告人】を【罪人】にするかというそれ1点だけだったことが判る。
パル判事が証拠の分析を行っていないことは理解出来るが、その上で個人責任という法原則を適用することを実質的に拒否し、各被告人の責任に関する証拠の分析は何もしなかったのは【前段階の法的根拠】が【無い】と言うことに帰結するからである。つまり、【起訴内容の犯罪がどれほど重大なものであっても、その責任は「国家」という抽象的な実体にのみ帰せられるべきだとし、その「国家」を構成する政府職員はみな全面的に免責できる】という論を展開したのは、当時の【国際法】や【司法の原則】から見れば、【法なくして刑罰なし】という原則や【慣習法】として【不成文として成立】しているとは呼べない【法論理】に対して、それを【新たに】【適用する】という行為は【法】への欺瞞であるという事ある。
この二人(コーエン氏と戸谷氏)は《今日の日本も支持するハーグ常設国際刑事裁判所に適用されるローマ規定では、つぎのような条項が含まれて、「主権の行為の原則」は排除されている。》とも指摘して、「主権の行為の原則」や政府職員を特別に免責するという概念がニュルンベルク裁判所憲章でも東京裁判憲章でも退けられているので、パル判事の意見は間違っていると主張しているが、外務省ウェブサイトでローマ規定の和文の確認したところ第23条、第24条につぎの文面を見る。詳しくは皆さんが外務省サイトへ行けば閲覧できる。そのPDFファイルのP.32に書かれてある。


第23条 「法なくして刑罰なし」
裁判所によって有罪の判決を受けたものについては、この規定に従ってのみ処罰することができる。
第24条 人に関する不遡及
1 いかなる者も、この規定が効力を生ずる前の行為についてこの規定に基づく刑事上の責任を有しない。
2 確定判決の前にその事件に適用される法に変更がある場合には、捜査され、訴追され、又は有罪の判決を受ける者に一層有利な法が適用される。


とある。
このコーエン氏と戸谷氏、【どうせローマ規定まで読者は確認しないだろう】と高をくくっている文言でどうもこういう選民意識が鼻につく。
この23条と24条の規定を眺めて、どう言い訳をするのだろうか?
両項目から、ローマ規定がニュルンベルク裁判所憲章でも東京裁判憲章を【否定】していると言っても過言ではない。
しかも、《もしパルが主張するように「主権の行為の原則」がまかりとおるとすれば、拷問、強姦、大量殺戮、その他の大規模な残虐行為について、国家指導者に刑事責任を問えず、処罰されないということになるだろう。》と述べておられるが、実際に朝鮮戦争、中国国共内戦、オランダのインドネシア再侵略攻撃、ベトナム戦争、中国によるウィグル地区でのジェノサイド疑惑、カンボジア、ルワンダではまかり通って、大規模な大量殺戮はまかりとおり、それを裁いたのはカンボジアとルワンダのみだが。
国際連合の常任理事国である中国やソ連のような拒否権のある国家や軍事力がある国家の指導者について、誰かが【国際正義】の裁きの鉄槌を下したとでも言うのだろうか。私は寡聞にして聞いたことがない。
この二人は、【抑止】と【事後】を理解していないし、【司法】だけに限定すれば、ダブルスタンダードの正に見本だろう。
この二人のような人々の書いた書籍や言及は注意する必要があり、必要な事項を自己都合に合わせて無視したり、話を刷り替えたりするので提示した元資料には出来るだけ目を通した方が良い。
《本書『東京裁判「神話」の解体』では、この学術書に基づき、東京裁判の遺産で中核にありながら正当に評価されていない部分─つまり、国際犯罪に対する個人責任の原則について、東京裁判がもたらした法理学上の貢献─に光を当てる。》と書いて居られるが、【個人責任の原則】に【貢献】があったと考えておられるようだが、既に【実行性】の【無い】という状態の【法律】が、【貢献】しているかというと【ローマ規定】を一つ見ても全体として微妙である。

11 パルやレーリンクへの評価を下げたい目的
パルやレーリンクは国際法の分野で傑出した模範的な判事と言った理解を何とか覆したい欲求があるようで、三判事の資質の問題に帰結させている。
「神話」という言葉を使って、パルやレーリンクの裁判論で称賛されることが妬ましいようで、このふたりの判事による反対意見は、じつのところ法理論上も事実認定に関する通念は、戦後日本における裁判論に多大な影響を及ぼし、国際刑事裁判において東京裁判がどのような意義があるのかの理解を歪めているという主張を張っておられる。
事実上、両氏が主張する【東京裁判の遺産】によるローマ規定や国際刑事裁判所への【貢献】を言及されることと、日本が【法の支配】を掲げることとは別の問題であり、本来数多ある【法の原則】を無視しているのは、【多数派判事たち】という批判を無視して、この三判事への批評は為し得ない筈である。
【東京裁判が法理学上もつ貢献を適切に判断することは、日本社会では難しいままとなるだろう】というが、やはり【ローマ規定】では、明確にニュルンベルク裁判・東京裁判の憲章を否定してるのだから、難しいも何もこの人達が理解すべきは、このお二人ではないかと考える。
東京裁判七〇周年を迎えた今、東京裁判の内実をもう一度見直しても【法の支配】【罪刑法定主義という法の一般原則】を堅持、推進していくことと、東京裁判という【基本的人権無視】【多数の法の原則無視】【運営上の不公平】【証拠のみ分析】【戦勝国による報復】ということが炙り出されていくだけで、何ら【正義】や【事実】がそこに存在しないと言う事が判る。
レーリンクに関しては、東京裁判や【平和に対する罪】に対しては、むしろ肯定的であり、【平和】が絶対的な要件になっている。レーリンク氏の【平和】が何か良く判らないが、【戦闘行為】だとは考える。しかし、国家主権を越える世界政府の存在が無い以上は、【国際法】は【公法】ではなく【司法的】に過ぎない以上、レーリンク氏の【理想】とは裏腹に、実行は【不可能】な【妄想】に過ぎない。
また、日本国の【侵略戦争】を批判しても、自国オランダのインドネシアへの【再侵略戦争】には一切言及していない。
司法は立法者ではない。立法者は主権者及びそれぞれの主権国家の国民に帰せられるべきだと考えるが、司法者はそれに対する論理的なアドバイスを行うだけだと考える。【現実的に不可能な法】を押しつけても【個人の理想の押しつけ】にすぎず、現実はそれにともなって行かない。むしろ反する方向に進むだろう。
それと、彼はヴェノナ文書などの【陰謀】についてを知ることもなく世を去った。結局、飽く迄法理論・法廷での証拠が全てであり、司法者の域から出ることはなかった。
おそらく、日本人でも分裂はこれから進み、調べて知識がある人間でも、リベラル・共産主義・社会主義者とそれ以外の右翼・保守・その他ノンポリに意見の相違は続くと考える。前者はコーエン氏や戸谷氏の説を鵜呑みにし、【日本は悪かった】そして【東京裁判の遺産は素晴らしい】という人々と、資料のうち証拠のとされている内容と向きあいながらそれが【事実】かどうか調べている人間との乖離は広がっていくと考える。

とまぁ、今回は以上で、序章に対する感想だけで、こんなに長文になってしまった。
法理論からは、全く言及できないので、こんな程度かも知れない。
ただ、法律は馬鹿でも判るように設計・記述しないと、司法者だけの政治的都合で恣意的に運用できる【オモチャ】になってしまうことは、ニュルンベルク裁判憲章やそれを引き継いだ東京裁判憲章で明らかだろうと考える。
そして、コーエン氏や戸谷氏の述べるような東京裁判憲章の功績や遺産など現在では全く無意味無価値と言う事が判るのではないだろうか。
この二人の主張とは逆に【東京裁判】の【遺産】とは、実の所【司法の問題点】における【反面教師】としてあるのではないかと考える。

 

まぁ、noteの法からの転載なので、あれなんだけれど。


デビッド・コーエン氏と戸谷由麻氏による共著『東京裁判「神話」の解体 ─パル、レーリンク、ウェブ三判事の相克』に対する読書感想文 その1

2021年03月10日 19時58分49秒 | 1937年 南京攻略...

1 はじめに
デビッド・コーエン氏と戸谷由麻氏による共著『東京裁判「神話」の解体 ─パル、レーリンク、ウェブ三判事の相克』に対する読書感想文を書いてみる。
東京裁判に関しては、秦郁彦氏の『南京事件─「虐殺」の構造』(1986年)への反論を書こうと思いつつも、【法律】【国際法】への知識が皆無で、なかなか踏み出せないままであった。
そこで、ぼちぼちと東京裁判での【南京事件】に関する文献を理解する上で、国際法と東京裁判への理解が必要と痛感した。もちろん、冨士信夫氏の『私の見た東京裁判〈上〉』や『「南京大虐殺」はこうして作られた―東京裁判の欺瞞』を読んではいたが、国際法から見た視点が不足している感じがしていた為、南京事件を【事実】として認識している【法曹会】や【国際社会の法曹会】の主張も見る必要があると考えている。
この書籍を読了後、戸谷由麻氏の『東京裁判─第二次大戦後の法と正義の追及』(2008年)も、ついでに読み参考にしている。国際法の書籍類や論文を読み込みながら知識を少しずつ増やしていった結果随分掛かってしまった。


この書籍は、『東京裁判「神話」の解体』の主題は、南京事件ではなく、如何に東京裁判が後の国際刑事裁判所に貢献があったかと、ウェブ判決草稿を用いると【日本軍はヤッパリ戦争犯罪国だ。その指導者は戦争犯罪人だ。】という結果を導けるという主張である。
この書籍の目的としては、1998年に出された国際法学者の佐藤和男氏が監修し、インテリジェンス専門家の江崎道朗氏が著述した終戦五〇周年国民委員会編の『世界がさばく東京裁判』への反論書籍であると考えている。理由はレーリンク判事のA・カッセーゼ氏(国際法学者/国際刑事裁判所判事)が共著した『レーリンク判事の東京裁判─歴史的証言と展望』を用いた東京裁判への批判に対して反論をし、もう一度東京裁判を【肯定】し直し日本人に【加害意識】と【天皇陛下は戦争犯罪人】という意識・認識を醸成することが目的であると考えている。
そして、東京裁判は【勝者の裁き】ではないという主張を【法理学的】に裏づけようとしたコーエン、戸谷両氏によるケンブリッジ大学で出版した【内容】が正当性があると読者に思ってもらいたい意図が見える。さて、どうだろうか。その様に著者達の意図通りの感想になるだろうか。
今回の文章では、当方は別に法学者でも司法関係者ではないので、難しい法律に関して反論などは大先生方達に向かっては到底出来ないので、飽く迄感想を述べていきたいと思う。

2 日本がポツダム宣言受諾
書籍の内容を読み進める順を追って感想を述べていきたいと思う。
この書籍は、『The Tokyo War Crimes Tribunal: Law, History, and Jurisprudence』というお二人の共著の書き下ろし(簡易版)日本語版と言う事、素人にはこの程度で十分理解出来るだろうという有難い内容である。
ポツダム宣言を受諾したことで【裁判憲章そのものを受け入れた】という解釈が通念として現代でも主流となっている。東京裁判(極東国際軍事裁判)は、第二次世界大戦に敗戦間近の日本がポツダム宣言を受け入れたのは、欧米が【現在日本国に対し集結しつつある力は、抵抗するナチスに対して用いられた力に比べ、はかりしれないほど強大なものである。われらの軍事力を最大限使用すれば日本国の軍隊は完全に壊滅し、またそれは日本国土の完全なる破壊を意味する。よって、右の条件をのむ以外の日本国の選択は、完全なる壊滅しかない。(一部を要約)/色摩力夫(元外交官・評論家『日本の死活問題』より P.27)】という【原爆2発】による一般人を含める【陸戦法規違反】の攻撃を用いて【恫喝】と【脅迫】されたことにより日本には受け入れる以外に選択肢が無かったことは考慮に入れるべきでは無いかと少なくとも日本人であるわが身としてはそう思う。
牛村圭氏が篠原敏雄先生追悼講演会「東條英機の東京裁判」と題した講演の中で《この憲章を詳しくみると、第5条「人並ニ犯罪ニ関スル管轄」という項があり、そこには「本裁判所ハ、平和ニ対スル罪ヲ包含セル犯罪ニ付個人トシテ又ハ団体員トシテ訴追セラレタル極東戦争犯罪人ヲ審理シ処罰スルノ権限ヲ有ス」という文言があります。以上を考え合わせると、「ポツダム宣言」第10項からは特に捕虜の虐待を主眼に置いた戦争犯罪、そして「極東国際軍事裁判所憲章」からは、「平和に対する罪」を掲げた上での戦争犯罪、これらの審理をおこなう軍事裁判になろうということが、ここではっきりしたことが分かります。》(牛村圭氏が篠原敏雄先生追悼講演会「東條英機の東京裁判」講演レジュメ)
と述べている。
ポツダム宣言の第10項《我々の意志は日本人を民族として奴隷化し、また日本国民を滅亡させようとするものではないが、日本における捕虜虐待を含む一切の戦争犯罪人は処罰されるべきである。日本政府は日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍は排除するべきであり、言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されるべきである。》(同講演レジュメ)の【日本における捕虜虐待を含む一切の戦争犯罪人は処罰されるべきである。】により、裁判が受諾され【刑罰】が与えられる法的根拠となったというのが、東京大学を初めとして、政府の外務省の一般的な受け取り方のようである。
【裁判憲章そのものを受け入れた】という考えが日本の法学者や法曹会、政治家、官僚達に通念とされるようになったのは、東京大学法学部助教授の政治学者の丸山眞男が、戒能通孝東京都立大学教授(後述)から速記録を丸山氏が借りて書いた論考にかかれている「日本ファシズムの矮小性」と捉えた認識が受け入れられていたと考える。それが様々な教育やメディアによる拡散で広がったと考えている。
しかしその丸山眞男の考えは【軍への私怨】から来るものでは無いかと考えられる。
牛村圭氏によると《丸山眞男が記そうとした鮮明な差異ではなく、多くの共通点があった、にもかかわらず丸山は自己の主張に好都合な史料のみを提示し、速記録の引用にさいして操作さえもおこなって、日本人被告を貶めるような議論を展開しようとした》(同講演レジュメ)というふうに丸山は私怨から来る恨み節を考えに載せたと言う事になる。。
本来ならば、主権国家が他の主権国家を裁判で裁くなど当時も現在もあり得ないのだが、当時国際社会でその様な合意が確立しているわけでもない。2021年に国際刑事裁判所(ICC)がイスラエルをパレスチナ国家への戦争犯罪で、挙証し捜査・逮捕する決定をした。主権国家のイスラエルをどの国が捜査し、又関係者を逮捕するのか興味があるところである。実行は別として、このような事があり得るかというと、1998年に国際刑事裁判所の設置とローマ規定の国際社会によるコンセンサスと合意が整ったからでもある。ただし、イスラエルは同規定への加盟はしておらず【法的義務に拘束されていない】ので、ちょうど東京裁判と同じ構図となっている。
別のケースとして、ジェノサイド条約が1948年12月9日国連第三回総会決議260A(III)にて全会一致で採択され、1951年1月12日に発効された。これは日本は批准していないが、中華人民共和国は、中華民国が1949年7月20日に署名し、蒋介石が台湾に逃れたのが1949年であるからおそらく1983年4月18日に中華人民共和国も加盟若しくは批准しているのではないかと。アメリカも1948年12月11日署名し、1988年11月25日に批准している。
この条約は、ジェノサイドの罪を時間を遡って対象ケースを裁くための条約であるが、それを裁く裁判所は、その行為が行われた領域の国の権限ある裁判所又は国際刑事裁判所の管轄権を受諾している締約国については管轄権を有する国際刑事裁判所により裁判を受ける。(この条文は多数の国が留保しているため機能不全に陥っている。)
そして、この罪を背負った国の指導者及び直接間接的に関わった人々の【逮捕】する【権限】を持つ【警察機関】は全く存在していない。
この事は、東京裁判を理解する上では、重要ではないかなと思っている。

3 ウェブ裁判長判決書草稿への評価
この書籍によると、国際刑事裁判史上の基盤となる出来事だったという理解が国際法学者の間で一般化しているらしい。しかも近年国際社会で評価されるようになっているらしい。そしてここ20年ばかりで、国際社会の中でも国際刑事裁判所が1998年に設置されたことで、東京裁判の再評価が進んでいるらしいのだが、その評価書籍に田中利幸の文献も挙げている。Yuki Tanakaという偽名を使って、日本人の人肉食(生肉)やインドネシアのバンカでの日本軍部隊上陸直後での看護師(20名程度)の強姦殺人事件などという【虚偽の情報】を英語論文を使って拡散した人物である。
その評価自体お察しというのだけれど、発端は前述したカッセーゼ氏や佐藤和男氏の文献に対応したものだろうと推測できる。何とか東京裁判を従来通りの肯定したいという目的だろうと考えられるが、実際は、なんともならないので【国際刑事裁判所ローマ規定】へ繋がったということ【ぐらい】しか、評価のしようが無かったとも言える。
東京裁判が近年の国際社会で評価されるようになったか理由として、ジェノサイド罪、戦争犯罪、人道に対する罪、そのほか大規模な人権違反に対する免責をなくすための国際刑事裁判が世界的に重要な役割を果たすようになってきたからであろうと書いているのだが、これを読んだ人は裁判・検察・刑事・弁護士のTVドラマや小説を思い出すべきだろう。
そもそも【誰】が嫌疑を掛けるのか? そして犯罪者又は国家組織への【検挙(逮捕)】は【誰が】するのか?である。
前述して在るとおり、この【罪】の嫌疑を他国から掛けられた国の指導者及び直接間接的に関わった人々の【逮捕】する【権限】を持つ【警察機関】は全く存在していないが、現在でも状況は全く変わっていない。
現在も、国家主権を越えて捜査し、逮捕立件する警察機関組織は国際社会には存在しない。その証拠に2000年ぐらいから持ち上がっている中華人民共和国の中国共産党によるウィグルのジェノサイドの噂に関して、中国共産党の許可無しに新疆ウィグル地区での捜査などは一切できない。
現在でも想であるから、過去の1930年代も同じで、同時代の法律を解説した書籍で、盬谷恒太郎著『分析法理学』でも、国際社会は個々の主権国家の上に存在する権威組織は存在していない。そして現代も国際社会は依然としてアナーキー(無政府状態)である。
この書籍でもう一つの大きな主張である【個人責任論の原則】が、【【始めて】】適用されたのがニュルンベルク・東京裁判所であり、その事をことさら強調して【評価】とされている(P.14)。むしろこの部分しかないと言っても過言ではない。
もう一つは、ウェブ裁判長判決書草稿への評価である。この草稿の評価によって、多数派が為し得なかった【本当の判決】=【日本国犯罪成立と為政者犯罪成立】が行い得るものだとの主張である。
後の国際刑事裁判所の設置と実行においての【歴史的先例】としての評価をことさら強調するのはどうなのだろうか。

4 初期の東京裁判研究者
初期の研究者として、つぎの4名を挙げている。
①戦前から国際法の権威として名高い横田喜三郎(満洲事変以来の中国における日本政府の対外政策を批判し、戦後も法学者としての信用を保ち一九六六年には最高裁判長をつとめた。)、②戦後日本における刑法の分野を定義づけた刑法学者の団藤重光(1974〜83年に最高裁判所の判事をつとめた)、③民法学者として著名な戒能通孝、④英米法を専門とする高柳賢三は、東京裁判における被告人のリーダー格弁護人だった人物(P.16)
①については、補足が必要でWikiをみると、《かつてはマルクス主義の読書会(ベルリン社会科学研究会)に参加するなど親社会主義的な法学者として知られ、軍部に睨まれたこともあった。1931年(昭和6年)の満州事変に際し、自衛権範囲の逸脱だと軍部を批判した[1]。1930年から1931年にかけて、『国家学会雑誌』上でケルゼンの純粋法学をめぐり、擁護する立場から美濃部達吉と論争を行う。極東国際軍事裁判(東京裁判)の法的な不備を認めながらも、裁判自体については肯定的評価を与え、「国際法の革命」と論文で述べた。なお、東京裁判では裁判の翻訳責任者を務めた。その後、東京大学法学部長、日本学士院会員などの地位にあって日本の国際法学会をリードした。》ということで、戦後日本の法学及び法理解の方向性を決定的にした人物でもある。何故なら東京大学の法学部関係は彼の意図が中心かつその後エリート達が日本国の中枢を担う各省庁、各地の大学教官に入っていくことになるからである。
この4名には、【それは、東京裁判が国際法の歴史的発展に積極的な貢献をし、とくに国際犯罪に対する個人責任の原則を認めて適用した、という共通理解である。】としているが、④の高柳健三氏は【個人責任の原則】を認めて居無いので、誤った記述である。
そもそも【個人責任の原則】とは、主権国家の元での【刑法】による【刑事罰】にたいする【原則】と考えるが、法律には様々な【原則】があるので、それらは無視しても良いのかと言う事になる。
東京裁判でほぼ無視された【原則】を挙げると、司法権力の分割の原則、罪刑法定主義(法の不遡及)の原則、推定無罪の原則、主権国家による裁量権の原則(属地主義の原則)、主権平等の原則、基本的人権の原則(被告人の人権の保護)、冤罪防止の原則、誣告防止の原則などがあるが、どれも無視した上で【個人責任の原則】のみを前面に出すのはどうかと考える。基本的に戦後の司法の大きな概念での変更はないはずである。
さらに言えば、制度(システム)が、現在の国際刑事裁判所のようなシステムすらない。【法手続き】も英米法と大陸法では違いがあり、事前にロンドン会議(四ヶ国会議:1945年6月26日から8月8日)で政治的に摺り合わせをしている。
初期の研究家のうち、法曹家たちは軍部に睨まれ、かつ戦時中自由な活動や教え子を戦地に赴かせるような馬鹿な行為をした軍部に対し恨みを持つ人物も居ただろうし、根本思想としてソ連を理想郷としている共産主義を抱えている人物だったかも知れない。
団藤重光氏は裁判判決は冤罪の可能性が絶対ではなく、死刑反対論者に転向した人物が、東京裁判という【冤罪製造場】を肯定したとは考えにくい。もし、肯定した立場ならばダブルスタンダードだろう。
戒能通孝氏は、戦犯被告となった鈴木貞一氏の弁護に当たっている。この人物は満洲事変以来の日本軍の行為を【侵略】と認識していて、かつ『極東裁判』(1953年)の中で、《あらゆる革命には新たに形成された権力を旧支配階級の反革命策動から守るために、革命裁判の実施が必至となる、そうした革命裁判は、従って常に事後法による裁判とならざるを得ない、このように考えると、第二次世界大戦は世界の民主主義勢力のファシズム諸国に対する民主主義革命戦争なのであり、その革命戦争の一部として、東京裁判は事後法による裁判として実施されたのだ、という理解を示している。ここには、戦争責任追及に関する「政治」の優越に対する確信が見られる。(赤澤史朗 論文『戦後日本の戦争責任論の動向』)より》や昭和27年4月25日に行われた日本法社会学会第八回総会の討論会で次のように述べている。《破壊活動防止法が国会を通過すれば、その次の段階にはおそらく再軍備反対あるいはまた徴兵法反対というようなものがほとんど不可能にされて行くであろうということを、ある程度本能的に感ずることは私も同感でございます。私自身も破壊活動防止法は、決して共産党取締法ではない、将来の再軍備反対運動取締法であり、かつまた徴兵法反対運動取締法であるという立場におきまして、あれには心から反対を表明したいと思つておるわけであります。》すこしメモ程度を書くと翌年昭和28年韓国が竹島で漁を行っていた日本漁船を拿捕している。
①の横田喜三郎同様に、この戒能通孝氏もかなり左翼(共産主義・社会主義)傾向の強い方ではないかと思えてくる。余談だが、朝鮮半島人の【金嬉老事件】の弁護人でもある。
私怨に燃える丸山氏に東京裁判の速記録を見せたり、【革命】という言葉を多用し、【共産主義的民主主義】を推進しようとしているように思えてくる。
司法権力の分割の原則について、ウェブ裁判章も問題視していて、東京裁判の記者団に次のように述べている。
《本裁判所には、英米の概念に基づいて、純粋な共同謀議を犯罪とする権限はなく、また各国の国内法において共同謀議とされている犯罪の共通の特徴と認めるものに基づいて、そうする権限もない。多くの国の国内法が、国家の安全に影響を与える純粋な共同謀議を犯罪として取り扱っているかも知れない。しかし国際秩序の安全のために、純粋な共同謀議という犯罪があると本裁判所が宣言することは、裁判官による立法をおこなうことに等しいであろう(朝日新聞東京裁判記者団『東京裁判 下』P.308)。》(終戦五〇周年国民委員会編『世界がさばく東京裁判』P.184 15行目)

5 戒能通孝氏が東京裁判の終了した後の1948年に『歴史評論』発表した論文
さらに、戸谷由麻氏の著作戸谷由麻『東京裁判─第二次大戦後の法と正義の追及』のP304に戒能通孝氏が東京裁判の終了した後の1948年に『歴史評論』発表した論文で、【罪刑法定主義】を東京裁判で無視したことについて、次のような記述をしている。
《革命裁判は常に事後法裁判であり、罪刑法定主義を形式上常に否認する。なぜならば革命者は革命が成就する以前には、常に犯罪人として追及され、その的たる支配階級に追いまくられていたのであるが、革命の達成後初めて合法性を獲得し、自ら制定した法により旧敵の反抗を鎮圧するのは当然だからである。革命者に向かって罪刑法定主義の厳守を求めるのは、まさに論理的矛盾である。彼らは革命の成功以前には、その国の憎むべき犯罪人だった。しかし革命が成功することによって犯罪人が合法的政府の主体となり、彼らを追いかけていたものを、逆に追いかける立場に立つのである。秩序を愛する人の眼からみた場合、革命に基づくこれらの政治的価値転換は、呪うべき混乱とも映るであろう。だが実際の問題は、革命家に革命弾圧処罰権がなかったら、革命は起こり得ないのであって、このことは「革命」の性格上、自動的に由来することである。革命はこの意味に於いて法を知らない(46)。》というまったく香ばしい文章を書いて居られる。何を言っているのか正直誰か教えて欲しい文面である。
第二次世界大戦は、【革命】であり、【革命】はつねに【法を知らない】ので、【罪刑法定主義】を否定しても問題はないという【理屈】なのだろうか?
近年ヴェノナ文書などで、第二次世界大戦が【共産革命】のための【戦争】だったとという推論が事実とされだしていることは確かである。
それにしても、法律家である。この方は革命家だったのだろうか。アメリカの制度が国際社会から犯罪人とされたこともないが.... 日本で革命が起こったわけでもないし、単に戦争に負けただけである。【革命戦争】という行為とは全く違うし、東京裁判は当時日本が複数の他国と結んでいた【条約】が元になっている。何を言って居るのだろうか?
【民主主義革命戦争】などと【革命】を使うのは、共産主義者が民主主義をよく使うので、根本思想的には共産主義者だったかも知れない。
この4者から判断できる感想としては、当時、国際法において【個人責任の原則】が【確立】されていなかったという証左ではないだろうか。
そしてその事は、すなわち【確立されていない原則】で【日本軍人個人を裁いた】という事を言明されてないまでもそういう事実を示していると思える。
そこには、【基本的人権】もあったもんじゃない。

6 パル判事に対する不要な中傷
パル判事が、判決文を公開して以来、日本人としては日本軍の弁護を務めた弁護士達の言及などから、【違和感】を感じていたことは確かであるし、【個人責任の原則】という【主権国家】の元での【刑法】の【原則】が当てはめられたことに強く疑念を抱いたことは当然なのだが、この著作者は、《同判事(パル判事のこと)は、一九五〇年代から一九六〇年代にかけて戦犯受刑者の同志から招待を受け、三度にわたり訪日した。》と書いて、まるで【判決】に手心を加えるために日本の戦犯被告の関係者から接待を受けているかのように記述している。まるで、パル判事に対する嫉妬と憎悪を感じる中傷文面である。
この事は、全く法理学とは関係の無いことなのでパル判事の印象を悪くさせたいという印象操作だと思われる。
【違和感】でいうと、著作者の一人である戸谷由麻氏の著作にもあるのだが、真珠湾攻撃に関して、1907年のハーグ第3条からは攻撃の法的性格を決定するには実用的でない文書だとしてアメリカの主張を退けている。少し引用すると《判決書によると「この条約は敵対行為を開始する前に、明瞭な事前の通告を与える義務を負わせていることは疑いもないが、この通告を与えてから、敵対行為を開始するまでの間に、どれだけの時間の余裕を置かなければならないかを明確にしていない」のであり、そのためこの条約は、「狭く解釈することが可能であり、節操のない者に対して、他方でかれらの攻撃が奇襲として行われることを確実にしながら、右のおうに狭く解釈された義務には従うように工夫する気をおこさせるものである」ということだ。つまりハーグ条約そのものに不備があるため、この文書に拘泥する意味が見いだせないというのだった。(『東京裁判』 P.143)》
しかし、ハーグ条約の不備理由に真珠湾攻撃の違法性を不問した割りには、【不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)】の【侵略】の定義についての不備を勘案しなかった判事たちの判断は、首尾一貫していない感じがする。
外にも共同謀議の論理にしても確立された論理を東京裁判で当てはめたようで、国士舘大学の奥原敏雄氏の論文による共同謀議はそもそも【権利の乱用と防止と救済】【虚偽の告訴する結合(協議・関係)】だというし、【共同謀議】が【顔をつきあわせて】とは関係なく、決められた行動を達成するために行動した場合にも【一方はある行為を実行し、他方は同じ行為の他の部分を実行】すれば【共同謀議】に該当するということは、南京暴虐事件で松石根大将は共同謀議罪の平和に対する罪(訴因:1、27)に該当するはずだが、適用された訴因は【共同謀議罪】ではなく、通常の戦争犯罪にたいする不作為の訴因55だけである。
そもそも【不戦条約】を【不履行】の場合、国家を動かす君主及び為政者個人にその【責任】を負わせて、【誰かが処罰する】という規定が確立されていたのかどうか。
藤田久一氏の『戦争犯罪とは何か』に、第一次世界大戦(1914〜1918)の敗戦国家であるドイツ帝国の国王ヴィルヘルム2世(Friedrich Wilhelm Viktor Albert von Preußen)とドイツ軍兵士による1906年のジュネーブ条約(傷病者の状態改善に関する第2回赤十字条約)、1907年のハーグ陸戦条約への違反者を【戦争犯罪者】として【処罰】しようとしたが、オランダやアメリカ(第28代大統領、ウッドロウ・ウィルソン大統領)の反対で、処罰は行わなかった。理由は【事後法(罪刑法定主義)】という理由からである。
オランダは当時中立国で、ヴィルヘルム2世の亡命先であったが、戦勝国側が引き渡しを求めた際には、【戦争犯罪人】として裁く事は【罪刑法定主義】に触れるため、今後国際社会で【検討】し、【確立】した場合であったならば、【引き渡す】として要求を拒んでいる。
では、その後戦勝国側は不当として、オランダに宣戦布告しの上、ヴィルヘルム2世を奪還したこともなく、うやむやにしている。
清水正義著『第一次世界大戦後の前ドイツ皇帝訴追間題』」『白鴎法学』第十九号によると、《例えば、オーストラリア首相ヒューズは「彼[前皇帝]には世界を戦争に突っ込ませる完全な権利があるのです。今、我々は勝利をした。だから彼を殺す完全な権利がありますが、それは彼が世界を戦争に突っ込ませたからではなくて我々が勝ったからです。法律違反で彼を訴追するなんて、首相、それはできませんよ」と率直に語り、ロイド・ジョージ(イギリス首相)を牽制すると、軍需相チャーチルも呼応して、「前皇帝を絞首刑にするという道を意気揚々と開始するのは易しいし、大衆の一般的関心をその中に取り入れることもできる。けれど、時が過ぎてやがて大変な袋小路に陥ってしまうことになるでしょう。世界中の法律家たちがこの起訴状はとても支えきれるものではないことに気がつき始めるでしょう」と非常に消極的な姿勢に終始した。》
その後、1928年にパリ不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)などが締結されて、その中で条約を違反または不履行の場合に置いて、【主権国家】における【君主】または【政府高官】に対する【罰則】を明記している内容は存在しない。
国際法上での【国家責任法】が議論及び認識されていくのは寧ろ戦後の話になる。【罪刑法定主義】を無視して【事後法】を認めたのは1951年のジェノサイド条約であり、【国家】と【国家】の間での【公法】としての【刑法】が国際社会でコンセンサスを得ていくのも、東京裁判の50年後のローマ規定からである。言うまでもないが、その間に起こった世界各地での戦闘行為については全く無視である。
忘れてはならないのは、インドネシアでの植民地政策を継続したがったオランダ政府に対する現地住民による独立運動とそれを鎮圧するためにオランダが起こした戦闘がある(事実かどうか判らないが、60万人もの尊い命が失われたと言われている)。これに関するオランダ政府への【戦闘行為】に対する【パリ不戦条約】や【ハーグ陸戦条約】に関するお咎めがない。また、著者達も全く【無かった】事のようになっている。
そのほかにも、中国大陸内での蒋介石の中華民国と毛沢東等の中国共産党が【戦闘】を行った事実や、北朝鮮人民共和国が大韓民国を突如襲撃した(つまり侵略した)ことに始まる朝鮮戦争とアメリカの介入と中国共産党が参戦したことなど一切触れもしていない。

 

その2に続く


家永裁判判決と南京事件の話

2020年08月26日 13時31分55秒 | 1937年 南京攻略...

noteからの転載です。どうしようかと迷ったのですが、一応ブログの方にも掲載しておきます。
少し、手直しをしてます。

ブログの前記事【【南京事件】には、二種類ある。】で、【南京事件】には、2種類あると述べた事があります。

 


(1)【南京大虐殺】という【虐殺】の文言を使い、【感情的に酷い】【殺害・強姦・略奪】が【違法・不当】な形で行われた【戦争犯罪】を示す【事件】。


(2)【南京攻略戦後】において、【戦争犯罪】のケースとして当時は存在せず、国際法(戦時国際法)・国内法の観点から【違法・不当】かどうかを争っている【事件】。
という2つの事件があるという事です。


 

日本の国内で、近代史の記述表現について争われた裁判で【家永裁判】と呼ばれるものがあり、家永三郎氏(故人)が、執筆した【教科書】の【記述】を巡る裁判で、当時の文部省と【表現の自由】を争った訴訟裁判がありました。

Twitterなどで、この裁判の判決を持って、(1)の【根拠】として【立証】はなされたとする意見が流されています。

宮武嶺氏(元関西学院大学法科大学院教授。東京弁護士会。日本反核法律家協会理事。)という法律家のブログ【Everyone says I love you !】に次の様に記載されている事などから、その様に考えておられる方も居ると見られます。

そこで、少し言及をつぶさに検討する事にしてみました。


最高裁判決が1997年8月に出てから、日本政府も南京虐殺事件の存在自体は認めるようになり、他の教科書にもひとまず南京事件が記載されるようになりました。
[宮武嶺氏(元関西学院大学法科大学院教授。東京弁護士会。日本反核法律家協会理事。)のブログより引用。]


引用のように、この最高裁判所判決で、日本国が【南京虐殺】の【存在】を【認めた】との考えなのですが、その最高裁判決の判決文のうち次の点は注意すべきと考えております。


【裁判所の判決文面のうち】
学界の状況に基づいて判断すると、《中略》
南京占領の際の中国人の女性に対する貞操侵害行為は、行為の性質上その実数の把握が困難であるものの、特に非難すべき程多数で、残虐な行為として指摘され、中国軍民に対する大量虐殺行為とともに南京大虐殺と呼ばれて、南京占領の際に生じた特徴的事象とされているのが支配的見解であると認められる。
(宮武嶺氏ブログより引用。)


この文面の中の【学界の状況に基づいて判断】という文面があります。よく読んでみるとわかる事は、裁判所が判決の根拠に【依拠】したのは、【当時の史料】から【裁判所】が【調べた】という事ではなく、当時の【学界の状況】に【依拠した】という点は、注目すべき点なのです。

つまり、【当時の学界】がどういう史観や思考が【支配的であったか】が問題であって、【事件】そのものが問題だったという事ではないのです。

当然ながら、文部省の検定を勤めた人物も【南京攻略戦】に関する専門家でも何でもありません。

1989年に1984年〜1985年に偕行社の機関誌で掲載された『証言による「南京戦史」』をまとめた『南京戦史』が出版されて以降も、学術界は【何】が【虐殺】なのかも【定義付け】もなされないまま、【虐殺事件】があったという【考え】が【支配的】だったことは判っています。


代表格とも言える洞富雄氏(故人、元早稲田大学文学部教授)、藤原彰氏(故人、元一橋大学名誉教授)、笠原十九司氏(都留文科大学名誉教授)、秦郁彦氏(拓殖大学教授・千葉大学教授)という学者達が【中国共産党の意向】(東京裁判・南京軍事法廷史観)又は【政治的に中国共産党への忖度】をふまえた論旨を学界で【支配的】にさせていただけなのです。

それが、現在でも正しい【認識】であるかと言えば、全くそのような事はあり得ません。

秦郁彦氏は、その肩書きとして【法学博士】とありますが、その代表的著作の『南京事件 ー虐殺の構造』を読むと判りますが、国際法おろか国内法の観点からも【事案】についての論考が見られません。

その他の学者に至っては、国際法への理解は全く皆無、【可能性】と【蓋然性(パーセンテイジ)】が理解できていない論考というありさまで、ほぼその論考は【想像】であるというのが実態です。

裁判所における【根拠】に【依拠】したというも【学界での支配的な見解】というのは、
【想像】の域を超えないものなのです。

ちなみに、偕行社などで板倉由明氏や原剛氏などが言い出した【陸戦法規違反】とは何かと言いますと、ハーグで1907年に結ばれた【陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(通称:ハーグ陸戦条約)】とその【付則】としてある【陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則】です。

【学界で支配的な見解】である(1)の南京事件とは、それに乗っかってその【条約】に【違反】を【戦争犯罪】にするという【極東国際軍事裁判(通称:東京裁判)】に準じた考え方のようです。


しかしながら、現在この東京裁判が当時の国際法に準じていたかは、現在の研究でどの国際法学者であっても【適法】と言い切れる学者は居ない現状です。

家永裁判の当時の【学界での支配的な見解】ではないことが、現在の【支配的な見解】ではないことがわかっています。

当方は、何度も言及していますが、【国際法】に於ける【ハーグ陸戦条約】が【刑法】でも何でも無い、【合意法】【相互法】の範疇にある【条約】であり、当時この【条約違反】が【刑法】に準ずる【犯罪】に相当するというコンセンサスは形成されておらず、家永裁判判決よりも後に1998年のローマ規定として初めて国際社会で形成されています。
そして、東京裁判当時でも【法の遡及】という【法】を【形成】されるより前の【行為】にまで適応できるかという事が、国際社会でコンセンサスが得られていたという訳ではありませんし、戦勝国が敗戦国に対して【法の遡及】を行ってまで、【犯罪】として処罰できるという事はありませんでした。
それは第一次世界大戦の敗戦国のドイツの皇帝を【陸戦法規違反】の【犯罪人】として裁こうとしたのですが、中立国であったオランダは【そのような慣例もなく国際社会のコンセンサスも法も無い】、【文明社会、文明国家の基本である罪刑法定主義】に反するとして【拒否】しております。
それ以降も、東京裁判まで国際社会として何か【コンセンサス】の【形成】の為の【立法への議論】が存在したかというといっさい見られません。
話を【南京事件】に戻しますが、さらに当時日本国は1929年の【俘虜の待遇に関する条約(通称:ジュネーブ条約)】の扱いに関して【批准】しておりません。

【条約】は、【協定】ですから、【批准】していなければ、
その【義務】に【拘束】されるいわれは全くありません。

例えば、A国の国内法で路上喫煙は禁固5年、罰金10万円という【刑法】があっても、B国にその様な法律が無ければ、B国に居るならば、何ら【義務】も【拘束】もされないのは当たり前の話です。
ですから、【条約】を結んでお互い公平な【義務】と【拘束】を取り決めるのです。

日本の【学界の支配的な見解】は、日本だけが【義務】を一方的に破っていたという【願望的見解】を堅持していますが、当時の【史料】を見ると一方的に破ったという史料はどこにもありません。

むしろ、中国側の方がまず破ったという形跡があります。

【陸戦法規】には、【徽章着用(軍服着用)】が兵士には【義務】付けられて居ます。
何故、そのような【義務】があるかというと、戦闘に置いて【一般人(民間人)】つまり【非戦闘員】という戦闘に従事しない人々が戦闘に巻き込まれないよう、敵軍から攻撃されないように【人道上】の為のもので、【兵民分離の原則】と呼ばれるものです。(戦闘がどういった行為まで含めるかここでは詳しくは述べませんが、実際の攻撃行為、防衛陣地の構築、食料・兵器と弾薬運搬・傷病兵士への医療行為も含まれると認識されています。)
当時日本軍と争っていた中国軍とは、蒋介石の率いる国民党軍、地方軍閥、共産党軍ですが、彼らは南京戦の緒戦である上海事変の頃から、【便衣隊】という【徽章(軍服)を脱いだ状態での戦闘行為】をおこなっており、極めて悪質な【義務違反】であると考えられますが、【学界の支配的な見解】を保持する学者達は、その事を【軽視】又は【無視】する事によって【条約違反】が無かったかのように装っています。
実は、こういうやり方は【学術界】での【支配的見解】の中で、往々にして行われています。それで【支配的な見解】だ【多くの賛成を得ている】としているのです。

【条約】とは【相互法】であり、一方が【破棄】又は【義務不履行】であるならば、【義務】に拘束される必要はありません。

何らかの【不当行為】であったとしても、そもそも【義務不履行】の相手に対して【義務】を履行する必要は存在しません。
ただし、【義務】を履行してはならないという【義務】もありません。
ですから、日本軍関係の史料を読むと、義務を守って戦闘法規を遵守している記述を見ることができます。
そのような【法的状況】の中で、日本軍の【不当行為】というのがそもそも存在するのでしょうか。
それを先回りして【道徳的・道義的責任】ということを言い出す学者も居るのですが、

そもそも【戦闘行為】自体が【人を殺傷する・敵所有物を破壊する】という【平時】に於いては【不道徳行為】なのです。

そして戦闘行為が正当化される以上は、【道徳的・道義的責任】は【協定】の範囲内に含まれているのです。
とうの南京事件は、1937年7月の盧溝橋での偶発発砲事件からの戦闘から上海事変の戦闘の過程である南京攻略戦でのことです。
その中で、日本国政府は【一撃屈服論】として【応懲】を国際社会にも国内にも掲げます。
これの意味ですが、【学界の支配的な見解】を支持する学者達は、【征服・侵略】だとするのですが、日本国政府及び日本軍にそのような【意図】は見当たりません。
盧溝橋からの北支及び中支に及ぶ中国側からの度重なる軍事攻撃に対する報復であり、【国際法】での【復仇宣言】に他なりません。

【国際法】での【復仇】とは、相手の攻撃に対して【相応】の攻撃を持って【停止させること】を目的としたものです。

日本軍の行為は、【相手の軍事攻撃】に対する【停止させること】を目的とした【報復宣言】なのです。
それを【学界の支配的な見解】を支持する学者達は、そう言った点に関心も理解無く【征服・侵略】の延長線上という【見解】を示すのです。
これは【大きな間違い】です。
当時の日本軍の行動は、バタバタとした想定していない事案への場当たり的な計画性のかけらも無い行動で、上海事変での上海攻略に関しても中国側の防衛設備の状況を念入りに調べもせずに大打撃を受けて多数の戦死傷者を出している事からも理解できます。
通常計画的な【征服・侵略】ならば【敵戦力】の【状況】は念入りに調べて攻撃場所を選んで攻めるからです。
その後日本軍が各拠点である中支・北支の都市を占拠していきますが、これを日本軍の領地・領土としているとしていますが、実際には満州国と同様に中国人による政府を立ち上げて治世を行わせています。そして現地人がより良い生活ができるようにインフラ等生活環境を整えていっています。
日本軍は、そこに駐屯していますが、判りやすい例で言うと1990年のイラクのクウェート侵攻に端を発する湾岸戦闘後、イラク敗戦後に於ける欧米のPKOによる駐留と変わりありません。
現在、アフリカのマリ共和国のようにフランス軍が駐屯したりしているのと変わりがありません。
【学界の支配的な見解】を支持する学者達には、その様な事実は目に入らず何でも日本国・日本軍の【侵略と支配】体制という認識しか持ち得ないのです。

さらに、【学界の支配的な見解】を支持される学者達が無視する重要な事があります。
第一次世界大戦から大きな影響を持つようになった【戦時宣伝】です。それついて当時の状況と併せて述べられる事はありません。【戦時宣伝】について語られる場合は、ほぼ日本国内の【戦意高揚】と【劣勢】を隠した【大本営発表】しか述べられる事がありません。
実際には、【敵】への【戦意】を削いだり、【悪魔化】するための【虚偽】をラジオ・新聞・広告などを【国外】で広げる手法があるのです。
イギリス・フランスは謀略型、アメリカは報道型、ソ連は英米混合方式で相手にダメージを与えたり、中立国への支援を取り付けたり参戦させる為に用いられたのです。

【南京事件】とは、中国の戦闘を長引かせるため米国・国際社会の支援を得られるように作成された【戦時宣伝】の側面がある事は拭えないのです。

なぜなら、当初陥落3日間に南京に戦場報道の為に滞在していた欧米の5名のジャーナリストが報道してますが、そのうち米国の2名のジャーナリストの記事の中に見られる【外国人目撃者達】という複数の目撃者や、【消防士】【警察官】への不当な殺害は、当時彼らと同様に南京に滞在し、国際安全地区という一応中立地帯を運営していた欧米人の記録にはいっさい見られないからです。その【外国人目撃者達】や【消防士・警察官】という文言を作ってジャーナリストに伝えたのは、国際安全地区を運営していた欧米人のうち米国の宣教師でもあり金陵大学の教授であったマイナー・シール・ベイツという人物によるものであると判っています。
アメリカ特有の報道型という【戦時宣伝】に沿った手法により、【虚偽】が【事実】として欧米に拡散される自体となったのです。
なぜか、【学界の支配的な見解】は、こういった事を【軽視】【無視】する傾向があるのです。
【戦時宣伝】と関連するのですが、家永裁判当時はまだ、アメリカのNSA(アメリカ国家安全保障局)によるアメリカ国内のソ連のスパイの調査文書【ヴェノナ文書】とロシアの公文書【リッツキドニー文書】の公開がまだだったので、東京裁判の判決が力を持っていたのですが、そして第二次世界大戦や支那事変の起こる要因に【ソ連】や【共産主義者】達の【謀略説】があった事はあったのですが、事実ではない【陰謀論】という【虚偽】【想像】【とるに足らない説】とされていました。それが公開されて以降、米国の研究者の分析によるとそれらの文書から判った事は、

【戦争】を【謀議】して【戦争】を起こしたのは、【ソ連】であり【共産主義者】達であり、本来ならば【戦争犯罪者】として本来裁かれて【処罰】されるべき、【社会から排除】されるべき存在だったということなのです。

【謀略】は、外交官や政府の要人に近い立場の人につかわれる【インテリジェンス】と大きく拡散させるメディアを使った【戦時宣伝】があります。
ソ連はこれを巧みに使ったと考えられています。

南京の国際安全地区にも主要メンバーとしてソ連人2名が関わっています。マギー神父という有名なマギーフィルムを残した人物が居るのですが、東京裁判でも証言していますが、当時ソ連人と同居していた事は史料から判明しています。

当時のアメリカはソ連と国交があり、アメリカ政府のホワイトハウスの主要なメンバーにソ連のスパイが蔓延していた事は先の【ヴェノナ文書】から判明していますし、日本の当時の内閣総理大臣近衛文麿の政策諮問機関である【昭和研究会】、さらに個人的な相談懇親会【朝飯会】には、ゾルゲ事件で捕まった尾崎秀実をはじめ風見章など、共産主義者に取り巻かれていた事実があります。
しかし現在もまだ、【学界の支配的な見解】はこれを【軽視】【無視】している現状です。
こんな【現状認識】に【過誤】がある【状況】が【学界の支配的見解】ならば、【最高裁判所】の【判決】の【根拠】は、【正確な事実】を基にしていないという事になります。

正確に最高裁判所の文書を読むならば、最高裁判所は【事案】の【事実・無実】は判り得ないので、【学界の支配的見解】を【根拠】にした訳ですから、現在2020年においては、【学界の支配的見解】が【過誤】であったのですから、最高裁判所の【判決】の【内容】は誤っている事に他なりません。
学界からの公式発表はありませんので、今でも【学界はその支配的見解を堅持している】ものと考えます。このような事は、愚か以外何者でもないのです。
また、日本政府が認めているかというとそうでもなく、例えば外務省歴史Q&Aの6のように、家永氏の【記述】での【軍民】の【軍】=【兵士】への【不当な殺害行為】への記述は見当たりません。
【多数の】又は【いくつかの】(a number of)【非戦闘員】への殺害行為を認めていますが、どのようなケースに於ける【殺害行為】であるかは、【史料】を【提示】しておらず判明していません。例えば【戦闘行為】に加担した非戦闘員への殺害行為も含まれる事になります。

つまり、日本政府が【南京虐殺】の存在自体は認めたかどうかという事は、曖昧で、あり得ないのです。
【虐殺】という用語は、【感情含有用語】であり、受け手が【酷い・可哀想】などと思えば、それが【正当行為】であったとしても【存在】する用語になるからで、【客観的・科学的】な用語として使用することは【不適切】以外の何者でもありません。

1998年に国際刑事裁判所設立と同時に規定されたローマ規定では、【虐殺】という文言は、【ジェノサイド】として規定されており、日本軍が行ったとされる【戦争放棄違反】とは、【別】とされており、記述には【殺害】又は【大量殺害】となっています。

法曹界に関わっている、法律家が【虐殺】などという用語を日本軍の行為について平気で使用するというのは、法律家の言葉知らず、国内法家の国際法知らずと言う事に他ならず、恥ずかしい行為だと考えます。
ちなみに、家永三郎氏は御専門は、wikiを見る限りでは、文学博士(東京大学:学位請求論文『主として文献に拠る上代倭絵の文化史的研究』)、日本思想史研究、憲法などであって、南京攻略戦についてや近代史に於ける日本国・日本軍の歴史、はたまた国際法について造詣が深いとは言えない方である。


wikiより引用《
抗日戦争の中で行ったゲリラ攻撃に戦時国際法に違反するものがあったとしても、圧倒的に優勢な装備を有する日本軍の侵略に対し、正規軍のみによる、あるいは戦時国際法の定める条件に形式的に適合した方法にしたがった防衛のみを要求するのは、期待可能性を無視したものというべく、正当防衛として違法性を阻却するものと考えるべきではなかろうか。個々の具体的行為について見れば、害敵手段としての相当性を逸脱した例もあったようであるが、日本軍が中国全土でくり広げた残虐行為の連続を考えるときに、その種の例外が若干あるとしても、それを拾い出して中国の責任を問題とすること自体公正を失するというべきであろう。》


これを読むと、どれだけ目が曇っているのかという感じです。
抗日運動によるゲリラという陸戦法規違反行為を正当防衛であるとされて、日本軍に於ける抗日運動への対処は、【残虐行為】の連続であり、日本国が全く悪いのだという戦後の東京裁判史観のステレオタイプそのものです。

【陸戦法規】というのは【条約】に付則したもので、【条約】という【協定】、つまり【双方】の【合意】による【意思と義務】のことです。


 一体、この戦闘を誰が企画し始めたのでしょうか。 

張作霖爆殺以降による度重なる【抗日排日行動】で被害を受け続けた日本が、さらに盧溝橋以降の度重なる軍事挑発に対する正当防衛であるという認識を持たないばかりか、日本軍が軍事的に優勢であるという全く議論違いの論理の整合性も無い頓珍漢ぶりを発揮されています。そんな軍事の優劣は全く関係がありません。

そもそも中国側による戦闘が企画されたのは【西安事件】からです。

ソ連の下部組織であった中国共産党が張作霖の息子の張学良を使って、【抗日戦闘】へ向かわせたのですから。
なぜ、このことを【事実の把握理解】に入れないのかさっぱり【理解】に苦しみます。

基本的に、【学界の支配的な見解】を支持する学者たちやこの人物は何か当時の様々な状況を理解しようとしているのではなく、飽くまで【日本軍を悪い】にしたいと望んでいるだけなのです。

そこに、歴史を正しく認識しているという姿は見る事ができません。
この人物と争った文部省にしても、裁定をした裁判所の裁判官にしても、結局【事案】について何ら正しく見るという事は無かったと考えます。


学界の状況に基づいて判断すると、《中略》
南京占領の際の中国人の女性に対する貞操侵害行為は、行為の性質上その実数の把握が困難であるものの、特に非難すべき程多数で、残虐な行為として指摘され、中国軍民に対する大量虐殺行為とともに南京大虐殺と呼ばれて、南京占領の際に生じた特徴的事象とされているのが支配的見解であると認められる


という最高裁判所の判決文に際して、これが(1)【南京事件(虐殺を使用)】を立証せしめている訳ではなく、現在その戦争犯罪自体の【法律】が無かった以上は、それが【存在】しうるものではないという事になります。
戦闘行為自体により人間が人間を殺害し合うという、非道徳行為である上で、それを【正当化】している以上は、日本軍の行為をことさら【犯罪者】扱いは不当きわまりない行為なのです。
この家永裁判を通じて、日本の最高裁判所が【南京事件(虐殺を使用)】を立証せしめたという事は全くありません。
当時の【想像による】【学界の支配的な見解】を【根拠】にしたという事なのです。

 

そして、結論としては、その【根拠】に
【過誤】がある以上は、
最高裁判所の【判決文】も又【過誤】である
という事になります。


【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】への反論前の研究ノート その23

2020年08月19日 20時05分16秒 | 1937年 南京攻略...

【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】
この南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】とは、主に【城外】に【崇善堂】の埋葬記録などから、各村落の合算をすると大量の【非戦闘員】が居て、それが戦場における日本軍の不軍紀且つ国際法の陸戦に関する【条約】の【陸戦法規】に違反する不当行為による【殺害】で、しかも【大量殺害】を犯したという主張である。
この馬鹿げた主張に反論する前に、情報収集として城外に【大量の非戦闘員が特定エリアに集結又は分散的に居た】のかという記録がないかを目的に次の戦闘詳報を調べた結果の一つである。

調べた戦闘詳報は、
  山砲兵第9連隊 第一大隊 【9月〜12月】(*1)

今回は第9師団関連の【山砲兵第9連隊 第一大隊】という第9師団隷下第6旅団隷下の部隊の【戦闘詳報】から見てみたまとめである。この山砲第9連隊は、第6旅団に属し、同旅団第35連隊等に協力し、淳化鎮から光華門・紫金山と扇形に展開して要地を攻略している。
結論からみると進軍路程の無錫=>武進(常州)=>金檀城=>土橋鎮を経て、淳化鎮より西側に広がる南京城までの山丘と盆地面に関して【民間人(非戦闘員)】が【蝟集】していたという【痕跡】【形跡】を【戦闘詳報】からは読み解くことが出来なかった。戦闘詳報中に淳化鎮からその南京のエリアには、ほぼ要塞化された陣地が構築されていて、激しい戦闘があり、そのような地域で【民間人(非戦闘員)】が【蝟集】していたのであれば、当然ながら双方の【戦闘行為】により多数が戦死傷していたことはまちがいないが、今回の戦闘詳報には、【民間人(非戦闘員)】が逃げ惑うような記録はいっさい存在しない。


〈12月7日 【C13070271000】 15頁 0879 戦闘経過要図〉

この山砲兵第9連隊 第一大隊の【戦闘詳報】は、上海戦より通して残っているので戦史を知る上では重要な史料と考えられる。
この記事の論旨に該当する崇善堂の埋葬記録は、一部【紫金山】エリアでかぶるが、淳化鎮周辺の青龍山山丘周辺は激戦地の要塞であり、多数の中国人兵卒が死んでいるはずであるが、基本的に埋葬活動の実績の記載の【無い】エリアである。なぜ、ここが漏れ落ちたのかいっさい不明である。
注意を要する点としては、上海戦以降で、蘇州占領時あたりから度々【参謀長(師団)注意・旅団長注意・大隊長注意】として、無錫城攻略以降に11月27日から12月の始めまで【良民保護】【外国権益建築物物品保護】と、【良民(土民)殺戮、家屋放火、徴発と略奪を混同への禁止厳命】と【処罰】も含む戒告のような【注意】がなされている。
山砲兵団の動きは、12月2日には卜戈鎮に着陣し、12月6日には土橋鎮の西の淳化鎮手前の索野鎮に着いているので、相当な速さで進軍していることがわかる。
11月27日から12月6日で100km近い行程を妨害工作物(防護柵や地雷、橋の破壊)や雨天による泥道、クリーク(自然の堀)などを超えて所要日数は9日程で到達している。
ただ淳化鎮以降から南京占領直前までは、そのような【注意事項】はなくなって、理由としては進軍速度と戦闘が激化してきて戦闘中心の記載となっている。


(無錫の南西にある雪堰橋鎮から句容の西にある淳化鎮)

念のためもう一度書いて置くが、南京事件FQAサイトのこの【3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】記事の次の【主張】に対する反論である。
該当サイトの【記事】の主旨は、主に【城外】に【崇善堂】の埋葬記録などから、大量の【非戦闘員】が居て、それが戦場における日本軍の不軍紀且つ国際法の陸戦に関する条約の【陸戦法規】に違反する不当行為により殺害で、しかも大量殺害を犯したという主張である。
その根拠としては主に【崇善堂】の【埋葬記録】などである。それ以外にも周辺での【避難】せずに、又は家族の都合などで、村落の大部分の【一般住民が取り残されていた】ものを、【戦闘】及び【徴発の際】などでの日本軍の不当行為で【殺害】したという【主張】である。
これへの反論としてこの【分析】を書いている。誤解のないようにお願いする。
範囲としては、【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】である12月3、4日以降の範囲に限定する。でなければ前にも後ろにも収拾がつかず論的に判断できないからである。
それと、【歴史】を調べる上で、【第一次史料】はとても重要であり、当時を【知る】という意味では、【最重要】な【史料】ではあるのは言う間でもない。ただ、【精査】という【史料批判】は必要なものである。
【戦闘詳報】は、リアルタイムで記述されるものでは無く、戦況によって変化する中で、担当者の置かれた状況次第で、後日に書かれることになり、記憶や連絡メモなどを参考に記載される。書いた時での記憶の忘失・誤記憶、連絡メモなどは紛失なども状況に依ってはあり得るので、【記憶】【推測】【想像】による【記載】になることがある。それはいわゆる【蓋然性が低い】と言うことに外ならない。
【淳化鎮】は、南京城東南方向の青龍山山系(大城山山系)から起伏のある丘の裾野の盆地帯で、各地山腹等に防衛陣地(掩蓋壕やトーチカ、鹿砦(木製の柵)、鉄条網、地雷帯など)が厳重・重層的に構築されている要塞地帯である。無錫からは蒋介石が造った用水路網を徴発した民間船を使用し、金檀城とその先の薜埠鎮へ進軍ができ、移動速度が増しているが、その後陸路の行軍となり、句容のほぼ西にある土橋鎮から淳化鎮手前で敵軍との本格的な交戦で進軍速度は落ちている。
なお、丹陽城・金檀城を焼き払っているという情報が当時の上位の上海派遣軍参謀長の飯沼守日記(*2)に記載されている。
そして、該当サイトが根拠としている【崇善堂】の埋葬記録には、このエリアでの埋葬記録は、【該当箇所】が無い。

 

【分析・考察】


南京城周辺は、防衛地帯であり、トーチカ・掩蓋壕・鉄条網・鹿砦・地雷などが多数埋設されていて、かなり行動が制限されている。
その中で、【民間人(非戦闘員)】が分割して大中小と蝟集しているということは、なかなか想定しにくい上、戦闘詳報類にも南京城周辺に於の【民間人(非戦闘員)】の姿を視認したことは書かれていない。
無錫や武進(常州)周辺で、他の師団である16師団20連隊の保坂軍医や牧原信夫の【日記】にあるような【民間人(非戦闘員)】を殺害したと言う記載がある事は確かだが、それがどういう前提であったかは判明しておらず、第九師団や山砲兵団で進軍上で度々出される事となった【注意事項】は、淳化鎮以降は戦況の激化に伴い戦闘一色になり【無くなっている】。
何度も繰り返しになるが、山砲兵第9連隊の戦闘詳報は、【紫金山山麓】や【光華門】という【要塞・要害】へ続く【敵】重要拠点を攻略した記録であり、【民間人(非戦闘員)】がいることは考えにくい。実際にいたとしても【戦闘行為】と【それ以外の殺害行為】を明確に分ける実証することは不可能である。しかも大なり小なりの人数の【民間人(非戦闘員)】が【陣地内】に【避難・蝟集】していたと【証明】するような【記述】も見られない。地雷や鉄条網で囲まれた要塞・防衛陣地内に居て、戦闘に巻き込まれ被災していたとしても【戦争行為】の双方攻撃の一環であり、日本軍に何等問題があった行為とは認識は出来ない。
又、上述しているように上海派遣軍の参謀本部には【堅壁清野作戦】という一応の中国軍使用以外の建物への破壊と焼却が報告されている。この金檀城攻略以降にも【良民殺害厳禁】の注意事項が出されているが、実際の行動が【誰】による【行為】かは【明確】ではない。
通常では地元民保護はすると考えるが、ラーべの日記(*3)にも見られるように中国軍にそのような【民間人(非戦闘員)】の意図は見られない。南京城周辺も12月7日以降に日本軍の行動に利用されることを想定した建造物の焼却・破壊を行なっている(当然ながら中国軍の利用目的上の村落への焼却はなされていない)し、翌年には、黄河決壊作戦や長沙焼却作戦などというものがあり、地元民保護を行う思考が存在していない。


〈堅壁清野作戦エリア 12月7日〜12日〉

地元民と記述したのは、当時の中国大陸では中華民国が国家として存立していたわけではなく、中華民国、地方勢力軍閥、中国共産党という異なる勢力が絡んでいるので日本国と抗争している間でも互いに抗争しているので、国民国家として国民保護という観点が存在していないためである。地元民といえど敵対勢力圏の人間は敵になるからである。例えば、蒋介石軍は第四軍という中国共産党軍(ゲリラ)に対して後に攻撃を加えている。
しかも、蒋介石の率いる中華民国も民主的な体制ではなく、軍事独裁者として蒋介石の家族血縁軍閥組織というファシズム体制である故に地元民への保護などはなされていない。このことは南京での民間人(非戦闘員)避難をまず第一に考えず、推定20万を超える【民間人(非戦闘員)】を戦闘区域内に残置したということなどからも裏付られる。
話を戻すと、【民間人(非戦闘員)】への殺害行為を師団は日本軍兵士の行為と判断しているが、その行為を補完する様な【史料】としては今の所、他の部隊である第16師団20連隊の第3大隊の軍医である保坂晃日記や同連隊の第3機関銃中隊員である牧原信夫上等兵の陣中日記(教えてゲンさんサイト参照)があるものの、山砲兵団の進路における【事例】がどうであったかは確認できない。
ちなみに、一兵士や軍医が【民間人(非戦闘員)】を【殺害】を認識して、【可哀想】という【憐憫の感情】を抱いていた事は、確かであるがそれらがどういう【条件】の下で行われたのかは、日記からだけではわからない。事実として【戦闘行為を行っていない民間人(非戦闘員)殺害】あったのかどうかだが、異なる師団で同様のケースが行われるにはそれなりの理由があると考えてしかるべきである。(非戦闘員とは、身分の事で兵卒と異なる身分の名称としている。戦闘行為を行ったとしても非戦闘員である。民間人も同じ用語である。)
1996年に結成された【新しい歴史教科書をつくる会】(*4)の登場に危機感を抱いた当時小学校の教師だった松岡環女史(*5)が、第16師団の33連隊を中心に収集した証言があるが、その中にも【武進】周辺での保坂晃氏や牧原信夫氏の書いた様な証言が多数あるわけではない(ただ当然ながら戦後の時間を経た【証言】はあくまで参考程度、史料としての信頼性・信用性は極めて低い史料である)。南京城攻略が中心という理由もあると考えるが、加害史観にどっぷりと染まった人物の書籍にもほぼ見られない。
後述するが、仮にそのような非戦闘員への殺害が起こったのであれば、師団参謀長・連隊長・大隊長などの各命令後に添付された【注意事項】が多数なされていることからも、【軍規の弛緩】などと言う話とは異なる事態が起こったのではないかと考える。とはいえ、行程上に存在していた宿営等した、又は周辺の村落を悉く全て纏まった蝟集民間人(非戦闘員)を襲撃して殺害を行ったという【記録】はどこにも見られない。当時の軍の行動は速やかな南京攻略で、【敵部隊】でもない各村落襲撃し【殺害】をしている時間と労力があるならば進軍と徴発(食料収集)に使われている。【南京大虐殺】を主張される大学教授や研究者達の主張でも、日本軍は各部隊が南京城攻略一番乗りを目指して、我先に【進軍】していると分析されていると同様に、もたもたと宿営や周辺の村落を襲撃して【民間人(非戦闘員)】を殺害して回っている余裕は見られない。つまりあり得ないということである。

一応、無錫城攻略以降に次のような【注意事項】が各師団・連隊・大隊命令に添付されているので掲載しておく。

 

〈9月28日 【C1111847400】35頁 1112 宿営に関する注意事項 上海兵站司令部 船上〉

 



〈11月19日 【C13070270500】22頁 0735/0736 旅団長注意事項 第九師団第六旅団 蘇州城〉

 


〈11月20日 【C13070270500】32頁 0746 連隊長注意事項 第九師団第六旅団山砲兵第9連隊 蘇州城〉

 


〈11月20日 【C13070270500】33頁 0747 連隊長注意事項 第九師団第六旅団山砲兵第9連隊 蘇州城〉

 



〈11月20日 【C13070270500】36頁 0750 連隊長注意事項 第九師団第六旅団山砲兵第9連隊 蘇州城〉

 


〈11月23日 【C13070270600】6頁 0768 連隊会報 山砲兵第9連隊 蘇州城〉

 


〈11月26日 【C13070270600】19頁 0781/0782 連隊長注意 山砲兵第9連隊 雷家鎮〉

 


〈11月27日 【C13070270600】28頁 0790 連隊長注意 山砲兵第9連隊 雷家鎮〉

 


〈11月27日 【C13070270600】30頁 0792 連隊長注意 山砲兵第9連隊 蘇州城〉




〈11月29日 【C13070270600】39頁 0801 師団参謀長注意 第九師団 雪堰鎮〉

 


〈11月29日 【C13070270600】41頁 0804 師団参謀長注意 第九師団 雪堰鎮〉

 


〈12月2日 【C13070270900】13頁 0830 大隊長注意 山砲兵第9連隊第一大隊 卜戈鎮〉

 


〈12月12日 【C13070271000】31頁 0948 同日会報 上軍会報抜粋 南京城下工兵学校付近〉

 

注意事項を並べてみると、11月27日以降から29日の先行追撃部隊が無錫を出発して太湖の北側の線に沿って雪堰橋鎮(無錫の南東)へ進軍途中で通達が増えている。
最初に注意事項が出たのは、11月19日で、【略奪】への注意であった。蘇州城入場に関し事前の注意だったと考えられる。
良民に対しても必要以上の寛容は必要ないが、適宜宣撫するように指示している。
11月20日の連隊長注意で行為としての【略奪】が出現しているが、側聞(伝聞)という噂レベルの話である。後に書くが【徴発】に関する【通貨】【言葉の壁】の問題もあったのではないかと考える。
その連隊長注意に、初めて【良民】と【敗残兵】を区別するようにという言葉が出てくる。戦場の緊張の中で、当初から想定せねばならなかった【便衣隊】を考えると、区別に関して各小隊では相当難しい対応を迫られたと考える。
この日には、兵士に対して盗難の疑いをかけ始めて所持品検査を開始している。
命を掛けて戦う兵士達にとっては情けない話であったと想像する。
11月26日には、連隊レベルで【良民保護】への注意事項が出されている。
11月27日に、【家屋放火、良民殺戮】への【禁止厳命】があるが、数々の注意事項から関して【行動】が【軍命】にそむけない日本の兵卒の行動としては違和感を感じる。
しかも、具体的な事例は記載されていない。
後手を縛られている【遺体】についても記載されているが、何故そのような【遺体】があるのか非常に気になる点である。
11月29日は、師団からの注意として【家屋放火】を行ったものに対して【厳重処分】を警告しているにも関わらず、帯同する師団本部の近くで度々の注意に対して堂々と反抗的行為をつづけるという事は考えにくい。
師団は、良民保護を厳命しているが、実動部隊の中隊・小隊・分隊の兵士レベルからすれば、良民の【敵意】を測る尺度は存在しないし、スパイ行動を見逃す訳にもいかないはずである。又、村落の住民自体が【反抗的】と判断し得れば、当然ながら【殲滅】という事にも繋がり得る。後述するが【便衣隊】の存在も考慮に入れなければならない状況であり、個々の部隊の判断によるものと考えられる。
場所的には、無錫から南西に向かった雪堰橋鎮であり、ナチスの軍事顧問団が作ったゼートクラインの防衛ライン上に位置している。
11月29日以降は、注意事項が減るのは、戦闘の激化もありえるが、【民間人(非戦闘員)】が宿営地を含め蝟集していなかったと考えられる。

 


〈9月28日 【C1111847400】32頁 1109 宿営に関する注意事項 上海兵站司令部 船上〉

で、【便衣隊】の名称が使われている事から、日本軍は当時中国軍が【陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約】および付属の【陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則】(*6)を破っていると認識していたという事でもある。又、良民と敵敗残兵との区別や、良民の【敵意】を測る方法等難しい判断が各部隊の兵士に求められていたと考えられる。
【戦時国際法】は、【条約】という【協定】なので、一方が【遵守】しなければ、敵対国のみが【義務】に【拘束】されるものではないとも考えられる。
当時の日本軍が、国際法に関する教育を兵士に施さなかったと批判する研究者も存在するが、どちらかというと中国側や南京につめていた宣教師・メディア等を含む欧米人達も又国際法を理解していなかったと考えるべきである。

 


〈11月21日 【C13070270500】40頁 0754 大隊長命令 第九師団第六旅団山砲兵第9連隊第一大隊 蘇州城〉

清掃に関する記述が見られるが、この辺は現在の日本人と変わりない清潔好きな民族性がうかがえる。

 


〈11月22日 【C13070270500】46頁 0760 連隊長命令 第九師団第六旅団山砲兵第9連隊 蘇州城〉

当時の敵兵の遺体も埋葬していたというのは、進軍中でもやっていた事というのは驚きである。

 


〈11月21日 【C13070270500】47頁 0761 第九師団参謀長注意事項 第九師団〉

における【支那通貨】を経理部で回収という命令が出ているが、このことが徴発と略奪が混同される原因の一つであったのではないかと考えられる。又、日本軍兵士側は【法幣(*7)】は使わない。中国人側は【軍票】は【通貨】としての認識は持ち得ない。実際の交渉時に【使える・使えない】という【言葉の不通】も伴ってトラブルになり攻撃し傷害と殺害に到るケースも【想像】出来ないわけではない。

 


〈11月23日 【C13070270600】6頁 0768 連隊会報 山砲兵第9連隊 蘇州城〉

における以降の【単独外出禁止】と【隊長の証明書所持】が為されている。単独行動に於ける敵軍・敵住民による拉致・殺害防止と兵卒の個人犯罪を防ぐ防止措置と考えられる。

 


〈11月25日 【C13070270600】13頁 0775 第九師団経理会報 第九師団 蘇州城〉

こまごまと、徴発を意識した細かい行動をとるように支持している。

 


〈12月12日 【C13070271000】24頁 0941 松井石根大将訓示 11月23日付 南京城下工兵学校付近〉


11月23日付けでだされていた松井石根大将の訓示が12月12日になって届くのはどうかと考えるが、それよりも前に注意事項が発せられている事を考えると各師団長レベルには伝えられていたのではないかと考える。

注意事項として、様々なレベルで【注意】がなされている事実がわかる点で面白く、山砲兵第9連隊第一大隊の【戦闘詳報】は貴重な【史料】である事がわかる。
たた、戦闘地帯の分析に於いては、16師団のように【民間人(非戦闘員)】の状況等を示していない事は、問題だったのではないかと考える。

 

【参考文献・参照】


(*1)山砲兵第9連隊第一大隊『支那事変参戦記』 アジア歴史資料センター 【レファレンスコード】は以下を参照してください。

【9月】
C11111847400
C11111847700
C11111847600
C11111847500
C11111847200
C11111847300
【10月】
C13070269700
C13070269600
C13070269500
C13070269400
C13070269300
C13070269200
C13070269100
C13070269000
C13070268900
C13070268800
【11月】
C13070270600
C13070270500
C13070270400
C13070270300
C13070270200
C13070270100
C13070269900
C13070270000
【12月】
C13070271000
C13070271100
C13070270900
C13070271300
C13070271200

(*2)偕行社『南京戦史 史料集Ⅰ』 P.201/9行目 「敵は丹陽、金檀を焼きつつあり」とある 飯沼守日記 11月30日(http://www.howitzer.jp/topics/index2.html)

(*3)ジョン・ラーベ著、エルヴィン・ヴイッケルト編、平野卿子訳『南京の真実』講談社文庫 2000年9月13日刊)
P.85 1行目 引用《
12月6日
黄上校との話し合いは忘れることができない。黄は安全区に大反対だ。そんなものをつくったら、軍紀が乱れるというのだ。
「日本に征服された土地は、その土のひとかけらまでわれら中国人の血を吸う定めなのだ。最後の一人が倒れるまで、防衛せねばならん。いいですか。あなたがたが安全区を設けさえしなかったら、いまそこに逃げこもうとしている連中をわが兵士たちの役にたてることができたのですぞ!」
 これほどまでに言語道断な台詞があるだろうか。二の句がつげない!しかもこいつは蒋介石委員長の側近の高官ときている。ここに残った人は、家族をつれて逃げたくても金がなかったのだ。おまえら軍人が犯した過ちを、こういう一番気の毒な人民の命で償わせようというのか! なぜ、金持ちを、約80万人という恵まれた市民を逃がしたんだ? 首になわをつけても残せばよかったじゃないか?どうしていつも、一番貧しい人間だけが命を捧げなければならないんだ?》
(真実を知りたい-NO2 林 俊嶺)
当方ブロク記事参照→ https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/029d7260823477e7378f53eadbe3575d

(*4)【新しい歴史教科書をつくる会】 次のリンクを参照してください。 【サイト】  【wiki】

(*5)松岡環著『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて―元兵士102人の証言』2002年8月1日 社会評論社 【Amazon】

(*6)ハーグ陸戦条約 ウィキペディア参照 1907年第2回万国平和会議で改定。ハーグ陸戦協定、ハーグ陸戦法規などとも言われる。交戦者の定義や、宣戦布告、戦闘員・非戦闘員の定義、捕虜・傷病者の扱い、使用してはならない戦術、降服・休戦などが規定されている【条約】のこと。【Link】

(*7)法幣 ウィキペディア参照 中華民国蒋介石政権により1935年11月3日の幣制改革によって政府系銀行が発行した銀行券(不換紙幣)を、中国の法定貨幣(Fiat Money)として流通させたものである【Link】


南京事件に於ける【幕府山の事案での時系列】とその【可能性】

2020年07月17日 15時52分01秒 | 1937年 南京攻略...

【幕府山の事案での時系列】(全て1937年12月)


14日 捕虜 14,777名鹵獲。
15日 本間少尉を南京へ派遣。誰かから何等かの命令又は支持を受ける。
16日 相田中佐を再度派遣。仮収容施設で火災。捕虜約3,000名を揚子江沿いの魚雷営で処刑。
   第一大隊長と捕虜の処置について打ち合わせ。

17日 捕虜からの嘆願書(食糧と解放)。幕府山麓の船着き場へ移送。移送中又は到着後、殺害。
18日 部隊の一部を以て遺体の処理。
19日 部隊の一部を以て遺体の処理。
20日 南京の揚子江の対岸の浦口へ部隊移動。


 

次に、二つの《可能性》を提示紹介する。
単なる《可能性》である以上は、《事実》とは又異なる事はご諒承頂きたい。

【マルクス史観からの《可能性》】
15日に指示を仰ぐ、【殺害】の命令を受ける。《根拠は、角良晴少佐(松井石根大将専属副官)による長勇中将参謀本部2課長「ヤッチマエ」という証言と山田栴二支隊長日記による【皆殺せとのことなり】を元にしている。》
16日に処刑計画の手順と実行の予行演習として、魚雷営(魚雷艦発着と攻撃施設)で、3分の1の捕虜を処刑。
17日により広い場所である幕府山麓の船着き場に【鉄条網】で囲った処刑場を設営し、捕虜を連行し時刻としては夕刻に処の夜から遺体を【焼く】または揚子江へ【遺棄】。証拠隠滅。
18日、19日に遺体を【焼く】又は揚子江へ【遺棄】。証拠隠滅。しかし、【遺体】を全て処理しきれず残留。
20日に軍命令で、部隊を移動。
*その他にもバリエーションはあるが、【命令又は指示】から【処刑】への動態は変わりがない。


【当方の示す《可能性》】
15日に指示を仰ぐ、【待機】の指示を受ける。田支隊長嘆息し嘆きを記述。《上海派遣軍参謀部第3課(1937年12月17日付/捕虜・後方担当)の榊原主計少佐の指示、根拠:飯沼守上海派遣軍参謀長日記【付上海に送りて労役に就かしむる為榊原参謀連絡に行きしも】》
16日に失火は敵対行為とみなして、魚雷営で処刑。実数値不明ながら時間と担当部隊から勘案して、1,000を越えることはあり得ないと考えられる。多くても300〜500名程。尚、この【処刑】についても、【正当性】が無いと【マルクス史観】では結論づけているが、【陸戦法規】を含む【戦時国際法】では、【捕虜】は【お客様】ではなく、【服従】という【義務】が存在することは、【国際法】として認知されている。そう言った意味合いで、【不服従=敵対行為】として見られたと考えられるので、【処刑】は止む得無い行為であったと考えられる。又、これが17日の【捕虜集積所】での【暴発】に繋がると考えられる。
17日 幕府山麓の船着き場への捕虜を連行の目的は【解放】《根拠としては対岸の【草鞋州】への距離の短い【渡船場】を集積場所を選んだと言う事。》。前日の【処刑】により【嘆願書】の効果がなかったとパニックに陥って、集められた岸辺で暴発し、鎮圧したのがその状況であったと考えられる。

補足として、
山田栴二氏の日記による【皆殺せとのことなり】を単独で見ると、【命令】があったと認識してしまいがちだが、前後の文面を読むと、

【12月15日】の段階での記述で、

捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す、
皆殺せとのことなり、
各隊食糧なく困却す

は、ワンセットであると考えると、
【待機】は、【食糧】がないので【殺す】を意味すると言う事としても捉えることが出来る。

飯沼参謀長の日記の記述では、16師団に【接収セシム】とあるが、それまでは【待機】と言う事になる。それが【何時】までになるかは不透明であることも勘案すべきである。
再度、16日に相田中佐を派遣するが、何等記述がない。空振りか前日の指示のままであると考えられる。

南京で、長勇参謀部第2課長が、【殺害】の指示を出したと言う【説】があるのは、【角良晴】という人物が戦後の【死の間際】の高齢の状況での【誤記憶】からの【情報】で、対象部隊も第6師団(当時下関にいなかった部隊)であり、下関に集積された12〜13万という場所違いの中国人に対する処遇の件で、証言内容は、事象が全く異なる【蓋然性が極めて低い】ものと考えられる。
多くの方が、この角良晴という人物の【証言】とそれに端を発した偕行社【南京戦史】の編集委員の一人である加登川幸太郎氏の勝手な【お詫び】に引きずられている【誤った認識】であると考えている。

当時の【史料】からは、【可能性】としては存在するが、第65連隊が【意図】を以て【故意】に【処刑】したと言う事を【蓋然性】が【高い】と示しているわけではない。

隷下の第65連隊長の両角大佐が戦後の回想に、軍(上海派遣軍か16師団か不明)から処置への督促が来ていると書いているが、これが【軍】による【処刑命令】の存在を示すという誤解を与える結果となっている。自身の戦時中に書いたとされるメモには【俘虜は解放を準備】とされているだけである。戦後の贖罪という社会的圧力から生まれた想像ではないかと考えられる。
12日の夜から13日に掛けて、上海派遣軍・16師団の両司令部が設置された紫金山の東麓の馬群より北の仙鶴門鎮附近で敵敗残兵約3千と見積もられる敵兵との熾烈な交戦があり、翌日14日に約7,000名が投降し【捕虜】となっている。この事を受けて、【軍(上海派遣軍か16師団か不明)から処置への督促が来ている】という両角氏の回想を支持する方も居るが、投降兵は捕虜として7,000名(戦闘見積もりの3千名より増えている。実数は過大とみなされ不明)となって、一旦15日に下麒麟門附近に収容し、その後17日へ南京へ護送したという情報もある(偕行社『南京戦史』 P.323 四 尭化門(仙鶴門)付近における歩三八第十中隊の捕虜収容と南京護送)。但しこの収容に関しては、戦後の証言によるもので、38連隊の戦闘詳報には【午後1時に武装を解除し南京へ護送せしものを示す】とあり、15日下麒麟門附近での収容と待機は書かれていないので、蓋然性が高いかというと【低い】と考えるべきである。
そこからわかるのは、単に【混乱】していると言うことであり、第65連隊への【指示】や【命令】が、その【混乱】の中でどうなったかは【正確】には判らないままである。

【嘆願書】などでの【帰順と命乞い】をしている【捕虜】に対しての【処刑】は、通常の人間ならば【戦時】であったとしても判断できない行為だと考える。余程の【シリアルキラー】でもないと【命令】を出来ない行為であり、大量の人数的にも【処刑】とその後の【始末】を考慮すると考えにくいというのが当方の【仮説】である。

以上、【幕府山事件】への考察の一助にして頂けると有難いです。

 

【参考史料・参考文献】


偕行社『南京戦史』『史料集Ⅰ』『史料集Ⅱ』 【Link】

歩兵第38連隊 南京城内戦闘詳報 第12号 昭和12年12月14日 レファレンスコード:C11111200500 【Link】

小戦例集第4輯(昭16年) 第四輯 第三十六 (砲兵) レファレンスコード:C19010189300 【Link】

小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』 全416頁 大月書店 1996年3月14日 【Amazon】

阿部輝郎著『南京の氷雨 虐殺の構造を追って』 教育書籍(1989年) 【Amazon】